2017年08月23日

フランス442RCT記念碑の修繕、改築に関する寄付の募集。

フランス、ブリュエール(ブリエア)の解放については、このブログを読んで下さってる方には説明不要かと思います。

第二次世界大戦、欧州戦線において第100大隊を始めとする第442連隊戦闘団の日系兵士達が1944年10月にドイツ軍守備隊を撃破、解放した街です。

詳しく知りたい方はドウス昌代氏による「ブリエアの解放者たち」をお読み下さい。
日系部隊史で最も良書であり、大変良い読み物であると思います。
また時系列等はウィキペディアの「第100歩兵大隊」の項目をご確認下さい。


現在のHill555にある記念碑。

その街の外れに第442連隊戦闘団への感謝と功績を称える記念碑が建てられていますが、現在は老築化が進み荒廃しているとの事でした。
フランス人歴史家Mayor Yves Bonjean氏はこの記念碑の修繕、増築計画を立て、広く寄付を募っています。


増築後のイメージ図

私どもBCo/100Bnとしても少しでも助けになれば、と思い日本から寄付を送ります。
もし、戦後日本の礎の一旦を担ってくれた日系アメリカ人兵士達の事を思い、寄付に協力して下さる方が居ましたら、連絡を下さい。
私の方でまとめて寄付を行う予定です。
※これは信用して下さるしか無いのですがw

なお、計画は2017年10月15日の完成を目指しており、急がれています。
私の方は急ですが8月中に募集を打ち切り、9月初頭に寄付を実施予定です。
また、寄付名は「BCo/100Bn in Japan」で申し込みます。ご了承下さい。

また、Paypalが使用できる場合は個人での寄付も可能です。

http://hill555.org/
のサイトからお申し込み下さい。


ブリエア解放当時。街に展開中の第442連隊戦闘団。



以下にサイトの初めの言葉について和訳を載せておきます

1947年10月、感謝しながらもまだ荒廃していたブリュイエールにドイツの侵略者から街を解放した日系アメリカ人を偲んで、Hill555の近くに記念碑を建てました。
この歴史的に重要な記念碑は、現在経年劣化と自然、または人的による破壊行為の影響を受け老築化しています。

これを受けて、有志による現存する記念碑の修復に加えて、地元の採石された原石を使って記念碑を追加する計画を立てています。
新しい記念碑は442 RCTのショルダーパッチのデザインに基づいて準備されています。
最終的な設計と配置は変更される可能性がありますが、ブリュイエール市長と市議会はこのプロジェクトを承認し、2017年10月までに完成を予定しています。

このプロジェクトは、関心のある個人や組織の貢献を通じて100/442RCT、522FAB、および232ENGに奉仕した人々の家族および友人の支援によって行われます。

「BruyèresHill 555 Project」の名で基金が開設されました。
プロジェクトの進捗状況に基づいて、完了した作業のために市に支払いが行われます。
また残りの資金は記念碑の維持のために市に寄付されることになっています。

Mayor Yves Bonjean



建立当時の記念碑。




記念碑で解放を祝うブリエア市民





ジョン・ツカノ氏「愛の架け橋」に掲載された記念碑。
若きピエール・モーリン氏の姿もある。  


Posted by 先任  at 17:08Comments(0)つれづれ

2017年02月28日

BCo史へのコメント

迫撃砲リエナクトメントのレポートの途中ですが。。。
5年程前に作った「BCo史」の動画にある方からコメントを頂いたのでご紹介します。




「This is quite amazing. I just discovered your group on Facebook. I have two Uncles who served in the 442nd and haven't seen any reenactment in the US. This is an honor that you are passionate about keeping their legacy alive. Arigatou!」

”これはまったく驚異的である。 私はFacebookのあなたのグループを発見したばかりである。 私は、2人の叔父が442連隊戦闘団に従軍しました。、このようなリエナクトメントは米国で見なかった 。 これは光栄であり、あなたは、それらの遺産を生きたまま保持することについて情熱的である。 ありがとう!”

Veteransやご遺族の方が見ていて下さり、またこのような応援のコメントをいただけると本当に励みになります。
別に軍装でふざけたり、いい加減な事をするのが悪いとは言いませんがw そのような視点からも見られる、実在した物であると言う認識はこれからも常に念頭に置き、また可能な再現に努力して行きたいと思います。














  


Posted by 先任  at 06:30Comments(0)つれづれ

2016年12月30日

2016年 総括

2016年もあと1日となりました。
今年1年も様々な活動を行い、また多くの方々にお世話になりました。
あらためて御礼申し上げます。

簡単に1年を振り返ってみます。







1月 BCo新年会 1夜2日に状況で実施。初めて10in1レーションが形になったと思う。








2月 HGG バルジ戦 空挺やけどKP(糧食)で参加。 パンケーキ焼いた。




3月「ざ・オストフロント1942」開催。 なんつーか、すげーイベントやったと自分で思うw




http://kfir.militaryblog.jp/e758868.html
4月 日系部隊研究家で大切な友人だったピエール・モーリン氏が亡くなる。 本当に悲しかった、。








5月 ヒスサバ14開催 BCo春の余吾キャンプ実施。 ショットショー展示。






6月 COMBAT11参加 M1903ライフル購入。 デニムで遊べた。


7月 何したっけな? ずっと編集に追われてた気がするw

8月 仕事ばっか。 あとは編集ばっか。おかげでなんとかオスフロ1942動画完成。














9月 HGG14 沖縄戦に参加。 日帰りナム戦訓練実施。

10月 仕事

11月 だいたい仕事。

12月 ショットショー展示。わりかたのんびりできた。

まぁ子供3人も居て、随分遊ばせていただいてる方やと思います。 嫁に感謝。
来年も更に活動を発展、継続していければと思います。

それでは皆様、良いお年を!!
  

Posted by 先任  at 22:06Comments(0)つれづれ

2016年06月16日

訃報 Isao"Roy"Takiyama LCo/442RCT Veteran

5月キャンプレポートの途中ですが、残念な訃報が入りました。
2012年に私がハワイを訪れた際にお会いし、様々なお話をして下さった442連隊戦闘団L中隊のベテラン、Isao"Roy"Takiyama氏が昨日亡くなられたそうです。93歳でした。



私の右隣の赤いシャツの方がIsaoさんです。
※本物のVeteranの前で米軍の制服を着るのは緊張しましたが、皆さんから「是非、Reenactのユニフォームを着て参加して下さい」と言われたので着用しました。

お会いして下さったVeteranも次々と鬼籍に入られます。 悲しい事ではありますが、ご高齢を考えるとしかたがない事なのでしょう。
長い間お疲れ様でした。

Isaoさんは、442のベテランですが、A中隊の故Goro Sumida氏との親交が深く、100大隊のクラブによく来られていたそうです。
私がクラブを訪れた際も来られていて、お話する機会をいただきました。



Isaoさんは、お会いした際、当初は戦場での体験をあまり語って下さりませんでした。
「今の君たちに言ってもわからない」と思われていたのかもしれません。

話を続け、我々のReenactingを見て頂いてる途中、一枚の写真に注目されたようでした。
泥だらけで穴を掘っている写真。





それを見たIsaoさんは、「こんな苦労をわざわざしているんだね。私は二度としたくない。 しかし、それが自分に与えられた任務だった」 との事を言われました。

またレーションの話もして下さり、缶詰のレーションをヘルメットで調理した事や、畑の野菜を拝借wして生でかじった事など。

私の英語の能力があまり、なので正確ではないかもしれませんが次の言葉が深く残っています。

「我々は死んでも戦うのが任務だった。君たちは兵隊ごっこで死ぬ事はないだろう? でも、同じ苦労をしようとしている。 だから君達は私達442ボーイの事を伝えて行くのが任務なんだよ」 と。

私はReenactingを続けるに当たって、これを生涯忘れないようにします。

ご冥福をお祈り致します。  


Posted by 先任  at 11:58Comments(0)つれづれ

2015年09月26日

R.I.P....



もう9月も終わり。

9月末は100大隊の慰霊祭が毎年、パンチボウルで行われています。
2012年に招待を受けて初めてハワイに行き、MemorialServiceに参列させていただきました。





この慰霊祭は、1943年の9月28日に初の第100大隊の戦死者として記録されたSgt.Joe.Shigeo.Takataにちなんで始まった物で、現在では442ndやMIS等を含めた、すべてのWW2ハワイ日系アメリカ人の慰霊祭となっています。






今年、2015年は9月の27日に行われますが、偶然にも仕事でBCoのメンバー2人がハワイを訪れてまして、VeteransClubと調整し、出席する予定です。(前日行われる、準備ボランティアにも参加します)

その調整の為のメッセージを今日、VeteransClubとしている時にふと、伝えられた訃報。

Robert.Tomiya.Sato氏が8月に亡くなられた、との事でした。

Robertさんは、私が最もお会いしたかったVeteranの1人で、たいへん日本語が達者で、戦後は通訳の軍属として日本に来て、東条元首相の通訳もされたそうです。

私が第100大隊にハマるきっかけとなった、文藝春秋のビデオ「ブリエアの解放者たち」でのインタビューが本当に印象的でした。
1h9m52s からRobertSatoさんのインタビューがあります。




※WW2当時のRobertさんの写真と共に

私がクラブを訪れた際は、当初はセレモニーにだけ出席される予定だったのが、私が会いたがっているとの話を受けて、急遽予定を早めてオアフ島へ来られ、お話させていただきました。


※BCoの活動アルバムを見てくださっているRobertさん。


セレモニーの時、私は仕事の制服で参列しましたが、胸の防衛記念賞(10個くらい付いてる)を見て、日本語で「おっかないね」 と言われたのも印象的でした。
たくさん付いてるので、色んな経験してるんだと言う意味だったのか、怖い人だ、と思ったのか。。。今となってはわかりませんが。

セレモニーの後、わざわざ私を探しに来られて、奥さんや娘さんをご紹介下さり、更に「日本海軍の偉い人だよ」なんて笑いながら言って下さりました。

チキンヘカの話を多く聞いたのもRobertさんでした。
仲間が料理好きで、色々作ってくれたそうです。



BCoでも何度も作っているチキンヘカですが、ハワイ料理の本などに載っているのとはまた違い、前線でのヘカ、と言うものをベテランの証言の載った本などから推察して作ってましたが、Robertさんは私が何も言ってないのに、上記の写真を見て「これはヘカだね」と言ってくださり、私は「間違いじゃなかった!」と感動したものです。

実質、お話したのは全部で1時間にも満たない短い時間でしたが、本当に思い出として残っています。
そして、もうお話する事ができない、と言う思いがこみ上げています。

どうか、ご冥福をお祈りいたします。

最後にセレモニーの後でRobertさんが私と握手をして下さりながら言って下さった言葉。

「君達は日本人で、僕たち100の事を(後世に)残してくれてるんだね。頑張ってね。 海軍もARMYも頑張って」

この趣味を続ける上で、この言葉は生涯残して行こうと思います。


  


Posted by 先任  at 22:42Comments(0)つれづれ

2015年06月11日

FBでの評価(ちょっと自慢かww)


https://www.facebook.com/Bco.HQ
BCoのフェイスブックページ。おかげさまで、まもなく1200フォローになりそうです。

https://www.facebook.com/groups/276536462442923/
「Living History~ show your impressions.」 非公開ページですが、申請したらたぶん承認してくれます。
海外のリエナクト、リビングヒストリーの状況見るのに良いですよ。


先日の御殿場「COMBAT9」での再現キャンプについて、フェイスブックの方で海外にも写真と簡単なレポートを上げましたが、予想以上の反響を得ています。
せっかくなので、FBやってない人の為にいくつかピックアップして紹介します。
※英語下手なので、訳は間違ってる可能性があります。
写真はコメントのイメージに合わせただけです。


Большие страйкбольные маневры.
「非常に大規模な演習だ」
byロシアの軍人、リエナクター


日本二戰重演玩家舉辦的野營活動,十分注重細節,至少在公布的照片中,找不到非二戰物件。這樣的生活重演玩法,在缺乏武器、車輛等裝備的台灣來說,值得學習模仿。
「日本の第二次世界大戦リエナクト活動です。写真を注意して見ても、細部まで戦時の物以外は見つける事ができません。 武器や車両などを持てない台湾では、このような生活再現を見て。真似る価値があるでしょう」
by台湾リエナクター


More photos fm the Japanese 100th/442nd reenactors. They meet quarterly, and try to camp out like they did in WWII, using only the tools, food, clothing and armament of the time.
「日本の100大隊リエナクター達の多くの写真。彼らは季節ごとに集まり、WW2で使用されたものに限定した被服を着、食べ物を食べ、道具、武器を使用してキャンプするのである。」
by カリフォルニア在住の日系アメリカ人 退役軍人


I wish half the units in the US were as dedicated to their impressions as you are.
「私はせめて、米国のユニットの半数が、貴方たちのような印象を与えられるようになって欲しい。」
by オハイオ在住 リエナクター


Uniforms strait off the quartermasters shelves!!! Wonder if they march Japanese style?
「ユニフォームが補給から支給されたばかりのようだ!(汚れていないな) 行進が日本スタイルなのは変だよ?」
by オレゴン在住 日系人?


What a great job! Would love to see your impression in person someday.
「なんとすごい!いつか自分であなた達の活動を見たい。
by アメリカ在住 ARCリエナクター(女性)


We need you guys to take a vacation to the US in the Fall and come to Rockford. It's one of the largest reenactments in the US with over 1000 reenactors. You gentlemen would be rock stars.
「我々にはあなた達が必要。秋に休暇を取ってアメリカ、ロックフォードへ来い。そこは全米最大のリエナクトメントで1000人のリエナクターが集まる。君たちはそこでロックスターになるだろう。
by ウィスコンシン在住 退役軍人 リエナクター


Is this Cold War? Germany? Odenwald? early 70's? I'm asking because I've sat on the ground at Graf and looked at the same shit to eat.
「これは冷戦期か? 70年代初頭のドイツ、オーデンワルトか? 俺は地面に座ってその時同じク○飯を食ったから聞いてるんだ」
by ジョージア在住 退役軍人 リエナクター


Some of the BEST troops I have ever seen. Awesome impression. Great, hard work. Just fantastic. Bravo. I would love to see you here in the states.
「これまでに私が見た、BEST部隊の一つ。物凄い印象。すごい、そして大変な労力。まさにすばらしい。ブラボー。私は合衆国であなたに会いたい。」
byシカゴ在住 ミリタリーコレクター リエナクター


I remember the days of having to do this for real
「私はこんなリアルな日々を覚えている」
by イリノイ在住 退役軍人


I did KP in the field when I was in the army....it hasn't changed at all!
「私は陸軍に居たとき野戦KPをしていた。何も変わってないな!」


Dog tents!
「犬小屋!」
by ペンシルバニア在住 退役軍人 リエナクター


In my era, if it's raining we ain't playing. Flintlocks and rain don't mix well!
「私は雨なら遊ばない。フリントロックは雨と相性悪いんだ」
by ペンシルバニア在住 リエナクター


The best reenacting unit I've ever seen. Everything from a entire period lunch (and in such quantity), as well as munitions distribution and even a baseball game. Amazing work done by these guys, I don't think I'll ever see a better portrayal of the 442nd Regimental Combat Team.
「これまでで私が見た、最高のリエナクト部隊。弾薬等の配布やすべての食事の支給、さらに野球の試合まで。驚異的な内容。これほどの442連隊の描写を見ることはないだろう」
by フロリダ在住 学生 リエナクター


Very impressed. Love the attention to detail. Especially the written english on the message board. Top notch boys!
「すごい感銘。注意ぶかいディティールを愛します。メッセージボードに書かれた英語! 最高の連中!」
by ユタ在住 リエナクター


The details are fantastic. You've captured the day to day of eating, sleeping and all other aspects really well.
「ディティールが素晴らしい。貴方たちは日々の食事、眠り、その他すべての面において本当によく再現した」
by ユタ在住 歴史家


This deserves a decent comment- Having looked through the series of pics all I can say is wow! Great job! You guys have done an incredible job here. You look like a unit. The activities you conducted look like unit activities. You all wear the same UNIFORM of a line infantry unit- There is no unnecessary bling or cool items. No camouflage items. Not a speck of modern things like plastic coke bottles etc. No reliance on a thoudsand vehicles or jeeps to provide the eye candy. You have catered for yourselves in period style recipes and chow lines. The detail is incredible. You have taken a very professional way of approaching things in that no detail is left out and everything is done to the best of your abilities.You guys are the best GI reenactment group I have seen yet and you should be very proud of your achievements. Put it in black and white and you would look like you were there! That, my friends, is a benchmark rollout of a reenactment unit.
「これは私が写真を見て言いたいすべてである。 ワォ! すごい内容! 信じられません。
あなたたちは部隊に見える。その活動は実際の部隊のようです。
あなたたちは、迷彩も余計な物もない同じ軍服を着て、ペットボトルその他の現代物もありません。ジープや車両なんかなくてもまったく問題にしていない。
期間中の食事は調理から配食までこなし、プロフェッショナルだ。
細かい事も妥協せず、あなた達の才能が見える。私の見た最も良いGIリエナクトグループである。
あなた達はその業績を誇って良い。そしてすべての人にそれを見せなさい。
あなた達は、まるでそこに居たかのようだ。
私の友人は「リエナクトメントユニットを初めて見た」 これが基準になるだろう。
by オーストラリア 国防省勤務。 リエナクター


, I have correction to point out. WHY ARE YOU NOT HERE IN THE U.S.??? Great job!
「私はあなた達の過ちを指摘します。 ”なぜ、あなた達はアメリカでやってないのだ?” 素晴らしい。」
by オレゴン在住 リエナクター


mecha ii na shyashin !! good job sarge to chief
「めっちゃ いいな 写真! グッド! サージとチーフ」
by アホ仏人wwもとい中隊長


Outstanding impressions, the photos are beyond impressive!! Keep up the excellent work!
「際立った印象だ。超越している。この素晴らしい活動を続けて!」
by Der Erste Zug http://www.dererstezug.com/


A photo album of the reenactment our friends had last week in Shizuoka. We were hoping that some of our WWII vets could attend but alas age and illness were just too powerful and won over international travel. They were there in spirit!
More Re-Enactment photos from our friends in Japan
「この写真集は、我々の友人が静岡で行ったリエナクトメントだ。我々はベテランの何人かが見に行く事を計画し望んだが、病気に阻まれ、海外旅行はできなかった。
しかし、心は彼らと共にあった!」
by 100th Infantry Battalion Veterans aka Club 100   


Posted by 先任  at 00:07Comments(0)つれづれ

2014年11月12日

OnePukaPuka Marching Song



100th Infantry Batalion Marching Song

One Pukapuka Infantry, We are the boys From Hawaii nei
We're fighting for you And the red white and blue,
We're going to the front, And back to Honolulu-lu-lu
Fighting for dear ole Uncle Sam, What the Hell!! We don't give a damn
Let Them Come and Run At the point of Our Gun
When, One Hundred.Leads The Way.

IMUA E Fight! Fight! Fight!, IMUA E Fight! Fight! Fight!,
From PearlHarbor to Italy and France,
IMUA E Fight! Fight! Fight!, IMUA E Fight! Fight! Fight!,

All Hail! Our Fighting Team!!

※私勝手訳

「第100歩兵。我らこそはハワイ男児。
俺たちが戦うのは合衆国と君の為。
俺たちは前線まで行き、故郷へ戻る。
故国のため戦う。戦死がなんだ。俺たちは恐れない。
さぁ、俺たちの銃先にかかってこい。
100大隊はいつ、先陣を切るだろう。

前進! 戦え!戦え!戦え! 繰り返し
真珠湾から、イタリア、フランスまで。
前進! 戦え!戦え!戦え! 繰り返し

我らの戦闘大隊!」

今回は、第100歩兵大隊の歌について書きます。
上記の歌詞は、100大隊B中隊のveteran、ロバート・アラカキ氏に教えていただいたものです。
また、セレモニー等で歌唱隊が442連隊歌と併用して歌い、使用されているものです。

100大隊歌と442連隊歌の関係は諸説あり、どれが正しいものかは今ではわかりません。
そこで、私が知る限りのことを記し考えてみたいと思います。

私が最初に「歌」について知ったのは、ドロシー・マツオ氏著の「若者たちの戦場」に出てくる、マーティン・イイダ軍曹が連隊歌を作った、というエピソードと日本語訳された歌詞でした。
ハワイ、キラウェア出身のイイダ軍曹はL中隊に所属し、140高地の戦闘で戦死しました。
(140高地の戦闘は、キャッスルヒルの戦闘の前哨戦で、1944年7月4~8日にかけての戦闘です)
442連隊がチビタベッキアで第100大隊に合流したのが6月10日ですから、戦地に来て1ヶ月という所でした。
442連隊歌がいつごろ作られたのかは定かではありませんが、歌詞の内容からキャンプ・シェルビーではないかと言う気がします。
とすると、必然的に100大隊歌より442連隊歌の方が先、という事になるのですが。

その後、日系部隊の再現映像を撮られたForest氏、以前から日系部隊を研究しWebサイトで紹介しておられたhawkeye大尉を通じて、我々の再現活動動画に日系3,4世の方々が歌った「442nd Fighting Song」を使用する事となり、初めてメロディを知りました。

Four-Forty-Second Infantry! We're the boys of Hawai'i nei
We'll fight for you.And the Red, White and Blue,
And go to the front.And back to Honolulu-lulu.
Fighting for dear old Uncle Sam. Go for broke! We don't give a damn!
We'll round up the Huns. At the point of our guns,And vict'ry will be ours!



その時の動画がこれです。

その後、442連隊歌の他に第100大隊歌もある、と言う話をブログか何かで知ったのですが、それ以上の情報は無く数年が過ぎます。

2012年9月。
初めてハワイ、ホノルルの第100大隊クラブを訪問した際、冒頭の歌詞をいただきました。
印刷された紙にいくつか手書きが加わった歌詞の紙に「100th Infantry Batalion Marching Song」と書かれているのを見つけた時の興奮は今でも忘れられません。
アラカキ氏に「これはイタリアで歌った歌だよ」 と聞き、楽譜、メロディは無いのかと尋ねたところ「これしか無い」との答えでした。
その時は残念に思ったのですが、よくよく歌詞を眺めていると、ピンと気づくものがありました。

「これって、442ソングの歌詞替え版ちゃうん?」

試しに小さく歌ってみると、ピッタリ合います。
そして他のveteranやご家族の方にも促され、クラブ内で歌ってみると拍手喝采ww
どうやら合っていたようです。

その後、JointMemorialServiceのセレモニーでは、歌唱隊が1番を100、2番を442版の歌詞で歌った事もあって、「同じメロディ、違う歌詞(似ているが)」である事がはっきりしました。

おそらくはどちらかが先に作られ、替え歌的にもう片方が作られたのでしょう。

では、どちらが先だったのか? に戻ります。
私は以前は(希望的な面もありますが)100大隊歌が先だと考えていましたが、前述の通りなら442連隊歌が先だという事になります。

まず、442歌については前述の通りマーティン・イイダ氏が作ったという記述がありますが、曲については作曲と言うわけではなさそうです。



これはアメリカの沿岸警備隊「U.S.CoastGuard」の行進曲で「Semper Paratus」と言う曲です。
とても似ている、と言うよりほぼそのままなのが分かるかと思います。
このSemper Paratusは、戦前のハワイ国土防衛軍でも使用されていたそうで(現在の州軍の士官に確認しました)298,299連隊に所属していた100のオリジナルメンバーなら知っていて当然でしょうが、VVVや普通のハワイ市民であっても知っていて不思議ではありません。
曲調も良く、自分達ハワイアンのテーマのような印象を持っていたのかもしれません。

442歌も100歌も「ハワイ」に関する部分はほぼ共通で、まぁ「コトンク」の事は考えていない作りです。
このあたりは100が先、な気がした理由です。

100の歌詞にある「What the Hell!!」(地獄がなんだ!) と言う部分は442では「Go For Broke!」ですね。
ここも、442の方がしっくりくる点でもあります。

442連隊歌のコーラス部分のライライライ、の部分について、本土で監視していたドイツ軍捕虜に教えてもらった歌から取ったとの記述がどこかの本にあったはずなのだが、どの本だったか。。。

ちなみに第100大隊はキャンプマッコイで、442連隊はキャンプ・シェルビーでそれぞれドイツ軍捕虜監視の任についており、それぞれ良好な関係を築いたとあります。

一方100大隊歌は、コーラスの部分に”Imua e”と入りますが、これはハワイ語で「前へ!」とか前進を意味する言葉で、戦いのトキの声だったそうです。
100の歌詞にある「Pearl Harbor to Italy&France」と言うのは1944年以後でないと作れませんが、veteranからの聞き取りの中で当初は「Pearl Harbor to Italian Front」と歌ってたと言う話があり、余計に悩みます。
まぁどちらにしても「俺たちは”Pearl Harborから戦っている”」と言う、100オリジナルの心境をよく表していると思います。

その他100大隊のveteranから聞き取りした所「これは戦地で歌った」「戦後作られたんじゃないか?」「442の歌だね」「100の方が先に歌っていた」などなど、相手によってずいぶんバラバラでした。
442のベテランには聞いていません。。。聞く時間無かったのです。
果たして、実際はどうだったのでしょうかね?

簡単に整理してみますと。

100大隊歌 作者不明 1943年イタリア以降に作られた。 戦後の可能性も否定できない。ほぼ完全にハワイ仕様。
442連隊歌 イイダ軍曹作詞 1944年7月以前に作られた。 442と歌っているが、ハワイ重視。



ちなみに、英語版ウィキペディアの442RCTには次のように書かれていました。
The song may have originally been written for the 100th Battalion and entitled One-Puka-Puka in place of Four-Forty-Second, thus explaining the reference to Hawaii nei ("Beautiful Hawaii") and the vow to go back to Honolulu.
簡単に訳すと、この歌は元々100大隊の為に書かれ、”442”の所は”OnePukaPuka”でした。 と言う事ですが、ウィキペディアも完全に信用するわけにもいきませんね。
※なんせ第100大隊の項目は私自身が書いてますしw

なお、私は「どちらが先か」と争うつもりはまったくありません。
それ自体は実は重要ではないのです。
私が最も気にする点は「100Songはいつから歌われたのか?、また仮に442Songが先なら、100のメンバーはそれを歌ったのか?」

その2点なのです。
理由は。。。
ここまで読んでお付き合いいただいた方には説明不用かと思いますw




  


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2014年09月28日

MemorialService Day.100th-Bn&442RCT&MIS JapaneseAmericans.



MemorialService Day.100th-Bn&442RCT&MIS JapaneseAmericans.
ですね。



1943年9月28日 Sgt.Shigeo Joe Takata. 戦死。

「自らの危険に顧みず小隊の戦闘を進む途中、Sgt.Takataは故意に敵MGに身をさらして位置を確認し、砲弾により致命傷を負った。その後数分の間にSgt.Takataは小隊長へ敵の位置を知らせた」
と、DSCの感状の一部(勝手に訳してます)にありますが、読んでの通り微妙な内容ですね。

ドウス昌代の「ブリエアの解放者たち」にも「軍事に詳しい者には、この状況ではDSCは授与されない」とも書かれています。

実際のところ、本当にはっきりとしたSgt.Takataの戦死の状況はわかっていませんが、部隊の前進途中、急な砲弾(100大隊の公式戦史では88mm砲)による戦死だったのではないでしょうか?

Sgt.Takataはハワイの野球スターであり、人柄もよく、あまつさえ欧州戦線での最初の日系人戦死者でした。
そのSgt.Takataを「ただの戦死」ではなく「英雄としての戦死」とすることでプロパガンダとしたのか、そのスターの死、初の戦死者を悼む気持ちからの叙勲だったのか。
それは当事者にしかわからないですね。
はっきりと記録に残らず、生存者の目にも止まらなかった(または証言が得られなかった)だけで、本当に英雄的行為の結果だったのかもしれません。

いずれにせよ、約1ヶ月後に戦死広報を受け取り、やがて香典をそっくり赤十字他に寄付したTakata夫人と共にSgt.Joe Takataの名は日系史、合衆国陸軍史に残り、ハワイのパンチボウルでは毎年9月末に慰霊祭が行われるようになりました。





この慰霊祭はSgt.TakataのみならずWW2に関連したすべてのハワイ日系人の慰霊祭となっています。



私も2年前に招待を受け、参列させていただきました。

さて、この式典に先立ち前日にすべての第100大隊兵士の墓を掃除し、花を飾るのですが。。。。行った事のある方はわかると思いますがパンチボウル。。。。とんでもなく広いんですよ。
そして墓は部隊ごとに並んでいるわけではないので、リストと地図を見ながら1つ1つ探して行かなくてはいけません。
暑いハワイですごい重労働になるんですが。。。。

今年は特に協力してくれるボランティアが少なく大変だったようです。
多くはベテラン本人だったり、その家族だったりで今の若い人はなかなか参加してくれないそうです。

毎年とは行かないけれど。。。。何年かに一度。なんとかお手伝いに行きたいと本気で考えてみます。
(格安でもハワイ往復10万か。 クラブハウスに泊めて貰えばホテル代は要らんなw)
  

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2014年06月25日

60mm迫撃砲の訓練




週末に久しぶりにザバイバルゲームに参加してきました。

ご近所(笑)のコンバットゾーン京都様。
家から一時間で着く素晴らしい立地条件で、広くはないものの、野外に無数の板張りの建物が並ぶ市街戦フィールドです。

今回はガスブローバック戦、というくくりでしたが、ガスカートの使用もO.K.と言うことで、60mm迫撃砲の訓練を兼ねて参加してきました。



準備が間に合わなかった第1戦以外は全戦参加(すげー)
ゲーム半分は迫撃砲、半分は45口径拳銃でちゃんとサバゲもしてきましたよ(笑)

メディック戦では特にチームワークが重要なので、さすがに迫で遊ばず真面目に参加しました。

リエナクトメント、再現とはまた違って久しぶりに楽しかったです。

あと、今回面白かったのが相手チームにも自作迫撃砲が居て、計らずとも対砲迫戦ができたこと!

しかも他の参加者の方々もなんだか協力してくださり、ありがたかったです。


ちなみに迫撃砲は確認戦果1。
3人で運用し、大量の砲弾を撃ち込んだ割には「そんなもん?」って感じですが、状況下での運用でそれなりに出来て良かったです。

更に設置と照準、そして装填訓練を実施し、練度を高める必要がありますね。


また、空いた時間には拳銃のタクティカルトレーニングも実施しました。










生暖かく見守って下さった皆様、ありがとうございました。


  


Posted by 先任  at 21:16Comments(0)つれづれ

2013年12月31日

2013年 感謝



大晦日ですね。
本年も皆様には大変お世話になりました。


個人的な事は置いておいても、リエナクトメントグループとして、海外のリエナクターや研究者、ベテラン方とも交流が進み、更なる飛躍の年であったと思います。

来年は、年明け早々の新年野営会を始めとし、2月HGG、3月ウエストフロント、5月の余呉キャンプなどを予定しております。

また、現在100大隊ベテランズクラブや、ハワイのアーティストとも調整中ですが、100大隊史をまとめたショートスライドを制作、発表を予定しております。
内容的にはWikipediaの第100歩兵大隊のページが基本となりますが(だって、あれも私が書いたんだもの)、多くの当時の写真と合わせた物にしたいと考えております。

他にも色々と計画もしておりますが。。。
まずは、新年野営会ですね。

かなり、寒そうですが、頑張って行きましょう。


それでは皆様、良いお年を!
来年も宜しくお願いします。














  

Posted by 先任  at 18:42Comments(0)つれづれ

2013年06月02日

アロハ桜物語 後編



1982年10月
ハワイに海上自衛隊の練習艦隊(かとり、あさぐも)が入港。
主席幕僚の平間1佐から3枚のアロハ桜の写真がPacificMotionPicture社の社長、小笠原氏(元自衛隊。所属等は不明。ハワイ在住で入港する海上自衛隊の艦隊の世話役をして下さっていたようです)に託され、アロハ桜の概要と共にハワイ報知新聞に掲載されました。
その記事掲載をきっかけにWatanabe氏ら「Club-Maizuru」(戦後舞鶴に駐留したMIS、第500情報部隊隷下の第354中隊及び第355中隊に所属したハワイ二世の会)のメンバーと小笠原氏らが集まり、舞鶴進駐とサクラについての座談会インタビューが行われました。



そのメンバーの中に桜の植樹に携わった方は居なかったのですが、当時の舞鶴の状況やMISなどについて知ることができたので抜粋し、私が直接聞いた話も合わせて掲載します。


入隊当時のWatanabe氏(ハワイ報知新聞より)

Watanabe氏はハワイ・オアフ島のワイパフ出身(両親は福島出身)で22歳で陸軍に入隊。
基礎訓練の後、ミネアポリスの情報学校(後にカリフォルニアのモントレーに移転)で約1年間の教育を受け、日本に進駐。 現地で少尉に任官したそうです。
当初の任地は長崎で、1947年の春に舞鶴に進駐、第500情報部隊の主な任務は引揚げ者からの共産軍に関する情報収集でした。
なお、全国で各県に2,30人ずつ配置されていたそうです。


舞鶴に進駐した第354,355中隊は舞鶴水交社の建物を接収し、使用します。
水交社の建物の裏には壁に穴があり、そこを抜けると「グリーン・ランタン」と呼ばれるビアガーデンがあって、皆さんは毎晩「通勤」したそうです。
まずビールを飲んでから、中舞鶴市街に出てで梅割り焼酎や、ぶどう割りを飲んだとありました。


当時の舞鶴水交会建物


現在は海上自衛隊の官舎となっており、門柱だけが残されています。

私が中舞鶴に住んでいた話をすると「今でもお店はあるのかな?」と聞かれました。
「当時からのお店はほとんど無いと思いますが、焼き鳥屋があって妻が働いてました」と答えると、とても懐かしそうに喜んでおられました。

一方で共楽公園や桜は覚えていないそうです。
桜は海軍の学校(現、舞鶴地方総監部)にはたくさんあったと思う、と言われました。


舞鶴の海軍機関学校。






現在の舞鶴地方総監部と海軍記念館

インタビューでは桜を植樹した方については
「やっぱし舞鶴でお世話になって、何かお返しをしたいと考えたんでしょうね。日本とアメリカの親善を考え、ポトマック川の桜を思い浮かべたのでは?」
と語っておられます。
Takaki氏の思いとは少し違うかもしれませんが、舞鶴-日本に進駐した二世としてそのような感情があったのだと思います。

桜の植樹に関しては
「それを考えるだけでなく実行に移したのが偉いと思うね」
と言う感想や
「1950年頃まで舞鶴に居たが植樹の話は聞かなかった」
と言う話がありました。

また桜を植樹したとされる23人については以下のような話がありました。

Takaki氏がCICならば23人も居ない。おそらく3,4人だろう。
情報部にいる23人が全員戦死すると言う事も、まず有り得ないと思う。
354,355中隊の50名のうち戦死したのは1名で、航空機の墜落が原因だった。

また、Takaki氏はコトンク(本土出身兵)では? と言っておられましたが、これは戦後のTakaki氏が仕事で家族共に本土を中心に生活しておられ、ハワイに戻ってなかったからではないかと思います。


座談会に記事で面白かったのは
「この桜はハワイの日系二世が植えたからいいんであってさサ。メインランドのコトン桜じゃ面白くもなんともないよ」
と言う言葉でした。
この言葉からも日系人といえどもハワイと本土の違いを感じる事ができます。
第100大隊と442連隊と同様に、とかく一緒に括られがちな日系社会ですが、やはりそれぞれの歴史や習慣、経緯を学んで接しないと、と思います。

脱線しました。
桜の話に戻ります。

1973年4月11日の毎日新聞に以下のような記事があるそうです。

「終戦直後軍港の町、舞鶴に進駐した米軍320人のうち23人のハワイ二世部隊の隊員が、当時すさんでいた市民と野球を通じて親善を深めようと試合を申し入れ、22年春(1947年)オール舞鶴との親善試合が実現した。その際”私達は不幸にも日本と戦ったが、日本は父母の国だ。繁栄と友好のしるしにサクラの苗木を贈りたい”と申し入れがあった。
布川氏によると、迫水氏が紹介したCICの高木二世から持ち込まれた話で、矢野市議に連絡した。また、その際、苗木を1本貰い布川氏宅の裏手の広場に枝を伸ばしている」


この記事についてWatanabe氏は長崎では野球をやったが、舞鶴ではしていない、と答えています。

この記事の信憑性は実際にはわからない所ですが、Takaki氏の証言とはほぼ一致しており、また桜に関わった日本人である矢野氏(元舞鶴市議会議長)や布川氏(中舞鶴の地主)らの関係もピタリ当てはまります。
また野球の試合は共楽公園に程近い中舞鶴グランド(元海軍機関学校のグランドで現在は舞鶴地方総監部内)で行われ、戦前から強豪として知られた中舞鶴チーム(明治神宮での御前試合もした事があるとか)を中心に経験者が集まりオール舞鶴チームとして二世チームと戦ったそうです。
私もたまに体育でソフトボールとかしているグランドかと思うと、なんだか感慨を感じるものがありますね。






現在の中舞鶴グランド(奥に見えるのは自衛隊の屋内訓練上)

その試合後の夕食会で桜の話が出て、植樹に至ったのでしょう。


では23人と記載されている日系兵がどの部隊の誰だったのでしょうか?

その答えの一部はハワイ報知新聞の記事の一番最後に掲載されていました。

座談会があった翌日、Watanabe氏から記者に「桜を植えた人が見つかった」と、連絡が入ったそうです。

その人はEdwin・Imamura氏で、通訳として1947年~1950年まで舞鶴に駐屯していました。
※ MISではなく、名簿では第442連隊戦闘団F中隊の出身となっている為、戦後に軍属(Civilian)の通訳として日本に来たのではないかと思われます。

Imamura氏の話を要約すると
1、桜の植樹が行われたのは1950年(昭和25年)の春。
2,野球を含め、23人と言う数字に心当たりはないが二世だけでなく白人や、市民も加えての人数かもしれない。
3、桜の植樹に携わった兵士のほとんどは戦死はしなかった(何故戦死したことになったのかはわからない)

と言う事になります。
そしてImamura氏による植樹者の名前は以下の通りです(敬称略)


・Harry.Murata(MIS Honolulu)
・Stanley.kizu(UNK Salt Lake)
・Seiyu.Inamine(Civilian Honolulu)
・Blackie.Yasutake(UNK Pearlcity)
・Tom.Oshiro(MIS Waipahu)
・James.Nishikawa(Civilian Japan)
・Charles.Tsurumaki(UNK Honolulu)
・Charles.Shimabukuro(Civilian Honolulu)
・Tommy.Ohishi(Civilian Los Angeles)
・Blackie.Tagawa(UNK Honolulu)
・Richard.Sato(MIS Ewa)
・Dick.Inoguchi(UNK Waipahu)
・Mickey.Wakita(Civilian Honolulu)
・***.Sasaki(UNK Waipahu)


※野球チームの写真から掘り起こしたと思われますので、これが本当に植樹した方の名簿なのかは確定できません。
しかし、Imamura氏の同僚であり野球チームである点、駐留した時期などから(そんなに多くの二世が舞鶴に居たわけではないので)この中に植樹した方が居るのは間違いないと考えます。
また名前は愛称と言う場合も考えられます(Blackieさんとか)

MISとして名簿に載っていたのは3名のみ。不明(UNK)の方も含めて多くは軍属であった事がわかります。
第100大隊や第442連隊出身者も、除隊後に軍属として日本に来た方も多くいたそうなので、これらに該当する方も居られたかもしれません。
また写真には白人将校の姿もあり、Imamura氏の証言からも白人の何人かも植樹を手伝った可能性が伺えます。


結論として、Imamura氏が植樹メンバーの1人である事は間違いないと思います。
また、Watanabe氏の話には1979年に亡くなったOkuno氏と言う方は生前に
「我々が植えた舞鶴の桜はもう大きくなっとろうのう、きれいに咲いとるかのう」
と言っておられたそうで、その方も植樹メンバーの可能性が高いと思います。

MISのリストにはShigema.Okuno氏とTetsuo.Okuno氏の2名のOkuno氏がおられますが、どちらが該当するのかはわかりませんでした。
しかし日系データベースによると、Tetsuo.Okuno氏はコトンク(カリフォルニア生まれ)なので、Shigema.Okuno氏ではないかと考えます。

元舞鶴市議会議長の矢野健之助氏も協力した1人なのでしょう。
そして苗木を贈ったTakaki氏と協力した迫水氏。

100本もの桜の苗木を植えるのは簡単ではありません。
おそらくもっと多くの方が協力されたのではないかと思います。

Takaki氏が舞鶴駅で植樹を託したとある日系兵士は誰なのかはわかりませんでした。




中舞鶴駅跡地。 現在はC58機関車が展示されています。 


またTakaki氏が苗木を確認した転属の前日については、正確には朝鮮半島ではなく京都市内への転勤であり、1949年11月の事でした。

もしかすると、キーパーソンであるその方こそが朝鮮戦争で戦死され、その後の話が途絶えてしまったのかもしれませんね。

これら多くの方の協力があって、現在の共楽公園は桜の名所として再び市民の憩いの場となりました。
私をはじめ、多くの自衛官も花見や運動で訪れます。

これらの話は声高に喧伝する事では無いと思いますし、それを植樹に携わった方が望んでいるとも思えません。
ですが、舞鶴市民の1人として、また日系史に興味を持つ人間として、更には海上自衛官としても「アロハ桜」の物語は今後も伝えて、残して行きたいと考え、今回稚拙ながら文章としてまとめさせていただきました。
私自身は調査と言うほどの事はしていませんし、書いた内容の多くはこれまでの先人が書かれた著作、新聞記事、TV番組、インターネットサイトやブログから学んだ物です。
ですが、これまで断片的な話で掲載されていても、それらを纏めた物は無いように思い、素人ながら書いてみました。

もし、これを読んだ皆様が春に桜を見かけた時に、戦後期の日本に後世に残る贈り物をして下さった方々の事を思い出して下されば大変嬉しく思います。












アロハ桜のある共楽公園は舞鶴東港や地方総監部を見下ろせる位置にあり、また反対側には海軍墓地も望めます。

最後に座談会での記事にあった皆さんの「桜」について連想する一言を紹介します。

「ビューティフル。きれい」
「大和なでしこ」
「日本の代表的な花。日本人の心を表す花」
「最近の日本人はそう思いませんが、あっさりしている。咲いて、パッと散るところね」



※個人のお名前等は新聞記事からの抜粋及び、本人の了承によりそのまま掲載させていただきました。
※間違い等ご指摘がありましたら、是非お願い致します。 
  


Posted by 先任  at 10:59Comments(4)つれづれ

2013年05月21日

アロハ桜物語 中編


2012年10月1日。
私はハワイ・ホノルル郊外のパンチボウル国立墓地に居ました。







WW2に従軍したすべての日系人の慰霊祭に出席するのが目的で、出席された多くのベテランと交流する事ができました。
多くはやはり第100歩兵大隊や442連隊の方々だったのですが、献花を終えた時にふいに数名のベテランに声をかけられました。





「あなたは自衛隊の方? いまは艦(フネ)は来ていないよね。 どうしてここに居るの?」
とても流暢な、そして綺麗な発音の日本語でしたが、そのわけは白いシャツの胸にあるパッチですぐに解けました。
MIS(陸軍情報部)のベテランを示すパッチだったからです。

私は自己紹介をし、ハワイに来たわけを話すと同時に自分の所属が舞鶴HQである事を伝えました。
すると、なんと話かけて下さったWatanabe氏(退役中佐)は戦後にMISとして舞鶴に進駐していたと言われたのです。
さらにもう1人、Oshiro氏(退役中佐)と名乗られた方も舞鶴が任地だったと言われました。




Watanabe氏と。

私は色めきたってアロハ桜について尋ねました。
もしかしたら、Watanabe氏やOshiro氏が桜を植えた本人かもしれないと思ったからです。
残念ながら、彼らは植えてはいない、との事でした。
他にも何か知っている事があれば教えて貰いたいと思い質問をい続けました。
その時にもすぐにCICのTakaki隊長の名前は出たのですが、直接は知らないと言う事でした。
ずっと以前には「Club-Maizuru」と言う舞鶴に駐屯した日系人の会合があったが、最近は生き残りも少なく集まっていないとの事でした。
しかし、そこで私はWatanabe氏から貴重な情報を得る事ができました。
30年くらい前に舞鶴の桜についての取材があり「Club-Maizuru」のメンバーでインタビューに答えた、と言う話です。
取材したのはハワイ報知社(1912年から日本語新聞を発行。現在唯一のハワイ日本語新聞)で、インタビューの後に実際に桜を植えた人の事も新聞に載っていたのでは? との事でした。

もちろん、MISの皆さんがその30年も前の新聞を持っている筈も無かった(一応聞きましたが)のですが、まぁ新聞記事なら後々調べる事も不可能ではないだろう、と思い当時の舞鶴の様子と現在の舞鶴のお話やMISの仕事などについてを聞きました。

なお、その時の様子が一部、ハワイのニュースで流れました。

http://www.hawaiinewsnow.com/category/240193/new-video-landing-page?autoStart=true&topVideoCatNo=default&clipId=7785803#

※30秒くらいのCMの後で流れるニュース映像。0:38秒くらいにMISの方々とのショットが写っています。


そして、帰国後年末になってまた新たな話が舞い込みます。

フェイスブックのBCo-Reenactment-Groupのページにハワイの日系人からある書き込みがありました。
「2008年にアロハ桜に関するTV番組が日本で放映されている。 しかしハワイでは誰もそれを見ていない。 出演したTakaki夫人も。 日本からそのビデオをハワイに送ってくれないか?」

http://www.fujitv.co.jp/nonfix/library/2005/474.html
※前回も貼りましたが、こちらの番組です。

正直、私はその番組の放映自体を知らなかったので驚きました。
そして私自身も見たいと思いましたし、まずお世話になったハワイの日系の方の願いなら喜んで、とビデオを探してあちこちにコンタクトを取ることになりました。

フジテレビはもちろん(瞬殺で断られましたがww)、番組制作会社や舞鶴の観光協会、商工会議所、市役所の広報、某国国防組織の広報と。
結果として、市役所の広報から大変貴重な情報と資料を得る事になります。

市役所広報は大変丁寧に(まぁフジ以外はどこも丁寧でしたが)対応して下さり、「ビデオは無いが他の資料のコピーなら渡せる」、と言われましたのですぐに市役所へ。

そして、その時点では思っても見なかった1983年1月の「Hawaii-Hochi」 ハワイ報知新聞と出会う事になったのでした。




その新聞記事のコピーは、まさにWatanabe氏らが出席したインタビューを掲載しており、さらには一番の「謎」だった、植樹した方々の事まで紹介されていたのです。

なお、番組ビデオに関してもすでに入手しており、友人の手で近々100大隊クラブまで届けて、見てもらう予定をしています。
ビデオの入手先はとりあえず内緒ですが、善意の舞鶴市民の協力があったとしておきます。


それでは、アロハ桜の植樹と舞鶴進駐MISについて、新聞記事とWatanabe氏、Oshiro氏から直接聞いた話、市役所から貰った資料交えて書いてみたいと思います。


以下次回(w
  


Posted by 先任  at 21:36Comments(0)つれづれ

2013年05月19日

アロハ桜物語 前編

アロハ桜についての記述を続けます。



当初、アロハ桜について探した所、「高木藤雄氏」と言う名が比較的簡単にわかりました。

http://www.fujitv.co.jp/nonfix/library/2005/474.html

Takaki氏についてのドキュメンタリーも製作され放映されています。
Takaki夫人の貴重な証言などもありますが、内容は完全とは言いがたく随所に間違いが見られます。
まぁ日本のドキュメンタリーの限界なんでしょうかね。
(日本では高木”タカギ”さんと表記されている事が多いですが、ハワイの方は”Takaki=San”と発音されていたので、私はTakaki氏と記載します)

いくつかのブログや市の資料によると、Takaki氏はMIS(Military Intelligence Service. 陸軍情報部)所属で舞鶴に進駐し、日本の家族にお金を渡して「新しい家を建てて」と言ったそうです。
それに対し、Takaki氏の家族は「敵のお金は要らない。日本の為に使ってくれ」と言われ、そのお金で桜を購入し植えたとありました。

より詳しい事が判ったものの、まだ色々と不明な部分が多かったのですが、去年になって私の妻はTakaki氏と桜の事が掲載された本を見つけてくれました。




「Japanese Eyes American Heart」
ハワイの日系資料センターが編纂した本で、荒了寛氏も携わってる本です。




この本に掲載されていた「Fujio・Takaki」氏のインタビューと経歴、その他センターにあった資料や奥様へのインタビュービデオ、読売新聞が本人にインタビューし書いた記事から紹介したいと思います。

なお、これらの紹介についてはハワイの日系資料センターから了承を得ています。



Takaki氏は真珠湾近くで民間の浚渫船の整備士として働いていました。
1941年12月の真珠湾攻撃の日、彼は日本軍の航空機をその目で見たそうです。
彼は怒り、そして悲しみました。
Takaki氏はハワイで生まれ、自分はアメリカ人だと信じていたものの家族は日本に帰っていたためです。
大変複雑な胸中だったでしょうね。
日系アメリカ人史、また二世部隊を考えるにはまずこの点に注意を払わなければならないでしょう。更に本土と違い、ハワイ出身者にとっては自分達の「故郷」が爆撃されたと言う事実で始まった戦争だと言う点も忘れてはいけないと思います。

撃墜され、海面に墜落する日本機を見たTakaki氏は海軍の士官とともにボートに乗って救助に向いました。
しかし、その搭乗員は自決。
「まことに日本人らしく、表情も変えずに死んだ」とタカキ氏は語っています。

そして、海面に浮いた飛行帽、飛行服などを見、名前と思われる漢字を見つけましたが、当時の彼はそれを読めなかったそうです。一方、持ち主であるパイロットは発見できませんでした。

その後、職場から「Japである」事を理由に追い出されたそうです。

ホイラー航空基地で機械工として働いていたTakaki氏は1944年に陸軍に志願します。
日本語と英語の双方を使えると判断されたTakaki氏はミネソタのキャンプ・サベージにあるMIS語学学校に送られ、訓練を受けました。
サベージで習った日本語から、真珠湾で助けようとした日本軍パイロットの名前が「朝日」である事がわかり、また彼がMIA(行方不明)である事も知ったそうです。
※戦後にTakaki氏は石川にあった朝日三飛曹(第二派、降下爆撃隊。死後一飛曹)の実家を訪れ、祈ったとあります。

その後、同じミネソタにあったキャンプ・リッチの秘密学校にて防諜についての教育を受けます。
訓練を終えたTakaki氏は最初の任地としてグアムへ派遣され、終戦までを過ごします。
捕虜や民間人との通訳が主な任務でした。

終戦後、マッカーサーの司令部(GHQ)付きとなり、45年9月から岡山のCICで勤務。
更に佐世保に転地し、主にソビエト=シベリアから帰還した日本軍将兵への尋問と情報活動をします。

その合間、Takaki氏は山口県の岩国に住む母と家族を訪ねます。
そして機械工をしていた時から貯めていた分と軍の給料を合わせたお金を母親に渡そうと申し出たそうです。
※ 戦争によって被害を受けていた家の修理と書いてある物が多いですが、Takaki氏へのインタビューには昭和20年の枕崎台風によって損傷したとあります。

しかし母親の答えは丁寧な拒絶であり、更に「あなたがそう思うなら、すべての日本の人達のために何かをしなさい」を言われたとあります。

※Takaki氏インタビューによると「日本はみな、惨めにしちょる。うちだけ楽はできん。昔から戦争で勝った方は威張るが、日本をいじめたら承知せん」 と言われたそうです。  だいぶ違う。。。。


その後、京都府舞鶴市に転任し、情報士官としてCIC舞鶴派遣隊長の任に付き、シベリア抑留帰還者の尋問からシベリアの鉄道、都市、工業地、道路網などの地図を作成する仕事をします。
その仕事ぶりは「大変真面目だった」とタイピストの上野氏が証言されています。

その間、家族への訪問を含めた過程でTakaki氏は空襲やその他の影響によって荒廃した日本の各地を見ることになりました。

「日本人には笑顔が無く、心がすさんでいた。 青森駅のホームに小銭が落ちている。誰も拾いもしない。それほどすさんでいた。」

また、舞鶴での尋問においてはナホトカから戻った弟(15年会っていなかった)に会う事もありました。
ソビエトの局員が特別に帰還船から降ろしてくれた弟に兄は「親が待ってるんだぞ」と言って急ぎ山口へ帰るように言い、弟は「戦友と同じ日に帰る」と言って聞かなかったそうです。


一方、地図の作成で海運会社の迫水氏(CICのタイピスト、と言う話もあるが前後がどうも矛盾するので海運会社の役員が正解ではないか、と思います)と良い関係を築いたTakaki氏は、数年後には彼の娘、弥生さんと結婚します。
2人の出会いは共楽公園のすぐ近く、中舞鶴交差点だったと夫人はTV番組で答えていました。
私は数年前まで、そのすぐ近所に住んでいたのですが。


現在の中舞鶴交差点。
写真右手に共楽公園、左手に舞鶴鎮守府(現在の海上自衛隊舞鶴地方総監部)。
また、写真視点の後方には通称「東郷邸」と呼ばれる、海軍鎮守府長官公邸があります。

※Takaki夫人はまだハワイに存命で、近いうちにアロハ桜関連のビデオを100大隊クラブを通じて送る予定。

本土のキャンプでの訓練時に見た白黒写真から、Takaki氏は日本に魅力を感じなかったそうです。
その彼の印象は、実際に日本に来て「桜」を見た時に一変しました。
きめ細やかな花びら、そして淡い色合い。またその美しい花が溶け込む背景にその永続する希望のような物が見えたそうです。

Takaki氏は迫水氏に相談し桜の植樹について教えてもらい、池田市(兵庫と書いてあるが、伊丹の間違いか?)までジープで行って桜の苗木を手配します。

この間、時系列をはっきりさせる資料が無いのですが、桜の苗木を手配したのが1950年である事はわかります。
なぜなら、この時に朝鮮戦争が始まり、Takaki少尉はすぐに派遣命令を受けたからです。

苗木を手配したものの、植える作業をする間もありません。
Takaki少尉は駅(※当時はまだ中舞鶴に存在した舞鶴駅かと思われる)で会ったMIS情報部の日系二世に桜の植樹を託して、朝鮮半島へと向いました。

植樹を頼まれた二世達は迫水氏、市議だった矢野氏を始めとした舞鶴市民らと共に資金面でも協力し、やがて列車で届いた100本の桜を舞鶴駅にほど近い「共楽公園」へと植えたのでした。
※実際には70本が共楽公園、30本は近くの学校に植えられたそうです。


矢野氏の功績を記念し、アロハ桜のすぐ近くに「ヤノケン桜」の名前で桜が植樹されていました。

時に昭和25年。
碑文の昭和21年と言うのがどこから出た話なのかはわかりませんが、舞鶴にMIS及びCICが進駐したのは1947年から、との話もありました(それも間違ってると思う。45年には来ていたはず)



Takaki少尉はその後ハワイへ帰ってからもCICに残り1964年から1966年の間はCICのFBIとの連絡係りもしました。
ベトナム・ツアーで23年の軍務を終了して、1967年に除隊。
民間に戻ってからは、カハラ・モール(ワイキキ近くの大きなショッピングセンター)でメンテナンス・スーパーバイザとして働き、1987年に退職。
1994年、舞鶴市の招待により戦後以来初めて舞鶴を訪れ、ようやく成長した桜と対面しました。
なお、その招待すべきTakaki氏に辿り付くのに時の海上自衛隊の練習艦隊主席幕僚が1役買ったそうです。
※それまで、桜を手配したのが誰なのかも不明だったようです。
※当時の主席幕僚は最近TV等でもよく見る平間洋一氏で、実はこの件で質問を送ったのですが、無視されたようで返答無し(w

Kakaki氏は長らく日本に来る事もなく、花を咲かせたアロハ桜を見る事もなかったのですが、1994年に市の招待により夫人と共に舞鶴を訪れ、半世紀ぶりに桜と対面したそうです。

http://www.maipress.co.jp/kakotpx/0504.html

※一番下の方に、桜と対面したTakaki夫妻の写真と記事があります。

2004年1月 他界。(享年84歳)

「人生は色々あって楽しいよ。 簡単の終わらせるなんてできないね」
「どんな人間だって、1人対1人ならいい人間ばかり」
生前、本人のインタビューより。



さて。
これらの事から、桜を共楽公園へ植える事を企画し、苗木の手配をしたFujio・Takaki氏の事は大まかには判明しました。
また植樹の時期は、やはり昭和25年(1950年)であるようです。
迫水氏が海運会社の社長や役員だとすれば、その協力を得て計画した苗木の手配も充分可能であろうと思いますし、手配先は池田市である事がわかりました(伊丹、の可能性もあるが)。

ここでまだ判らないのが、実際に桜の植樹に携わった23人の二世兵士について、です。
これについては、他のブログ等でもほとんど触れられておらずわからないままだったのですが、ハワイでお会いした渡辺憲一氏(MIS退役中佐)からお聞きした話と、古いハワイ報知新聞の記事から答えに近づく事ができました。

とりあえず、長くなりましたので以下次回(w
  


Posted by 先任  at 19:07Comments(0)つれづれ

2013年05月18日

アロハ桜物語 序編

アロハ桜について。


私の住む京都府舞鶴市に共楽公園と言う公園があります。












この公園は舞鶴東港を見下ろせる位置にあり、戦前は一次立ち入りが制限された丘なのですが、当時の舞鶴鎮守府から「市民との憩いの場に」と言う意味を込めて「共楽公園」と名付けられたと言う話が残っています。
(このエピソードは市のホームページ等には載ってませんが)






頂上付近には、舞鶴海軍工廠にて空襲等で亡くなられた方の為の慰霊碑があります。






また、舞鶴鎮守府戦病死者の為の忠魂碑も。
この忠魂碑には、尼港事件で戦死した海軍陸戦隊の碑もあったはずだが。。。。碑文の掘られた石版が無くなっていました。。。。おいおい。

その中腹に「アロハ桜」と呼ばれる古い桜があるのに気付いたのは、10年程前。
ちょうど、WW2アメリカ軍第100大隊歩兵リエナクトメントに興味を持った頃でした。






その初めて見た時は、正直それほど興味を持ってなかったので、ほぼ素通りしたのですが、後々凄い物が近所にあったのだと気付く事になりました。


5年程前、ふと思ってその「アロハ桜」を見に公園に行きました。
その時は、さすがに日系二世の事も無知ではなかったため、感慨深く見たのを覚えています。







アロハ桜には次のような碑文の掘られた石版があります。



「第二次大戦後、海軍のまち舞鶴市は大きな転機に迫られ、市民は方途を失って廃墟化していました
崩れはてたまち並みと山野。この中で、若いサクラの樹木が次々植えられ、舞鶴市民に平和と復興の勇気をつけてくれました。

この「友好の使者」は、二十年後半から舞鶴市に駐留した米軍のハワイ出身二世兵士二十三人です。
「国籍はアメリカだが、祖国は日本、荒れた祖国に少しでもうるおいを」と、二十一年春どこからかサクラの苗木約百本を運んで、共楽公園と付近の厚枝周辺に植えました。その年、二世兵士らは朝鮮戦争の勃発で舞鶴市を去りました。

その後に伝えられたのは、二世兵士全員の戦死の報、百本のサクラはスクスク育ち、今では、舞鶴のサクラのリーダー格になっています。舞鶴市を荒廃化し、二世兵士らの命をも奪った戦争、世界平和のための犠牲ともいえます。

祖国日本の平和と復興の願いが込められたこのサクラをみんなで育て、二世兵士らの冥福を祈って碑を建設しました。

明石市中朝霧丘 壽建設 代表取締役 木村寿賀市」




えらい物が近くにあったもんだと思うと同時に、いくつかの疑問も生まれました。
1、「ハワイ出身の二世兵士、23人全員の戦死」
二世にも朝鮮戦争に出征した兵士が居た事は知っていましたが、その多くは語学兵であり果たして23人全員、しかも同じ部隊出身で。 こんな事が本当にあったのだろうか? と言う点。
2、桜の植樹が昭和21年(1946年)。朝鮮戦争は昭和25年(1950年)。 これほど長い期間、同じ兵士達が同じ場所に在日していたのだろうか?と言う点。
3、そもそも100本もの桜の苗木をどこから用意し、運んだのか? と言う点。

これらの疑問は、いつもの「そのうち調べよう」に埋もれて長く放置してきたのですが。。。。
昨年、ハワイへ行き多くの二世や3,4世の日系人のお世話になったと同時に、実際に当時舞鶴に進駐していたMIS(陸軍情報部)の方とお話する機会もあり、ようやく調べた事をまとめようと思うに至りました。

今回わかった事は、今までネットや本に載っていた内容と事実は違っていたと言う事です。
が、別に碑文やこれまで「アロハ桜」を紹介してきた方々を批判するような物では決してありません。
その方々の紹介が無ければ、私も調べられなかったかもしれませんし、碑文は今のように情報が溢れる時代のものでは無いからです。

ですが、判った限りに事実を記す必要もあると思い、掲載致します。




以下次回♪  


Posted by 先任  at 21:33Comments(2)つれづれ

2013年01月01日

謹賀新年

皆様、明けましておめでとうございます。

本年も私”先任”と”BCo/100BN”をよろしくお願い致します。

さて大晦日だったわけですが、新年会の準備に追われておりました(w





まぁこんな感じで。

新年会は6名+カメラマン1名の7名も集まり、ちょっと驚いています。
思ったより人数も増えましたので想定を一部変え、以下の設定としました。

時期、場所の設定。

・1944年1月 イタリア戦線 カッシーノ近郊
 ・マジョ高地群 Hill 1190

・部隊
3pt/B Co/100Bn/133Reg/34Div
及び
Fo/D Co/100Bn/133Reg/34Div

・命令
 ・敵情
  1190高地一帯ににおいてMG×4、TK1両を有する1個中隊が陣地占領中であると見積もられる。

 ・我
  中隊は1月4日1190高地を大隊の左第一線となり2個中隊並列で攻撃奪取する。
  現在ボルガータ・レ・ノーチに於いて作戦準備中である。

・任務
 ・敵情
  1230高地において少数の敵影を確認。

  小隊は1月3日夕刻までに1190高地北東にある1230高地を占領確保。
  中隊の攻撃を容易にすべく81M OPを開設する。


・行動想定
 ・1月2日
  1Sqdは1230高地において数名の敵兵を確認。現在3SqdがFEBRを維持している 

  Assyを占領し小隊本部を開設。 
  PtはFEBRを維持しつつ1月3日深夜にかけ偵察を実施する。

 ・1月3日
  3日偵察結果を考慮し早朝ある時期をもって小隊は1190高地に対し攻撃を開始する。
  1190高地を攻撃奪取後FOのOPを開設を支援する。



史実の44年1月7日~9日頃の第100歩兵大隊の行動を元に、その前哨戦として位置づけ設定致しました。
地名等は実在のイタリアの地名を使用しています。

また参加者の役職、階級を以下のように設定いたしました。

3pt/Bco/100bn
小隊長 
小隊軍曹 
通信手
伝令

81mmPt/Dco/100bn
FO長
通信手

軍報道員


今回は私は始めて無線手をやる予定です。
実はWW2米軍始めた時はRadioがしたかったんですが、色々あっていままで出来ず仕舞い。
まぁヒストリカルゲームなんかと違って、無線機だけでなく弾薬も食料も生活に必要な最低限も持っていかなくてはならないので大変です。

実際の兵隊さんは、もっと大変だったでしょう、当然ですが。
その、ホンの一部でも体験できれば、と思います。




BC1000(SCR-300)と、装具の一例


まぁ新年から日本海側は大雪とか言ってますが。。。。
2日間、素敵な時間を過ごして来たいと思います。

  


Posted by 先任  at 00:05Comments(0)つれづれ

2012年12月24日

第1回 ざ・タンクフロント ~おっさんズ&パンツァーズ




22日~23日にかけて、毎年恒例の天長節祝賀会と、並行しての「第1回 ざ・タンクフロント ~おっさんズ&パンツァーズ」を舞鶴の我が家で開催いたしました


22日は帰宅してターキーの仕込み(本当は前日からやりたかったが、届いたのが当直日の前日で


解凍が間に合わないので朝になった)しておでん作りつつ掃除と片付け。




昼過ぎからまずミラーさん、AB-konさん来舞。


夕方にはストランスキーさん来舞。

4人で戦車で遊びつつ、動画見たり色々。


晩御飯はおでんとハムで飲む♪
こばさん迎えがありましたが、ABさんが飲まない方なので運転はお任せして飲みました(w
ありがとうございました。


で、21時前にこばさん来舞。

ダベって、飲んで食って、戦車して。

なんだかんだで3時くらいまで遊んで撃沈!



23日。
若干寝過ごしましたが、起きてまずは玄関に国旗を掲揚。

ターキーを焼き始める。


で、ナカムラさん来訪。
これでメンバー揃いました!









と言う事で本格的に戦車戦。

戦車戦の様子は徹夜で動画にまとめたので、こちらをご覧下さい。

ニコ動版 コメ下さい♪



よーつべ版 ニコ見れない方はこちらで。





どうです? やりたくなったでしょう?(w

友人がサブタイトルを付けてくれましたが、私はガールズ&パンツァーズは見てません。。。この企画も随分前からです、念のため(w

何回かの戦闘を編集してあります(部屋で流してたBGMがそのまま入ってますので途切れ途切れです)

使用戦車はVSTANKシリーズの1/24 赤外線バトルシステムです。
http://shop.ayard.jp/shopbrand/088/005/X/  ←こちらで買えます。 他のシリーズや、BB弾システムも混ざってるので注意。 他のシリーズとは遊べないようです。


別に軍装は必須ではなかったのですが、なぜかみんな用意してました(w

また春くらいに第2回を開催したいと思います。
※軍装は必須ではないですが、違うシリーズの戦車は参加できません(赤外線が対応しない為)


履帯修理中。。。。





で、お昼ご飯にターキーとうどんとおでんの残り。
ターキーは去年に続き、自分で焼くのは2回目ですが、良い感じに焼けました。
自分で言うのもなんですが、美味かったっす(w


昼食後、ストランスキーさんが、夕方にはミラーさん、こばさん、ABさんもお帰りに。
何故かナカムラと二人で「バトルシップ」を見る。

酷評されてますが、私はこの映画は大好きです。
エンターティメントってこーゆーのやと思うんですけどね。

で、あーだこーだ2人でダベりながら見て(初見は静かに見たいが二度目以降はマニアで集まって見るのがおもろいっすね)、さらに続けてヤマト2199の第3章も見る。

スゲーぜヤマト! これ、本当にリメイク作品の最高傑作なんじゃないですか?
元の話を知ってるのに、ここまで次が見たい作品はなかなか無いです。


と、言う事で、長くなりましたがレポート日記を終わります。
参加された皆様、お疲れ様でした!

そして、参加できなかった方は次回に是非!
※個人的に遊びに来てもらえば、いつでもお相手いたします。
※ひつこいようですが、軍装は必要ありません。いやほんまに(w




さて、現実に帰りパシフロの編集を続けよう。
  


Posted by 先任  at 14:49Comments(4)つれづれ

2012年09月26日

ハワイへ。



HGGレポートの途中ですが、臨時ニュースです(w

明日から1週間ほど、ハワイに行ってきます。
観光と言えば観光ですが、目的はホノルルのパンチボウルで月末に行われるWW2の戦死者慰霊祭であり、第100歩兵大隊の70周年で、向こうの100大隊ベテランクラブから招待を受けたからです。
式典の後、ランチタイムにベテランとのお話の時間を取っていただきました!

また27日木曜日には、ワインギャングと呼ばれるベテランの会(茶話会みたいな感じ)があり、それにも参加します。

多くのベテランに様々なお話を伺い。勉強してくる予定です。
当時の写真と、我々のリエナクト写真をアルバムにして持って行き、直接見ていただいてお話を伺い、質問をしてくる事を考えています。

また、現地の日本語教室の教師から100大隊クラブの方を通じて「リエナクトと日本の話をして欲しい」とのオファーがありました。
彼らは、私とベテランとの通訳もしてくれるそうです(ありがたい!!)

他にmixiで知り合いになった現地の日系人とも交流予定で、この方もハワイの案内や通訳をして下さる予定です(ほんまにありがたい!!)

この貴重な機会を無駄にする事無く、頑張ってきたいものです。










以下予定。

26日
朝舞鶴発 実家にハイエース置いて伊丹1200(1450)→成田1610(1925)→ホノルル0745着(タイムスリップ♪)
はわいあん様と合流→ドライブ?→100大隊クラブ1030着。
1100(1200) 日本語学校教師、生徒らと会談
以後未定

27日
朝0830 ホテル発→スーパーで買物→100大隊クラブワインギャングの会1000(1300)
以後未定

28日
今の所未定 陸軍博物館へでも行くかな?
対戦車中隊のヤマモト氏と会えるかも。

29日
朝ホテル発 パンチボールの清掃作業に参加。

30日
パンチボールにて戦没者慰霊祭 100大隊70周年 式典
ベテラン達との会合の予定。
(ロバート・サトウ氏が来るかもしれない!! エドワード・イクマ氏、エディ・ヤマザキ氏、ゴロー・スミダ氏らは会える予定)

1日
未定
パールハーバーでも行くかね。
1件あると言う、ミリタリーショップにも行きたい。

2日
未定

3日
0800 ホテル発→ホノルル国際空港0900(1135)→

4日
成田着1450(1655)→伊丹1810着→実家→舞鶴。




持ち物覚書(mixiのコピペですが)

パスポート、eチケット、ホテルバウチャー、保険証書、100thクラブからの招待状。

携帯、Ipod、ノートPC。wifi機。 予備バッテリーとか充電器とか。
ビデオカメラ。

タバコ 1カートンしか持込めないが、もう1カートン欲しい所。
空港で税金払えば行けるのか?(w
リエナクト用タバコを作って行こうとか思ってたが、よく考えたら軽犯罪になりかねんわ(w
なので、現地でやろう。

征露丸、風邪薬、絆創膏、のど飴。
箸と醤油(半分ネタだが)


洗面用具。

夏制服 制帽 短靴 黒靴下と白シャツ
チノ制服 ギャリソン ネクタイ 徽章類 サービスシューズ
上着用シャツ×2 後は現地でアロハ買う
ズボンは42HBTで良いかな? 制服とチノがあるし。
下着 3日分(ホテルで洗濯)+予備1日分

お土産等

写真アルバム(Bcoリエナクト写真、当時オリジナル写真)
Kレーションのレプリカ(缶詰除く)
ピエール・モーランに渡す写真
質問書いた紙。
  


Posted by 先任  at 00:21Comments(0)つれづれ

2012年07月30日

軍装部屋の整理の3



さて、整理状況の報告もその3で終了です。






場所が無くて、天井吊りの帽子達。
仕事で使ってた物や記念品。 他国海軍と交換で貰った物等。
詳細の紹介もそのうちに。。。。。




整理のついでに出てきた予備のカラトリーを撮影。
いつのまにこんなに。。。。(w
ってか、フォークがやけに少ないのはなんででしょ?

すべて大戦の生産と言うわけでは無いです。
カラトリーは年号が入っていないものが多く、判別が難しいので。
まぁステンレス製のはほとんどが戦後の物でしょうね。
逆に鉄製やアルミ製はまづ大戦時か戦前でしょう。
WWI頃まで遡ると、また違います。
また今度紹介。。。。すんのかな?(w




キャンティーン(水筒)達。
こちらはすべて戦時、戦前品です。
42,43年あたりが多く、1個だけ45年。 18年製もあります。
あ、写真には1つだけレプリカも写ってますね。
  

Posted by 先任  at 20:21Comments(0)つれづれ

2012年07月29日

軍装部屋の整理の2



整理したついでに撮影した物をちょこちょこup。
こちらは日本赤十字の看護婦ですね。
紺の方は正装で今でも式典等で使用されるとか・
もちろん(?)レプリカです。

南方衣(と言う呼び方が正しいかわかりませんが)の方は実物で、こちらは戦後は使用されていないでしょう。
記章類は実物、レプリカが混じっています。

もっと詳しい解説ができる程まだ詳しくないので、そのうちに(w




子供用の色々。
今年の冬は着せれるかなぁ?
CWU-36がお気に入り♪
  

Posted by 先任  at 11:37Comments(0)つれづれ

2012年07月28日

軍装部屋の整理。



引越しから一ヶ月ちょっと。
ようやく軍装部屋の整理ができたので、upしてみました。

※コレクションルームとは言いません。 私は「リエナクター」であって、「コレクター」では無いからです♪
実物とレプリカを分けず、使用しやすい並べ方をしているのもその意味からです。






部屋の入り口から。
前の部屋(6畳間)に比べれば、8畳なのでだいぶ広くなりました。
フードコンテナ×2やランタンケース、ストーブ、水缶×4、GIコット×3、大型鍋などを裏の物置に移せたのもすっきりした要因ですね。
手前の5段ロッカーはまだ整理してませんが、略帽や記章を整理して入れる予定です。




正面にお気に入りの二世関連とWAC制服を並べてみました。
この写真だけでも私がコレクターで無い、と言う部分が出てますね(w

右から
4ポケ制服(1939サービスコート 2nd) レプリカ 442連隊。
チノ制服(1941パターン) レプリカ 442連隊
パーソンズジャケット(1938パターン ODFJ) レプリカ ハワイ師団
M-1943FJ 実物 戦後生産(と思われます)
ウィンタースコンバットジャケット (2nd) レプリカ
41ジャケット(1941パターン 3rd ODFJ) 実物 34師団
41ジャケット(1941パターン 3rd ODFJ) レプリカ 34師団
マスタードシャツ(1937パターン シャツ・フランネル) レプリカ 34師団
デニム・プルオーバーシャツ(1935パターン) レプリカ
アロハシャツ ハワイ二世 レプリカ
アロハシャツ ハワイ二世 レプリカ

WAC用 。。。。なんか面倒臭くなってきたので以下省略(w




メタルのワードローブを増設し、45cm×90cmのタイプを5個使用しました。
当分は足りるはず。。。。
こちらは手前はWW2米軍関係衣料。 奥の方にNAM戦関係衣料を掛けてます。
なんかHBTがやたら多いなぁ。。。42のジャケットなんか奇跡サイズを4枚も持ってて何すんねん(w
43HBTのジャケットが1枚しか無いのに。。




こちらは手前から日本陸軍、海軍、ドイツ軍、現用ちょっと前米海軍、現用日本海軍(仕事用とも言う)、その他です。
日本軍はレプリカが多いです。 着れない実物もチラホラありますが。




米軍のサービスハット、ハワイのお土産Tシャツ。
んで、ヘルメット達。






押入れ収納にもしっかりと収納。
それぞれ余裕があるので、しばらくは大丈夫♪




メタルラックを使って木箱も纏めました。
まぁ使い勝手によってはまた変わるだろう部分です。
中隊長は仮の位置。 そのうち、良い場所見つけたいです。






部屋の一番奥に武器庫。
  

Posted by 先任  at 15:29Comments(0)つれづれ