2024年02月25日

アロハ桜 植替え作業 実施終了報告。

2024年2月23&24日





2018年に植樹した、新しい「アロハ-Sakura」の植替え作業を実施しました。

苗木を植えて約6年。





大きく元気に育った桜は、今の場所では狭いので、より大きく育るように広い所に植替えました。






植替えの作業は、植樹の時からお世話になっている中村造園さんと、日系アメリカ人兵士のReenactmentを行っているグループ「BCo/100Bn」、その他協力者によって実施しました。
初日はあいにくの雨でしたが、2日目は天気もよく気持ちよく作業ができました。








お昼ご飯には「スパム-Musubi(おにぎり)」と、きゃべつとタマネギのブイヨンスープを食べました。

無事に作業は終わりました。




もう、小さな蕾が枝に出来ています。



そして、オリジナルの「アロハ-Sakura」もまた、小さな蕾をつけていました。
春には綺麗な桜の花を咲かせる事でしょう。







4月には「Hanami-party」をしたいと思います。
ご協力下さったすべての方に感謝します。

※作業及び1950年頃の進駐軍MIS(アメリカ陸軍情報部)の再現軍装について、許可を得て実施しています。

アロハ桜についてはこちらをご覧下さい。























  


2022年09月28日

第100回ヴィクトリーショー 背嚢展示

2022年9月25日 サムズミリタリ屋様主催による国内最大のミリタリーショー「第100回ヴィクトリーショー」が東京都港区浜松町の都立産業貿易センター浜松町館の4階、5階にて開催されました。





ReenactmentGroup「BCo/100Bn」では会場内にて展示コーナーを設置し、参加させていただきました!

今回の展示のテーマは「背嚢(はいのう)=バックパック」です。

第二次世界大戦中にアメリカ陸軍で使用された背嚢を系統立てて、全て実物で展示致しました。







展示しましたのは以下の物です。
・HAVERSACK M-1917 (M1917 ハバーサック)
・HAVERSACK M-1928 (M1928 ハバーサック)
・PACK FIELD M-1943  (M1943 フィールドパック)
・PACK FIELD COMBAT (M1944 コンバットフィールドパック)
・PACK FIELD CARGO  (M1944 カーゴパック)
・PACK FIELD COMBAT M-1945 (M1945 コンバットフィールドパック)
・PACK FIELD CARGO  M-1945 (M1945 カーゴパック)
・PACK BOARD            (ユーコン パックボード)
・PACK BOARD PLYWOOD    (パックボード(合板))
・BAG CANVAS FIELD od M-1936 (1st)  (M1936ミュゼットバッグ(初期))
・BAG CANVAS FIELD od M-1936 (2nd)  (M1936ミュゼットバッグ(中期))
・BAG CANVAS FIELD od M-1936 (3rd)  (M1936ミュゼットバッグ(後期))
・RUCKSACK (マウンテンリュックサック)
・PACK JUNGLE od (OD ジャングルパック)
・PACK JUNGLE "camo" (迷彩 ジャングルパック)








また大戦中を前期(1941年頃)と後期(1945年頃)に分け、背嚢へ収納する物品の一例を展示。
こちらもレーション以外は実物です。






更に1928ハバーサック及び、1944コンバットパックについて、パッキング要領を実演展示致しました。
これはフィールドマニュアル等に記載があっても実際にパック内に内容物を詰め、キッチリと組み上げていく様子はなかなか見る事は無いのではないでしょうか。



展示コーナーの反対側ではBCoの過去リエナクトメント等の紹介動画を上映し、また随時質問等にお答えするコーナーを設けました。
本当に多くの皆様の来訪に感謝いたします。




今回は、第二次大戦中オリジナルのアメリカ陸軍、軍旗も展示致しました。
これは通常、連隊以上の部隊に与えられるもので、式典等に連隊旗と並べて使用する他、駐屯地などに飾られたりします。
第100歩兵大隊は独立大隊であった為、大隊旗と共に受領し使用していたようです。
なお、大隊旗は第442歩兵連隊編入後も、その式典の内容によっては登場しています。
これは異例の事で、それだけ第100歩兵大隊の扱いが特別だった証左であると考えます。







皆様、重ねてブースへのご来訪ありがとうございました。
また、このような機会を作って下さったサムズミリタリヤ様、Vショースタッフの皆様にも御礼申し上げます。



次回は10月9日(日)に大阪にて開催されます「第12回​軍装交歓会 吉野会」にて小規模な展示を実施予定です。
こちらでは、多少の物販も行う予定です。

皆様のお越しをお待ちしております。

  


2020年10月21日

Vosgesの戦闘 第442連隊戦闘団 Vol.1 「ブリエア解放」

前回はVosgesにおける第442戦闘団の戦死数と言う事で調査結果を参考資料とともに紹介させていただきました。
今回からはその戦闘の経過を日ごとにまとめた物を連載いたします。
参考資料については前回同様ですので、そちらをご参考下さい
部隊記録等の所蔵元については「アメリカ国立公文書記録管理局 National Archives and Records Administration (NARA) Records」となっております。


それではそれらの記録を元に、再度「失われた大隊」救出の戦闘と、戦死者を追ってみます。
加えてドウス昌代氏の「ブリエアの解放者たち」からのエピソードを追記します。
なお、部隊の行動図は行動記録から可能な限りで起こしましたが、細部は正確ではない可能性があります。
また、現在のGoogleMapを引用し使用していますので、1944年当時とは地形が異なる可能性があります。



Bruyères北西の丘、Hill555に立つ第442連隊戦闘団を称える石碑。

1944年9月29日
第442連隊戦闘団はUSS THURSTON, USS DICKMAN, USS CHASE, USS HENRICOに分乗してイタリア・ナポリからフランスのマルセイユに上陸。その後10マイルを徒歩移動しました。


マルセイユから前進する第442連隊戦闘団兵士。

なお、連隊戦闘団の対戦車中隊のみは1944年7月16日~10月27日の間抽出され、第1特殊部隊(ロバート・フレデリック大佐指揮)においてグライダー降下訓練を受けたのちに、第517空挺歩兵戦闘団と共にドラグーン作戦に従事しておりこの、Vosgesの戦闘の序盤には居ませんでした。

9月30日
0600:指定エリアに到着。以後約10日間に渡り補充兵の訓練等を実施。
10月2日
第6軍団(VI Corps)に配属されますが、部隊の管理は第7軍(7th Army)直轄とされます。
10月4日
第36歩兵師団に配属。
10月9日~
0830:CP閉所。
第100歩兵大隊、第2大隊及び連隊所属の各支援部隊は師団輸送隊のトラックにより北上を開始。
リヨンを経由し450マイルを走破、ヴォージュ県エピナル近郊の宿営地へと向かいました。
10月10日
主力より遅れていた第3大隊は貨物列車にて移動を開始します。
10月13日
連隊主力ヴォージュ県エピナル近郊の宿営地着。
1230:CP開設。
2200:第3大隊宿営地着。




エピナル郊外の宿営地にて休息をとる第100歩兵大隊B中隊の兵士達。


10月14日
1400:連隊はトラックを使用し短距離(2マイル)移動を開始。
Bruyeresの西4kmの森の入口にて兵士を下ろしたトラックはUターンし、あらたな兵士を迎えに戻るピストン輸送でした。


エピナル郊外からVosgesの森へ向けてトラックで移動する第2大隊の兵士達。


Vosgesの森へ進入する第2大隊I中隊の兵士達。

一部の部隊は徒歩で前進を余儀なくされます。
第232工兵中隊が地雷を除去、道路を整備し、更に前進する連隊を第522野砲大隊が砲撃により支援を行いました。

Vosges山脈は険しくそそり立つ山々ではありませんが、深い針葉樹の森に覆われており日中もほとんど日が射さない上、木材を主要産業としていたBruyeresからの業者が占領により森へ入らなくなっており、下生えは伸び放題だったと言われています。

「ボージュ山脈の森は数多くの小道が存在し、それらは曲がりくねり地元民ですら迷うと言われる。また、下生えが多く針葉樹の間隔が密接している為、敵の掩蔽は容易であり、あらゆる場所に存在する可能性がある。」
1944年10月6日、第36師団S2発行による地形情報より。

この一連のVosgesの戦闘は連合軍第7軍が発令した第6軍団隷下の第3師団、第45師団、そして第36師団によるドイツ侵攻作戦の一部、"Operation Dogface"によるものでした。


1944年9月22日に撮影されたBruyères付近の航空偵察写真。

Bruyeresの街は西から北、東にかけて4つの丘に囲まれており、連合軍はそれらをA,B,C,D高地と(Hill"A","B","C","D")と名づけ。Bruyeres解放に必要な拠点としていました。
更にその手前にはHill486、Hill555が大きく横たわり、連合軍の接近を阻んでいました。
南側のHill486は"テキサス部隊"である第141連隊が担当し、更にその南側から第143連隊が攻撃します。
第442連隊戦闘団はHill555を超えてBruyeresに迫る事を命令されました。



10月15日
Bruyeresの北西にある山岳(Hill555)は深い森で、各所に敵の射撃陣地や地雷が埋設されていました。
攻撃に先立ち、連隊は師団から支援を得ます。
第752戦車大隊、第636駆逐戦車大隊、第83化学戦大隊(107mm迫撃砲装備)第36偵察騎兵群(M6装甲車装備)、第886管理中隊、第56衛生大隊。

0800:第2大隊は縦列でRP(分進点)を通過、F中隊を先頭としE中隊、G中隊が続きます。合言葉は「ポォとポウォー」でした。


連隊の前進を支援する第522砲兵大隊の105mm榴弾砲。

H中隊の機関銃小隊がそれを支援します。

0930:F中隊はBruyeresから3kmの地点で敵の抵抗に会い、射撃を開始。
戦闘は1230:まで続きました。
この間、ドイツ兵5名を倒し14名の捕虜を得ます。
戦死1名(SSgt.Yamada Hideo) 負傷4名。
更にE中隊も砲撃により戦死1名(Pvt.Sagami Yohei)負傷2名。
午後には敵の抵抗が更に増大したため、第2大隊は停止。

夜間になってG中隊がHill486に斥候を送り、右翼は米第141連隊と接触。
また左翼は第100歩兵大隊と接触を確認します。

0800:第2大隊と並行する形で第100大隊もB中隊を先頭に前進を開始、森へと侵入します。
0915第100歩兵大隊B中隊は森に300ヤード進入した所で機関銃による射撃を受け停止。

2個中隊規模の機関銃による射撃に加え砲撃、戦車まで投入した激しい抵抗に会いB中隊は1日中戦闘を継続するも後退を余儀なくされます。
B中隊は戦死1名(SSgt.Hirahara Tomosu)を出しますが捕虜5名を得ました。

C中隊はB中隊を支援するため、LDを横切る形で侵入しますが、木々の影や陣地からドイツ軍の小火器による抵抗を受けます。
更に1430:には砲弾の落下もあり多くの死傷者を出します。
戦死3名(Sgt.Mayeda George M//Cpl.Sakai Yoshinori//Pfc.Tengwan Yoshio)、負傷19名。
D中隊は各中隊の支援でしたが、地形上迫撃砲が機能せず、効果的な支援ができませんでした。
A中隊は予備として待機していましたが、砲撃による被害を受けました。

ボージュの戦闘において、必ず語られるのがツリーバーストです。これは敵の砲弾が、頭上の木々にあたって炸裂し、砲弾の破片に加えて木々の破片までが殺傷力を持って飛び散るもので、壕を掘っていても頭上から降り注ぐ鉄と木の破片による被害が大きく出た事を指しています。
この日、予備として待機していたA中隊では一発の敵砲弾がツリーバーストとして炸裂した事により3名が戦死(1名はWOD-病院での戦死、1名は負傷後長く入院生活を余儀なくされ、戦後に死亡)、17名が負傷しました。




ドイツ軍第223擲弾兵連隊、及びSS第19警察連隊から約20名の捕虜を得て、敵のCPの位置情報並びに地雷原の情報を入手。
この日の連隊の戦死者、11名。

100A/TSgt.Miyoko Mitsuru E
100A/Pvt.Matsunaga Kaname
100B/SSgt.Hirahara Tomosu
100C/Sgt.Mayeda George M
100C/Cpl.Sakai Yoshinori
100C/Pfc.Tengwan Yoshio
442E /Pvt.Sagami Yohei
442F/SSgt.Yamada Hideo
232Eng/Pvt.Yamamoto Takeo
232Eng/SSgt.Fuji Abe M
100A/Pfc.Moriguchi Rokuro (砲弾による負傷、入院後回復せず1947年5月29日に死亡)


10月16日
0600:第100大隊左翼、第2大隊右翼並列での攻撃を開始。
第100大隊はA高地、第2大隊はHill555を目指します。
232工兵中隊が地雷及びHill555前面の障害処理を実施しE中隊、F中隊が並列で前進しますが、丘に差し掛かる手前の開けた場所で激しい銃撃と砲撃を受けて停止。
第100大隊は第2大隊の左翼からHill555の北側を経由してA高地を目指しますが、Hill555を超えた地点で深い谷に当たり前進を阻まれます。

夜明けから発生した霧が谷を覆い、視界が不良となる中で1個大隊規模のドイツ軍が反撃。
各種砲による砲撃に加え戦車の支援を受けたドイツ軍は第100及び第2大隊に襲い掛かりました。
すかさず第522野砲大隊及びD,H中隊の迫撃砲で敵の反撃に対し痛打を与え、この反撃を失敗に終わらせます。
なお師団右翼の第143連隊は442連隊の攻撃に呼応するように前進し、Bruyeresの南方Cample-Ducまで前進することに成功。

0800:再度攻撃開始。
F中隊はBruyeresの北西、Hill555の一部を占領、Bruyeresまで1kmに迫りますが激しい抵抗を受けます。
E中隊が主力となってHill555を攻撃し、連隊の火力支援を受けつつ1100に占領。
ついで連隊がBruyeres前面の平地を前進しますが、今度はB高地より砲撃を受け停止します。
B高地からは砲撃に続き3両の戦車と複数の自走砲、更に歩兵による攻撃を受けました。
1730:約一時間の攻防戦の後、連隊は一旦後退します。
第100大隊は左翼にB中隊、右翼にC中隊としてA高地(Hill578)のふもとまで前進し、A中隊が間隙をカバーしました。
第100歩兵大隊では、大隊作戦将校(S3)となっていたCpt.Young-Oak Kimの発案により、太いワイヤーを使用して本来は下りれない勾配の斜面で戦車を下ろす計画が実行されました。
あまりに多数の敵機関銃の配置から、歩兵単独での攻撃は被害が増大するのみと考えられました。
「ブリエアの解放者たち」によると、その戦車を下ろす作業の実施中に状況を把握していない師団長より、強い攻撃命令が第100大隊に幾度となく下り、Cap.Kimは師団と接続されていた有線電話線を引き抜き、あっけにとられる大隊長に「砲撃にやられました」と言ったと言うエピソードがあります。
一日中、敵の砲撃が行われ被害も増えましたが21名の捕虜を得て、Bruyeresの街の防衛に関する情報を得ています。
Bruyeresはドイツ軍第736擲弾兵連隊第1、第2の2個大隊が防御しているとの情報でした。


1944年9月29日に撮影されたBruyères付近の航空偵察写真。




接触した敵部隊は下記の通りです。

第198SS警察連隊。
第1316工兵大隊第Ⅲ中隊。
第49要塞機関銃大隊。

16日から17日にかけて冷たい雨が続き、兵士達は泥だらけの中で過ごす事になります。

この日の戦死者は10名でした。

100B/Pvt.Noritake Yoshito
100C/Sgt.Imai Tomio
442E/Pfc.Katayama Noritada
442E/Pfc.Kato Joseph Hisato
442E /TSgt.Matsumoto George H
442E /Pfc.Komoto Nobuo
442F/Pvt.Miyazono Tokio
442F/Pfc.Horinouchi James Joji (George)
442F/Pfc.Yamaoka Tsutomu
442H/Pfc.Saito George S



10月17日
0730:夜明けと共にHill555の第2大隊及び左翼の第100大隊に対し、ドイツ軍が2個中隊の歩兵を中心とした反撃に出ます。
1時間程の激しい戦闘が行われた後、H中隊の火力と第522野砲大隊の支援射撃を得て、ドイツ軍はA高地及びB高地へと後退、再編成を行いました。
0930:第2大隊は戦車による二度目の反撃を受けるが、地形の問題で対戦車砲が動かせず、第2大隊のE及びF中隊はバズーカ砲班を6個編成し、戦車に対応、これを頓挫させます。
同時に第100大隊に対しても歩兵を中心とした反撃が行われました。
第100大隊はちょうど前進を開始するタイミングにぶつかり、適切な防御を行う事ができなかったため、一部では戦線を突破されます。
手榴弾を投げ合い、時には銃剣すら使用する近接戦闘の末、第100大隊は防御線を立て直し、敵の撃退に成功。
この戦闘でA中隊のSgt.Tezuka Theodore TとPfc.Shigeta Hideoが戦死。

その後、敵の後退に呼応する形で連隊は前進を再開するもA高地、B高地から射撃を受けて停止。
ドイツ軍は丘のふもとの民家等を利用して機関銃を配置し、前進を阻みました。
推定15挺の機関銃と2門の対戦車砲があったと記録されています。

午後になり、第2大隊G中隊が連隊右翼からHill555を回り込んでふもとを攻撃し、数件の民家を攻略。
第100大隊はC中隊から1stLt.Masanao Otakeが率いる斥候を出し、A高地ふもとの民家を確認中、敵に発見されます。
Lt,Otakeは分隊の後退を援護し、サブマシンガンによって射殺されました。
この行動により、殊勲十字章を死後授章します。
なお、「ブリエアの解放者たち」によると、師団長自らが前線に来て、直接オオタケ中尉に対し「直ちに攻撃せよ」と指揮系統を無視して命令し、それが実行されるかを後ろから監視。
オオタケ中尉はC中隊から1個小隊を率いて予備として待機中であったが、師団長の直接の命令によりA丘へ前進、Pfc .Ajitomi Tokio、Pvt.Sakai Yoshinoriと共に戦死したとの記述があります。
Lt.Masanao Otakeは野球のアロハチームの一員で、戦前から軍に徴兵されていた第100歩兵大隊オリジナルメンバーの1人でもありました。
兵士として優秀なだけでなく、物事を冷静にかつ公平に判断できる人物で、アンツィオで将校に任官し、小隊長をしていました。また、第2大隊H中隊に弟のSgt.Masayuki Otakeがいました。


夜間になって各中隊は積極的に夜間斥候を出し、敵の位置の把握に努めます。
またこの時点で街のレジスタンス、ドロラン氏との接触に成功し街への近接経路についての情報を得ます。
降り続く雨の中、不眠不休の戦闘を継続しながら翌18日を迎えます。



この日の戦死者は11名でした。

100A/Sgt.Tezuka Theodore T
100A/Pfc.Shigeta Hideo
100C/2lt.Otake Masanao Russel
100C/Pfc.Ajitomi Tokio
100C/Pvt.Sakai Yoshinori
2BnHQ/Pvt.Kanaya Walter Etsutoshi
442F/Pfc.Tanji Mitsuo
442F/Pfc.Ikehara Dick Kikuichiro
442F/Pvt.Tagami Yoshio
442G/Cpl.Kokubu James Toshio
442G/Pfc.Chibana Henry Matsuzo


10月18日 Bruyeresへの進入。
合言葉は「スーベニア」と「リムジン」でした。

夜明けまでに第3大隊は市街への突入を企図し、第2大隊の右側(南側)へ配置。
I中隊とL中隊が未明のうちに攻撃開始線へ敵の射撃を受ける事なく移動することができました。

0800:準備砲撃が開始され、30分間、5個砲兵大隊(計60門)からの射撃が行われました。
第3大隊を中心に8個中隊(A,B,C,E,F,G,I,L)が並列となり前進を開始。
連隊を上げての攻撃となります。
充分な煙幕が砲兵によって展開され、その遮蔽の元にそれぞれの目標を目指し、全力で前進します。

100大隊はようやく戦車の支援を受けて、A丘ふもとを3個中隊のライフル中隊すべてを出して攻撃します。
B中隊が先頭となり、ふもとの民家を攻略。A中隊はB中隊の左側面をカバーした後、丘に沿って残敵を掃討しながら前進。C中隊は大隊の右翼からA丘を攻撃しました。
この戦闘でB中隊のSgt.Hosoda Max MとC中隊のPfc.Ogawa Edwardが戦死。
1100:戦車からの砲撃により、森からの反撃が弱まったと判断したB中隊長サカエ・タカハシ大尉と、大隊作戦幕僚のヨンオク・キム大尉は2人だけで銃を構えず、森へ対峙。
身振りを交えながら「出てこい! カモン」と呼びかけ、結果ドイツ兵45名が投降。
前線の防御線は崩壊していると判断した第100大隊はA丘を駆け上って攻撃。
1420:A高地を占領。更に70名以上のドイツ兵が投降します。
第100歩兵大隊はA高地において逆襲対処の為、壕を掘りつつ警戒に移りました。
なお後日、このA高地攻略の功績により第100歩兵大隊は1944年6月のベルヴェデーレの戦闘以来、2度目の大統領部隊感状を受賞しました。

一方、第2、第3大隊はE,F,Gの3個中隊を先頭として、目標とされたB丘の攻略に挑みます。
午前中に開始した攻撃は敵の激しい抵抗にあり、正午になってもまだ高地ふもとに達した兵は居ませんでした。

山間部から撃ち下ろされる機関銃と砲弾に、平地から前進できない部隊は次々と被害を受けます。
E中隊Pvt.Fukumura Ichiji、F中隊Pfc.Morimoto Toshiaki、G中隊T/4.Yoshinaga Akiraが戦死。
第2大隊通信所には敵砲弾が直撃し、Sgt.Kijima Tadashiが戦死。
各中隊の火器小隊から60mm迫撃砲が抽出され、集中射撃を加えて敵の機関銃を沈黙させ、一気にB丘のふもとへと迫る作戦が成功。
F,G両中隊が敵を引き付けている間にI中隊が右側面から迂回し、丘の南側斜面から攻撃し、包囲の危険を感じたドイツ軍は後退します。
1500:攻撃開始から6時間半を経て、第2大隊はB丘を占領。

B丘の占領後、第3大隊L中隊は北側からBruyeres市街へと進入、通りを家ごとに確認していきました。
1830:L中隊の斥候が南側から街へと入った第143連隊C中隊と接触。
Bruyeresの街の雌雄は決しました。
しかし、残った一部のドイツ軍は広場や通りにバリケードを築いて抵抗を続け、街の各所で散発的な市街戦が真夜中まで継続されました。

砲撃が止み「どうやらアメリカ軍が来たらしい」と知った市民4000人は地下室から出て、その「小さなアメリカ人」に驚きました。
そして残っていた僅かなワインや食べ物が持ち出され、家々に招待がありましたが、多くは戦闘行動を継続中であり、通じない言葉と身振りでで断るしかなかったようです。

第3大隊L中隊はD丘に斥候を出し、敵の防御線を確認するも銃撃を受けて後退。
1700:K中隊は残存する狙撃兵に対処した後、Bruyeres市街へ進入。
連隊の前線指揮所もHill555沿いの陣地へと移動しました。

天候は寒く、16日間も連続で雨が続いています。
補給路は泥に埋もれ、多くの車両が足止めされたため、補給の問題が生じたため工兵が道路整備を行いました。

この日、第93自走砲大隊及び第141野砲大隊が第442連隊戦闘団の支援に派遣され、第522野砲大隊と共に火力を増大させます。

第2、第3両大隊は61名を捕虜を得て、この日の戦闘では合計134名の捕虜を得ると同時にほぼ同数の敵を倒した、と記録されています。




なおこの日遭遇したドイツ軍部隊は下記の通りです。

第192装甲擲弾兵連隊第Ⅱ中隊。
”アーレン”戦闘団 赤色中隊
第716工兵大隊第I中隊
第198擲弾兵大隊第Ⅱ、第Ⅲ中隊

なお連隊戦闘団の戦死者は6名でした。

100B/Sgt.Hosoda Max M
100C/Pfc.Ogawa Edward
442/2HQ/Sgt.Kijima Tadashi
442.E/Pvt.Fukumura Ichiji
442.F/Pfc.Morimoto Toshiaki
442.G/T/4.Yoshinaga Akira


Vol.2に続きます。


information

写真展 「アロハの桜」~二世軍人が残してくれたもの~
主催:Bco/100Bn



2020/10/28(水)~11/ 2(月)
12:00~20:00(初日は、13:00から、最終日は、18:00まで)

ギャラリー「イロリムラ
〒530-0016 大阪市北区中崎1丁目4番15号
TEL:06-6376-0593

戦後間もない舞鶴の地にハワイの日系二世たちから桜が送られました。
それから約70年経った2018年、ハワイ在住の日系二世の方々を招いて、
その意思を継ぐ新しいアロハ桜の植樹式が行われました。
かつて対立しあった二国を繋いだ桜。
生まれ変わったアロハの桜をどうぞご覧ください。
合わせて関西のリエナクター(歴史再現)集団BCo/100Bnの活動の様子も展示いたします。

協力
アロハ桜保存会
100th Infantry Battalion Veterans Education Center
MIS Veterans Club of Hawaii  


Posted by 先任  at 16:36Comments(0)そのたミリタリ日系部隊史

2020年10月21日

Vosgesの戦闘 第442連隊戦闘団 Vol.1 「ブリエア解放」

前回はVosgesにおける第442戦闘団の戦死数と言う事で調査結果を参考資料とともに紹介させていただきました。
今回からはその戦闘の経過を日ごとにまとめた物を連載いたします。
参考資料については前回同様ですので、そちらをご参考下さい
部隊記録等の所蔵元については「アメリカ国立公文書記録管理局 National Archives and Records Administration (NARA) Records」となっております。


それではそれらの記録を元に、再度「失われた大隊」救出の戦闘と、戦死者を追ってみます。
加えてドウス昌代氏の「ブリエアの解放者たち」からのエピソードを追記します。
なお、部隊の行動図は行動記録から可能な限りで起こしましたが、細部は正確ではない可能性があります。
また、現在のGoogleMapを引用し使用していますので、1944年当時とは地形が異なる可能性があります。



Bruyères北西の丘、Hill555に立つ第442連隊戦闘団を称える石碑。

1944年9月29日
第442連隊戦闘団はUSS THURSTON, USS DICKMAN, USS CHASE, USS HENRICOに分乗してイタリア・ナポリからフランスのマルセイユに上陸。その後10マイルを徒歩移動しました。
当時の南フランス戦線は補給線が伸び切っており、鉄道の機関車や貨車が不足していたため、港からトラックによる輸送が行われていましたが、それは非効率極まりなかったと442連隊の幕僚が証言しています。


マルセイユから前進する第442連隊戦闘団兵士。

なお、連隊戦闘団の対戦車中隊のみは1944年7月16日~10月27日の間抽出され、第1特殊部隊(ロバート・フレデリック大佐指揮)においてグライダー降下訓練を受けたのちに、第517空挺歩兵戦闘団と共にドラグーン作戦に従事しておりこの、Vosgesの戦闘の序盤には居ませんでした。

9月30日
0600:指定エリアに到着。以後約10日間に渡り補充兵の訓練等を実施。
この時点で連隊は機関銃、迫撃砲等を新たに受領し、各中隊へ配布したため部隊では試験や訓練が行われました。
セプテームの宿営地は風が強く、また雨が降った為に多くの被服や装具が濡れ、ある者はそれから3か月間も乾いた被服を着る事が無かったと話しています。
10月2日
第6軍団(VI Corps)に配属されますが、部隊の管理は第7軍(7th Army)直轄とされます。
10月4日
第36歩兵師団に配属。
10月9日~
0830:CP閉所。
第100歩兵大隊、第2大隊及び連隊所属の各支援部隊は師団輸送隊のトラックにより北上を開始。
リヨンを経由し450マイルを走破、ヴォージュ県エピナル近郊の宿営地へと向かいました。
この時、連隊に割り当てられたトラックの実に25%が故障して使用できなくなり、第3大隊の移動は翌日に持ち越されます。
10月10日
主力より遅れていた第3大隊は貨物列車にて移動を開始します。
それは弾薬や糧食を輸送する貨物列車に混じる形で行われ、なんとも奇妙な編成だったそうです。
10月13日
連隊主力ヴォージュ県エピナル近郊の宿営地着。
1230:CP開設。
2200:第3大隊宿営地着。




エピナル郊外の宿営地にて休息をとる第100歩兵大隊B中隊の兵士達。


10月14日
1400:連隊はトラックを使用し短距離(2マイル)移動を開始。
Bruyeresの西4kmの森の入口にて兵士を下ろしたトラックはUターンし、あらたな兵士を迎えに戻るピストン輸送でした。


エピナル郊外からVosgesの森へ向けてトラックで移動する第2大隊の兵士達。


Vosgesの森へ進入する第2大隊I中隊の兵士達。

一部の部隊は徒歩で前進を余儀なくされます。
第232工兵中隊が地雷を除去、道路を整備し、更に前進する連隊を第522野砲大隊が砲撃により支援を行いました。

Vosges山脈は険しくそそり立つ山々ではありませんが、深い針葉樹の森に覆われており日中もほとんど日が射さない上、木材を主要産業としていたBruyeresからの業者が占領により森へ入らなくなっており、下生えは伸び放題だったと言われています。
また何日間も続く雨と曇天により、霧が立ち込めで視界が更に遮られ、山の斜面や道は部分的に泥濘となって進撃を妨げました。

「ボージュ山脈の森は数多くの小道が存在し、それらは曲がりくねり地元民ですら迷うと言われる。また、下生えが多く針葉樹の間隔が密接している為、敵の掩蔽は容易であり、あらゆる場所に存在する可能性がある。」
1944年10月6日、第36師団S2発行による地形情報より。

この一連のVosgesの戦闘は連合軍第7軍が発令した第6軍団隷下の第3師団、第45師団、そして第36師団によるドイツ侵攻作戦の一部、"Operation Dogface"によるものでした。


1944年9月22日に撮影されたBruyères付近の航空偵察写真。

Bruyeresの街は西から北、東にかけて4つの丘に囲まれており、連合軍はそれらをA,B,C,D高地と(Hill"A","B","C","D")と名づけ。Bruyeres解放に必要な拠点としていました。
更にその手前にはHill486、Hill555が大きく横たわり、連合軍の接近を阻んでいました。
南側のHill486は"テキサス部隊"である第141連隊が担当し、更にその南側から第143連隊が攻撃します。
第442連隊戦闘団はHill555を超えてBruyeresに迫る事を命令されました。



10月15日
Bruyeresの北西にある山岳(Hill555)は深い森で、各所に敵の射撃陣地や地雷が埋設されていました。
攻撃に先立ち、連隊は師団から支援を得ます。
第752戦車大隊、第636駆逐戦車大隊、第83化学戦大隊(107mm迫撃砲装備)第36偵察騎兵群(M6装甲車装備)、第886管理中隊、第56衛生大隊。

0800:第2大隊は縦列でRP(分進点)を通過、F中隊を先頭としE中隊、G中隊が続きます。合言葉は「ポォとポウォー」でした。


連隊の前進を支援する第522砲兵大隊の105mm榴弾砲。

H中隊の機関銃小隊がそれを支援します。

0930:F中隊はBruyeresから3kmの地点で敵の抵抗に会い、射撃を開始。
戦闘は1230:まで続きました。
この間、ドイツ兵5名を倒し14名の捕虜を得ます。
戦死1名(SSgt.Yamada Hideo) 負傷4名。
更にE中隊も砲撃により戦死1名(Pvt.Sagami Yohei)負傷2名。
午後には敵の抵抗が更に増大したため、第2大隊は停止。

夜間になってG中隊がHill486に斥候を送り、右翼は米第141連隊と接触。
また左翼は第100歩兵大隊と接触を確認します。

0800:第2大隊と並行する形で第100大隊もB中隊を先頭に前進を開始、森へと侵入します。
0915第100歩兵大隊B中隊は森に300ヤード進入した所で機関銃による射撃を受け停止。

2個中隊規模の機関銃による射撃に加え砲撃、戦車まで投入した激しい抵抗に会いB中隊は1日中戦闘を継続するも後退を余儀なくされます。
B中隊は戦死1名(SSgt.Hirahara Tomosu)を出しますが捕虜5名を得ました。

C中隊はB中隊を支援するため、LDを横切る形で侵入しますが、木々の影や陣地からドイツ軍の小火器による抵抗を受けます。
更に1430:には砲弾の落下もあり多くの死傷者を出します。
戦死3名(Sgt.Mayeda George M//Cpl.Sakai Yoshinori//Pfc.Tengwan Yoshio)、負傷19名。
D中隊は各中隊の支援でしたが、地形上迫撃砲が機能せず、効果的な支援ができませんでした。
A中隊は予備として待機していましたが、砲撃による被害を受けました。

ボージュの戦闘において、必ず語られるのがツリーバーストです。これは敵の砲弾が、頭上の木々にあたって炸裂し、砲弾の破片に加えて木々の破片までが殺傷力を持って飛び散るもので、壕を掘っていても頭上から降り注ぐ鉄と木の破片による被害が大きく出た事を指しています。
この日、予備として待機していたA中隊では一発の敵砲弾がツリーバーストとして炸裂した事により3名が戦死(1名はWOD-病院での戦死、1名は負傷後長く入院生活を余儀なくされ、戦後に死亡)、17名が負傷しました。




ドイツ軍第223擲弾兵連隊、及びSS第19警察連隊から約20名の捕虜を得て、敵のCPの位置情報並びに地雷原の情報を入手。
彼らは比較的、部隊の持つ装備についてはよく話したが、総合的な兵力や陣地についてはほとんど知らされておらず「ただ、その場所で防御せよ」と言われていただけだったと記録されています。
この日の連隊の戦死者、11名。

100A/TSgt.Miyoko Mitsuru E
100A/Pvt.Matsunaga Kaname
100B/SSgt.Hirahara Tomosu
100C/Sgt.Mayeda George M
100C/Cpl.Sakai Yoshinori
100C/Pfc.Tengwan Yoshio
442E /Pvt.Sagami Yohei
442F/SSgt.Yamada Hideo
232Eng/Pvt.Yamamoto Takeo
232Eng/SSgt.Fuji Abe M
100A/Pfc.Moriguchi Rokuro (砲弾による負傷、入院後回復せず1947年5月29日に死亡)


10月16日
0600:第100大隊左翼、第2大隊右翼並列での攻撃を開始。
第100大隊はA高地、第2大隊はHill555を目指します。
232工兵中隊が地雷及びHill555前面の障害処理を実施しE中隊、F中隊が並列で前進しますが、丘に差し掛かる手前の開けた場所で激しい銃撃と砲撃を受けて停止。
第100大隊は第2大隊の左翼からHill555の北側を経由してA高地を目指しますが、Hill555を超えた地点で深い谷に当たり前進を阻まれます。

0730:夜明けから発生した霧が谷を覆い、視界が不良となる中で1個大隊規模のドイツ軍が反撃。
各種砲による砲撃に加え戦車の支援を受けたドイツ軍は第100及び第2大隊に襲い掛かりました。
すかさず第522野砲大隊及びD,H中隊の迫撃砲で敵の反撃に対し痛打を与え、この反撃を失敗に終わらせます。
なお師団右翼の第143連隊は442連隊の攻撃に呼応するように前進し、Bruyeresの南方Cample-Ducまで前進することに成功。

0800:再度攻撃開始。
F中隊はBruyeresの北西、Hill555の一部を占領、Bruyeresまで1kmに迫りますが激しい抵抗を受けます。
0930:ドイツ軍は戦車の援護を受けつつ反撃。第2大隊は6個の対戦車ロケット班を編成して、これに対抗し撃退します。
E中隊が主力となってHill555を攻撃し、連隊の火力支援を受けつつ1100に占領。
ついで連隊がBruyeres前面の平地を前進しますが、今度はB高地より砲撃を受け停止します。
B高地からは砲撃に続き3両の戦車と複数の自走砲、更に歩兵による攻撃を受けました。
1730:約一時間の攻防戦の後、連隊は一旦後退します。
第100大隊は左翼にB中隊、右翼にC中隊としてA高地(Hill578)のふもとまで前進し、A中隊が間隙をカバーしました。
第100歩兵大隊では、大隊作戦将校(S3)となっていたCpt.Young-Oak Kimの発案により、太いワイヤーを使用して本来は下りれない勾配の斜面で戦車を下ろす計画が実行されました。
あまりに多数の敵機関銃の配置から、歩兵単独での攻撃は被害が増大するのみと考えられました。
「ブリエアの解放者たち」によると、その戦車を下ろす作業の実施中に状況を把握していない師団長より、強い攻撃命令が第100大隊に幾度となく下り、Cap.Kimは師団と接続されていた有線電話線を引き抜き、あっけにとられる大隊長に「砲撃にやられました」と言ったと言うエピソードがあります。
一日中、敵の砲撃が行われ被害も増えましたが21名の捕虜を得て、Bruyeresの街の防衛に関する情報を得ています。
Bruyeresはドイツ軍第736擲弾兵連隊第1、第2の2個大隊が防御しているとの情報でした。


1944年9月29日に撮影されたBruyères付近の航空偵察写真。




接触した敵部隊は下記の通りです。

第198SS警察連隊。
第1316工兵大隊第Ⅲ中隊。
第49要塞機関銃大隊。

16日から17日にかけて冷たい雨が続き、兵士達は泥だらけの中で過ごす事になります。

この日の戦死者は10名でした。

100B/Pvt.Noritake Yoshito
100C/Sgt.Imai Tomio
442E/Pfc.Katayama Noritada
442E/Pfc.Kato Joseph Hisato
442E /TSgt.Matsumoto George H
442E /Pfc.Komoto Nobuo
442F/Pvt.Miyazono Tokio
442F/Pfc.Horinouchi James Joji (George)
442F/Pfc.Yamaoka Tsutomu
442H/Pfc.Saito George S



10月17日
0730:夜明けと共にHill555の第2大隊及び左翼の第100大隊に対し、ドイツ軍が2個中隊の歩兵を中心とした反撃に出ます。
1時間程の激しい戦闘が行われた後、H中隊の火力と第522野砲大隊の支援射撃を得て、ドイツ軍はA高地及びB高地へと後退、再編成を行いました。
0930:第2大隊は戦車による二度目の反撃を受けるが、地形の問題で対戦車砲が動かせず、第2大隊のE及びF中隊はバズーカ砲班を6個編成し、戦車に対応、これを頓挫させます。
同時に第100大隊に対しても歩兵を中心とした反撃が行われました。
第100大隊はちょうど前進を開始するタイミングにぶつかり、適切な防御を行う事ができなかったため、一部では戦線を突破されます。
手榴弾を投げ合い、時には銃剣すら使用する近接戦闘の末、第100大隊は防御線を立て直し、敵の撃退に成功。
この戦闘でA中隊のSgt.Tezuka Theodore TとPfc.Shigeta Hideoが戦死。

その後、敵の後退に呼応する形で連隊は前進を再開するもA高地、B高地から射撃を受けて停止。
ドイツ軍は丘のふもとの民家等を利用して機関銃を配置し、前進を阻みました。
推定15挺の機関銃と2門の対戦車砲があったと記録されています。

午後になり、第2大隊G中隊が連隊右翼からHill555を回り込んでふもとを攻撃し、数件の民家を攻略。
第100大隊はC中隊から1stLt.Masanao Otakeが率いる斥候を出し、A高地ふもとの民家を確認中、敵に発見されます。
Lt,Otakeは分隊の後退を援護し、サブマシンガンによって射殺されました。
この行動により、殊勲十字章を死後授章します。
なお、「ブリエアの解放者たち」によると、師団長自らが前線に来て、直接オオタケ中尉に対し「直ちに攻撃せよ」と指揮系統を無視して命令し、それが実行されるかを後ろから監視。
オオタケ中尉はC中隊から1個小隊を率いて予備として待機中であったが、師団長の直接の命令によりA丘へ前進、Pfc .Ajitomi Tokio、Pvt.Sakai Yoshinoriと共に戦死したとの記述があります。
Lt.Masanao Otakeは野球のアロハチームの一員で、戦前から軍に徴兵されていた第100歩兵大隊オリジナルメンバーの1人でもありました。
兵士として優秀なだけでなく、物事を冷静にかつ公平に判断できる人物で、アンツィオで将校に任官し、小隊長をしていました。また、第2大隊H中隊に弟のSgt.Masayuki Otakeがいました。


夜間になって各中隊は積極的に夜間斥候を出し、敵の位置の把握に努めます。
またこの時点で街のレジスタンス、ドロラン氏との接触に成功し街への近接経路についての情報を得ます。
降り続く雨の中、不眠不休の戦闘を継続しながら翌18日を迎えます。



この日の戦死者は11名でした。

100A/Sgt.Tezuka Theodore T
100A/Pfc.Shigeta Hideo
100C/2lt.Otake Masanao Russel
100C/Pfc.Ajitomi Tokio
100C/Pvt.Sakai Yoshinori
2BnHQ/Pvt.Kanaya Walter Etsutoshi
442F/Pfc.Tanji Mitsuo
442F/Pfc.Ikehara Dick Kikuichiro
442F/Pvt.Tagami Yoshio
442G/Cpl.Kokubu James Toshio
442G/Pfc.Chibana Henry Matsuzo


10月18日 Bruyeresへの進入。
合言葉は「スーベニア」と「リムジン」でした。

夜明けまでに第3大隊は市街への突入を企図し、第2大隊の右側(南側)へ配置。
I中隊とL中隊が未明のうちに攻撃開始線へ敵の射撃を受ける事なく移動することができました。

0800:準備砲撃が開始され、30分間、5個砲兵大隊(計60門)からの射撃が行われました。
第3大隊を中心に8個中隊(A,B,C,E,F,G,I,L)が並列となり前進を開始。
連隊を上げての攻撃となります。
充分な煙幕が砲兵によって展開され、その遮蔽の元にそれぞれの目標を目指し、全力で前進します。

100大隊はようやく戦車の支援を受けて、A丘ふもとを3個中隊のライフル中隊すべてを出して攻撃します。
B中隊が先頭となり、ふもとの民家を攻略。A中隊はB中隊の左側面をカバーした後、丘に沿って残敵を掃討しながら前進。C中隊は大隊の右翼からA丘を攻撃しました。
この戦闘でB中隊のSgt.Hosoda Max MとC中隊のPfc.Ogawa Edwardが戦死。
1100:戦車からの砲撃により、森からの反撃が弱まったと判断したB中隊長サカエ・タカハシ大尉と、大隊作戦幕僚のヨンオク・キム大尉は2人だけで銃を構えず、森へ対峙。
身振りを交えながら「出てこい! カモン」と呼びかけ、結果ドイツ兵45名が投降。
前線の防御線は崩壊していると判断した第100大隊はA丘を駆け上って攻撃。
1420:A高地を占領。更に70名以上のドイツ兵が投降します。
第100歩兵大隊はA高地において逆襲対処の為、壕を掘りつつ警戒に移りました。
なお後日、このA高地攻略の功績により第100歩兵大隊は1944年6月のベルヴェデーレの戦闘以来、2度目の大統領部隊感状を受賞しました。

一方、第2、第3大隊はE,F,Gの3個中隊を先頭として、目標とされたB丘の攻略に挑みます。
午前中に開始した攻撃は敵の激しい抵抗にあり、正午になってもまだ高地ふもとに達した兵は居ませんでした。

山間部から撃ち下ろされる機関銃と砲弾に、平地から前進できない部隊は次々と被害を受けます。
E中隊Pvt.Fukumura Ichiji、F中隊Pfc.Morimoto Toshiaki、G中隊T/4.Yoshinaga Akiraが戦死。
第2大隊通信所には敵砲弾が直撃し、Sgt.Kijima Tadashiが戦死。
各中隊の火器小隊から60mm迫撃砲が抽出され、集中射撃を加えて敵の機関銃を沈黙させ、一気にB丘のふもとへと迫る作戦が成功。
F,G両中隊が敵を引き付けている間にI中隊が右側面から迂回し、丘の南側斜面から攻撃し、包囲の危険を感じたドイツ軍は後退します。
1500:攻撃開始から6時間半を経て、第2大隊はB丘を占領。

B丘の占領後、第3大隊L中隊は北側からBruyeres市街へと進入、通りを家ごとに確認していきました。
1830:L中隊の斥候が南側から街へと入った第143連隊C中隊と接触。
Bruyeresの街の雌雄は決しました。
しかし、残った一部のドイツ軍は広場や通りにバリケードを築いて抵抗を続け、街の各所で散発的な市街戦が真夜中まで継続されました。

砲撃が止み「どうやらアメリカ軍が来たらしい」と知った市民4000人は地下室から出て、その「小さなアメリカ人」に驚きました。
そして残っていた僅かなワインや食べ物が持ち出され、家々に招待がありましたが、多くは戦闘行動を継続中であり、通じない言葉と身振りでで断るしかなかったようです。

第3大隊L中隊はD丘に斥候を出し、敵の防御線を確認するも銃撃を受けて後退。
1700:K中隊は残存する狙撃兵に対処した後、Bruyeres市街へ進入。
連隊の前線指揮所もHill555沿いの陣地へと移動しました。

天候は寒く、16日間も連続で雨が続いています。
補給路は泥に埋もれ、多くの車両が足止めされたため、補給の問題が生じたため工兵が道路整備を行いました。

この日、第93自走砲大隊及び第141野砲大隊が第442連隊戦闘団の支援に派遣され、第522野砲大隊と共に火力を増大させます。

第2、第3両大隊は61名を捕虜を得て、この日の戦闘では合計134名の捕虜を得ると同時にほぼ同数の敵を倒した、と記録されています。




なおこの日遭遇したドイツ軍部隊は下記の通りです。

第192装甲擲弾兵連隊第Ⅱ中隊。
”アーレン”戦闘団 赤色中隊
第716工兵大隊第I中隊
第198擲弾兵大隊第Ⅱ、第Ⅲ中隊

なお連隊戦闘団の戦死者は6名でした。

100B/Sgt.Hosoda Max M
100C/Pfc.Ogawa Edward
442/2HQ/Sgt.Kijima Tadashi
442.E/Pvt.Fukumura Ichiji
442.F/Pfc.Morimoto Toshiaki
442.G/T/4.Yoshinaga Akira


Vol.2に続きます。


information

写真展 「アロハの桜」~二世軍人が残してくれたもの~
主催:Bco/100Bn



2020/10/28(水)~11/ 2(月)
12:00~20:00(初日は、13:00から、最終日は、18:00まで)

ギャラリー「イロリムラ
〒530-0016 大阪市北区中崎1丁目4番15号
TEL:06-6376-0593

戦後間もない舞鶴の地にハワイの日系二世たちから桜が送られました。
それから約70年経った2018年、ハワイ在住の日系二世の方々を招いて、
その意思を継ぐ新しいアロハ桜の植樹式が行われました。
かつて対立しあった二国を繋いだ桜。
生まれ変わったアロハの桜をどうぞご覧ください。
合わせて関西のリエナクター(歴史再現)集団BCo/100Bnの活動の様子も展示いたします。

協力
アロハ桜保存会
100th Infantry Battalion Veterans Education Center
MIS Veterans Club of Hawaii  


Posted by 先任  at 16:36Comments(0)そのたミリタリ日系部隊史

2020年10月16日

KIA at Vosges at 442 RCT. Vosgesでの戦死者数について。

ヴォージュ(Vosges)の戦闘及び「失われた大隊救出」における第442連隊戦闘団の戦死者数について。
About the death toll of the 442nd Regimental Combat Team in the Battle of Vosges and the "Rescue of the Lost Battalion".

One of the most important battles in talking about the 100th Infantry Battalion and the 442nd Regimental Combat Team, the battle for about a month in the Vosges Mountains on the French Front, and the famous "Rescue of the Lost Battalion" battle. There have been various theories about the number of deaths in the war, and there was doubt about its accuracy. ..
This time, I had a little chance, so I tried to verify it again.
There are some thoughts about counting people who have died in the war by "number", but I thought that it was necessary to leave the facts that could be pursued as facts, and I have been working on it for about three weeks.
To be honest, just looking at the KIA list makes me feel very sad. It was a painful task.

We would also like to thank the people who wrote and published various materials prior to this survey.
At the same time, we would like to thank everyone involved, including the 100th Infantry Battalion Veterans Club, for providing the necessary materials for the investigation.

This survey does not deny various researches and presentations so far.
We have re-examined the materials currently available and derived what is considered to be more accurate.
I may also have mistakes or omissions.
Also, I think there are some unfamiliar points and unsightly points in how to read and organize your own materials.
If you find any mistakes or points that are difficult to understand, we would appreciate it if you could point out and give us guidance.

第100歩兵大隊並びに第442連隊戦闘団を語る上で最も重要な戦闘の一つである、フランス戦線Vosges山脈における約1か月間の戦闘と、その中でも有名な「失われた大隊救出」の戦闘において、かねてより戦死者数について諸説あり、その正確性に疑問がありました。。
今回、ちょっとした機会もあり、あらためて検証してみました。
なお「戦死」した方々を「数」でカウントする事には思うところもありますが、やはり追及できる事実は事実として残す必要があると考え、約3週間にわたって作業を実施してきました。
正直、KIAリストを見てるだけでも酷く悲しい気持ちになります。辛い作業でした。

また、今回の調査にあたり先だって様々な資料をまとめ執筆、発表して下さっていた方々にお礼を申し上げます。
同時に調査に必要な資料を提供して下さった第100歩兵大隊VeteransClubを始め、関係者の皆さまにもお礼を申し上げます。

今回の調査はこれまでの様々な研究、発表を否定するものではありません。
現在入手可能な資料を元に再調査し、より正確に近いと考えられるものを導き出したものです。
私にも間違いや記入漏れがある可能性もあります。
また、自身資料の読み方やまとめ方に不慣れな点、お見苦しい点もあるかと思います。
もし間違いや判りにくい点がありましたら、ご指摘、ご指導いただけると幸いです。

私の調査による第442連隊戦闘団、フランス戦線での戦死者数。
※調査の詳細については後述。

Vosges・Bruyeres解放の戦闘(1944年10月14日~25日) ※失われた大隊救出前
第100大隊:29名/第2大隊:42名/第3大隊:3名/第232工兵中隊:2名
計:76名

Vosges・失われた大隊救出の戦闘(1944年10月26日~31日)。
連隊本部:1名/第100大隊:11名/第2大隊:12名/第3大隊:29名/派遣衛生小隊:1名/第232工兵中隊:1名/第522野砲大隊:1名
計:56名

Vosges・ラ・ウシエール~セントダイの戦闘(1944年11月1日~17日)※失われた大隊救出後
第100大隊:5名/第2大隊:20名/第3大隊:15名/第232工兵中隊:2名/対戦車中隊:3名
計:45名

Vosgesの一連の戦闘の合計:177名

シャンパン・キャンペーン 
第100大隊:1名/第2大隊:7名/第3大隊:6名/第232工兵中隊:2名
計:16名

フランス戦線全体での合計:193名

KIA on the French front, the 442nd Regimental Combat Team according to my research.
* Details of the survey will be described later.

Battle of Vosges / Bruyeres Liberation (October 14-25, 1944) * Before the rescue of the lost battalion
100th Battalion: 29 / 2nd Battalion: 42 / 3rd Battalion: 3 / 232th Engineer Company: 2
Total: 76

Vosges-Battle to rescue the lost battalion (October 26-31, 1944).
Regiment Headquarters: 1 / 100th Battalion: 11 / 2nd Battalion: 12 / 3rd Battalion: 29 / Dispatched Medical Platoon: 1 / 232th Engineer Company: 1 / 522nd Field Artillery Battalion: 1
Total: 56

Vosges La Ushiere-Battle of St. Dai (November 1-17, 1944) * After rescue of the lost battalion
100th Battalion: 5 / 2nd Battalion: 20 / 3rd Battalion: 15 / 232th Engineer Company: 2 / Anti-Tank Corps: 3
Total: 45

Total of Vosges series of battles: 177

Champagne campaign
100th Battalion: 1 / 2nd Battalion: 7 / 3rd Battalion: 6 / 232th Engineer Company: 2
Total: 16

Total KIA from 442 RCTs across the French front: 193



November 11, 1944. Cpt. Hiro Higuchi, a chaplain of the 2nd Battalion, reads out the names of the dead at the memorial ceremony for the dead in the battle at Vosges.
As the chaplain reads out the names of the soldiers who are no longer there, he says it has begun to snow quietly.
1944年11月11日。Vosgesでの戦闘における戦死者の追悼式典において、戦死者の名前を読み上げる第2大隊従軍牧師Cpt.Hiro Higuchi。
牧師が名前を読み上げる中、静かに雪が降り始めたと言う。



まず、失われた大隊救出の戦闘に関して「救出したテキサス部隊より多数の死者」と書かれているのをよく見かけますが、これは明らかな間違いです。
「失われた大隊救出」における戦闘は(詳細は後述)1944年10月26日~31日にかけて行われており、その期間の連隊戦闘団全体での戦死者は56名、直接救出の正面だった第100大隊と第3大隊及び連隊本部、砲兵弾着観測班の戦死者はその内の44名で、リストによりお名前も判明しています。
多少記録に間違い、誤差が今後発見されたとしても救出した第141連隊第1大隊所属の211名より多い戦死者と言う事はあり得ません。
日本でこの時の戦死者216名と言う記述をWikipediaを始め見かけますが、その根拠が見つからず苦心して探していました。

1944年10月~11月半ばのフランス戦線・ヴォージュでの戦闘全体での戦死者数にしたとしてもこれまで確認した資料では216名にはならないのです。

とにかく史料、資料や書籍によってバラ付きの多い数字なのですが、以下の資料を元に考えてみました。
※なお100及び442や全米日系人協会等でも「216名」が共通認識としてあり、たびたびスピーチ等でも使用されています。

First of all, we often see the statement "more dead than the rescued Texas troops" regarding the battle to rescue the lost battalion, which is a clear mistake.
The battle in "Rescue the Lost Battalion" (details below) took place from October 26th to 31st, 1944, during which 56 were killed in the entire regimental combat team, directly in front of the rescue. Forty-four of them were killed in the 100th Battalion, the 3rd Battalion, the Regimental Headquarters, and the Artillery Impact Observation Team, and their names are known from the list.
Even if the record is a little wrong and an error is discovered in the future, it cannot be said that there are more than 211 who belonged to the 1st Battalion of the 141st Regiment who rescued.
In Japan, I see a description of 216 killed in action at this time, starting with Wikipedia, but I couldn't find the basis for it, so I was struggling to find it.
Even if the total number of deaths in the battle on the French front Vosges from October to mid-November 1944 is calculated, the number of people confirmed so far is not 216.

Anyway, the numbers vary a lot depending on the materials and books, but I thought about it based on the following materials.
* It should be noted that "216 mens" is commonly recognized by 100 and 442 and the National Association of Japanese Americans, and is often used in speeches.



主に使用した資料は以下の通りです。

一次史料(合衆国陸軍の公式記録)
・Monthly Historical Report (1-31 Oct 44)
当時、上級司令部への報告として442連隊戦闘団司令部が作成した1944年10月の月報
(作成日時1944年11月15日)


・Historical Information(Request to 442RCT)
Information Education Section, MTOUSA(地中海作戦司令部情報研究部)
連隊史編纂の為の確認書簡で、442RCT連隊長バージル・ラスマス・ミラー大佐(Oct.15.44)第4軍司令官アレキサンダー・パッチ中将(Oct.25.45)の確認サインがあります。


・Historical Information(List of 442nd RCT Dead)
上記書簡への回答として連隊が作成した死亡者リスト。
(1945年12月10日作成)


・NARRATIVE OF EVENTS 442nd Inf Reg,Sep,Oct,Nov 1944
部隊の経過概要報告として作成された文書です。


二次資料(軍関係発行図書)
・「442nd COMBAT TEAM」
Information Education Section, MTOUSA(地中海作戦司令部情報研究部)が編纂した連隊戦闘団部隊史。
(1947年発行 小冊子化1979年再発行)


・「American's」及び「四四二部隊」
連隊の情報将校であったオヴィル・C・シャーレイ退役少佐(発刊時中尉)が1946年に著述した442連隊の記録「American's」とその和訳版(昭和25年=1950年発行)。※原文(1946年)も確認。




・「BATTLE CAMPAIGNS Excerpts from the 442nd Journals
Battle of Northeastern France, Part I」
October 26, 1944 - October 30, 1944」
日系アメリカ人遺産協会と第二次世界大戦記念同盟よって編纂された部隊史の抜粋。
(最終改訂日2011年12月29日)

・「PROUD TO SERVE」
日系新聞「RAFU-SHIMPO」が日系アメリカ人遺産協会と発行している部隊史
(2012年発行)


その他(ドキュメンタリー、証言集等)
・「ブリエアの解放者たち」
ドウス昌代による第100歩兵大隊と第442連隊戦闘団を追った、Veteranの貴重な証言と膨大な公式記録に基づくノンフィクション。


・「Echoes of Silence Profiles」 100th Infantry Battalion Veterans Education Center.
第100歩兵大隊退役軍人会教育センター資料。

「|N FREEDOM'S CAUSE A RECORD OF THE MEN OF HAWAII WHO DIED IN THE SECOND WORLD WAR」
THOMAS D. MURPHYによるハワイ出身兵士の記録。




・他刊行書籍及びWebサイト。
多岐に渡る為、省略いたします。


The Regiment's Monthly Historical Report, which should be the most credible primary source, was just after the battle caused great damage (military annihilation).
Therefore, I have to doubt the accuracy of the numbers, but the numbers listed for reference are as follows.

KIA: 117
MIA: 40
157 in total
WIA: 639
Injuries not in combat: 18

Total: 814
(October 1-31, 1944)


KIA: 44
MIA: 3
Total: 47
WIA: 217
Injuries not in combat: 8
(November 1-30, 1944)

The total number of dead and missing in both months is 204.
* However, there are many people (33 people) who have been confirmed to be alive after that for missing = MIA, or who became POW = wartime prisoners of war and survived after the end of the war.

* The French front is the 442nd RCT Marseille landing- "Battle of Vosges (including" Rescue of the Lost Battalion ")" (September 29 to November 17, 1944)
It is divided into the "Champagne Campaign" (November 22, 1944-March 23, 1945).
Monthly reports are monthly report materials, so they are not divided by region. * November figures are the sum of Vosges and champagne campaigns.
It also includes cases where you died in a hospital after being injured in a previous battle, and does not include cases where you were injured in these battles and died later.


本来ならば最も信用すべき一次史料である連隊の月報(Monthly Historical Report)については、戦闘によって大損害(軍事上は全滅と言える)を受けた直後のものであり、また下記に記す理由からその数字の正確性は疑わざるを得ませんが、参考に掲載されている数値を記しますと以下の通りです。



戦死:117名
行方不明:40名
計157名
負傷:639名
戦闘によらぬ負傷:18

計:814名
(1944年10月1日~31日)



戦死:44名
行方不明:3名
計:47名
負傷:217名
戦闘によらぬ負傷:8名
(1944年11月1日~30日)

両月の戦死者、行方不明者の合計は204名です。
※但し行方不明=MIAについてはその後に生存が確認されたり、POW=戦時捕虜となって終戦後に生還した方も多く存在(33名)します。

※ フランス戦線は1944年9月29日の第442連隊戦闘団マルセイユ上陸から11月17日までの「ヴォージュの戦闘(「失われた大隊救出」を含む)」と1944年11月22日から1945年3月23日までの「シャンパン・キャンペーン」に分けられます。
月報は月ごとの報告資料ですので、戦線毎には分けられていません。※11月の数値はVosgesとシャンパンキャンペーンの合算。
また、以前の戦闘で負傷後に病院等で亡くなった場合が含まれ、同時にこれらの戦闘で負傷し、後に亡くなった場合は含まれていません。



書いた通り、このタイプ打ちの史料は、この時点で生死が判明していなかった方が入ってなかったり、照合が取れていない可能性が高いですが、戦死と記載された170名及びMIA:43名、WIAについては階級氏名所属が判る、貴重な資料となっています。
その内訳合計は下記の通りです。

1944年10月月報
戦死:117名
行方不明:40名
計157名
負傷:639名
戦闘外負傷:18名

1944年11月月報
戦死:44名
行方不明:3名
計:47名
負傷:217名
戦闘外負傷:8名

1944年12月月報
戦死:1名
行方不明:2名
計3名
負傷:17名

1945年1月月報
戦死:6名
行方不明:0名
計6名
負傷:24名
戦闘外負傷:1名

1945年2月月報
戦死:1名
行方不明:0名
計1名
負傷:4名
戦闘外負傷:0名

1945年3月月報
戦死:1名
行方不明:0名
計1名
負傷:0名
戦闘外負傷:0名

合計
戦死:170名
行方不明:45名
計:215名

As mentioned above, it is highly possible that this typed material is not included or collated by those who were not known to be alive or dead at this time.
For 170 and MIA: 43, WIA listed as KIA, it is a valuable material to know the rank, name and company.
The total breakdown is as follows.

October 1944 Monthly Report
KIA: 117 MIA: 40 157 in total
WIA: 639 Out-of-combat injury: 18

November 1944 Monthly Report
KIA: 44 MIA: 3 Total: 47
WIA: 217 Out-of-combat injury: 8

December 1944 Monthly Report
KIA: 1 MIA: 2 3 in total
WIA: 17

January 1945 Monthly Report
KIA: 6 MIA: 0 6 in total
WIA: 24 Out-of-combat injury: 1

February 1945 Monthly Report
KIA: 1 MIA: 0 1 in total
WIA: 4 Out-of-combat injury: 0

March 1945 Monthly Report
KIA: 1 MIA: 0 1 in total
WIA: 0 Out-of-combat injury: 0

Total of all French fronts
KIA: 170 MIA: 45
Total: 215

連隊史としてはおそらく最初(1946年)に発行された「442nd COMBAT TEAM」には巻末に戦線ごとの損害が表で掲載されています。
それによると



ヴォージュの戦闘
戦死:142名
病院での戦死:18名
行方不明:42名
計 202名
負傷:871名
未入院負傷:321名
戦闘外負傷:28名
計1402名

シャンパン・キャンペーン
戦死:8名
病院での戦死:3名
行方不明:2名
計13名

これによるとヴォージュの戦闘における戦死者数は160名、死傷者の合計が1400名程となり、資料には示していませんが複数の書籍でこの数字を元にしたものと思われる記述が散見されます。
戦死者数と行方不明数の合計は202名。

更にシャンパン・キャンペーンにおける戦死者=KIA及び戦闘後の戦死者=DOWと、行方不明者=MIAを合計した13名を加えると215名となります。
この2つの史料からが「216名」に最も近い数字となります。
おそらく「442nd COMBAT TEAM」は月報を元に計算されたものであろうと考えます。


Probably the first (1946) issue of the history of the regiment, the "442nd COMBAT TEAM" lists the damage for each front at the end of the book.
according to it

About the death toll of the 442nd Regimental Combat Team in the Battle of Vosges and the "Rescue of the Lost Battalion".

Battle of Vosges
KIA: 142
DOW (death in hospital): 18
MIA: 42
202 in total
WIA: 871
WIA (not hospitalized): 321
Out-of-combat injury: 28
1402 in total

Champagne campaign
KIA: 8
DOW: 3 people
MIA: 2 people
13 people in total

According to this, the number of casualties in the battle of Vosges was 160, and the total number of casualties was about 1400, and although not shown in the material, there are some descriptions in several books that seem to be based on this number. I will.
The total number of dead and missing is 202.
In addition, the total of 13 people who died in the champagne campaign = KIA, post-battle war dead = DOW, and missing people = MIA totals 215 people.
From these two materials, the number closest to "216" is.
I think that "442nd COMBAT TEAM" was probably calculated based on the monthly report.

また1945年秋頃に陸軍の記録部より442連隊宛に442RCTの連隊記録の為の確認書簡が存在します。
フランス戦線全体(ヴォージュにおける戦闘及びシャンパンキャンペーンにおける戦闘の被害合計が記載されており、ミラー連隊長やマーク・クラーク中将等の確認のサインがあります。
こちらもKIA、WOD、MIAの合計が215名となり、上記の連隊史と一致します。
※これは上記の「442nd COMBAT TEAM」編纂の為の確認作業であったと考えられます。

この確認書簡への返答として1945年12月に連隊が作成した資料「Historical Information(List of 442nd RCT Dead)」には(記録上)すべての戦死者を名前、階級。所属、日付で掲載しており、軍の公式史料としては最も信頼すべきデータがあります。
ただ、ここに記載されているのも亡くなった日付であり、どこの戦闘で負傷したのかは定かではありません。
また、リストによるフランス戦線(ヴォージュの戦闘による戦死者164名、及びシャンパン・キャンペーンでの戦死者13名)での戦死者合計は177名となっています。
※MIAについてはその後、戦死と判定された者のみの合計であり、生還した者は含んでいない数字。

なぜ確認の為の書簡に対する返答で示されている内容と、実際に発刊された連隊史の数字が合致しないのかは判りません。

そこで、戦死された方のプロファイルや墓地のデータ等を元にそれぞれがどこの戦闘によって亡くなったかを1人1人調べて検証いたしました。

結果、連隊史にあるMIA=行方不明者の中には生還された方が多く存在する事がわかりました。(期間中のMIA:44名中、33名が後に捕虜として生存確認、2名が捕虜収容所にて死亡。

Around the fall of 1945, the Army Records Department sent a confirmation letter to the 442nd Regiment for the 442RCT regimental record.
The total damage of the entire French front (combat in Vosges and battles in the champagne campaign is listed, and there are signs of confirmation by Captain Miller and Vice Admiral Mark Clark.
Again, the total number of KIA, WOD, and MIA is 215, which is consistent with the above regiment history.
* It is probable that this was a confirmation work for compiling the above "442nd COMBAT TEAM".
In response to this confirmation letter, the material "Historical Information (List of 442nd RCT Dead)" prepared by the regiment in December 1945 lists (on record) all the dead in the war. It is posted by affiliation and date, and has the most reliable data as official military data.
However, the dates listed here are the dates of death, and it is unclear in which battle they were injured.
In addition, the total number of killed in action on the French front by Liszt (164 killed in action in Vosges and 13 killed in the champagne campaign) is 177.
* MIA is the total for those who were subsequently determined to be killed in action, and does not include those who survived.
I don't know why the content shown in the response to the confirmation letter does not match the numbers in the actual regiment history published.

Therefore, based on the profiles of those who died in the war and the data of the graveyard, we investigated and verified each person who died in which battle.

As a result, it was found that many of the MIA = missing persons in the history of the regiment have survived. (MIA during the period: 33 out of 44 were later confirmed as prisoners of war, and 2 died in the POW camp.

また、連隊史編纂の元となった戦死者リストにも漏れがありました。

第100歩兵大隊A中隊所属のPfc Rokuro Moriguchiが1944年10月15日に砲弾による負傷後、病院へ収容。回復せず終戦後の1947年5月29日に亡くなっています。
連隊史による合計の215名にこのPfc Rokuro Moriguchiを加えた数字が「216名」の根拠となっている可能性が高いと考えています。




Pfc Rokuro Moriguchiについては色々調べてみましたが、詳細が記されたものはほとんど無く、この「PukapukaParade」(第100歩兵大隊VeteransCub会誌)の2号(1947年3月発行)に名前が掲載されているのを発見いたしました。
これによると、Vosgesでの戦闘で受けた脊髄への損傷により1947年の時点でまだロサンゼルスの病院に居る事が判ります。
そして、この2か月後に亡くなる事になります。

There was also a lack in the list of killed in action, which was the source of the regimental history compilation.

Pfc Rokuro Moriguchi, a member of the 100th Infantry Battalion A Company, was admitted to the hospital after being injured by a shell on October 15, 1944. He did not recover and died on May 29, 1947, after the end of the war.
We believe that the total number of 215 people in the history of the regiment plus this Pfc Rokuro Moriguchi is likely to be the basis for "216 people."

I've researched Pfc Rokuro Moriguchi in various ways, but few have detailed information.
I found his name in issue 2 (published March 1947) of this "Pukapuka Parade" (100th Infantry Battalion Veterans Cub Journal).
This shows that he was still in a hospital in Los Angeles as of 1947 due to a spinal cord injury he suffered during the battle in Vosges.
And he died two months after this article.

また第522野砲大隊のPfc.Tomita Nobuakiがヴォージュの戦闘による負傷(弾着観測班員として前線配置中に砲弾により負傷、日付不明)後、1944年11月6日にフランスの病院においで戦死していますが、各一次資料のKIA及びMIAリストに掲載されていません。
第522野砲大隊は独立しての行動も多く、連隊とは別に報告していた可能性があります。


「|N FREEDOM'S CAUSE A RECORD OF THE MEN OF HAWAII WHO DIED IN THE SECOND WORLD WAR」より。

この両名を加えるならば「217名」となってしまいますが、前述したとおりこの連隊史に掲載されている表はMIA=行方不明者を加えており、やや実際より多めの数字になっています。
これが現状、わたしが調べた「216名」の元となります。

In addition, Pfc. Tomita Nobuaki of the 522nd Field Gun Battalion was injured in the battle of Vosges (injured by a shell while being placed on the front line as a member of the artillery observer team, date unknown).
Later, he died in a French hospital on November 6, 1944, but is not on the KIA and MIA lists of each primary source.
The 522nd Field Gun Battalion often acted independently and may have reported it separately from the regiment.
If you add these two names, it will be "217 people", but as mentioned above, the table published in this regiment history adds MIA = missing person, which is a little higher than the actual number.
This is currently the source of the "216 people" I examined.


なお、ドウス昌代氏による名著「ブリエアの解放者たち」では、戦死者161名、行方不明43名と言う記述があり合計すると204名。更に負傷者は約2000名と記されています。
これは知る限りの資料の中で負傷者数は一番多い数字です。

また英語版Wikipediaには戦死140名、行方不明43名、負傷者1800名と記述されています。
「四四二部隊」には戦死者の数を示す表等はありませんが、11月11日に行われた追悼式に第3大隊の従軍牧師Cpt.Hiro Higuchiが読み上げた戦死者名を140名、また別の箇所で負傷者を1800名と記述しています。

2011年に最終更新されている「442nd Journal」によるそれによると27日から31日までの「失われた大隊」救出における戦死者数は50名となっています。
※ヴォージュにおける約1ヶ月間の戦闘の総戦死者は169名と記載。

そして2012年に発行された「PROUD TO SERVE」では、各戦闘による戦死者を日付ごとに掲載しており、詳細に知ることができます。
それによると27日から31日までの「失われた大隊」救出における戦死者数は54名となっています。
※その後MIAから2名の戦死が確認され現在は56名となります。
※ヴォージュにおける約1ヶ月間の戦闘の総戦死者は174名と記述。

上記のように、とにかく数字のバラツキの多い話です。
過去幾度も発行されてきた部隊史はその数字が回を追うごとに「失われていた部分」が保管されており、より正確性を高めているものと考えられますが、完全に網羅している物は残念ながら無いようです。
同時にこれらの書籍は二次資料以下であり、根拠とする事はできません。

In the famous book "Unlucky Liberator" by Masayo Duus, there are 161 killed in action and 43 missing, for a total of 204. In addition, WIA is listed as about 2000 people.
This is the highest number of injured people in the materials I know of.

The English Wikipedia states that 140 people were killed in action, 43 were missing, and 1800 were injured.
There is no table or the like indicating the number of war dead in the "Americans," but, in November conducted a memorial service in 11 days killed's name chaplain Cpt.Hiro Higuchi of the third battalion was read aloud 140.
In another place, the number of injured is described as 1800.

According to the "442nd Journal," which was last updated in 2011, the number of people killed in the rescue of the "lost battalion" from the 27th to the 31st was 50.
* The total number of people killed in the battle in Vosges for about one month is stated as 169.

And in "PROUD TO SERVE" published in 2012, the killed in action by each battle is posted by date, and you can know in detail.
According to the report, 54 people were killed in the rescue of the "lost battalion" from the 27th to the 31st.
* After that, two people were killed in action by MIA, and now there are 56 people.
* The total number of people killed in the battle in Vosges for about one month is described as 174.

As mentioned above, it's a story with a lot of variations in numbers.
It is thought that the unit history, which has been published many times in the past, is more accurate because the "lost part" is stored each time the number is repeated.
But unfortunately there seems to be no complete coverage.
At the same time these books is equal to or less than secondary sources, it can not be the basis.

結論としては、1945年の一次史料による軍の公式な第442連隊戦闘団の記録としては
・「失われた大隊救出」の戦闘における戦死者:54名
・一連のヴォージュの戦闘による戦死者:164名
・シャンパン・キャンペーンでの戦死者:13名
・フランス戦線での戦死者合計:176名。

となりますが、この史料にある「抜け」を埋めるべく私が独自に資料(連隊の名簿に沿って戦死者、負傷者、負傷後の病院での死亡者、行方不明者及びその他の死亡者を各資料及び墓地データ、新聞記事、veteransクラブの発行誌、インタビュー等)等を再調査し、1名1名のプロフィールを確認して、フランス戦線における第442連隊戦闘団の戦死者リストを作りました。
その結果は下記の通りとなります。
※リストについては、最下部に掲載。
※MIA(行方不明者)から戦死と判定された方、及びDOW(病院での戦死)については発生日時で記載しております。

Vosges・Bruyeres解放の戦闘(1944年10月14日~25日) ※失われた大隊救出前
第100大隊:29名/第2大隊:42名/第3大隊:3名/第232工兵中隊:2名
計:76名

Vosges・失われた大隊救出の戦闘(1944年10月26日~31日)。
連隊本部:1名/第100大隊:11名/第2大隊:12名/第3大隊:29名/派遣衛生小隊:1名/第232工兵中隊:1名/第522野砲大隊:1名
計:56名

Vosges・ラ・ウシエール~セントダイの戦闘(1944年11月1日~17日)※失われた大隊救出後
第100大隊:5名/第2大隊:20名/第3大隊:15名/第232工兵中隊:2名/対戦車中隊:3名
計:45名

Vosgesの一連の戦闘の合計:177名

シャンパン・キャンペーン 
第100大隊:1名/第2大隊:7名/第3大隊:6名/第232工兵中隊:2名
計:16名

フランス戦線全体での合計:193名


次回以降、このVosgesの戦闘について記録よりまとめた物を連載していく予定です。

In conclusion, the following is the official record of the 442nd Regimental Combat Team of the Army from the 1945 primary sources.
-Killed in action in the "Rescue Lost Battalion" battle: 54
-Killed in action from a series of Vosges battles: 164
・ Killed in action in the champagne campaign: 13
・ Total killed in action on the French front: 176

But probably not accurate.
In order to fill in the "missing" in this material, I have my own material (according to the list of regiments, killed in action, injured, dead in hospital after injury, missing and other dead, each material and graveyard We re-examined the data, newspaper articles, magazines published by the veterans club, interviews, etc.), confirmed the profile of each person, and made a list of the dead of the 442nd Regimental Combat Team on the French front.
The result is as follows.

* The list is posted at the bottom.
* Those who have been determined to be killed in action by MIA (missing person) and DOW (killed in action at the hospital) are listed by the date and time of occurrence.

KIA on the French front, the 442nd Regimental Combat Team according to my research.
* Details of the survey will be described later.

Battle of Vosges / Bruyeres Liberation (October 14-25, 1944) * Before the rescue of the lost battalion
100th Battalion: 29 / 2nd Battalion: 42 / 3rd Battalion: 3 / 232th Engineer Company: 2
Total: 76

Vosges-Battle to rescue the lost battalion (October 26-31, 1944).
Regiment Headquarters: 1 / 100th Battalion: 11 / 2nd Battalion: 12 / 3rd Battalion: 29 / Dispatched Medical Platoon: 1 / 232th Engineer Company: 1 / 522nd Field Artillery Battalion: 1
Total: 56

Vosges La Ushiere-Battle of St. Dai (November 1-17, 1944) * After rescue of the lost battalion
100th Battalion: 5 / 2nd Battalion: 20 / 3rd Battalion: 15 / 232th Engineer Company: 2 / Anti-Tank Corps: 3
Total: 45

Total of Vosges series of battles: 177

Champagne campaign
100th Battalion: 1 / 2nd Battalion: 7 / 3rd Battalion: 6 / 232th Engineer Company: 2
Total: 16

Total KIA from 442 RCTs across the French front: 193

Vosges・Bruyeres解放の戦闘(1944年9月29日~10月25日)※失われた大隊救出前
第442連隊戦闘団 KIA(76名)
Battle of Vosges / Bruyeres Liberation (September 29-October 25, 1944) * Before the rescue of the lost battalion
442nd Regimental Combat Team KIA:76

100 A / Pvt . Matsunaga Kaname / 1944 / 15.Oct /
100 A / TSgt . Miyoko Mitsuru E / 1944 / 15.Oct / DOW
100 A / Sgt . Tezuka Theodore T / 1944 / 17.Oct /
100 A / Pfc . Shigeta Hideo / 1944 / 17.Oct /
100 A / Pfc . Nishimura Wilfred Katsuyuki / 1944 / 19.Oct / DOW
100 A / Pvt . Furukawa Tatsumi / 1944 / 20.Oct /
100 A / Pfc . Shimabuku Roy Kokichi / 1944 / 20.Oct /
100 A / Sgt . Suyama George W / 1944 / 23.Oct / MIA→KiA
100 A / Pvt . Sugiyama Itsuo / 1944 / 23.Oct / MIA→KiA
100 A / SSgt . Togo Shiro / 1944 / 24.Oct /
100 A / Pvt . Akimoto Victor / 1944 / 14.Dec / 24.Oct POW 14.Dec 収容所にて死亡 Died in German POW camp
100 A / SSgt . Sasaoka Itsumu / 1945 / 01.Jan / 22.Oct POW 01.Jan 1945 収容所にて死亡 Died in German POW camp
100 A / Pfc . Moriguchi Rokuro / 1947 / 29.May / 15.Oct WIA 29.May 1947 DOW
100 B / SSgt . Hirahara Tomosu / 1944 / 15.Oct /
100 B / Pvt . Noritake Yoshito / 1944 / 16.Oct /
100 B / Sgt . Hosoda Max M / 1944 / 18.Oct /
100 B / Pfc . Komatsu James Kameo / 1944 / 21.Oct /
100 C / Sgt . Mayeda George M / 1944 / 15.Oct /
100 C / Cpl . Sakai Yoshinori / 1944 / 15.Oct /
100 C / Pfc . Tengwan Yoshio / 1944 / 15.Oct /
100 C / Sgt . Imai Tomio / 1944 / 16.Oct /
100 C / 2lt . Otake Masanao Russel / 1944 / 17.Oct /
100 C / Pfc . Ajitomi Tokio / 1944 / 17.Oct /
100 C / Pvt . Sakai Yoshinori / 1944 / 17.Oct /
100 C / Pfc . Ogawa Edward / 1944 / 18.Oct /
100 C / 2lt . Fujitani Ross Kameo / 1944 / 19.Oct /
100 C / Pfc . Hattori Kunio / 1944 / 20.Oct /
100 D / Pfc . Tsukano Ichiro / 1944 / 22.Oct /
100 D / Pvt . Fuyumuro Edward Shigeto / 1944 / 23.Oct /
442 2HQ / Pvt . Kanaya Walter Etsutoshi / 1944 / 17.Oct / DOW
442 2HQ / Sgt . Kijima Tadashi / 1944 / 18.Oct /
442 2HQ / 1lt . Farnum Charles Oliver Jr / 1944 / 20.Oct /
442 2HQ / Pfc . Hadano Hatsuji / 1944 / 20.Oct /
442 2HQ / Pvt . Shimabukuro Tomoaki / 1944 / 20.Oct /
442 E / Pfc . Kaneichi Takeo / 1944 / 08.Nov / 21.Oct WIA 08.Nov 1945 DOW
442 E / Pvt . Sagami Yohei / 1944 / 15.Oct /
442 E / TSgt . Matsumoto George H / 1944 / 16.Oct /
442 E / Pfc . Komoto Nobuo / 1944 / 16.Oct / DOW
442 E / Pfc . Katayama Noritada / 1944 / 16.Oct /
442 E / Pfc . Kato Joseph Hisato / 1944 / 16.Oct /
442 E / Pvt . Fukumura Ichiji / 1944 / 18.Oct / DOW
442 E / Pfc . Kondo Henry M / 1944 / 19.Oct /
442 E / Pfc . Horiuchi Paul F / 1944 / 19.Oct /
442 E / Pvt . Shoji Toshiaki / 1944 / 21.Oct / DOW
442 E / Pfc . Yasui Hideo / 1944 / 22.Oct /
442 E / Pfc . Kitagawa Roy J / 1944 / 22.Oct / DOW
442 F / SSgt . Yamada Hideo / 1944 / 15.Oct /
442 F / Pfc . Horinouchi James Joji (George) / 1944 / 16.Oct /
442 F / Pfc . Yamaoka Tsutomu / 1944 / 16.Oct /
442 F / Pvt . Miyazono Tokio / 1944 / 16.Oct /
442 F / Pfc . Tanji Mitsuo / 1944 / 17.Oct /
442 F / Pfc . Ikehara Dick Kikuichiro / 1944 / 17.Oct /
442 F / Pvt . Tagami Yoshio / 1944 / 17.Oct /
442 F / Pfc . Morimoto Toshiaki / 1944 / 18.Oct /
442 F / TSgt . Ohama Abraham J / 1944 / 20.Oct /
442 F / Pfc . Kameoka Bob T / 1944 / 20.Oct /
442 F / Pfc . Okamoto Ralph Sueo / 1944 / 20.Oct / DOW
442 F / Pfc . Fukuba Shigeo Frank / 1944 / 22.Oct /
442 F / Pfc . Mukai Hachiro / 1944 / 22.Oct /
442 G / Cpl . Kokubu Jimmie Toshio / 1944 / 17.Oct /
442 G / Pfc . Chibana Henry Matsuzo / 1944 / 17.Oct /
442 G / T/4 . Yoshinaga Akira / 1944 / 18.Oct /
442 G / Pvt . Kanetomi Jero / 1944 / 19.Oct /
442 G / 1lt . White Floyd E Jr / 1944 / 20.Oct / DOW
442 G / Sgt . Nakamoto Seichi / 1944 / 20.Oct /
442 G / Pfc . Nagato Fumitake / 1944 / 20.Oct /
442 G / Pfc . Okada John T / 1944 / 20.Oct /
442 H / Pfc . Saito George S / 1944 / 16.Oct /
442 H / Pfc . Shigemura Frank Masao / 1944 / 20.Oct /
442 H / SSgt . Kuroda Robert T / 1944 / 20.Oct /
442 H / Pfc . Miyaguchi Masayuki John / 1944 / 20.Oct /
442 I / SSgt . Inakazu Ben Masaki / 1944 / 19.Oct /
442 L / Pfc . Fujioka Teruo / 1944 / 26.Oct / DOW ATに同名者有 There is a soldier with the same name in AT-Co.
442 M / Pfc . Kato Yoshio / 1944 / 20.Oct /
232 Eng / Pvt . Yamamoto Takeo / 1944 / 15.Oct /
232 Eng / SSgt . Fuji Abe M / 1944 / 15.Oct /


Vosges・失われた大隊救出の戦闘(1944年10月26日~10月31日)
第442連隊戦闘団 KIA(55名)
Vosges-Battle to rescue the lost battalion (October 26-31, 1944)
442nd Regimental Combat Team KIA (55 people)

442 HQ / TSgt . Sanmonji, Uetaro / 1944 / 28.Oct /
100 HQ / 1Lt . Boodry James / 1944 / 28.Oct /
100 B / Pfc . Fujita, Sadami / 1944 / 28.Oct /
100 B / Pvt . Hayashi, Torao / 1944 / 28.Oct /
100 B / Pvt . Imamura, Larry M / 1944 / 28.Oct /
100 B / Pvt . Tabata, Teruo / 1944 / 28.Oct /
100 B / Pvt . Nakano, Tsutomu / 1944 / 29.Oct /
100 B / Cpl . Takeuchi Tadashi  / 1944 / 30.Oct /
100 B / Pvt . Morikawa, Hiromu / 1944 / 30.Oct /
100 C / Pfc . Sunada, Albert Mitsuo / 1944 / 31.Oct /
100 C / Pvt . Nishimura Shigeki / 1944 / 31.Oct /
100 D / Cpl . Uejo, James K / 1944 / 29.Oct /
442 E / Cpl . Nakamura, George S / 1944 / 29.Oct /
442 E / Pvt . Seike, Toll / 1944 / 29.Oct /
442 E / Pvt . Tanamachi, Saburo / 1944 / 29.Oct /
442 E / Pvt . Ninomiya, Ban / 1944 / 29.Oct /
442 E / Pfc . Yoshida, Minoru / 1944 / 31.Oct / MIA→KiA
442 E / Pvt . Masaoka, Ben F / 1944 / 31.Oct /
442 E / Pvt . Matsumura, Renkichi / 1944 / 31.Oct / MIA→KiA
442 F / SSgt . Kokame, Nobuo / 1944 / 29.Oct / DOW
442 F / SSgt . Shimizu, Jimmy / 1944 / 29.Oct /
442 G / Pfc . Omokawa Geoge / 1944 / 30.Oct / MIA→KiA
442 G / SSgt . Nakamura, Ned T / 1944 / 31.Oct /
Med(2nd) / Pfc . Hayashida, Henry / 1944 / 29.Oct /
442 I / 1Lt . Moseley David L / 1944 / 01.Nov /
442 I / Pfc . Amakawa, Nobuo / 1944 / 27.Oct /
442 I / Pfc . Minatodani, Isamu / 1944 / 28.Oct /
442 I / SSgt . Harano, John / 1944 / 29.Oct /
442 I / Sgt . Tokushima, Harry H / 1944 / 29.Oct /
442 I / Sgt . Fukeda, Akira / 1944 / 29.Oct /
442 I / Sgt . Matsumoto Goro / 1944 / 29.Oct /
442 I / Pfc . Onaga, Takeyasu / 1944 / 29.Oct /
442 I / Pfc . Oshiro, Choyei / 1944 / 29.Oct /
442 I / Pfc . Tashima, Masaru / 1944 / 29.Oct /
442 I / Pfc . Yamauchi, Chiyoaki / 1944 / 29.Oct /
442 I / Capt . Byrne, Joseph L / 1944 / 30.Oct /
442 K / Pfc . Takubo, Kenji / 1944 / 28.Oct /
442 K / SSgt . Yamashiro, Gordon I / 1944 / 28.Oct /
442 K / Sgt . Koito, Sadamu / 1944 / 28.Oct /
442 K / Pfc . Takemoto, Iwao / 1944 / 28.Oct /
442 K / Pfc . Yamamoto, Fred M / 1944 / 28.Oct /
442 K / Pfc . Yunoki, Shiyoji / 1944 / 28.Oct /
442 K / Pfc . Tanaka, Ko / 1944 / 29.Oct /
442 K / Pfc . Yogi, Matsuichi / 1944 / 29.Oct /
442 K / Pfc . Okamoto James T / 1944 / 29.Oct /
442 K / Pvt . Ogata, Fred S / 1944 / 29.Oct / DOW
442 L / Cpl . Narimatsu John T / 1944 / 01.Nov / DOW
442 L / Sgt . Murata, Robert Shigeru / 1944 / 29.Oct /
442 L / SSgt . Fujinaka, Noboru / 1944 / 28.Oct /
442 L / Cpl . Kenmotsu, Yasuo / 1944 / 28.Oct /
442 L / Pvt . Endo, Masahru / 1944 / 28.Oct / MIA→KiA
Med(3rd) / Pvt . Hamamoto, Katsuyoshi / 1944 / 28.Oct /
Med(3rd) / T5 . Kubo, Tadashi T / 1944 / 31.Oct /
232 Eng / Pfc . Kotsubo, Seichi / 1944 / 28.Oct /
442 Med / Pvt . Isobe, Kosaku / 1944 / 30.Oct /
522 / Pfc . Tomita Nobuaki / 1944 / 06.Nov / **.Oct WIA 06.Nov DOW



Vosges・ラ・ウシエール~セントダイの戦闘(1944年11月1日~11月17日)
第442連隊戦闘団 KIA(42名)
Vosges La Ushiere-Battle of St. Die (November 1st to 17th, 1944)
442nd Regimental Combat Team KIA (42 people)

100 HQ / Pfc . Kubokawa James / 1944 / 02.Nov /
100 HQ / TSgt . Minami Yoshio / 1944 / 02.Nov /
100 B / Sgt . Takara, Ronald Kotaru / 1944 / 01.Nov / 戦闘外死 Death other than battle
100 B / Pfc . Sato Saburo / 1944 / 03.Nov / 06.Nov DOW in Naplesの記録有り
100 D / Pfc . Iseri Mike Mitsuo / 1944 / 03.Nov /
442 2HQ / SSgt . Masuoka Peter S / 1944 / 03.Nov / DOW
442 E / Sgt . Sakamoto Masami / 1945 / 03.Mar /
442 E / Pvt . Sato Shin / 1944 / 01.Nov / 11/1 Hill617から移動中
442 E / Cpl . Nagata Taichi / 1944 / 06.Nov / MIA→KiA
442 E / Pfc . Kawano Cike C / 1944 / 06.Nov /
442 F / Sgt . Kitsuse Paul T / 1944 / 02.Nov /
442 F / T5 . Kondow Howard H / 1944 / 02.Nov /
442 F / Pfc . Izuzaki Henry S / 1944 / 02.Nov / aa izumizakiが正しい
442 F / . Hayama Makoto / 1944 / 05.Nov /
442 F / Pfc . Masaoka Kay K / 1944 / 06.Nov /
442 F / Pvt . Masuda Eso / 1944 / 06.Nov /
442 F / Pvt . Okida Katsu / 1944 / 06.Nov /
442 G / Pfc . Nishimoto Joe M / 1944 / 14.Nov /
442 H / Pfc . Yoshigai Mitsuichi / 1944 / 02.Nov /
Med(2nd) / Pfc . Tamanaha Kunio Douglas / 1944 / 13.Nov /
442 I / Pfc . Oshiro Sam Yasuichi / 1944 / 01.Nov /
442 I / Pvt . Okura Susumu / 1944 / 02.Nov /
442 I / Sgt . Tanimoto Larry Tadayuki / 1944 / 03.Nov /
442 I / Pfc . Tabuchi Shigeo / 1944 / 04.Nov /
442 I / Pvt . Taketa Shigeto / 1944 / 04.Nov /
442 I / Pfc . Tahara Cooper T / 1944 / 05.Nov /
442 I / Pfc . Yamasaki Harry Shizuo / 1944 / 05.Nov /
442 K / Pfc . Yasuda, Fred S / 1944 / 01.Nov /
442 K / Pfc . Endo Robert Tsuyoshi / 1944 / 02.Nov /
442 K / Sgt . Kanazawa John S / 1944 / 07.Nov /
442 K / Pfc . Tsumaki Kenichi / 1944 / 07.Nov /
442 L / Pfc . Kawahara Richard Hiroo / 1944 / 02.Nov / DOW
442 L / TSgt . Okazaki Takaaki / 1944 / 07.Nov /
442 L / Pfc . Gushiken George / 1944 / 07.Nov /
442 L / Pfc . Miyaoka George Suetomo / 1944 / 07.Nov /
442 L / Sgt . Hashimoto John T / 1944 / 14.Nov / MIA→KiA
442 L / Pfc . Ikeda Masao / 1944 / 15.Nov / MIA→KiA
442 M / Pvt . Abe Chester K / 1944 / 02.Nov /
442 M / Sgt . Mizokami Timothy / 1944 / 13.Nov /
442 M / Pfc . Yasuhira Arata / 1944 / 13.Nov /
232 Eng / Pfc . Asato Shotaro H / 1944 / 03.Nov /
232 Eng / Pfc . Choriki Danny H / 1944 / 06.Nov /
442 AT / Sgt . Fujino Yoshimi / 1944 / 05.Nov /
442 AT / Pfc . Fujioka Teruo / 1944 / 06.Nov / Lcoに同名者有
442 AT / 1Lt . Rogers Ben W Jr / 1944 / 14.Nov /




シャンパンキャンペーン(1944年11月22日~1945年3月23日)
第442連隊戦闘団 KIA(16名)
Champagne Campaign (November 22, 1944-March 23, 1945)
442nd Regimental Combat Team KIA (16 people)

100 C / pfc . Tanaka John Y / 1945 / 20.Jan /
442 E / Pvt . Futamata George M / 1945 / 10.Feb /
442 F / Pfc . Mitani Kazuo / 1945 / 18.Jan /
442 G / Pfc . Oshiro Seikichi / 1945 / 09.Jan / 戦闘外死 Death other than battle
442 G / 2LT . Kurata Minoru / 1945 / 16.Jan /
442 G / Pfc . Kondo Herbert Y / 1945 / 16.Jan /
442 H / Pfc . Kaneshiro Seichi / 1945 / 01.Jan /
442 H / Sgt . Karatsu James S / 1945 / 02.Jan / DOW
442 I / 2Lt . Oliver Harry Eugene / 1944 / 05.Dec / 15.Dec POW  **DED
442 K / SSgt . Sugawara Senji / 1944 / 30.Nov / DOW
442 K / T5 . Miura Larry Nagao / 1944 / 30.Nov / DOW
442 K / Pfc . Tsunematsu Bertram Akira / 1945 / 17.Feb /
442 L / Pfc . Sugawa Jiro / 1944 / 05.Dec /
442 L / TSgt . Otsubo Akira R / 1944 / 23.Nov /
232 Eng / Sgt . Uyeno Theodoro T / 1945 / 15.Feb /
232 Eng / Cpl . Masumoto Seichi / 1945 / 15.Feb /



フランス戦線(1944年9月29日~1945年3月23日)
第442連隊戦闘団MIA(行方不明者)→POW(戦時捕虜)
All French Front (September 29, 1944-March 23, 1945)
442nd Regimental Combat Team MIA → POW

442 HQ / Pfc . Kajimoto John T / / / 23.Oct POW
100 A / Sgt . Kamikawa Harry H / / / 23.Oct POW
100 A / 1Lt . Sakamoto Samuel M / / / 23.Oct POW
100 A / Pfc . Kashiwamura Tetsuo / / / 23.Oct POW
100 A / Pfc . Sagara Horace / / / 23.Oct POW
100 A / Pfc . Takamura Naoki / / / 23.Oct POW
100 A / Pvt . Yamaka William Sakae / / / ** POW
100 C / 2Lt . Miyashiro Takeichi T / / / 23.Oct POW
100 C / SSgt . Tokunaga Michael M / / / 23.Oct POW
100 C / Sgt . Mine Yutao / / / 28.Oct POW
100 C / Pfc . Hirokane Katsumi / / / 23.Oct POW
100 C / Pfc . Akita Stanley / / / 23.Oct POW
100 C / Pfc . Yonezawa Kaoru / / / 23.Oct POW
100 C / Pfc . Horiba Kai I / / / 27.Oct POW
100 C / Pvt . Takahashi George / / / 29.Oct POW
100 C / Pvt . Miyashiro George J / / / 23.Oct POW
100 C / Pvt . Nakagawa Sunao / / / 23.Oct POW
100 C / Pvt . Watanabe Kozo / / / ** POW
442 E / Pfc . Kuroiwa Harry H / / / 19.Oct POW
442 E / Pfc . Okitsu Jou / / / 19.Oct POW
442 H / 2Lt . Gleicher Sol Harold / / / 23.Oct POW
442 H / Pfc . Saito Carl Kunitoshi / / / ** POW
442 H / Pfc . Tachibana Sadao / / / ** POW
442 3HQ / Pvt . Kanno Tom T / / / ** POW
442 I / Pfc . Funai George Teruo / / / 05.Dec POW
442 Med / 2Lt . Kanaya Jimmie / / / 23.Oct POW
442 Med / Pfc . Fujii Sueo / / / 23.Oct POW
442 Med / Pfc . Murai Marushi / / / 23.Oct POW
442 Med / Pfc . Nakamine Kotaro / / / 23.Oct POW
442 Med / Pfc . Nakata Milton K / / / 23.Oct POW
442 Med / Pfc . Uchimura Masayoshi / / / 23.Oct POW
442 Med / Pfc . Dochin Niroku / / / ** POW
442 Med / Pvt . Daida Sadamu / / / ** POW

フランス戦線(1944年9月29日~1945年3月23日)
第442連隊戦闘団MIA(行方不明者)→KIA(戦死確認)※KIAリストに記載
All French Front (September 29, 1944-March 23, 1945)
442nd Regimental Combat Team MIA → KIA * Listed on the KIA list

100 A / Sgt . Suyama George W / 1944 / 23.Oct / MIA→KiA
100 A / Pvt . Sugiyama Itsuo / 1944 / 23.Oct / MIA→KiA
442 E / Cpl . Nagata Taichi / 1944 / 06.Nov / MIA→KiA
442 E / Pvt . Masaoka, Ben F / 1944 / 31.Oct / MIA→KiA
442 F / SSgt . Kokame, Nobuo / 1944 / 29.Oct / MIA→KiA
442 G / SSgt . Nakamura, Ned T / 1944 / 31.Oct / MIA→KiA
442 L / Sgt . Hashimoto John T / 1944 / 14.Nov / MIA→KiA
442 L / Pfc . Ikeda Masao / 1944 / 15.Nov / MIA→KiA
442 Med / Pvt . Isobe, Kosaku / 1944 / 30.Oct / MIA→KiA

フランス戦線(1944年9月29日~1945年3月23日)
第442連隊戦闘団MIA(行方不明者)→POW(戦時捕虜)となった後、収容所における死亡。)※KIAリストに記載
All French Front (September 29, 1944-March 23, 1945)
442nd Regimental Combat Team MIA → POW.
Later, he died in a German POW camp. * Listed on the KIA list

442 I / 2Lt . Oliver Harry Eugene / 1944 / 05.Dec / 05.Dec POW-Dead
100 A / Pvt . Akimoto Victor / 1944 / 14.Dec / 24.Oct POW-Dead
100 A / SSgt . Sasaoka Itsumu / 1945 / 01.Jan / 22.Oct POW-Dead


※なお戦時捕虜の中でSSgt Sasaoka Itsumuは戦時捕虜となり、ドイツ国内のブランデンブルクの捕虜収容所へ収監。1945年1月31日にソビエト軍が侵攻し、ドイツ軍収容所警備員が収容所から解放。ソビエト軍の装甲部隊へと向かった彼らは誤認したソビエト軍によって発砲を受け15名の捕虜が死亡しました。その中にSSgt Sasaoka Itsumuが含まれていました。
* Among the POWs during the war, SSgt Sasaoka Itsumu became a POW and was imprisoned in a POW camp in Brandenburg in Germany. Soviet troops invaded on January 31, 1945, and German camp guards were released from the camp.
They headed for the Soviet armored forces.
Misidentified Soviet troops fired, killing 15 prisoners.
Among them was SSgt Sasaoka Itsumu.




最後になりましたが、貴重な史料、資料等をご提供くださった故Edward Masaru Yamasaki氏(第2大隊I中隊 T5 2017年4月27日永眠 92歳 日系アメリカ人3世)に特別の感謝と哀悼の意を表します。

部隊記録等の所蔵元については「アメリカ国立公文書記録管理局 National Archives and Records Administration (NARA) Records」となっております。

Last but not least, special thanks and condolences to the late Edward Masaru Yamasaki (2nd Battalion I Company T5, April 27, 2017, 92 years old, Japanese American III) who provided valuable historical materials. I would like to express my intention.

The collection source of unit records, etc. is "National Archives and Records Administration (NARA) Records".  


Posted by 先任  at 16:15Comments(0)そのたミリタリ日系部隊史

2020年07月11日

映画「GREYHOUND」を見ました。 ※ネタバレ含みます。 ※一部追記。

映画「Greyhound グレイハウンド」を見ました。
原作「The Good Shepherd ~駆逐艦キーリング」トム。ハンクス主演。

以下感想その他です。
※ネタバレ含みます。 楽しみにしたい方は読まないで下さい。
読んで楽しみが減ったと怒ってもしりませんw

一部追記しました。

















まず、冒頭ローズベルトとチャーチルの演説から始まる物語は、大西洋の船団護衛を端的に説明します。
そしてお決まり(?)の内地でのシーンはあっさり。
荒れる北大西洋。 守るべきコンボイ(船団)
米英加合同の護衛駆逐艦達!
そして襲い掛かる狼群との手に汗握る攻防。



と、このあたりは個人的にはどうでも良いですw


以下、オモテの感想。



シーン、シーンはワッチ(当直)時間ごとに区切られて編集されており、時間の感覚がまさに乗員と一体化する感が凄く良い。
そしてどのワッチでもトムハンクス演じる艦長が常に艦橋に居るあたり、まさに「Always on the deck」。
しかしながら艦橋に居るとはいえ、常に艦長が指揮を執っているわけではなく、きちんと当直士官に預け、戦闘が生起した瞬間に「舵を取る」描写が細かい。
もちろん「舵を取る」と言ってもハーロックのように自ら舵輪を回すわけではないですよ。
「I have the Conn」 ~私が操艦を執る
きちんと宣言し、矢継早に操艦号令をかけるのは圧巻です。 字幕追いつかないw

なお、CiC-Combat Information Centerを「Combat」と略すのは現代ではありませんが、CCiC設立当時は普通にあったようです。
他に「PlotRoom」や「Radar」と言う呼び方も当時の事を記した本で見受けられます。

この作品、ほとんどのシーンは艦橋内とその外に出たウィングだけで描かれているんですが、入れ替わり立ち代わり様々な役職の士官、下士官、兵が艦長に報告、進言または許可を求めてやってきます。 もうすごいリアル。
艦長伝令の使い方も緩急あって面白い。
艦内令達と艦長令達も明確に分けて行っている点も素晴らしい。



原作「駆逐艦キーリング ~The Good Shepherd」であった、艦長と部下との心理描写がそれなりに映像化されています。
映画だけを見ると充分と思えますし、エンターティメントとしてはこのくらいが良いのでしょうね。
それなり、と書いたのは原作はもっと人間描写、心理描写が濃厚だからですw
そりゃあの「ホーンブロワー」書いた「セシル・スコット・フォレスター」さんですからねw

しかし文字で書き起こせない分を役者さん達の表情が素晴らしく演じられています。
最初の戦闘に挑む時と、映画の後半での艦橋内の配員達の表情、動作のほんとに微妙な変化。
これは凄いです。



乗員達の生活風景などもかなり期待していたんですが、そちらはほぼ無し。
残念ではありますが、これはあくまで艦長視点での物語の為でしょう。
配置に就いている時、または報告等に現れる時しか乗員達を見ることができない。
その中で乗員を掌握し、適切に扱うために苦悩し、苦労しつつも任務達成のために命令を下していく重責。そのあたりが多くを説明せず、映像だけで表現していくのがたまらなく凄いのですよ。
こんなの今の邦画には絶対できません。

艦長の視界外の乗員の描写もほとんど無いですが、他の船団や護衛の艦の乗員もまったくと言って良いほど出てきません。
護衛隊は無線で話す艦長の声のみ。
船団に至っては発光信号のみです。

そして敵であるドイツ潜水艦も外観のみで中はいっさい出ません。
まぁ一人だけお調子者のU-ボート艦長の声だけ何度か聞けますが。

この徹底した視点の固定ぶりは本当に凄いと思いました。




また軍装についてですが、あまり詳しくないので間違ってる可能性もありますが以下の通り。

乗員のデニムワーキングはもちろん、ブルーハットとグレイハットが混ざるのが凄く良い。
デッキジャケットも安易にN-1やN-4は使わず、初期のブルーと試作型が混ざっていたように思います。
(予告でチラっとN-1らしきものが見えてああ、と思ってましたがよく見ると私物の羊毛ジャケットのよう(または古い官給タイプ?)

44年頃(笑)の駆逐艦描写としてすごく良く見えました。
※映画の想定は42年初頭。








でもって、ここからは皆さまお待ちかね(?)のウラの感想です。
この映画最高です! 素晴らしい! ケナす奴は最低や!

って人は読まないで下さい♪




まず。
原作ではマハン級だったキーリングですが、撮影の都合もあってか見事にフレッチャー級へと昇格しています。
※皆さまご存じの通りフレッチャー級は1番艦のフレッチャーでも42年夏頃の就役で、更に数か月は慣熟訓練に従事しますので42年2月の物語に登場するのは不可能なんですね。
Jane見ると劇中キーリングの艦番号であるDD-548は建造キャンセルで欠番になってるんですね。ニクいぜ(どっかの手抜きイージスとエラい違い)。

ついでに余計なウンチクですが「フレッチャー」の艦名は米墨戦争の英雄であるフランク・F・フレッチャー提督にちなんでの物で、有名なフランク・ジャック・フレッチャー提督はその甥にあたります。
ま、時系列考えたら当り前の話ですが。

で、ともかくフレッチャー。
フレッチャー級駆逐艦が全編通じて暴れまわる映画と言うのは本当に見たかったし、すごく良かったですよ、ええ。

しかしフレッチャー。。。おそらくは現存するものを撮影にも使用したのか、ほぼ戦後改造型、しいて言っても大戦後期型ですよね。
※撮影ノートによるとルイジアナで保管されている、キッド (USS Kidd, DD-661)を使用したそうな。
なので装備が完全に1945なんですね。
まぁアドバイザーが「かの」デールダイ事務所らしく、WW2ならokというスタンスでしょうw

映画の中で活躍するSGレーダーと艦橋前面のボフォース40mmがなんとも。。です。
とくにSGレーダーはストーリーの中心に近い所にある上にCiCを活用しての対潜戦はもはや44年後半以降。。。
考えたら原作にもレーダー描写あった気がするけどマハン級よなw



CiCや艦橋にあったレーダーレピーターはおそらくSPA-25系列のものに見えるが、このころそんな物は無い。 どの艦艇にどのタイプと言うのはあまり詳しくないですが、駆逐艦等は終戦までTYPE271が主流の筈。
一応PPIスコープではあるもののプロットボードも無ければ、各調節ダイヤルの形状分け(三角とか丸とか)も無かったと思う。
しかし、レーダーレピータの不調(おそらくカーソルが動かなくなった?)で、距離が曖昧にしか読めなくなるの描写は良かった。



またCiCの対勢盤作図も、43年初頭以降は作図符号が規定されているにも関わらず、符号を使わずにイメージで書き込んでいるのが残念(いや、42年初頭だからあってる? いや、42年初頭の駆逐艦にCiCもレーダーも無い。。。何書いてんのかわからんようになってきたw)
またグリスペンで雑に書き込んでましたが作図は普通、鉛筆使いますね。
あれでは詳細な計算ができません。
相対運動の計算もですが、少ない情報を作図して相手位置や動静を予察するには最大限精密な作図が必須です。

ディバイダーの持ち方も悪い、と思ったけどそれは当時の米海軍では普通だった可能性もあるので間違いとは言い切れませんが。

そういえば適要記録板をグリスペンで書き込んでたけど、1950年代までは水性ペイントを使ってたはず。

あと、艦長がCiCを呼び出す際に「Combat Conn」と呼んでいるのには少し疑問。
Connは操舵の意味で、艦長が操舵を執る際には使う言葉で「艦橋」と言う意味でも使えるけど、艦長が呼び出す場合は「Combat Captain」または「Combat Co」を使うんじゃないかと思う。



とまぁ、マニアのどうでも良い話はどうでも良いとして。
この映画の一番の問題点は、海洋アクションにある程度割り振ったのは良いとしても戦闘が雑い。



真昼間に近距離で次々上がる潜望鏡。
どころか次々と5inch砲積んでる駆逐艦相手に浮上戦闘挑む狼群。

いくら海荒れてるし、FCレーダー無いのでと言ってもですよ。5inch×5門ですよ。 当たるってばw
画面にはFCSも映ってるしなw

船団速力が8ktで、まぁ普通ですよね当時。 
ジグザグ航行での船団移動速力で無いなら、まぁ攻撃後は距離を置いてレーダー覆域圏外から追撃して先回りするならともかく、船団の航跡を続行してるようにしか見えないし。
船団の密集具合から考えると、攻撃位置に付けたならばもっと魚雷撃ちそうなものと思うけど、それほどでもないし。

なんつーか。 FURYっぽかったんすよね。
とにかく観客に1時間半の時間をフルに没入させて、味合わせようと言う感じ。
そしてスピーディでよくわからない過程と、判り易い結果をぶつけてマヒさせる。


一晩経って抱いていた違和感の理由が分かりました。
スピーディな展開、派手なアクション、判り易い結果。
これらすべてが現実の対潜水艦戦に相反するからなんですねw
もちろん戦争と言うものは常に様々な事が現実に起きますし、海洋戦闘、対潜戦であってもドラマティックな展開と言うのは実際にあったことでしょう。
それにしても詰め込み過ぎと言うか。。。まぁエンターティメントなわけですね。
まぁ地味で長くてアクションの無いリアルな対潜戦なんか描いても絶対売れませんよね。
マニアの間で人気なRSBCの「死線の太平洋」にしたところで地味さを描写してはいますが、実にドラマティックに転回するわけですし。
あぁ、でもこの映画を見てから「死線の太平洋」を読むと更に理解も深まるし、光景が浮かびやすくなるでしょうね。


いやいやまてまて。

この映画、ほぼ「死線の大西洋」だよなw
いやいやまてまて、RSBCの方が「The Good Shepherd」を大いに参考にして書かれてると言うべきか。
実際に御大が参考にしたかは判りませんが、おそらくは。

そう言えば距離に関して、やはりkm表記で和訳されていたなぁ。
新版原作もそうらしい(買ったけどまだ未読)
まぁNM(ノーチカルマイル)表記やと普通は距離感覚掴めないやろうから仕方ないか。
私の場合は職業柄(笑)、洋上でkmの方が判り難いけど、そのくらいは生セリフで聞き取れたので良かった。

速力単位がKt(ノット)なので、NMで考えないと相対距離の開きや詰まりが判り難いんですよね。

これは素人予想ですが、おそらく買い取った分をりんごさんは新規加入で回収しきらないんじゃないですかね。
つまり、早期配信は独占しても後に円盤化やCS放映に権利を売って回収に出るかと思うので、それまで待つと言うのも手かと思います。
また、りんご製品をお持ちの方などは7日間無料トライアルで視聴した後、解約と言うのも別にルールに反して無いので構わないかと。 ルールではないが、マナーで言うならこれだけの作品を独占した方に問題があると思うので。
私個人の勝手な言い分ですがw

見て下さる方が居れば、この作品についてお話したい欲は現在MAXですので嬉しいですけどね。

色々とマニアの悪い癖で文句ばっか書きましたが面白いですよ。
少なくとも某サメ映画や、国産の海洋物とはレベルが違います。




スクリーンで見たかったなぁ。。。。ほんと。
りんご、マジむかつく。
ムカつくんで、もう一回見たら無料の間に解約でんな。
  


Posted by 先任  at 05:31Comments(0)そのたミリタリ

2020年06月03日

WW2 アメリカ陸軍 レギンス着用方法

WW2 アメリカ陸軍 レギンス着用方法

はじめに

第二次世界大戦において、アメリカ陸軍がポピュラーに使用したレギンスの着用方法についての参考で、本Webサイトの記事の転載です。
このようなやり方が規定されていましたが、絶対にこの通りでないとダメという意味を主張するものではありません。
実際の前線においては、兵士達がおのおの工夫した着用方法をする場合もあるでしょうし、利便性から省略している場合もあるでしょう。
しかしながら、陸軍に入隊した兵士達が教育を受けるのはこの方法です。
是非、基本的な規定を学んでから応用をされることをお勧めいたします。
なお、レギンスの目的は足首の固定(捻挫等からの防御)、靴に砂、石、水等の侵入防止の他、下肢の固縛によって血の流れを抑制し、血液のうっ滞を防ぐ効果があります。
是非、装備の意味も理解した上で適切な着用をしていただけると嬉しく思います。
A reference on how to wear leggings that were popularly used by the US Army during World War II.
Such a method was prescribed.
However, if this is not the case, it does not claim to be useless.
On the real front.
In some cases, the soldiers will have their own way of wearing them.
It may be omitted for convenience.
However, this is how soldiers enlisted in the Army receive education.

By all means, we recommend that you learn the basic rules before making special cases.
The purpose of leggings.
Ankle fixation (protection from sprains, etc.),In addition to preventing sand, stones, water, etc. from entering the shoes By binding the lower limbs, the blood flow is suppressed, and it is effective in preventing blood stasis.
We hope you will understand the meaning of the equipment and wear it properly.



LEGGINS, CANVAS, M-1938, DISMOUNTED, OD.
Stock No.72-l-61883/72-l-61903



アメリカ陸軍 M-1938レギンス
第2次世界大戦中、もっともポピュラーなレギンスで全アメリカ陸軍将兵が使用した、とあります。
国内では実物の流通もありますが、海外製のリプロダクションも存在します。
サイズは大きさをしめす1(小)~4(特大)号の他、丈の長さを示すS(Short),R(Regular),L(Long)の表記があります。
※QMのカタログにはありますが、私は4号を見た事はありません。
※海軍(海兵)のレギンスのサイズ表記は違いますのでご注意下さい。

US Army M-1938 leggings.
It was used by all US Army generals in the most common leggings during World War II.

In addition to the 1 (small) to 4 (extra large) numbers that indicate the size, there are S (Short), R (Regular), L (Long) notation indicating the length of the length.
*Although it is in the QM catalog, I have never seen issue 4.
※ The size representation of the leggings of the Navy (Marine) is different Please note.




レギンスを着用する前に準備をします。
レ-ス(編紐)の端は写真のように通し、留め結びをして止めます。
靴ごと足を通せるように下端から余裕を持たせておきます。
Prepare before wearing leggings.
Thread the end of the lace as shown in the picture and fasten it with a knot.
As Toseru the shoes for each foot, the race will leave a margin from the lower end.




足下のストラップは後から付けれますが、先に金具に先端を通しておけば楽に装着できます。
You can attach the straps under your feet later.
However, you can easily attach it by passing the tip through the metal fitting first.




靴(サービスシューズ)はレースをしっかりと編んでおきます。これらは見た目だけでなく、怪我の防止や長時間の行動にも必要です。
For service shoes, make sure that the lace is knitted firmly.
These are necessary not only for appearance but also for injury prevention and long-term action.




レギンスの開いている部分(金具等がある側)を外側にします。
これは間違えて内側にあると、格好悪いだけでなく、足が絡まって怪我等にもなりますので間違えないようにして下さい。
左右については、フック金具が後ろ側に来るようにしてください。
たまに「R」「L」表記で右左と言う方が居られますが表記は「Regular」と「Long」です「Short」もあります。
長めにしたレースと下のストラップを靴のつま先から通します。

The part where the leggings are open (the side with the metal fittings) is on the outside.
If you make a mistake on the inside, you may get injured by getting your legs entangled, so please be careful.
There are left and right leggings.
Make sure the hook metal fittings come to the back.
"R" and "L" are not "right and left" but "Regular" and "Long". There is also "Short".
Thread the lace and strap under you long from the toe of the shoe.




下から3,4個フックにかけて行きます。 この時点では強く締める必要はありません。仮留めです。
なお、レースは傷みやすいのでフックにかけて引っ張らないよう注意してください。

From the bottom, hook up to 3 or 4 hooks.
There is no need to tighten it at this point. It is temporary fastening.
Be careful not to pull on the hook as the lace is easily damaged.






仮留めしたら、下のストラップも前後の位置とレギンスの上下の位置を決めます。
レギンスは人間の足の形状に合わせて作られていますので、細い所太い所があります。
上下にずらす感じで、ピッタリと合う部分を見つけて下さい。
位置が決まったら下のストラップを下に引いて締めます。
Once temporarily fastened, position the lower straps back and forth and the leggings up and down.
The leggings are made according to the shape of the human foot, so there are thin and thick parts.
Find the position that fits perfectly by moving it up and down.
Once in position, pull the bottom strap down and tighten.




締めた下のストラップの端を再度金具に収めます。
私の靴は11D(28cm)です。 この時点でストラップが届かないと言う場合、位置が正しくない可能性があります。
Reattach the bottom end of the tightened strap to the bracket.
My shoes are 11D (28cm). If you say that the strap does not reach at this point, the position may be incorrect.




レギンス位置を決めた状態で、サ-ビスシューズのアイレットが2~3個見えるか見えないかくらいが適正です。
In a state that decided the leggings location, service - much do not see or eyelet of the screw shoes two or three look is appropriate.






ズボン(トラウザース)の裾を折込みます。外側から内側へ折込むのが当時ポピュラーです。
裾はレギンスに2inch(約5cm)も入れば大丈夫ですが、この処理がいい加減だとレギンスを適正に締めれません。
※スボン(トラウザース)は裾を多少上げて締め(後から引き上げる事も可能ですが、裾までレギンスの外に出てしまうと、装着をやり直さなければなりません)、膝に余裕を持たせる方が動きやすいでしょう。
また膝部分に余裕がある事で、ズボン自体の損耗も防げます。
Insert the trousers hem.
At that time it was common to fold from the outside to the inside.
The hem is ok if you put 2inch (about 5cm) in the leggings.
If this process is too loose, the leggings cannot be tightened properly.
* It may be easier to move the trousers by slightly raising the hem and tightening them so that there is room in the knees.
In addition, since there is room in the knee area, it is possible to prevent damage to the trousers itself.




ズボン裾を織り込んだら、再度レースを編み上げて行きます。
Once the trousers hem has been folded in, the lace is knit again.




途中でレースが届かない、と言う場合レギンスの大きさ、レースの長さが正常であるならば締め付け不足が考えられます。
仮留めの部分から順番にしっかり締めて編み上げましょう。

Are the laces short?
If the size of the leggings and the length of the lace are normal, insufficient tightening is possible.
Tighten them in order from the temporary fastening part and knit them.



このレギンスは3Rですが、かなり大柄(足も大きい)な私が締めてこんな感じです。
たいていの日本人は3R以下のレギンスを適正に着用できると思います。




さて、末端の処理です。
ここをきっちりとやって居られる方は、あまり居ないのではないでしょうか?
実は私も普段は適当にやってますw
前側最上段の穴に裏から通した末端を、後ろ側の上段にある2個の穴のうち、後ろの方に表から入れます。
Now for the end treatment.
I suppose there aren't many people who can do this exactly.

Insert the end passed from the back into the hole on the top of the front side from the front to the back of the two holes on the back upper side.




次に後ろ側の前側の穴に裏から通し、締めます。
Then insert the hole in the front side of the back side from the back and tighten.




締め切った所で通してきたレースに一結び(二結びや他の結び方でしっかり止めてしまうと、今度外す時が大変です!)
When you have finished tightening, one in lace that has been through knot.
(If you fasten it with two knots or other knots, it will be difficult to remove it next time.)




最後に末端を前側レギンスの裏側へ収納し、完成です。
Finally, accommodating the end to the back side of the front leggings, is completed.




余ったズボンの裾に余裕を持たせ結び目を隠すようにたるませるて、せっかく覚えた正規の結び方も隠しましょう。
膝(とズボン自体)への負担が減り、動きやすくなります。

以上ですが、いかがでしたでしょうか?
ご意見、ご感想、指摘事項等ありましたらメールやTwitterで随時受け付けております。

Allow extra trousers hem and allow it to slacken.
It reduces the strain on the knees (and the trousers themselves) and makes them easier to move.

that's all.
Will did you think?
If you have any suggestions, comments, or suggestions, please feel free to send us a message.



Reenactment Group "BCo/100Bn" 本Webサイト
の方も更新しています。
WW2アメリカ陸軍の動作、教練等を解説する「教育参考資料」ページを開設。
基本教練「徒手動作」、基本教練「行進」、番外編「レギンス装着法」をUP。
  


2020年05月25日

ReenactorChallenge! ReenactmentGroup"BCo/100Bn" in Japan.

タイトルのReenactorChallenge! ですが、Covid-19(新型コロナウィルス)に対するロックダウン方針により、イベント等で集まれない世界のリエナクター(の一部)が始めた物で、「集まれないなら、皆で自撮りしたリレー動画で繋がろう」と言う趣旨です。

当初、南米のリエナクターさんからお誘いを受けて、BCoのメンバー数人で参加したのですが、せっかくならBCoだけで一本作って発表しようという事になり、製作しました。



まぁ、だから何? と言うような身内ネタ動画かもしれませんが、楽しかったです。
ポーランドやフランス、アメリカ(一応?)からも参加してくれました。

当ブログ管理人「先任」も参加する「関西ヒストリカルイベント運営事務局」でもまだ次のイベントが決まってませんが、良かったらこのような取り組みもみなさん、いかがでしょうか?

全国的に緊急事態宣言も解消され、緩和ムードになってきてますね。
必要以上に「自粛」をする必要は無いと思いますが、段階的に、と言う事で引き続き油断はせずに事態の収束を祈ります。




さてお知らせです。
現地時間(アメリカ太平洋標準時:PDT)5月25日 11AM~13PMに
※日本時間 5月26日午前3時~午前5時

Nisei Veterans Virtual Memorial Day Serviceが開催されます。
これはアメリカ合衆国軍におけるアジア人退役軍人の為の記念行事で、例年は多くのVeteran、ご家族が集まり開催されるものですが、今年はやはりCovid-19の影響によりオンラインで実施されることとなりました。

イベントは2部構成で、第1部は記念式典。第2部は勉強会、となっています。
そして、その第2部において第100歩兵大隊VeteransClubからの依頼により、私がビデオメッセージを送る事となりました。
どのようなビデオ、スピーチを送るべきか悩みましたが、せっかくの機会なので我々「BCo/100Bn in Japan」が行っている活動について報告、紹介するのが良いと考えて10分間のビデオを製作いたしました。
100th veterans Club側もその案について「非常に良い考えで、とても嬉しい」と言ってくださいました。
スピーチは私自身が話てますので、まぁ下手な英語ではありますが(伝わるか心配なので字幕付けました)、自分自身の言葉で話す事が重要と考え、セルフで撮影し過去の画像と合わせて編集しました。

また、スピーチが終われば、その紹介とビデオ自体もアプロードしてご紹介する予定です。
  


Posted by 先任  at 07:00Comments(0)お知らせそのたミリタリ

2020年05月13日

横井ケーブと太平洋戦争博物館 ~千三十三日のグアム戦争

グアム旅行記の最終稿です。



有名な横井伍長(グアム戦当時階級)については、多くに記されてますので特に書きませんが、現在「ヨコイ・ケ-ブ」として観光に使用されている洞窟はもちろんレプリカで、本来の場所とは離れています。
実際の潜伏場所は多岐に渡り、横井伍長は用心深く、いくつかの拠点を移動しながら生活を送っていたそうです。
ヨコイケーブと呼ばれた、発見時に使用していた拠点はすでに土砂に埋もれ、正確な場所もわからなくなっているそうです。





横井氏が潜伏していたフィナ湖周辺からタロフォフォ方向を望みます。
この湿原と密林のどこかで戦後28年もの歳月を過ごしたと言うのは想像を絶しますね。




最後に私設軍事博物館である「太平洋戦争博物館」をご紹介します。
この博物館は合衆国海兵隊のVietnamVeteranであるJohn Gerber氏が自身のコレクションを、グアム戦で戦った将兵を称えるために展示している物で、Gerbe氏自身はすでに亡くなられていますが、ご家族と友人が意思を継いで、展示を続けています。

展示状態は決して良好なものばかりではありませんが、日米を公平に扱っていると思われます。



















展示車両は案内人の立会のもとで乗車する事も可能でした。
たまに戦後の車両も混じっていますが。
レストアして走行可能な状態にしたいと思うが、資金が無いとの話でした。
















屋外展示の色々。
九九艦爆は他所であまり見れない機体ですね。墜落機なので機体後部しか残っていませんが。
カリフォルニアのThe Air Museum Planes of Fameか、テキサスのNimitz Museum にしか現存(どれも完全ではない)が無いようです。










































その他の屋内展示物です。
ちょっと雑ではありますが、個人経営(たぶん赤字)なので致し方ないのでしょう。
それぞれの状態はともかく、展示量としてはなかなかのものです。
写真撮影は良いか聞いた所、なんでも撮って日本で見せて、是非多くの日本人に訪れて欲しい、との事でしたので遠慮なく上げさせていただきました。
なんせスマホしか持ち歩かない人なので、画質は悪いです。すみませんが。
ですから、なんらかの機会でグアムを訪れるような事があれば是非ご来訪下さい。



「千三十三日のグアム戦争」 芳賀建介著
サイズはA5版で250ページ。 写真も多く、カラーです。





横井伍長の事実や、7月21日アサン海岸上陸戦闘、25日の日本軍夜襲など読み応えのある内容。
日本軍兵士の勇戦を描く一方できちんと現地住民との間に起こった事実についても検証されています。
です。
なお、内容は著者が自身の戦跡捜索と、地元住民やグアムで実際に戦った兵士へのインタビュー、そして史料の検証を元にグアムでの日米の戦闘を時系列と戦域に分けて順次紹介していく内容です。



グアムにある程度詳しくないと、聞きなれない地名に多少戸惑うこともあるかもしれませんが、本の前半中ほどにあるグアム地図を参照しながら読むと、日米両軍の行動や距離感覚がとても判り易くてお勧めします。

さて、この本は著者芳賀氏の自費出版であり、本屋の店頭には並びません。
ご購入方法は、著者本人へ連絡して通信販売することのみなのですが、現在私が無償で代行を承ります。
ご購入価格は送料込みの2000円です。
購入を希望される方は、メッセージやTwitter等で私にご連絡を下さいませ。


また、グアムを訪れる予定で紹介した戦跡等を巡りたいと言う方は、是非下記のケン・芳賀氏にご連絡をお取り下さい。
芳賀氏は観光ガイドが生業ですので、基本的にツアーは料金制です。
しかし、料金以上の物が必ずあると思います。
グアムの戦跡の多くは私有地であったり、軍敷地であったりで一般には入場できない場合も多く、また密林内は様々な危険もあり、日本の山野と同等に考えてはいけません。

ケン芳賀によるグアム太平洋戦争戦跡巡りツアー   


Posted by 先任  at 14:20Comments(0)そのたミリタリ

2020年05月12日

グアム国立太平洋戦争記念館 ~千三十三日のグアム戦争

さて、前回に続きグアム戦跡を巡った時の写真を中心にご紹介いたします。
前回はあまりアクセスもなかったようなので、あまり興味持つ方が少ないのか、私の写真または文が稚拙すぎるのかはわかりませんが、とりあえず掲載しますw

今回の写真の主は博物館、記念館の展示ですね。



オロテ半島根本付近、アメリカ軍基地を出たところにある米国国立太平洋戦争記念館。
その入り口にある甲標的です。
防御用に配備され、そのまま鹵獲されたとか言う話ですが、よく判りません。

記念館は館内にも様々な展示があります。



U. S. rifle, caliber .30, M1903




ルイス、または九二式機関銃でしょうか。 詳細はわかりませんが、説明文にはアガンから上陸した日本海軍陸戦隊のもの、とありました。




戦時下の民間人を撮ったものでしょうが、Partialレーションにくぎ付けですw




グアムでは「英雄」として称えられるデュエナス神父。日本軍に処刑された事から、そのように扱われています。
もっとも、日本軍占領下のグアムを逃亡する米軍通信隊の生き残り、ジョージ・R・ツイード氏を助け、無線機を与えて島外の米軍へ情報を届けさせていた点を考えると、日本軍のによる処刑は国際法上は正しいと言えるかもしれません。




ここでもMIS所属の語学日系兵の活躍が展示されています。




米海軍水兵の作業着が展示されていますが、WW2時代のものではありませんね。






なんか軍装品が乱雑に箱に入っています。よくわからない民芸品も。
米軍のものもヘルメットは完全の戦後のものですね。
当時の日米両軍の装備を手に取ってみて下さい、と言う事のようですがあまり意味がわかりませんでした。




テントペグ。その他、両軍兵士の日用品などがスライショーで紹介されていました。




いや、ちゃうしw




米軍の水筒や千人針、ジュラルミン板に書かれた遺書など。




これはスライドショー形式だったのですが、日米のプロパガンダを比較し紹介しています。
決して「アメリカは正しい」と言う展示ではなく、両者ともにプロパガンダが世論を戦争へ導く、と言った内容でこれが軍敷地内にある施設で展示されている事に衝撃を受けました。














グアムの中心街であるハガニャ近郊にある日本海軍司令部壕です。
大きな坑道が複数連なり、それらを交通壕で繋いで大規模な壕群となっています。
中には井戸もあり、また一部はセメント補強されていた形跡も残っています。










ジーゴの日本軍壕と貯水槽。
ここは長く、第31軍司令官小畑中将の最後の地とされていましたが、芳賀氏の調査によるとどうも違うようです。
(氏は断定はしていませんが)






マネンガンヒル強制収容所跡
日本軍が現地民間人を収容(と言っても集めただけで、住居や食料の支給は無かったという)した跡地に祈念碑が立てられています。


以下次回。  あと一回だけ。









「千三十三日のグアム戦争」 芳賀建介著
サイズはA5版で250ページ。 写真も多く、カラーです。





横井伍長の事実や、7月21日アサン海岸上陸戦闘、25日の日本軍夜襲など読み応えのある内容。
日本軍兵士の勇戦を描く一方できちんと現地住民との間に起こった事実についても検証されています。
です。
なお、内容は著者が自身の戦跡捜索と、地元住民やグアムで実際に戦った兵士へのインタビュー、そして史料の検証を元にグアムでの日米の戦闘を時系列と戦域に分けて順次紹介していく内容です。




グアムにある程度詳しくないと、聞きなれない地名に多少戸惑うこともあるかもしれませんが、本の前半中ほどにあるグアム地図を参照しながら読むと、日米両軍の行動や距離感覚がとても判り易くてお勧めします。

さて、この本は著者芳賀氏の自費出版であり、本屋の店頭には並びません。
ご購入方法は、著者本人へ連絡して通信販売することのみなのですが、現在私が無償で代行を承ります。
ご購入価格は送料込みの2000円です。
購入を希望される方は、メッセージやTwitter等で私にご連絡を下さいませ。
  


Posted by 先任  at 16:56Comments(0)そのたミリタリ

2020年05月10日

グアム戦跡巡り ~千三十三日のグアム戦争



lockdownの続く毎日でGWもどこにも行けず、と言う感じだったかと思います。
お仕事で出なければいかない皆さまは本当にありがとうございます。
まぁ私もちょいちょい出勤してる身ではありますが。

さて、今回は基本教練は一旦お休みして、ある本の紹介をいたします。

「千三十三日のグアム戦争」 芳賀建介著
サイズはA5版で250ページ。 写真も多く、カラーです。



横井伍長の事実や、7月21日アサン海岸上陸戦闘、25日の日本軍夜襲など読み応えのある内容。
日本軍兵士の勇戦を描く一方できちんと現地住民との間に起こった事実についても検証されています。
です。
なお、内容は著者が自身の戦跡捜索と、地元住民やグアムで実際に戦った兵士へのインタビュー、そして史料の検証を元にグアムでの日米の戦闘を時系列と戦域に分けて順次紹介していく内容です。



グアムにある程度詳しくないと、聞きなれない地名に多少戸惑うこともあるかもしれませんが、本の前半中ほどにあるグアム地図を参照しながら読むと、日米両軍の行動や距離感覚がとても判り易くてお勧めします。

さて、この本は著者芳賀氏の自費出版であり、本屋の店頭には並びません。
ご購入方法は、著者本人へ連絡して通信販売することのみなのですが、現在私が無償で代行を承ります。
ご購入価格は送料込みの2000円です。
購入を希望される方は、メッセージやTwitter等で私にご連絡を下さいませ。




米軍が上陸したアサン(日本名・浅井)海岸に残るトーチカ跡の前で上陸戦闘について解説される著者、芳賀建介氏。








グアム最大の激戦地であった、現ニミッツヒル展望台からアサン、アガット海岸、オロテ半島を望む。
この丘陵には至る所に塹壕跡も残る。
日本軍はこの丘陵から上陸した米軍への夜襲を繰り返した。


















アガット湾に残る日本軍陣地跡等。
オロテ半島を挟んで、右側のアサン海岸と共に米軍が上陸したアガット海岸もまた激戦の地となった。












アガット湾内の小さな島、バンギ島。
潮が引くと歩いて渡れるが、私有地のため許可が必要。




バンギ島の手前の海岸で拾った1945年製のゴミ。
ゴミは拾ったので回収して持ち帰りましたw












元々はバンギ島に設置してあった20cm砲(砲身を短縮化?)、及び海岸に設置されていた(とされる)25mm連装機銃。
















オロテ半島の現米軍基地内に残る日本軍の兵器。
※米警備隊撮影許可済み。






オロテ半島の日本陸軍司令部壕
※米警備隊撮影許可済み。






オロテ半島スマイ村跡地(日本軍が占領時に住民を追放、更に米軍が再占領後、基地化したために住民は今も戻れていない。
※米警備隊撮影許可済み。
























オロテ半島の先端、ガブガブビーチのトーチカ群。
※米警備隊撮影許可済み。










オロテ半島。 米軍、軍用犬慰霊碑。
※米警備隊撮影許可済み。






日本人捕虜が建設したとされる階段跡。
※米警備隊撮影許可済み。








オロテ半島、日本軍飛行場跡(再占領後、米軍が拡充し使用)
※米警備隊撮影許可済み。

次回に一応続きます。  


Posted by 先任  at 15:08Comments(0)そのたミリタリ

2019年12月11日

中隊先任下士官

1SG. 1StSgt. First sergeant.



よく1等軍曹と和訳される事が多いですが、正確ではありません。
Sfc.Sergeant.Firstclassは現代では1等軍曹にあたるかもしれませんが、WW2の頃はTSgt. TechnicalSergeant.でありちょっと意味合いが違います。

給与グレードは曹長Msg. Master Sergeantと同格であり、役職を示すもので中隊規模の部隊の最先任下士官です。
階級としては元の階級(多くはMsg.ですがまれに更に下の階級から宛てられる場合も)であり、その役職を代わる際には元の階級に戻ります。

さて今回の記事は別に階級章の話ではなく、1人のハワイ日系アメリカ人についてです。


アメリカ陸軍第100歩兵大隊B中隊の先任下士官だったTakashi Kitaoka氏の物語をまとめて見たのでご覧下さい。

Takashi Kitaoka

1912年2月1日 マウイ島ハナ産まれ。
熊本出身の両親、北岡寅木とサダの間に4人兄妹の末子として産まれました。

カエレクシュガーカンパニー(Kaeleku Sugar Company)のプランテーションで働いた後、虎木とサダはカエレクにコーヒーショップを開きます。
コーヒーショップの向かいは家があり、2つのベッドルーム、ストーブとアイスボックスを備えたキッチン、屋外トイレ、独立した風呂小屋がありましたが当初は電気が無く、灯油ランタンが部屋を照らしました。

コーヒーショップでは中国系の料理人が主に中華料理とアメリカ料理を作り、寅木はパンを焼きました。
Takashiも午前2時から起きてパンを捏ねたりをしていたそうです。
Takashiの主な仕事はストーブ、オーブンの為の薪を運んできて、くべ易い大きさに割る事でした。

日系人は基本的に家で食事を取り、昼食は弁当を持つので多くの客は独身のフィリピン系などでした。
北岡家の食事は母がコーヒーショップで作り、その多くは日本食でした。
他に料理人が作る中華料理やハワイの料理も食べました。


買い物は多くを近くのハナから購入しており、ワイルクまで出る必要は無かったが、月に数回ホノルルから来る船に注文もしていました。


カエレクプランテーションキャンプのコミュニティには多くの労働者のフィリピン人、日系人、および少数のハワイ人、牧場主のポルトガル人が合計して3~400人ほど居ました。
それらの人々は民族性を他に主張することなく、良好な関係を築いていたそうです。

移動手段は徒歩か馬です。
学校にも当初馬で通っていましたが、それは途中からスクールバスに代わりました。

コーヒーハウス、レストラン、プランテーション店、鍛冶屋、映画館等があり、映画や芝居の興行、また独立記念日や他の民族イベントが楽しみでした。

医師は3マイル離れたハナに住んでいます。
プランテーションが雇っている医師でしたが、彼はコミュニティ全体に奉仕してくれ、時には出産も助けてくれました。
歯科医は半年に一度しか立ち寄りませんでしたので、歯痛が発生しても医師が抜歯する以外の対処が無かったそうです。
ハナの反対側に3マイルほど離れた所に牧場があり、彼らはハナへの往復の途中でコーヒーショップで食事することがありました。
彼らは週末にはプランテーションへ来て、野球等のスポーツで親交もありました。


子供の頃からTakashiは馬に乗ってホノカラニ等へ行き海で釣りをしました。魚は家族の夕食となります。
またナヒク近くの自然のプールへ泳ぎに行き、プール流れ込む小川でエビを摂りました。更にマンゴー、山のリンゴ、グアバ、アボカド、タケノコとワラビなども。

Takashiは小学校1年~3年までカエレクの小さな学校に通い、飛び級をしてハナ学校の5年生になります。
それから8年生までハナに通いました。
昼食は多くがムスビ、時々サンドイッチでしたがアリに襲われる事が多かったそうです。
1926年にハナからワイルクまでの道路が建設されました。 14歳のタカシは初めて町を訪れ、その町の大きさに驚いたそうです。

北岡家は仏教徒でしたが、Takashiは他も含めて宗教に関心を持ちませんでした。
ただ、父親の寅木が日系コミュニティーのリーダーだったためもあり、日本語教育に熱心だったためハナ本願寺の日本語学校には8年通いました。
1924年、排日移民法が制定された影響もありハワイにも反日感情があったとTakashiは語っています。
直接差別された、という経験は無かったそうですが、日系人以外の人種が日本的な物を好まない風潮を肌で感じていたそうです。

なお寅木はコミュニティーのリーダーで日本語教育推進の委員長もつ務めていましたが、開戦の頃には引退していたため、FBIに逮捕されはしなかったそうです。
また母のサダも日系の婦人会に積極的に参加し活躍していました。

ハナには高校が無かったため、Takashiは奨学金を得てホノルルの中部太平洋予備校(Mid-Pacific Institute)に入学し初めてマウイを出ます。
奨学金だけでは足りない授業料を彼は食堂等で働きながら支払いますが、それでも足りなかった分はどこからか父親が工面したのだろうと回想しています。

また、ここでは本土からの教師に教えでかつで興味を持たなかったキリスト教の世界観に興味を持つようになります。
なお、高校1年生の時に母サダが脳卒中で亡くなりました。

予備校を出てハワイ大学へと進んだTakashiは大恐慌の中で政治学と社会学を学びます。
またPalama Settlementに拠点を置く結核協会の保健教育者として、彼は講演、映画の上映を行いそのパンフレットを発行しています。
更に1935年にはホノルル・スターブリテン誌に日本人コミュニティについて記事を書き、日本人のハワイ移民50周年を記念した特別版を作成しました。

また同年、東京での日米学生会議に出席する事となり日本へ渡っています。
会議の後、Takashiは両親の出身であるは熊本に1人で行きました。
日本語はあまり話せませんでしたが、良い経験をしたと語っています。

なお後に妻となるMarry Yuki Miwaとはハワイ大学2年の時ににYMCA主催のキャンプで知り合ったようで、大学中から付き合いをしていました。

Takashiは1937年に推薦を受けてアメリカ本土、テキサスのベイラー法律学校へ入学します。
テキサスに来た彼は初めて黒人に対する差別を目の当たりにします。
またネイティブアメリカンの友人を作り、アメリカのこれまでの歴史や、人種について考える機会が増えたようです。
彼は法律学校を3年で卒業しますが、司法試験の合格には至らずハワイへと帰ります。
※戦後、司法試験に合格し弁護士となります。

ハワイへと帰ったTakashiはその年の12月にマリー・ユキ・ミワ(Marry Yuki MIwa)と結婚します。
Yukiは福島県出身の両親から1913年に産まれ、父親の職業は医師で元々は武家だったそうです。おそらくは会津の方だったのではないかと思います。
兄の1人は日本へと帰り、陸軍将校だったようですが詳細は不明です。
大学卒業後はハワイ州の事務局で秘書として働いていました。
結婚後、彼女は赤十字の支援を得て夫の居る第100歩兵大隊を追いかける事となります。
支援があったのも最初のキャンプマッコイだけで、後にシェルビーのあるミシシッピ、さらには演習先のルイジアナまで彼女は大隊を追いかけます。
その行程には後に第100大隊長にまでなるMituyosi Fukudaの妻、Toshiko Fukudaも居ました。



結婚式の写真、と書かれているキャプションもあるが部隊章からキャンプ・シェルビーに居た頃であり、1943年の夏、欧州出征前に記念で撮影したものと考えます。


Takashiは結婚直後に陸軍に徴兵され3~4ヶ月の基礎訓練の為にスコフィールドバラックスに召集されます。
召集された兵士は様々な人種が混ざっていましたが、下士官以上はすべて白人だったと語っています。
その後、ハワイ州兵第298歩兵連隊へと配属され(※マウイ島出身者は299歩兵連隊の筈ですが、ホノルルで徴兵されたからなのかもしれません)更に訓練を受けます。


最初の徴兵によってスコフィールドに居た頃の写真と推察します。

1941年9月、28歳となっていたTakashiは年齢制限の為に除隊します。
除隊後ホノルルの行政職を得て働いていたTakashiは12月7日を迎えます。

12月7日朝、騒音に目覚めたTakashiは家を出た所で多くの航空機が飛んでいるのを目撃します。(※それが日本軍機であったかどうかは判りません)
直後にラジオで予備役の招集を聞き、彼は298連隊へと連絡し、再び召集されます。

召集されたTakashiはE中隊に配属され海岸警備に当たります。
武器は小銃と機関銃、そして迫撃砲がありましたが、陣地も含めてとても充分とは思えず不安にかられたそうです。

1942年6月に第298、299連隊から1432名の日系人(と少数のハワイ系、朝鮮系等を含む)がSSマウイ号に乗せられて本土に移動。本土に着いた時点で第100歩兵大隊と編成されてウィスコンシン州のキャンプ・マッコイへと移送されます。


キャンプマッコイ。1942年夏頃の写真と思われます。階級はSgt.です。



キャンプマッコイ。1942年~43年の冬頃と思われます。SSgt.に昇任しています。

Takashiは戦前の従軍経験があった事と高等教育を受けていた事から下士官となり当初はCpl.後にSgtとして訓練に励んでいましたが更にSSgt.へと昇任しB中隊の小銃分隊長に指名されます。

当時のB中隊長はクラレンス・R・ジョンソン大尉 (Cpt.Clarence.R.Johnson)で白人でしたが、ジョンソンは海外派遣前に転属しています。
次の中隊長は日系将校Cpl.Taro.Suzukiでした。
後にB中隊長として名を馳せるCpl.Sakae.TakahashiはF中隊に居ました。

マッコイでは訓練の傍ら、週末にはスパルタやラクロスと言った町に出て楽しむ事も出来ました。
あまりに多くの酒を飲むので大隊長ファーレント・ターナー中佐(Lcl.Farrant.Turner)が「ウィスコンシンを干上がらせてしまわないように」と注意した程だったそうです。

1943年2月にミシシッピー州のキャンプ・シェルビーへと移った第100歩兵大隊は更に実戦的な訓練や演習を行ないます。

1943年8月20日 大隊はキャンプ・キルモアを経てニューヨークのブルックリンからジェームス・パーカー号(USS James Parker (AP-46) )に乗船、欧州へ派遣されます。
1943年9月2日に北アフリカ・アルジェリアののオランに上陸した大隊は当初、鉄道警備の任務を与えられる予定でしたが大隊長以下の抗議により実戦部隊である第34師団隷下の第133歩兵連隊に第2大隊として配属されます。
9月22日にイタリア戦線、サレルノに上陸。
上陸戦闘こそなかったものの兵士、装備、車両が上陸時に水没し大変な目に合います。

そして9月29日。第100歩兵大隊はベネヴェントの近くで初めて敵の砲弾の洗礼を受け、朝日野球団のエースであったShigeo Joe Takataを初めとする犠牲を出します。
JoeはTakashiの友人でもありました。

この戦闘の後、Takashiはそれまでの実力を評価されB中隊の先任下士官=1StSgt.へと昇任します。
それまでと違い、中隊すべてを管理する役職にTakashiは当初困惑しますが、その役目を果たして行きます。


1943年イタリアでの写真。階級ははっきりと見えませんが、1Sg.またはMsg.と思われます。


10月にはヴォルトルノ川の渡河作戦では、夜間戦闘の混乱で中隊をはぐれ、Pvt.1名と取り残される経験をしています。

11月の600高地の戦闘では、先に前進した部隊が進路にトイレットペーパーを置いてあるのを目撃します。
それは地雷の位置を示していました。
しかし風で飛ばされたりもあり、多くの兵士が地雷の犠牲になりました。

そして1944年1月、モンテカッシーノの戦闘が始まります。
高地を下りながらの戦闘、何本もの溝があり飛び降りる事ができません。
部隊は間に合わせの材料ではしごを急造して下りますが、その途中にも敵の射撃を受けました。
副大隊長だったジャック・ジョンソン少佐もそこで戦死しました。
ジョンソン少佐は最も日系兵に人気のあった白人将校で、戦前からハワイ大学でフットボールのキャプテン兼スター選手で、それを知る者も多く大隊に居ました。
少佐が撃たれた際、すぐに救出と手当てを命じましたが、夜間の混乱で少佐の後送が後回しになったしまうミスがあったとドウス昌代著の「ブリエアの解放者たち」には記述されています。
それによると、当初は息子が第100歩兵大隊に配属された事を喜び、自身で配合させたハイビスカスの新種に「ワンプカプカ」※100の意味 と名づける程だった少佐の父親は、救出の順序を間違えて戦死させた事を悲しみ、戦後は怨みにまで思っていたとの事でした。

そしてTakashiもまたカッシーノで負傷します。
カッシーノから撤退した翌朝、彼は先任下士官として中隊員を確認し、その無事な兵の少なさに愕然とします。
192人で編制される歩兵中隊、その中で無事な兵はたったの28名でした。
直後に砲弾が降り、Takashiは鎖骨を折って昏倒します。
気付いた時には野戦病院に居ました。

約1ヶ月の治療の後、彼は中隊へと復帰します。
部隊には多くの失われた兵士の代わりに本土の第442連隊から若い補充兵が送られてきます。
Takashiは先任下士官としてそれらを各小隊へ割り振る仕事がありましたが、それは胸を痛める仕事でした。
斥候やパトロールが遭遇する小規模な戦闘には犠牲者も出ます。
その多くは戦闘に慣れていない補充兵でした。
送ったばかりの新兵が数日後には戦死者として記述しなければならない名前になっている事をひどくく悲しみました。

Takashiもまたハワイ兵と本土兵の仲が順調でなかった事を語っています。
曰く、言葉も生活も人生観も違う。ということです。
しかし、戦闘を経て彼らの関係は改善されていったとも話しています。

1944年9月、第442連隊戦闘団の第1大隊となっていた第100歩兵大隊は連隊と共にフランス戦線へと転戦します。
Takashiはこの時休暇を得て、A中隊長だったMituyoshi Fukudaと共に一時帰国します。
帰国したTakashiはシカゴで妻と会うことができました。
なおB中隊の先任下士官は1Sg.Yutaka Suzukiに交代しています。



休暇で帰国したシカゴでの写真と推察します。階級章は付けていませんが、34師団章を右に着用しています。


その後前線に戻ったTakashiはシャンパン・キャンペーンを経てゴシックラインの戦闘に赴きます。
終戦後は充分なポイントを得ていたため、最初の帰国グループの1人として妻の下へ戻りました。
当時イリノイ州シカゴで働いていた妻Yukiとシカゴで1年を過ごしながら法律の再講習を受け、司法試験をパスします。
その後ハワイへと戻り、2年間退役軍人局で働いた後にホノルルの検察庁に入庁しました。


判事に任命され、宣誓するTakashi.宣誓する相手、最高判事は同じく第100歩兵大隊出身のJack Mizuha.

さらにハワイ労働省監督官を経て1962年には裁判所判事となります。
しかし共和党員だったTakashiは知事が民主党になってからは判事に任命されていません。

その後第100歩兵大隊Veteransクラブ会長なども歴任しますが、戦闘で受けた傷が原因の難聴のため、自ら役員を退くことになります。


2016年8月9日 永眠 104歳。

B中隊では「キット」と呼ばれ、戦後は判事だった事から「ジャッジ・キタオカ」と呼ばれていたそうです。  


Posted by 先任  at 14:58Comments(0)そのたミリタリ日系部隊史

2019年12月05日

軍艦防波堤

先日、北九州市の軍艦防波堤へ行ってきました。

ご存知の方も多いと思いますが、ここには帝国海軍の駆逐艦3隻が除籍後に防波堤として固定され、現在も船体の一部が残っています。
駆逐艦=軍艦じゃない、と言う突っ込みは別にして下さっても構いませんが鼻で笑い飛ばしますw
なお正式な現在の名称としては「響灘沈艦護岸」と言います。





1948年に実施された護岸工事にて、駆逐艦「涼月」「冬月」「柳(初代)」の3隻がコンクリートで固められ、船体内部には砂、岩石が詰め込まれたそうです。






現在は柳が辛うじて船体の原型を留めているものの、涼月と冬月はコンクリートの下に埋まり見ることができません。




柳の艦首部もこのような感じになっています。








船体の構造を垣間見る事ができます。






艦尾にあたる部分です。大正時代に就役した駆逐艦「柳」の特徴が伺えます。








こちらは「柳」の艦首に程近い場所で、工事当時の写真や位置関係からは「涼月」の船体がある場所に合致しますが、果たしてこの金属部分が本当に「涼月」の船体なのかは確証はありません。

小学生の頃に読んだ本に坊ノ岬沖海戦における涼月のエピソードが載っており、それに非常に感動した記憶があります。
SB2Cヘルダイバーから投下された150kg爆弾が前甲板に命中し、艦首部に大破口、艦橋も破壊された涼月は、前進すると浸水が増大することから後進で佐世保まで帰投することとなります。
その間、前部弾薬庫で気密を維持するために3名の乗員が中からハッチ等を固定して脱出路を自ら断ち、戦死されました。
涼月は海戦の翌日に後進のまま佐世保に到着(途中で漁船に「援護する」と信号を送られた話もおありますね)、ドックへ入渠させるも排水を待たずして着底したとあります。

涼月が気になった私は、市の図書館で探した本の中に「軍艦防波堤」として涼月が残っていると言うことを知り、いつかは行ってみたいと長年思っておりました。

今回30年越でようやく念願が叶いました。














防波堤を後にして、近くにある慰霊碑にも行きました。
戦没こそしていませんが冬月、涼月共に坊ノ岬沖海戦では数十名の戦死者を出しています。
また柳については、実際に防波堤となっているのは1940年に除籍された初代の桃型駆逐艦「柳」ですが、慰霊碑を建立する際に松型駆逐艦「柳」(二代)と誤認されてしまったようです。
なお、初代柳は第一次世界大戦における地中海派遣艦隊の一隻として海上護衛等に活躍していました。  


Posted by 先任  at 10:55Comments(0)そのたミリタリ

2019年04月09日

2019 アロハ桜植樹1周年花見会

平成も残す所あと1か月となりました。





4月6日に舞鶴共楽公園において、アロハ桜の植樹1周年を記念して花見会を開催いたしました。

花見会には遥かハワイから第100歩兵大隊ベテランズクラブのプレジデント、AnnKabasawaさん夫妻や同じくベテランズクラブの世話役であるJayneHirataさんの息子さんであるDanteHirataさんもご参加下さりました。










午前8時過ぎから集まった保存会メンバーで、記念碑とアロハ桜周辺の清掃をしました。




また植木屋さんに新たに堆肥を入れてもらい、植樹した新しい桜達も綺麗にお色直しとなりました。



昨年植樹したばかりの苗木にもう花が咲きました。
想像したよりはるかに立派な花に驚くやら感動するやら。










清掃作業と並行しながら”Hanami”の準備もします。
公園管理の役所にて、事前に使用許可をとっておいたのでフィールドレンジを持ち込み、関東炊き(おでん)と焼鳥を加熱調理。
完全な「再現」では無いですが、1950年頃にあっておかしくないもので用意をしました。
また軍装に関しても公共の場所である事から事前にイベントの趣旨を説明し、許可を取っています。






そうこうしているうちにハワイからのゲストも到着し、久しぶりの再会を喜びます。
保存会とBCoのメンバーはそれぞれにハワイを訪れ、ベテランズクラブの皆様にお世話になっています。



皆様が揃った所で乾杯、Hanami会の開始です。







懐かしい話やこれまでのエピソードに花が咲き、会は盛り上がりました。




オリジナルのフラの披露もありました。
足場の悪い中、素敵なフラをありがとうございました。








たくさん飲んで食べて語らって、最後に集合写真などを取り、ました。
今回のHanami会では植樹した苗木の成長を祝い、またハワイからのお客様を歓迎するのが第一義でしたが、並行してBCoの家族会的なイベントにもなり、家族間の交流になった点も良かったと思います。
その後は一旦解散。
ハワイからのゲストにはBCoメンバーの案内で観光に行っていただき、その間に残ったメンバーで片付け。


片付け終了後、一旦解散し、再度夜に一部のメンバーが集合。
ゲストの皆様のホテルに程近い居酒屋「きらくや」さんにてディナーを実施しました。



















ディナーではリエナクトメントの話や、まだご存命のベテランの話などをすることができました。
「きらくや」さんは、昨年の植樹式でも前夜祭でハワイからのお客様をお迎えしたお店で、たいへん美味しくサービスも良いので気に入っています。
今回も良い宴になり、ゲストの皆様にもとても喜んでいただけたようでよかったです。

  


Posted by 先任  at 13:49Comments(0)そのたミリタリ

2018年04月07日

アロハ桜植樹式に伴う観光編 Vol.2



アロハ桜植樹式に関しては、前日レポートしました。



また式典の様子は編集してYoutubeにもアップロードしておりますのでご覧下さい。
今回は「観光編2」として、植樹式の後、ハワイから来られた方々を案内したルートをご紹介します。

植樹式終了後、近くで借りていた公民館の会議室にて昼食、懇談会を実施しました。









簡単な弁当(散らし寿司、大豆サラダ)でしたが、喜んでいただけたようで良かったです。

植樹式では式典中心でしたので、あまりお話できる時間もありませんでしたが、ここで懇談する事ができました。



また、この公民館はすぐ隣に中舞鶴グラウンドがあり、窓からグラウンドを見て頂く事ができました。
そして、持ち込んだ日米の戦中、戦後頃の野球用具も併せて見て頂く事で、集まって下さった皆様に日系兵士達と舞鶴市民との野球の試合について想いを馳せていただけたかと思います。

※アロハ桜と野球についてはアロハ桜保存会Webサイトをご覧下さい。










昼食後は引揚げ記念公園へ。
満州、シベリアからの帰国者を迎えていた桟橋(レプリカ)で記念撮影できました。
MIS日系兵もここで帰国者の尋問等に当っていました。
記念館内もMISリエナクターの通訳で案内する事ができました。














引揚げ公園の次は五老ヶ岳スカイタワーへ。
ここは海軍の高射砲が設置されていた場所でもあり、近畿100景の1位(らしい)と言うこともあって、観光の締めくくりとさせていただきました。
時間帯的にもちょうど日没で夕日を楽しんでいただけたかと思います。










観光の後、一旦ホテルで休んでいただいた後で最後のディナーとなりました。
ホテルに多少無理を言って準備していただきましたが(普段は朝食のみで夕食はやっていない)、大変良い内容で良かったです。
時間も多めに取っていたので、MISベテランのエノモト氏、アラカキ氏の他第100大隊クラブのカバサワさん、テシマさん等とも多くの会話をする事ができ、大変貴重な時間となりました。
遥々遠くから来ていただいた事、またオリジナルの桜を贈って下さった事を代表してこちらが感謝を示すつもりでしたが、終始皆様から逆に感謝されるような事が多くあり、大変恐縮しました。
それもまたアロハの精神なのでしょうね。
もちろん、植樹にご協力下さった全ての皆様のおかげでもあります。
本当にありがとうございました。

もうこのような機会は二度と無いかもしれません。
だからこそ、今回日本に来て下さった方々には、とても印象に残る旅になった事には大きな意味があったと思います。

今後、私と保存会としては新しい桜の世話、手入れやオリジナルの桜の見守り等を責任を持ってやっている必要があります。
また、ReenactmentGroup「BCo/100Bn」としては、Veteranの皆様から伝えられた事を大切に、心に刻み活動していく必要があるでしょう。

以上で、アロハ桜植樹に関するレポートを終わります。
ありがとうございました。








  


Posted by 先任  at 12:04Comments(0)そのたミリタリ

2018年03月21日

アロハ桜植樹式に伴う観光編 Vol.1



アロハ桜植樹式に関しては、前日レポートしました。
今回は「観光編」として、ハワイから来られた方々を案内したルートをご紹介します。

植樹式は3月10日でしたが、ハワイからの方々は前日の9日のお昼に舞鶴に到着されました。
私自身は9日は午前中は公園で明日に向けた作業に従事し、昼前に離脱。
着替えて駅へ出迎えと忙しい身でした。



しかし東舞鶴駅について、ゲストの皆さんを見た瞬間疲れも吹き飛びました。
私が出迎える側だったにも関わらず、皆さんから暖かく迎えて下さったようでした。
ランチの希望は「うどんかラーメンあたりで」との事でしたので、方々当りましたがこちらからの出迎え、取材陣含めて14人の大所帯で入れる場所はそうはありません。
結局、某丸亀でランチに。



英語のメニュー等も無く、全員分の注文とシステム説明するだけで大汗かきました。。。。w









昼食後は、海上自衛隊舞鶴地方総監部の海軍記念館を見学に。
別に海軍の歴史や自衛隊の広報をするつもりはありませんが、この海軍記念館は戦前からの建物で、終戦後は進駐軍の事務室やダンスホールに使用されていたため、是非見てもらいたいと考えていました。





また、敷地内のすぐ近くに「アメリカ兵慰霊碑」と言う物があり、そこも見ていただきたかった為です。
なおこの慰霊碑に関しては詳しい事が伝わっておらず、誰が建立したものかもわかりませんが日付は1953年5月30日となっており、また掘られた文字からWW2及び朝鮮戦争で無くなった陸海空軍、海兵隊すべての戦死者を慰霊するものであろうと思います。
おそらくは、総監部内にある日本の慰霊碑を見て、作られたまたは進駐軍が去る前に日本側で建立したものではないかと考えます。

総監部を後にし、続いて海上自衛隊の官舎前へ。




※写真は以前撮影したもの。
ここは終戦までは水交社があり、戦後はその水交社の建物をそのまま進駐軍のCIC(防諜部)の本部として使用していたものです。

その後は自衛隊の岸壁と艦艇を見学していただきました。

ようやくホテルにチェックイン可能な時間となったので、ホテルまで送り、一旦別れます。
皆さんには部屋で休む&温泉でゆっくりしていただいている間に私は公園へと戻って作業の確認に。
不在の間も黙々と作業を続けて下さったショウちゃん、鶴ちゃん、ストランスキー氏に心から感謝いたします。

さて、作業終了後は一旦帰宅してシャワーを浴び、着替えて再度出かけます。

ハワイからの皆さんを迎える歓迎会の夕べの為です。











歓迎会はホテルにほど近い居酒屋「きらくや」さんで実施しました。
2週間程前から仮予約して、色々調整してましたが大変良いお店だったと思います。





ハワイの皆さんも喜んで下さったようで何よりでした。

と言うことで、観光編は次回へと続きます。。。。


  


Posted by 先任  at 17:29Comments(0)そのたミリタリ

2018年03月16日

アロハ桜植樹 星条新聞&準備作業について

皆様のご協力とご支援あって先日、無事に終了しました「アロハ桜」の植樹式ですが。。。
今回は、その事前準備の様子をご紹介いたします。

の、前に。
今回の植樹式はアメリカ軍の歴史ある機関紙「Stars&Stripes」日本版のWeb版に掲載されました。
日米の友好と絆を示す内容のイベントと言うことで、紹介してくれたようですが、BCoによる再現=リエナクトメントについても言及されています。
ありがたい事でした。

さて、準備作業について。
まずはビフォーアスターから。










ご覧のように寂しい公園の一角と言うことで、草もぼうぼうで敷石等も汚れていましたが、約1週間の作業で見違えるようになったかと思います(言いすぎ?)

作業は植木屋「ショウ」さんと、なんでも屋「みみかき」さんを中心に始められ、草刈、植樹場所の確保、他の団体によって植えられたバラの移植と架台の整備、垣根の手入れ、古い記念碑土台の補修整備、記念碑への道の敷石の敷き直し、新しい案内プレートの設置、周囲の整備、周辺の清掃など多岐に渡り、また前々日、前日は雨天の中での作業となりましたが、皆さんの頑張りでそうにか式典に間に合うことができました。



垣根手入れ、案内板基礎製作。


古い記念碑土台の補修。


目的不明で朽ちていたブロック、コンクリート台の撤去。




新規案内板の設置。周辺整備。







植樹架台の作製

ここまでが前日までの作業で数人で頑張っていただきました。
大変な作業だったと思います(私も多少、手伝いましたが)


そして植樹式当日。
BCoリエナクターが全力投入で数時間で作業を行います。






新しい、真っ白い敷石を入れて道を整備します。








将校を通じ植木屋さんの指導を受けながら植樹の準備と、実際に桜の植樹を行います。


汚れていた案内プレートの周囲にも新しい敷石が入れられ、綺麗に。







作業によって汚れていた道も綺麗に洗われます。





完成間近。案内プレートの養生が取り払われました。


途中、陣中見舞いに来て下さった、第100歩兵大隊HQ中隊のHosokawa氏のご息女と歓談。







作業が終わったら、即式典の予行を始めます。
もちろん失礼の無いように靴紐や帽子の位置についても統制、確認。

そして、式に臨みます。
式典の様子は前回へ
アロハ桜についての詳細は「アロハ桜保存会 Webサイト」へ

















  


Posted by 先任  at 16:31Comments(0)そのたミリタリ

2018年03月12日

アロハ桜植樹式

2018年3月10日 1200~
京都府舞鶴市余部の共楽公園にて、アロハ桜保存会主催による、アロハ桜植樹式を実施いたしました。
※アロハ桜、及び今回の植樹の経緯については保存会Webサイトをご参照下さい。

ReenactmentGroup「BCo/100Bn」は植樹式プログラムによる「再現植樹」への参加と、全般協力を致しました。


ベテラン2名とBCo アロハ桜記念碑(以前からある物で、清掃と基礎の補修を実施)の前で







今回の植樹式では遠くハワイからLawrence Enomoto氏(現ハワイMIS退役軍人会会長 U.S.AIirForce退役少佐 元MIS語学兵)とGlen Arakaki氏(元MIS語学兵 舞鶴駐屯経歴)の2名ベテランと、Isami Yoshihara氏(U.S.AIirForce退役軍人)、Enomoto氏ご子息、Arakaki氏のご令孫、そして第100歩兵大隊退役軍人会からAn Kabasawa氏夫妻(第100歩兵大隊B中隊 Raymond Nosaka氏ご令嬢)、Dona Teshima氏親子(第100歩兵大隊C中隊 Michio Teshima氏※1945KIA ご令嬢)の9名の方がご出席下さいました。
また日本在住のAnne Shirai氏(第100歩兵大隊 HQ中隊 Fred Hosokawa氏ご令嬢)にもご出席いただきました。






植樹式は司会の進行により、ラッパ「To The Colors」を吹奏。
※米国で国家に順ずるラッパ譜 国旗掲揚、降下時等に使用。
続けてラッパ「君が代」を吹奏。






執行者挨拶として私「先任」が挨拶をさせていただきました。
挨拶分内容は下の方に記述しています。
なお、BCoのMISリエナクターが、同時通訳にて英語でハワイの方々へ伝えています。






来賓からの祝辞。
ハワイMISベテランズクラブ会長、Enomoto氏よりお言葉をいただきました。
全文は後に翻訳して紹介致しますが、要約は以下の通りです(記憶からなので、多少間違いがあるかもしれません)
なお、この時もBCoのMISリエナクターが今度は日本語で日本人側に理解できるよう、その場で通訳いたしました。

「今日、この場所に会長である私以下退役軍人会をお招き下さり大変感謝しています。
特に私の前に整列しているアメリカ軍の制服を着てる人々に敬意を表します。
あなた方は日本とアメリカを代表し、太平洋と欧州で命をかけて戦った人々をも代表している事を忘れないで下さい。
ここに日本占領時代にMISとして舞鶴で勤務したMISのArakakiさんを紹介します。
彼はこの舞鶴で勤務したMISの方々を代表して出席に尽力し、またこの桜を植えた記念の代表でもあります。

今日ここにリエナクトメントとして桜の植樹が行われる事、その記憶が受け継がれる事を大変光栄嬉しく思います。
この物語を記憶に残す活動に感謝します。

私は事前の調整段階でのメールでのやり取りの中で、Enomoto氏に我々が軍服を着て、階級章を付けて再現を行っている事を伝え、またその事を許していただけるかの話をしていました。
Enomotoさんの言葉は、非常に深く心に刻まれました。
私自身は涙が溢れました。
ここに集まっていたリエナクター全員が同じ思いだったでしょう。
これは、日本中でリエナクトメントに限らず、また現代、過去問わず他国や日本の軍服を身に着ける事のある方々に聞いていただきたい言葉である、と思いました。












ご祝辞を頂いた後、再現植樹を行いました。
この数ヶ月、調べに調べた1950年の舞鶴駐留アメリカ兵(日系語学兵)のレギュレーション。
そしてまたレギュレーションに合わせる為、国内は元より海外通販や海外オークションも使って規定を揃えるのにメンバーは奔走しました。
友人である植木屋さんのご指導の下、5本の「春めき」と5本の「陽光」計10本の桜の苗木を植樹しました。








再現植樹に引き続き記念植樹としてハワイからの来賓やご寄付に協力下さった方々、新聞記者の方々、BCoの家族等来場下さった方全員に植樹作業をしていただきました。
記念として、心に残っていただければ、と思います。






式典の最後に、保存会代表より挨拶をさせていただきました。
MISリエナクターによる通訳も実施。

式典については、以上で終了致しました。




この後、借りていた公民館の一室に移動して昼食、懇談の後舞鶴観光を実施いたしましたが、それについては次回、ご紹介いたします。

最後になりましたが、この数ヶ月様々な形で「アロハ桜植樹プロジェクト」にご協力下さった、すべての皆様に心から感謝いたします。
本当にありがとうございました。
無事に式典を終え、またベテランの方々に喜んでいただける事ができました。
また、私の挨拶でも述べておりますが、植樹した桜の手入れ成長、更にオリジナルの桜についてはこれからが本番となります。
引き続き、ご支援を応援をお願いいたします。


アロハ桜植樹式 執行者挨拶
「アロハ!
皆様、本日はお集まりくださりましてありがとうございます。
この度、新たなアロハ桜の植樹を執行させていただきます小田です。

私は約20年程前にハワイ日系人と第100歩兵大隊に興味を持つことになったのですが、ちょうどその頃にこの共楽公園のすぐ近くに住んでおりました。
偶然通りがかった際に、このアロハ桜を知ることとなりましたが、思えば縁のあるものと思っております。

本日は日本中のみならず、遠くハワイからもMISベテランズクラブのエノモト会長を始め多くの方々がお集まり下さいました。
これもまた、ご縁のあるものと感じます。

私があらたな桜の植樹に至った縁。
そしてオリジナルのアロハ桜が植えられた縁。
これを大切に、未来へと語り継ぐ事。
そのための第一歩として本日があります。
この数ヶ月、この日の為に準備をしてまいりましたが、今日が終わりではなくスタートなのだと、改めて認識いたします。

今後とも、皆様方のご協力とご支援をお願いいたします。

はなはだ簡単ではありますが、執行者からの挨拶とさせていただきます。
本日はありがとうございました。

2018年3月10日 アロハ桜保存会 植樹式執行者 小田秀憲

Mahalo!」



アロハ桜保存会 代表挨拶
「Aloha!
本日は、新たなアロハ桜の植樹式に、皆様お集まりくださり 誠にありがとうございました。
遠くハワイからも、所縁のある方々にご出席いただけました事をとても嬉しく、心より感謝申し上げます。
1950年当時のアメリカ軍日系兵士の姿で作業して下さったリエナクターグループの皆様にも厚く御礼申し上げます。
アロハ桜保存会を代表し、ご挨拶させていただきます事を光栄に存じます。

オリジナルのアロハ桜は、戦後間もない1950年、舞鶴に赴任されたハワイ出身の日系二世アメリカ人兵士達と舞鶴市民に寄ってこの地に植樹されました。
100本の桜の苗木は、当時まだ31歳の若きMIS兵、タカキ・フジオさんが、「日本の人達のために何かをしなさい」という親の教えに従い、戦中から貯めておられたお金で購入してくださったものでした。
親子で苦難の歴史を歩まれながらも、戦後の日本の復興を願って、舞鶴に贈って下さった「アロハ桜」。
その物語を感謝を持って語り継ぎ、傷んだオリジナルの桜の管理と、新たな桜の植樹、育成を目的として、昨年の12月、私達は「アロハ桜保存会」を結成いたしました。
それから3ヶ月という短期間で、このような植樹式を実施出来ましたのも、
ひとえに皆様方のご支援の賜物と深く感謝申し上げます。

植木職人の中村様が全面的に作業を請け負って下さり、
舞鶴市役所を始め、リエナクターグループの皆様の献身的なご協力無くしては実現できない植樹式でした。
クラウドファンディングを中心に、多大なるご支援・ご寄付をいただき、
10本の桜の苗木と物語を語り継ぐ案内記念板を購入、設置する事が出来ました。
1918年生まれのタカキ・フジオさんが御存命なら100歳の節目の年に、何か特別な導きをいただけたようで、全ての流れに言葉に尽くせぬ感謝の思いでいっぱいです。

この度植樹いたしましたのは、香りのとても良い「春めき」と、暑さ寒さに強い「陽光」という桜の品種です。
新たな「アロハ桜」として、これからこの地に根付き、すくすくと育ち、美しい花を咲かせ、日本とアメリカ・ハワイの友好平和の桜として、大切な役目を果たしていってくれることを祈念し、ごあいさつとさせていただきます。
ありがとうございました。
Mahalo!」








  


Posted by 先任  at 12:12Comments(0)そのたミリタリ

2017年03月23日

NHK-BSの442連隊戦闘団ドキュメンタリー 「失われた大隊を救出せよ~米国日系人部隊 “英雄”たちの真実」



さて、先日書いたNHK-BSの442連隊戦闘団ドキュメンタリー 「失われた大隊を救出せよ~米国日系人部隊 “英雄”たちの真実」が放映されました。
出かけていましたのでリアルタイムでは見れませんでしたが、録画して見ましたので感想を書かせていただきます。

まず総評として、良い内容だったと思います。
ボージュの森の戦闘に焦点を絞り、Veteranの証言をベースに構築した内容はよくまとまっており、特に誇大なエピソード等もなく事実をそのまま伝える姿勢だったと思います。
まぁ事実だけで充分にドラマティックなんですけどね。

西海岸での強制収容や忠誠心アンケート等についてはあっさりと、また第100歩兵大隊に関してはまったく触れず、といった内容でしたがシンプルで視聴者が理解しやすくするには必要な措置だったのでしょうね。

今まで442RCTについて詳しい本を読んだり、また文藝春愁の名ドキュメンタリー「ドキュメントアメリカ第442歩兵連隊:日系二世たちの第二次世界大戦」をご覧になられた方にとっては特に新しい話、事実は無く物足りなかったかもしれませんが、そうでない方に向けた作品でしょうから良かったと思います。

再現ドラマパートも、限られた予算や撮影日数の中で良くできていたと思います。
心配した偏った解釈や、日本人として日系人を理解しようとするような感覚は無く、また「大統領指令」に関しても一切触れられませんでした。やはりそれがあったと示すものは無かったのでしょう。

という事で、良い内容でしたよ。

Well, the NHK-BS 442 Regiment Combat Team documentary that I wrote the other day "Please rescue the lost battalion - the truth of the American Japanese troops" heroes "was aired.
I was out, so I could not see it in real time, but I wrote it and recorded my impressions as I watched it.

First of all, I think that it was a good content.
I focused on the battle of the Forest of Vosges and the content built on the basis of Veteran's testimony was well organized and I think that it was a posture to convey facts as it is without any particularly exaggerated episodes.
Well the fact alone is dramatic enough.

Regarding the compulsory detention and loyalty questionnaire on the west coast, we did not touch on the 100th Infantry Battalion at all, but it was simple but it was a necessary measure to make the viewer easy to understand .

Especially if you read a detailed book about 442 RCT, and also for those who watched the documentary Although it may not have been enough without it, I think that it was good because it would be a work for those who were not.

I think that the reproduction drama part was well done within the limited budget and the number of shooting days.
There was no worrying biased interpretation or feeling of trying to understand Nikkei as a Japanese, nor was it mentioned about the "presidential directive" at all. I guess there was nothing to say that it was there.

So it was good content.




と、言う感想だけで終わる事は誰も期待してないでしょうから、マニアらしい細かい話もしようと思います。
もちろんこれはマニアとしての感想であり、番組や製作者を批判するものではありません。

まずナビゲーターの呂敏さんの祖父について。

Anyone you think we do not expect only me to simple impressions.
I think I will make a detailed story like mania.
Of course, this is the impression of as mania, does not criticize the program and producer.

"Mr.Robin" who appeared as a program navigator
About his grandfather.





Hiroo Furuya 第100大隊D中隊
1917年12月6日ハワイ生まれでマッキンレー高校出身。
1941年3月25日24歳で陸軍に入隊、第100大隊創設時からのオリジナルメンバーです。
ブロンズスター、歩兵戦闘章授与者。
パープルハートと呼ばれる戦闘負傷章を授与されていない事から、一度も大きな負傷をせずに戦い抜いた方でしょう。
写真は入隊時の物とされていましたが、CIBが付いてますので44年以降の物と思われます。
男前ですね。
調べてみましたが、どうも重機関銃に配置されていたようです(確かではありません)

なお、呂敏さんがローソン・サカイ氏に紹介する際「100大隊Veteran」と言ってるので、実際には呂敏さんは祖父のルーツや42RCTと100大隊の違いについてもご存知なんでしょうね。

必ず家長の椅子に座っていた、と言うエピソードがニセイを感じさせます。
2012年8月29日 永眠。

Hiroo Furuya 100th Battalion D Company
Born in Hawaii on December 6, 1917, he is from McKinley High School.
On March 25, 1941, he joined the army at the age of 24, and is an original member since the establishment of the 100th battalion.
Those with a Bronze Star and infantry combat batch.
From things that have not been awarded a combat injury chapter called the Purple Heart, will those who even once fought without a big injury.
Photo would have been described as those at the time of enlistment, it seems that things have since 44 years with a CIB.
A handsome man.

It should be noted that, when the Mr.Robin to introduce to Mr. Lawson Sakai.
"100 battalion Veteran" was said.
Actually Mr. Robin knows about the grandfather's roots and the difference between 42 RCT and 100 battalion.

Episode saying that he was always sitting in a chief of a patriarch, makes me feel Nisei.
August 29, 2012 it died.


番組は開戦から第100大隊の出征、442RCTの創設、イタリア戦線までをさらりと流します。
これは尺の都合もありますし、今回焦点を当てているボージュの戦闘を描く為には必要な措置だったのでしょう。まぁ寂しくはありますが仕方ありません。

日系人への差別について、番組では真珠湾攻撃後にと言う様な話でしたがその以前から大きな差別があった点はきちんと言って欲しかったと思います。
また本土とハワイの温度差についても説明不足だったかと。

ブリエア解放に続いて、本題の失われた大隊救出に入ります。

Program is campaigning of the 100 battalion from the war, the creation of 442RCT, will flow without hesitation until the Italian Campaign.
This is It is also the convenience of the scale, will was the necessary measures in order to draw a battle of the Vosges that rely on this time focus.
There is no help.

About discrimination against Japanese Americans.
In the program said that it became big after Pearl Harbor attack.
However, I think I should mention from its previous and there was a great discrimination.
Also, it was insufficient to explain the temperature difference between the mainland and Hawaii.

Following the Bruyères release, the program will go to the "rescue of the Lost Battalion" of the main subject.



まず失われた大隊こと第141連隊第1大隊が包囲された経緯から、最初の救出に141連隊の他の大隊が失敗した件。
この件は実は今まであまりメディアには出ていません。
きちんと描いたのは良かったと思います。

その後、442RCTが投入されるくだりも「日系部隊だから」と言う点について断定せず、様々な可能性として放送した点は大変評価します。

First, I explained the circumstances that the first battalion of the 141st Regiment was besieged "The Lost Battalion".
The case that another battalion of the 141 regiment failed in the first rescue.
Actually this case has not really come up to the media much.
Neatly drawn was I think that was good.

Then, about the reason why 442 RCT was introduced.
Did not conclude that "because Japanese unit".
That was broadcast as a variety of possibilities are very much evaluation.

なお、このくだりについては先日、ブログに書いてますのでご参照下されば幸いです。
http://kfir.militaryblog.jp/e837723.html

その中で第36師団長ダールキスト少将の手記が出てきました。
これについては私は本などでも見た事が無かったので「JAP」の表記に驚きました。
しかも手記、戦後に書いたものですよね。本当に「JAP」と書いたのでしょうか?
これが事実ならば少将に人種差別のkらいがあったと言われても否定できないかもしれません。
「442RCT」と書けば良い、普通書くところを「JAP REGIMET」と書いているのですから。

Among them, the 36th Division Commander E. Dahlquist 's general accounts came out.
I was surprised at the notation of "JAP" because I never saw it in books etc. about this.
Moreover, I think this memo, what the general wrote after the war.
Is it really written "JAP"?
If this is the case, it may not be denied even if it is said that Major General had racial discrimination.
It is normal to write "442 RCT" for the general, but because it is written "JAP REGIMET".


ヒロ・ヒグチ氏にも焦点を当てていました。
ちなみに442RCTでは第100大隊にイスラエル・ヨースト大尉、第2大隊にマツオ・ヤマダ大尉、そして第3大隊のヒロ・ヒグチ大尉と3人の従軍牧師(いずれもキリスト教)が居り、更に第100大隊にはMoralOfficerとしてカツミ・コメタニ大尉が居ました。

ヒロ・ヒグチ大尉は1907年1月31日ハワイ、ヒロ生まれ。
ハワイ大卒で更に南カリフォルニア大にて神学の学位を取りました。
442RCTに所属してからのエピソードは番組の通りで、彼の残した記録や妻への手紙に綴られた兵士達の心情は442RCTの兵士達の貴重な記録となりました。
戦後はハワイに戻り、連隊で戦死した全員の家族を見舞ったそうです。

その後もVeteranの交流や日系人の立場の向上、布教活動にも努め1981年11月10日永眠されました。

The program also focused on Hiro Higuchi.
By the way, there were three served pastors at 442 RCT.
Captain Jostra Israel Jost to the 100th battalion.
Captain Matuo.Yamada to the second battalion.
And Captain Hiro Higuchi of the 3rd Battalion and 3 veteran pastors (all Christianity) existed.
Also in the 100th battalion there was Captain Tsutomu Kometani as MoralOfficer.
Captain Hiro Higuchi was born January 31, 1907 in Hilo, Hawaii.
He took a degree in theology at the addition of Southern California University in Hawaii college.
The sentiments of the soldiers who were spelled on the record he left behind and the letter to his wife became valuable records of 442 RCT soldiers.
After the war, Cpt. Higuchi returns to Hawaii and seems to have visited family members of all members who died in the regiment.

After that I also tried to promote exchange between Veteran and the position of Japanese Americans, missionary work.
It has been passed away November 10, 1981.



協会の建設を手伝うVeteranの写真として紹介されましたが、おそらく第100大隊B中隊のジェシー・ヒラタ氏と思います。
It was introduced as a photograph of the Veteran to help the construction of the association.
I think that it is probably Jesse Hirata of the 100th Battalion B Company.



ヒロ・ヒグチ氏が撮影した442連隊のどこかのKPの写真。
KP/442RCT

極秘資料について

日本は当時、日系人強制収容や黒人差別を扱い「アメリカは人種差別国家である」と宣伝していましたが(事実ですね)、日系人部隊を編成しアメリカ兵として戦う事はその反プロパガンダとなる、と言う点がルーズベルト大統領宛の書簡で紹介されました。
これは442RCTの編制にも深く関わりますが、同時に第100大隊が名を上げる要因にもなります。
もちろんすでにイタリア戦線で功名を上げていた第100大隊ではありましたが、メディアがこぞって取り上げ、更にその名を不動のものとして行きました。
様々な軍広報や従軍記者が第100大隊を訪れ、その写真や動画、記事を本国に送ることとなりました。
なお番組では今回公開された、となってますが以前から知られていた内容です。
冒頭で紹介した「ドキュメントアメリカ第442歩兵連隊:日系二世たちの第二次世界大戦」にも出てきます。

When the Japanese empire was WW 2, the Japanese empire reported Japanese American discrimination and black discrimination.
It was advertised as "the United States is a racist country."
To organize a Japanese American unit and fight as an American soldier becomes its anti-propaganda.
It was introduced in a letter addressed to President Roosevelt.
It is deeply involved in the formation of 442 RCT, but it also becomes a factor that the 100th battalion will raise its name.
Of course, already the 100th Battalion, which had raised the great achievement in the Italian Campaign
The media took up a whole thing and furthermore made the name immovable.
A variety of military public relations and war correspondent visited the 100th Battalion
They decided to send their photos, videos and articles to their home countries.
It should be noted that the program has been the first time the public, and he said.
But this is what has been known for a long time.

さて次は戦闘を解説するCGについて。
Well next is about CG to explain battle.



大変分かりやすくて良い手法でした。
特に地形を立体的に描き、各部隊の行動を駒で示していた点は良かったです。
ただ、実際の行動と比較すると??な部分も多かったですが、その辺は「わかりやすく」と言う点なのでしょう。
せっかくなので、他の連隊の動きやドイツ軍の防御についてもやって欲しかったとは思います。
さすがにこの「包囲」は無いが。。。。まぁ「わかりやすく」w
It was a good technique and easy to very understandable.
Especially, it was good that the topography was drawn in three dimensions, and the action of each unit was indicated by pieces.
However, it was often different from the actual action.
Will for the "easy to understand".
I think I wanted to display the movement of other regiments and the defense of the German army as well.



617高地 第2大隊
なんかすげー奇襲みたいに言ってましたが、普通の歩兵の戦術ですw


実際のボージュの森での撮影シーン。
友人ミカエル・バシロン・レミーが出てきました。
Shooting scene in actual Vosges forest.
My friend Michael Basilone Remy came out.



彼はここではまともな格好してますがw、第36師団(失われた大隊所属)のリエナクターでもあり、小さな頃からこの森で遊んでいて。色んな物を発掘していたそうです。
さすがに大人になってからは危険性に気付いて、金属探知機で地雷や砲弾が無いか確認しながらになったそうですが。

パウダー入りの銃弾が番組にも出てきましたね。

He is in ordinary dress, but Reenactor of the 36th Division (belonging to the lost Battalion).
I was playing in this forest from a young age. He seems to have excavated various things.
After becoming adults indeed it noticed the danger and it seems to have been checking for metal mines and land mines and cannonballs.

Bullet of powder containing came out as well to the program.





ちなみに我が家には彼と、また別の友人ロジェ・デ・アンフラジオから贈られた薬莢とレインコートの切れ端があります。
これは第100大隊の進撃路にあった塹壕から掘り起こされたもので、まず第100大隊が使用したものと見て間違いないようです。
By the way, in my house there is a piece of shell casings and a raincoat.
These were awarded by Michael and my friend Roger de Anfradio
This was excavated from the trenches that were in the stroke of the 100th battalion, and it seems that it is no doubt that it was used by the 100th battalion first.

さて、最後になりますが再現ドラマパートについて。
最初に言いますが、再現ドラマにおいて大切な事は、記録だけでは理解しにくい、わからない部分を映像化して見せる事であり、そこの軍装の再現は二の次です。
あれが違う、これが違うとマニアなので見つけてしまいますし、まぁ書きますがそれを持って批判してるわけではありません。
特に今回のドラマは全体的に大変よく出来ていたと思います。
その前提を書いた上で、まぁ書きますね。

About the reproduction drama part.
First of all.
The most important thing in the replay drama is to visualize the unknown part, which is hard to understand only by recording. The exact reproduction of the military is secondary.
It is different, you will find because this is different and mania.
I write it but I am not criticizing it with it.
Especially this time of the drama I think that was well done overall very.
Writing that premise, I will write it well.

まず装備、被服ですが全体的に悪くは無かったと思います。

被服について。
ほぼ全員がM1943フィールドジャケットを着用していましたが、ボージュの森の戦闘でも多く使用されていたのが確認できます。
ただ、比率としては旧来のODフィールドジャケット(通称M41)が多かった点、良い感じで混ざっていたら良いのにな、と思いました。
M1943フィールドジャッケトのパターンまでは言及しませんよw
そんなの、どんな映画もリエナクターも(もちろんBCoでも)やってません。
当時、多く使用されていたのはM1943、パターンA、パターンBであると考えられます。
しかしながら初期生産である点、損耗された点などから現存数が少なくよく見る実物はほとんどがパターンC以降です。
またレプリカもどのほとんどがパターンDをモデルに作っており、大戦当時にもっとも使用されたタイプはなかなか無いのが現状です。

ジャケットの下はウールパンツとウーツシャツでした。
時期的にもセーターを着込んでいるようですが、そのあたりも予算の都合でしょうか。仕方ないと思います。
マフラーは使用していましたが、網目の見えるような大戦時はあまり使用されていないタイプでしたね(赤十字社の慰問品等で存在はする)

足元はバックルブーツと、アンクルブーツにレギンスの兵が混在していた点は大変良かったと思います。まさにこの頃は混在していたのが写真でも確認できます。
さすがにオーバーシューやシューパックは用意が難しかったでしょうね。
もっとも履いてない写真も確認できますので、必ずでは無かったかもしれません。

First of all, I think that it is equipments, clothes but overall it was not bad.

About clothing.
Almost everyone was wearing M1943 field jacket. It can be confirmed that it was used a lot in battle of the forest of Vosges.
However, traditional OD field jacket as the ratio (aka M41) is often was the point.
I thought it would be nice if both of them were mixed.
M1943 Field jacket pattern is not mentioned.
Such the, what movies Reenactor is also not doing (of course even BCo).
At that time, it was thought that M1943, pattern A, and pattern B were used much.
However, from the point of initial production, worn points, etc., the existing number is small, most of the actual things that are often seen are from pattern C onwards.
In addition, most replicas are making patterns D as models, and it is the present situation that the type most used at the time of the Great War is not quite right now.

Below the jacket was wool pants and wool shirt.
Although it seems that in time basis to be dressed in a sweater, what circumstances also hit the budget. I think that it can not be helped.
Although it was using a muffler, it was a type that was not used much during the great war like seeing a mesh (it will be present as a memorabilia of the Red Cross)

I think that the point where the leggings soldiers were mixed in buckle boots and ankle boots was very good. It can be confirmed in the photograph that just this time was mixed.
It would have been difficult to prepare is truly over-shoe and shoe pack.
You can also check the wearing pictures, but maybe it was not necessarily.

ヘルメット。
当然のように大戦型は使用されてませんでした。
主役級だけでも使用して欲しかったが、まぁ仕方ない。
ノルマンディー上陸や空挺部隊で見られるタイプのヘルメットネットが使用されなかっただけでも良かった。
日系部隊は官給型の目の細かいタイプや独特のタイプのネットを使用しているか、ネット無しが多かった事が記録から確認できます。

helmet.
WW 2 type helmet was not used for the leading actors.
I wanted the WW 2 type to be used even with only the protagonists.
A helmet net of the type used by Normandy landings and airborne troops.
It was very good that it was not used this time.
442RCT use a lot of fine type of eye of government-furnished type.
Or using a unique large mesh type net, or no net.

小火器について
ま、プロップやしw
About small firearms
Decent small arms in the drama, which is produced in Japan would not appear.

ノブオ・アマカワ氏の戦死するシーンでは偵察、と訳してましたがポイントマンが正しいですね。
まぁ、セリフを書いた人は理解していたのでしょう。
ポイントマンが視聴者に分かりにくい、と言うなら偵察だってわからんじゃろw
ミリタリーかじってる人でも偵察をちゃんと理解してる人、少ないんじゃないかと良く思う。

In the scene where Mr. Nobuo Tenkawa is killed, it was translated as reconnaissance, but the point man is correct.
Well, the person who wrote the script would have understood.
If it says that it is difficult for viewers to understand pointmen, you will not know if they are scouts.
I think that few people understand reconnaissance properly in military mania.

ローソン・サカイ氏は本来の役職はBAR助手だったんですが、小銃手として出てましたね。

師団司令部の雰囲気はとても良かったと思います。
作戦当時、ブリエアいた36師団司令部はホテルを接収して使用していたようです。
なので再現ドラマのような状態だったと考えてもおかしくは無いと思います。
無線機などには突っ込まないでおきましょう。まぁ私もあまり詳しくないですし。
もしかしたら、あんなのもあったのかも。
I think the atmosphere of the division headquarters was very good.
At the time of the operation, it seems that the Bruyères 36 Division Headquarters took over the hotel and used it.

The radio is not that good.

連隊本部はスクワッドテントを使用して撮影していたようですね。
It seems that the regiment headquarters were shooting using a squat tent.
If we cooperate, the great regiment headquarters could be regenerated.



これは当時の記録写真にも無く、実際はわかりません。
ただ機材類はかなり少なく、連隊戦闘団の本部というには寂しい感じでしたね。
また兵士達の宿営天幕としてもスクワッドテントが登場しましたが、これは大きな問題であると私は考えます。



なぜなら当時、前線でこれらの大型天幕は本部や救護班等でしか使用しておらず、兵士達はシェルターハーフテントしか持ちませんでした。
しかも前線ではそのシェルターハーフテントですら張る事は困難で、せいぜいが掘った塹壕の屋根にしたり、くるまって寝る程度の事しか出来なかったと推察します。
彼らが連続した戦闘で疲弊していたのはこの野営、夜間の休息方法も大きな原因なのです。
ドラマではストーブの炊かれた大天幕で折畳みベッドを使用して寝ているシーンが映ります。



構成上はブリエアを開放後し、ビフォンテン村を第100大隊が占領、待機中のシーンであり最前線ではなく、やや後方に位置するシーンではありますが、それでも一般の小銃手等が大天幕で就寝していた事はありません。
接収、借受た農家や建物を使用する事はあっても、大天幕は無いのです。
連続した戦闘で疲弊していた事実が、このシーンで霞んでしまいます。
ここは、前線での劣悪な環境で仮眠を取る、歩兵の姿を出して欲しかったと思います。

Squad tents also appeared as soldiers' camping tents, but I think that this is a big problem.
Because at that time, these large tents were used only in headquarters, relief team, etc. on the front line.
The soldiers had only a shelter half tent.
Moreover, difficult to put even the shelter half tent in the front line.
At most the roof of the dug entered or around, sleeping around.
This camp is also a major reason why they were exhausted by consecutive battles.
In the drama, a scene sleeping using a stove or a folding bed appears.
After releasing the configuration on the Bruyères of the scene, waiting in the village. Not at the forefront, but the scene is located slightly behind, but still never rifleman had been sleeping in a large tent.
Even though we use farmers and buildings rented, we do not have a large tent.
Fact that had been battered in a continuous battle, will hazy in this scene.
Here, I think that I wanted to put out the figure of infantry of the poor environment in the front line.

なお、余談に近いですがヒロ・ヒグチ氏の回想で大天幕内の兵士が映るシーン。
ラッキーストライクとおぼしくタバコを咥える兵士が映りますが、このシーンは素晴らしかったです。



兵士が1本取り出したタバコを逆さにして自然に咥えます。
これは現代のフィルターのついたタバコでは絶対やらない行為です。これを自然にやっていたこのシーンは本当に素晴らしい。

Soldier will e mouth naturally in the upside down one taken out cigarettes.
This is an act absolutely not done in tobacco with a modern filter. This scene that I did this naturally is really wonderful.


また戦闘時にツリーバーストの描写がありました。
これはブリエアの解放者や、オヴィル・C・シャーレイの442連隊戦闘団にも書かれ442連隊とボージュの森の戦闘にとってはかかせないエピソードで、多くの兵士がこの砲弾で引き裂かれた木の破片で傷つきました。
バンド・オブ・ブラザーズでもバルジの戦いで同様のエピソードが出てきます。

以前民法で放映された日系人を扱ったドラマがありましたが、そこではツリーバーストが、木に当たった銃弾が弾けて飛んでくる、といったトンデモ描写がされていましたが、今回はそんな事はなくきちんと描写されていたので良かったです。
「ボージュの戦闘を描くなら必ず入れるように」と事前に言っていたのが効果があったかどうかはわかりませんがw
There was a depiction of a tree burst at battle.
This is an episode that is indispensable for the battle of the Vosges forest. Many soldiers were hurt by the fragments of the tree torn with this shell.
Even at Band of Brothers, similar episodes will come out at Battle of Bulge.

There was a drama dealing with the Japanese Americans that have been aired in the previous Civil Code.
There the tree burst was displayed with a bad mistake. This time has been well represented.
I said beforehand "If you draw a battle of Vosges, please be sure to enter", but I do not know if that is the effect.

ルディ・トキワ氏の回想で、WW1に従軍した父親がFBIに逮捕されるシーン。
すごい違和感があったんですよね。
軍籍にないFBIの捜査官であっても、合衆国陸軍の軍服を足で踏みにじるような事をするでしょうか?



いや、ドラマで飾ってあったのが日本陸軍の将校服の上着だったから、と言う意味ではなく。。。あれも言ってくれればあの男が用意できたと思います、踏まれるのは勘弁ですがw

「ブリエアの解放者たち」にはこうあります。
”FBIが戸口をノックした時、トランクから引っ張り出したかつての軍服を、なにげなく飾って迎え入れた。FBIは表情一つ動かさずにそれを一瞥したに過ぎなかった”

また他のインタビューでもトキワ氏は”FBIはその軍服とメダルを無視した”と話していました。
確かにWW1に従軍した一世をスパイ容疑で逮捕、拘禁するという事自体、大変な侮辱で差別的な扱いであった事と思います。
しかし、軍服を床に投げつけ足で踏みにじると言う描写は、本当にあった事でないなら、入れるべきでは無いと思いました。

In the recollection of Mr. Rudy · Tokiwa, the scene where FBI arrested by father who served in WW 1.
There was a sense of incongruity. FBI investigators have trodden the military uniform of his father in the leg.
Even investigator of not in the military register FBI, or will to do things, such as trample with a foot on the military uniform of the United States Army?

The had been decorated in the drama was the jacket of the Japanese Army officer clothing.
They probably were not ready costumes of WW1 US Army.
Although we could prepare.

In another interview, Tokiwa said that "FBI ignored that uniform and medals."
Certainly I think that arrest under the spy charge of Issei who served in WW 1 was a discriminatory treatment with a great insult.
But was there really a scene where throwing military uniforms on the floor and trampling on foot?
If it is not true, I thought that should not be included.

戦闘も終盤に差し掛かり、手榴弾を投擲するシーンがありました。基本姿勢に則って投げており大変良かったです。ただレバーは投げるまで離さない方が良いでしょう。

ドイツ軍の機関銃の射撃方法が、まぁ映画的と言うか「バババババババババ」と言う感じで、MG42らしく無かったのは残念ですが、仕方無いでしょうね。
それよりも土嚢を適当に積んだだけの陣地は残念でした。
とは言え、それも予算と時間の関係でしょう。
一晩かかってもちゃんと掘ってあげたのにw

There was a scene to throw grenades at the end of battle as well. He threw it in accordance with the basic attitude and it was very good. However, the lever is better to keep up to throw.

Shooting method of the German military machine gun.
It was not like MG42.
More than that, the position of the machine gun was bad at a bad time. .
That said, it would also be the relationship of the budget and time.
If you have me leave it to us, but was raised to dig properly even if it takes all night.


全体的にメインで映っている役者さん達の挙動は良かったと思います。
小銃の保持要領もまぁ変な現代風ではなかったですし。

さらっと見て、気になった点は以上でしょうか。

再三書きますが、再現ドラマにおいて細かい軍装等の描写は重要では無いと思います。
なので、これらの感想のほとんどはマニアとして思った戯言ですよ。
ですが、何箇所かは大事な意味を持つシーンもあり、そこはきちんと描写して欲しかったと思います。特に兵士達の宿営シーンや、トキワ氏の父親のシーンですね。

さて、これまで日本で作られた日系部隊関連の番組でVeteranやご遺族から高い評価を受けている作品はそうはありません。
この番組もいずれ彼らの見るところとなるのでしょうが、どのような感想を得られるのでしょうか?

あぁ、フランスのミカエルは「ディレクターがDVD送ってくれると言ってた。楽しみにしてるよ」と言ってましたよ。

I think that the behavior of the actors reflected in the main on the whole was good.
The way to hold the rifle was not modern.

I will write it again, but I think that depiction of fine military equipment etc is not important in the reproduction drama.
So, most of these thoughts is a nonsense that I thought as mania.
However, there are scenes that have important meanings in some places, I think that I wanted to describe it properly. Especially the campaign scene of soldiers and Mr. Tokiwa's father's scene.

That is my impression.
People of any overseas might also see this documentary.
How they evaluate, I want to know.

Thank you very much.

ReenactmentGroup BCo/100Bn in Japan. Hide Koda  


Posted by 先任  at 06:32Comments(0)そのたミリタリ日系部隊史

2017年03月09日

失われた大隊救出

迫撃砲班リエナクトの途中ですが、間に挟みます。


2017年3月19日19時からNHK-BS1にて下記の番組が放映される予定です。
BS1スペシャル
「大統領指令 “失われた大隊を救出せよ”」
http://www4.nhk.or.jp/bs1sp/

※当初、この記事を書いた2017年3月9日の時点では上記の番組タイトルで発表されていましたが、3月14日に確認した所番組名は「失われた大隊を救出せよ~米国日系人部隊 “英雄”たちの真実」に変更になった模様です。内容に変化があったかどうかは知るよしもありませんが、タイトルが変わったのは良いと思います。
なお、私はこのブログとTwitter、Facebookでは書きましたが直接NHKへ働きかけはしていませんw


この番組で制作会社とNHKから「番組の制作に協力してほしい」との依頼があり、昨年から何度かメール及び電話にて調整を行いました。
経緯としてはハワイやフランスで取材した方が現地の第100大隊クラブや、フランス・ボージュの友人であるミカエル・レイミー氏(番組にも出演しているようです)から私の事を紹介されたようです。


ミリタリヤマガジン表紙の彼、ミカエルw


詳しくは書きませんが、当初聞いた番組の製作意図、兵士達の扱いに疑問があり、私は意見として「現状では協力は困難。日系部隊に関して誤解がある内容であり、そのまま制作、放映するのは誇りを持って戦った彼らに失礼であり、日本でどのように紹介されるか興味を持っているVeteran、ご遺族の心情を考慮すべきである」との内容を送りました。
制作サイドからは「充分に了解しており、決して誤解を与えるような番組にはしない」との回答をいただき完全にではないものの一応の納得をして「では撮影の予定が決まれば連絡してください」という事を伝えてありました。

撮影予定日だけは事前に聞いていたため、参加可能なメンバーと日程調整、機材、装備、被服の準備等も行い(詳細を聞いたが「調整中」との回答だったため、あらゆる事に対応できるよう準備を行ってました)、待機していたのですが結局、別の手配で集まった方々で撮影を実施したとの事でした。

撮影内容も知人のFBやTwitterでチラチラと見ましたが。。。セット等を見る限りは「あぁ、協力したらもっと良い物になったのにな」と言う印象でした。
それ以上は放映を見てからにしたいと思いますw

もっとも、撮影部分はドキュメンタリーの中の再現ドラマ部分ですので、重要ではありません。
※もとより私自身は当時の兵士役として出演する気はありません。

ただ、我々を外したからには制作意図に関しての修正が効かなかった可能性のみ心配しました。

そして発表されたタイトルが冒頭のものです。

「大統領指令 “失われた大隊を救出せよ”」

見た瞬間「???」となりました。
大統領指令。 日系部隊、ボージュの戦闘に関して聞き覚えの無い言葉でした。
442RCTが包囲されたテキサス大隊=第141連隊第1大隊救出の命令を師団から受け、それを多大な犠牲を払いながらも成功させた事はあまりに有名です。
アメリカ陸軍十大戦史にも数えられ、その記念絵画もあるほどです。
しかし、それが大統領からの命令だったとは。
慌てて家の日系部隊関連資料を漁りました。


日本語書籍


英語書籍

でてきません。

公刊戦史にもドウス・昌代氏の名著「ブリエアの解放者たち」にも、おそらくすべての442連隊関連の元になっているであろう1950年発行の「442部隊」 ※原題「Americans」 オヴィル・C・シャーレイ著(442RCT情報将校)にも。
冒頭写真

ネットで検索すると、チラチラありましたがどれもその根拠は示されていません。
ウィキペディアには「10月25日には、第442連隊戦闘団にルーズベルト大統領自身からの救出命令が下り、部隊は出動した。」 とありますが、どこからの引用かは不明。
ちなみに英語版wikiにはその記載はありません。

あ、一つありました。



矢野徹著「442連隊戦闘団」 1979年発行 ※写真は同書のハードカバー版「442」 2005年発行

矢野氏の「442連隊戦闘団」は記録(実際は前述のAmericansの和訳)と、Veteran及び関係者へのインタビュー紀行及びそこからイメージしたと思われるドラマ=小説部分が混在した構成になっているのですが、そのドラマ部分に登場するジミィ・タムラ少尉と会話するホーキンス中隊長(階級不明)のセリフが下記の通りです。

「この失われたテキサス大隊を救出するため、これまで奴らの連隊の第2、第3大隊が出動したが、どちらもドイツ軍に追い返されてしまった。大隊は全滅寸前だ...それで、本国テキサス州の連中が騒ぎたて、大統領に圧力をかけたんだな.....大統領の命令はヨーロッパ戦線アメリカ軍最高司令部を通じて、われわれ36師団長ダールキスト少将に直接伝えられたってわけだ」

この矢野氏の著書は、当時日系部隊を紹介する本など殆ど無かった時代と言うこともありますし、日本において日系部隊を紹介した功績は大変大きいと私は思います。
ただ、同時におそらくは間違いではないか?と思われる点を後に残した点もあると私は考えます。
※決して矢野氏を批判するわけではありません。史実の記録と想像で書かれた物語を混在させて描き出す手法は読者にインパクトを与える上で重要であり、記録だけを読むのは普通は苦痛でしょう。これは当時素晴らしい本だったと思います。

この本のドラマ部分に登場する兵士の多くは「部隊に実在していない」名前です。
証言部分で登場するVeteranも実在の名前だったり名簿には無い名前だったり。
もしかすると、当時ご存命だったVeteranを気遣い偽名を使った可能性もあります。

また前述のジミィ・タムラ少尉はカッシーノ戦からの歴戦として書かれていますが、100大隊の名簿にその名は無く、また同時にカッシーノ戦の時の所属は36師団141連隊となっていたり、更には442のエピソードと100のエピソードが混在していたりもしています。

他にもテキサス大隊を救助した際のやりとりとしてたびたび引用される「ジャップ部隊」と言われて「ジャップとはなんだ!」と叱り、テキサンに謝罪させたエピソードもまた、この矢野氏の著作を始めとする日本の本でのみ見る話です。

もちろん部隊には多くの人間が居り、その他の話が絶対ではないですし、矢野氏自身がVeteranにインタビューしているので、他には語らなかったエピソードである可能性もあります。
しかし他の書籍で「救助した連中からジャップと言われた覚えは無い」 との否定的な話が多く、また部隊の攻撃は継続中であり、もっと淡々としていたような証言が多いのです。
過去のドキュメンタリーにあった「タバコあるかい?」と聞かれて「あるよ」と応えたVeteranの証言も、字幕では「あるよ」だったが実際の英語は「in messpan」と続いています。
これを私は「タバコはあるが、背嚢の食器の中だ。 今は出せない→君にあげるタバコは無い」と言う意味であろうと解釈します。
「ブリエアの解放者たち」にも水を求められて断るエピソードがあります。
救出されたテキサス大隊は、そのまま後方に下がって暖かい食事、シャワー、補給が得られるのですが、攻撃を継続している442RCTは携帯レーションすらままならぬ状況でした。

それが矢野氏の本では実にドラマティックに描かれています。
著者本人が「冒険小説」を書いたと言ってますし、重ねて言いますがそれを批判する気はありません。
ただ、上記の事などからもこの「大統領指令」はかなり疑問を持つのです。

また普通で考えても25日に包囲が判明した1個大隊の救出について、大統領が即日に連隊を名指しで命令を下す事があるでしょうか?
確かに、当時テキサス大隊の窮地は本土でもラジオで伝えられていたようで、アメリカ国民がそれを注視していた事は多くの記述もあり事実かと思います。
フランスの研究家で友人だった故ピエール・モーリン氏の著書「AmericanSamurais」には大統領や議会もラジオで失われた大隊の事に注目、更には442RCTがその救出に行動していた事がハワイでも放送され、人々の注目を集めていたことが書かれています。
これは何を意味するでしょう?
味方部隊の窮地、救出部隊の行動、それらをラジオ放送でワシントンの大統領もハワイの人々も聞いて居た。

このラジオが放送された日付は確認できませんでしたが、間違いなく「付近の戦闘終結後」でしょう。
いくら「自由の国」とはいえ、そもそもが陸軍から提供される情報を元に放送される時代です。
まさかリアルタイムで「今、味方のテキサス隊がピンチです」「442部隊が救出に出撃しました!」などと流せるはずがありません。

つまり、国民がこのニュースに反応し、議会や圧力がかかって大統領が部隊に命令を下す、と言うのは有りえないのです。
もちろんポーズとしてそう言った可能性は否定できませんが、その頃には大統領は救出成功を知っていた事でしょう。でなければ失敗した場合、責任の所在が問題になると思います。



ブリエア攻撃前、宿営地にて休息中の100大隊B中隊


ブリエア解放

また別の面からもこの戦闘に注目してみました。
これも日系部隊関連の書籍、特に日本で発行された本に多くある話で「白人のテキサス隊を助けるために有色人種部隊である442が犠牲となった」というもの。
もちろん結果的には事実でもあり、その多くの犠牲を払った勇敢な442RCTには敬意を惜しみません。
しかし、最初からいわゆる「弾除け」「犠牲を出して良い部隊」として442RCTが指定されたわけでは無いように思います。






モーリン氏の著書「U.S.SAMURAIS in Bruyères」にある略図(当時の記録から起した物を見やすくしたもの)と、シャーレイ氏の「442連隊戦闘団」にみる記録、ドウス・昌代氏の「ブリエアの解放者たち」にある証言等から簡単に第36師団の行動を俯瞰してみました。

10月15日0800 442RCT(左翼)と143連隊(右翼)は集結地を出発しブリエア攻撃を開始。442RCTは北の山沿いを、143連隊は街道と集落を経由しながら東へ進撃。
この間、141連隊、142連隊は更に右翼に戦線を形成し、南側を防御。
10月18日1000 442RCT(左翼)ブリエア東から、143連隊(右翼)ブリエア南から攻撃開始。
      1830 ブリエア解放
10月19日~22日 442RCT(右翼)はブリエア東側の高地郡を攻撃。141連隊、143連隊(左翼)はベルモント北側を通過、北東へ攻撃。
10月23日 442RCTに対しビフォンテン攻略が下令。突出の危険がありRCT本部は難色を示すも師団長命令により実施。攻略後、442RCTは予備となり143連隊と交替しベルモントにて休息。143連隊もベルモンテ近郊で待機していた模様。
141連隊がビフォンテン北側から東へ攻撃、第1大隊が突出してしまい包囲される。
10月24~25日 141連隊の第2、第3大隊が第1大隊の包囲線に攻撃をかけるも失敗。
10月25日0230 442RCT(第2大隊)に救出の為の待機命令。
10月26日0300 442RCT第2大隊は141連隊第3大隊と交替するもドイツ軍の猛攻を受ける。
10月27日0400 442RCT第100大隊(右翼)、第3大隊(左翼)は師団右翼として攻撃開始。
          143連隊も師団左翼として攻撃を開始してる筈だが不明。
10月29日 予備として北側で待機していた442RCT第2大隊は連隊の右翼(南側)へ展開。
       442RCT第100大隊(右翼)、第3大隊(左翼)は攻撃を続行。
       141連隊第3大隊が442RCTの左翼から援護を実施(ただし442RCT側は確認していない)
10月30日 442RCT第3大隊が141連隊第1大隊へ到達。

多少間違いがあるかもしれませんが、だいたいの流れは上記の通りだと思います。
こう見てみると分かるのは「遊んでいた連隊は無い」という事でしょうか。
142連隊の行動は記述に出てきませんが、おそらく141連隊が抜けた分をカバーし、広い戦線を維持していたものと考えます。
143連隊も失われた大隊救出時、442RCTの左翼にいた筈です。
※「ブリエアの解放者たち」では、143連隊の姿が見えない、と442RCT本部で話が出ていますが、実際には左翼を固めつつ、進撃していました。被害も出しています。
141連隊の残存は大きい被害を出しており、第1大隊を失っていたため攻撃に出る余力はほとんど無かったものと考えられますが、それでも442RCTの後詰として追従しているのが図から伺えます。
救出作戦自体は大規模となっており、多数の支援部隊や救急体制が整えられていたとの証言がありますので、その護衛などをしていたのではないでしょうか?

また、442RCTが特別に救出の為に投入されたとの印象もありません。
通常の攻撃の手順で予備と交替しているように思えます。
確かに連続した戦闘で疲弊し、休息もままならない状況ではありましたがそれは他の連隊も同様だったと言う事です。

失われた大隊を包囲する敵の抵抗は頑強で、連続した戦闘による疲弊も相まって442RCTは多大な犠牲を払います。しかし、それは特に「日系部隊だから犠牲を払わされた」と言う意味ではないと思います。
逆に「日系部隊だから突破に成功した」とは言えるでしょう。
師団は442RCTを見殺しにしていたわけではありません。
救出作戦時442RCTの第100大隊には
「第752戦車大隊B中隊」
「第636戦車駆逐大隊C中隊(M10駆逐戦車装備)」
「第82化学戦大隊D中隊(重迫撃砲装備)が、
第3大隊には
「第752戦車大隊D中隊」
「第3化学戦大隊C中隊(重迫撃砲装備)」
が増援として指揮下に入れられています。
更にRCTの持つ第522野砲大隊にも師団直轄の第133野砲大隊を加え、おそらくは師団の持つ最大火力を支援に当てていたのではないでしょうか?




第36師団長、ジョン・ダールキスト少将は多くの日系部隊関連書籍で「悪役」のような印象で扱われています。
彼の命令によって、442RCTは多大な犠牲を払った、と。
実際、連隊に対してはもちろん大隊に対しても強引な攻撃を直接命じ、更に証言によっては直接兵士にさえ前進を命じたと言うのもあります。準備期間も無く、布陣を整える前に頭ごなしに攻勢を命じるやり方は第100大隊本部でもかなり不評だった事が伺えます。

しかし、別の見方をするならば彼の指揮によって442RCTは空前の戦功を挙げ、その名を轟かせたと言う一面も存在するのではないでしょうか?
もちろんそれで犠牲になった方を、前線で苦労した方々の想いを否定するわけではありません。

ある証言にあります。
「雲の上の人みたいな師団長、少将閣下が弾の飛んでくる前線まで来てハッパをかけているのに驚いた、と」
確かにボージュの戦闘において、師団長はかなりの割合で前線に来て、直接指示を出しています。
もちろん指揮統率の面から言ってそれが手放しで素晴らしいとは思いません。前線の隷下部隊の指揮官はやりにくい事、この上ないでしょう。

しかしある評価にあったような「事務屋で前線の事を知らない、出世狙いの将軍」と言う印象からは少し違うような気がします。

師団長付きだったウェルス・ルイス中尉(ノーベル文学賞受賞者シンクレア・ルイスの長男)が師団長のすぐそばで敵弾に倒れたのは10月28日。
ある本にはその後恐れて前線に出てこなくなった、とありますが29日以降も師団長は敵弾飛び交う前線に姿を見せて激を飛ばしているのです。




また「犠牲をなんとも思ってない」ような印象を受ける書き方もありましたが、有名なエピソードである、失われた大隊救出後のセレモニーでの一幕。
「全員を整列させろと言った筈だ」
「ここに居るのがその全員です」 というやり取りで絶句したと言う物。

そう。 絶句しているのです。
犠牲をなんとも思ってなければ、そのような反応にはならないのではないでしょうか?

とはいえ、師団長に関しては44RCT連隊長のチャールズ・ペンス大佐や第100大隊長ゴードン・シングルス中佐、B中隊長だったサカエ・タカハシ大尉、100大隊S3(作戦将校)の英雄ヨンオク・キム大尉をはじめ、指揮官クラスは一応にその指揮のまずさ、判断力の無さを具体例も挙げて批判してますので、指揮官としてはダメだったんでしょうね。


長々と書きましたが。。。。

大統領指令。どうだったのでしょうね?
過去に文藝春愁の「ドキュメントアメリカ第442歩兵連隊:日系二世たちの第二次世界大戦」という大変よくできたドキュメンタリーがあるにも関わらず新たに制作するくらいですから、やはり新事実があったのでしょうか?
大統領からの指令ともなれば、根拠文書は残っていておかしくないはずです。
その事に触れるのであれば、当然それも示していただきたいものですね。

連隊に大統領から直接下ったという異例のこと。 もし根拠ある事実でしたら、師団長の人種差別論も撤回する必要があるでしょう。





もう一冊ありました。
柳田由紀子氏著 「日系兵士激戦の記録」 2012年発行。

この中にも大統領からの指令という記述がありました。
矢野氏の記述より更に踏み込んだ内容は以下の通りです。

「失われた大隊のニュースがアメリカ本国に報道されると。国民はラジオにかじりついて救出を切望した。なんといっても、アメリカ人が矜持とする部隊なのだ。とりわけ、地元テキサス州選出の上院議員は、ルーズベルト大統領に救命を直訴し、大統領もこれを承認するという特別の事態となった。反対に救出を命じられた二世兵士は満足な休息も与えられぬまま捨て石のごとく前線に送り込まれたのだった」

どうなのでしょうね?
  


Posted by 先任  at 16:45Comments(2)そのたミリタリ日系部隊史