2013年05月19日

アロハ桜物語 前編

アロハ桜保存会

アロハ桜についての記述を続けます。

アロハ桜物語 前編

当初、アロハ桜について探した所、「高木藤雄氏」と言う名が比較的簡単にわかりました。

http://www.fujitv.co.jp/nonfix/library/2005/474.html

Takaki氏についてのドキュメンタリーも製作され放映されています。
Takaki夫人の貴重な証言などもありますが、内容は完全とは言いがたく随所に間違いが見られます。
まぁ日本のドキュメンタリーの限界なんでしょうかね。
(日本では高木”タカギ”さんと表記されている事が多いですが、ハワイの方は”Takaki=San”と発音されていたので、私はTakaki氏と記載します)

いくつかのブログや市の資料によると、Takaki氏はMIS(Military Intelligence Service. 陸軍情報部)所属で舞鶴に進駐し、日本の家族にお金を渡して「新しい家を建てて」と言ったそうです。
それに対し、Takaki氏の家族は「敵のお金は要らない。日本の為に使ってくれ」と言われ、そのお金で桜を購入し植えたとありました。

より詳しい事が判ったものの、まだ色々と不明な部分が多かったのですが、去年になって私の妻はTakaki氏と桜の事が掲載された本を見つけてくれました。


アロハ桜物語 前編

「Japanese Eyes American Heart」
ハワイの日系資料センターが編纂した本で、荒了寛氏も携わってる本です。


アロハ桜物語 前編

この本に掲載されていた「Fujio・Takaki」氏のインタビューと経歴、その他センターにあった資料や奥様へのインタビュービデオ、読売新聞が本人にインタビューし書いた記事から紹介したいと思います。

なお、これらの紹介についてはハワイの日系資料センターから了承を得ています。



Takaki氏は真珠湾近くで民間の浚渫船の整備士として働いていました。
1941年12月の真珠湾攻撃の日、彼は日本軍の航空機をその目で見たそうです。
彼は怒り、そして悲しみました。
Takaki氏はハワイで生まれ、自分はアメリカ人だと信じていたものの家族は日本に帰っていたためです。
大変複雑な胸中だったでしょうね。
日系アメリカ人史、また二世部隊を考えるにはまずこの点に注意を払わなければならないでしょう。更に本土と違い、ハワイ出身者にとっては自分達の「故郷」が爆撃されたと言う事実で始まった戦争だと言う点も忘れてはいけないと思います。

撃墜され、海面に墜落する日本機を見たTakaki氏は海軍の士官とともにボートに乗って救助に向いました。
しかし、その搭乗員は自決。
「まことに日本人らしく、表情も変えずに死んだ」とタカキ氏は語っています。

そして、海面に浮いた飛行帽、飛行服などを見、名前と思われる漢字を見つけましたが、当時の彼はそれを読めなかったそうです。一方、持ち主であるパイロットは発見できませんでした。

その後、職場から「Japである」事を理由に追い出されたそうです。

ホイラー航空基地で機械工として働いていたTakaki氏は1944年に陸軍に志願します。
日本語と英語の双方を使えると判断されたTakaki氏はミネソタのキャンプ・サベージにあるMIS語学学校に送られ、訓練を受けました。
サベージで習った日本語から、真珠湾で助けようとした日本軍パイロットの名前が「朝日」である事がわかり、また彼がMIA(行方不明)である事も知ったそうです。
※戦後にTakaki氏は石川にあった朝日三飛曹(第二派、降下爆撃隊。死後一飛曹)の実家を訪れ、祈ったとあります。

その後、同じミネソタにあったキャンプ・リッチの秘密学校にて防諜についての教育を受けます。
訓練を終えたTakaki氏は最初の任地としてグアムへ派遣され、終戦までを過ごします。
捕虜や民間人との通訳が主な任務でした。

終戦後、マッカーサーの司令部(GHQ)付きとなり、45年9月から岡山のCICで勤務。
更に佐世保に転地し、主にソビエト=シベリアから帰還した日本軍将兵への尋問と情報活動をします。

その合間、Takaki氏は山口県の岩国に住む母と家族を訪ねます。
そして機械工をしていた時から貯めていた分と軍の給料を合わせたお金を母親に渡そうと申し出たそうです。
※ 戦争によって被害を受けていた家の修理と書いてある物が多いですが、Takaki氏へのインタビューには昭和20年の枕崎台風によって損傷したとあります。

しかし母親の答えは丁寧な拒絶であり、更に「あなたがそう思うなら、すべての日本の人達のために何かをしなさい」を言われたとあります。

※Takaki氏インタビューによると「日本はみな、惨めにしちょる。うちだけ楽はできん。昔から戦争で勝った方は威張るが、日本をいじめたら承知せん」 と言われたそうです。  だいぶ違う。。。。


その後、京都府舞鶴市に転任し、情報士官としてCIC舞鶴派遣隊長の任に付き、シベリア抑留帰還者の尋問からシベリアの鉄道、都市、工業地、道路網などの地図を作成する仕事をします。
その仕事ぶりは「大変真面目だった」とタイピストの上野氏が証言されています。

その間、家族への訪問を含めた過程でTakaki氏は空襲やその他の影響によって荒廃した日本の各地を見ることになりました。

「日本人には笑顔が無く、心がすさんでいた。 青森駅のホームに小銭が落ちている。誰も拾いもしない。それほどすさんでいた。」

また、舞鶴での尋問においてはナホトカから戻った弟(15年会っていなかった)に会う事もありました。
ソビエトの局員が特別に帰還船から降ろしてくれた弟に兄は「親が待ってるんだぞ」と言って急ぎ山口へ帰るように言い、弟は「戦友と同じ日に帰る」と言って聞かなかったそうです。


一方、地図の作成で海運会社の迫水氏(CICのタイピスト、と言う話もあるが前後がどうも矛盾するので海運会社の役員が正解ではないか、と思います)と良い関係を築いたTakaki氏は、数年後には彼の娘、弥生さんと結婚します。
2人の出会いは共楽公園のすぐ近く、中舞鶴交差点だったと夫人はTV番組で答えていました。
私は数年前まで、そのすぐ近所に住んでいたのですが。

アロハ桜物語 前編
現在の中舞鶴交差点。
写真右手に共楽公園、左手に舞鶴鎮守府(現在の海上自衛隊舞鶴地方総監部)。
また、写真視点の後方には通称「東郷邸」と呼ばれる、海軍鎮守府長官公邸があります。

※Takaki夫人はまだハワイに存命で、近いうちにアロハ桜関連のビデオを100大隊クラブを通じて送る予定。

本土のキャンプでの訓練時に見た白黒写真から、Takaki氏は日本に魅力を感じなかったそうです。
その彼の印象は、実際に日本に来て「桜」を見た時に一変しました。
きめ細やかな花びら、そして淡い色合い。またその美しい花が溶け込む背景にその永続する希望のような物が見えたそうです。

Takaki氏は迫水氏に相談し桜の植樹について教えてもらい、池田市(兵庫と書いてあるが、伊丹の間違いか?)までジープで行って桜の苗木を手配します。

この間、時系列をはっきりさせる資料が無いのですが、桜の苗木を手配したのが1950年である事はわかります。
なぜなら、この時に朝鮮戦争が始まり、Takaki少尉はすぐに派遣命令を受けたからです。

苗木を手配したものの、植える作業をする間もありません。
Takaki少尉は駅(※当時はまだ中舞鶴に存在した舞鶴駅かと思われる)で会ったMIS情報部の日系二世に桜の植樹を託して、朝鮮半島へと向いました。

植樹を頼まれた二世達は迫水氏、市議だった矢野氏を始めとした舞鶴市民らと共に資金面でも協力し、やがて列車で届いた100本の桜を舞鶴駅にほど近い「共楽公園」へと植えたのでした。
※実際には70本が共楽公園、30本は近くの学校に植えられたそうです。

アロハ桜物語 前編
矢野氏の功績を記念し、アロハ桜のすぐ近くに「ヤノケン桜」の名前で桜が植樹されていました。

時に昭和25年。
碑文の昭和21年と言うのがどこから出た話なのかはわかりませんが、舞鶴にMIS及びCICが進駐したのは1947年から、との話もありました(それも間違ってると思う。45年には来ていたはず)



Takaki少尉はその後ハワイへ帰ってからもCICに残り1964年から1966年の間はCICのFBIとの連絡係りもしました。
ベトナム・ツアーで23年の軍務を終了して、1967年に除隊。
民間に戻ってからは、カハラ・モール(ワイキキ近くの大きなショッピングセンター)でメンテナンス・スーパーバイザとして働き、1987年に退職。
1994年、舞鶴市の招待により戦後以来初めて舞鶴を訪れ、ようやく成長した桜と対面しました。
なお、その招待すべきTakaki氏に辿り付くのに時の海上自衛隊の練習艦隊主席幕僚が1役買ったそうです。
※それまで、桜を手配したのが誰なのかも不明だったようです。
※当時の主席幕僚は最近TV等でもよく見る平間洋一氏で、実はこの件で質問を送ったのですが、無視されたようで返答無し(w

Kakaki氏は長らく日本に来る事もなく、花を咲かせたアロハ桜を見る事もなかったのですが、1994年に市の招待により夫人と共に舞鶴を訪れ、半世紀ぶりに桜と対面したそうです。

http://www.maipress.co.jp/kakotpx/0504.html

※一番下の方に、桜と対面したTakaki夫妻の写真と記事があります。

2004年1月 他界。(享年84歳)

「人生は色々あって楽しいよ。 簡単の終わらせるなんてできないね」
「どんな人間だって、1人対1人ならいい人間ばかり」
生前、本人のインタビューより。

アロハ桜物語 前編

さて。
これらの事から、桜を共楽公園へ植える事を企画し、苗木の手配をしたFujio・Takaki氏の事は大まかには判明しました。
また植樹の時期は、やはり昭和25年(1950年)であるようです。
迫水氏が海運会社の社長や役員だとすれば、その協力を得て計画した苗木の手配も充分可能であろうと思いますし、手配先は池田市である事がわかりました(伊丹、の可能性もあるが)。

ここでまだ判らないのが、実際に桜の植樹に携わった23人の二世兵士について、です。
これについては、他のブログ等でもほとんど触れられておらずわからないままだったのですが、ハワイでお会いした渡辺憲一氏(MIS退役中佐)からお聞きした話と、古いハワイ報知新聞の記事から答えに近づく事ができました。

とりあえず、長くなりましたので以下次回(w


アロハ桜保存会





人気ブログランキングへ
同じカテゴリー(つれづれ)の記事画像
アロハ桜 植替え作業 実施終了報告。
植樹したアロハ桜の植替え作業について
2021 謹賀新年
映画「GREYHOUND」を見ました。 ※ネタバレ含みます。 ※一部追記。
2017年 まとめ
フランス442RCT記念碑の修繕、改築に関する寄付について 3
同じカテゴリー(つれづれ)の記事
 アロハ桜 植替え作業 実施終了報告。 (2024-02-25 23:26)
 植樹したアロハ桜の植替え作業について (2024-02-16 23:55)
 2021 謹賀新年 (2021-01-05 01:24)
 映画「GREYHOUND」を見ました。 ※ネタバレ含みます。 ※一部追記。 (2020-07-11 05:31)
 2017年 まとめ (2017-12-15 19:00)
 フランス442RCT記念碑の修繕、改築に関する寄付について 3 (2017-11-03 07:00)

Posted by 先任  at 19:07 │Comments(0)つれづれ日系部隊史

上の画像に書かれている文字を入力して下さい
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。