2024年02月25日

アロハ桜 植替え作業 実施終了報告。

2024年2月23&24日





2018年に植樹した、新しい「アロハ-Sakura」の植替え作業を実施しました。

苗木を植えて約6年。





大きく元気に育った桜は、今の場所では狭いので、より大きく育るように広い所に植替えました。






植替えの作業は、植樹の時からお世話になっている中村造園さんと、日系アメリカ人兵士のReenactmentを行っているグループ「BCo/100Bn」、その他協力者によって実施しました。
初日はあいにくの雨でしたが、2日目は天気もよく気持ちよく作業ができました。








お昼ご飯には「スパム-Musubi(おにぎり)」と、きゃべつとタマネギのブイヨンスープを食べました。

無事に作業は終わりました。




もう、小さな蕾が枝に出来ています。



そして、オリジナルの「アロハ-Sakura」もまた、小さな蕾をつけていました。
春には綺麗な桜の花を咲かせる事でしょう。







4月には「Hanami-party」をしたいと思います。
ご協力下さったすべての方に感謝します。

※作業及び1950年頃の進駐軍MIS(アメリカ陸軍情報部)の再現軍装について、許可を得て実施しています。

アロハ桜についてはこちらをご覧下さい。























  


2024年02月16日

植樹したアロハ桜の植替え作業について





2024年2月23、24日に京都舞鶴の共楽公園アロハ桜にて「アロハ桜の植替え作業」を実施いたします。
詳細は現在計画中ですが、現在元気に育ちつつある10本の新しい桜のうち、5本または6本を公園内の広い場所に植替えます。
機械が入りませんので、ほとんど手作業になるかと思います。
また、有志によるもので報酬などは出ません。食事は多少の用意はする予定です。
参加を希望される方はご連絡下さい。
また、植替え作業においては当時をしのび、1950年頃の進駐軍MIS(アメリカ陸軍情報部)所属の日系兵士をモデルとした軍装での参加が可能です。
軍装での参加については、レギュレーションを守れる方のみとなっておりますので、よくご確認下さい。
軍装以外では、普段着(多少汚れても良い格好)、作業着等での参加も可能です。
是非、お手伝い下さい!

レギュレーションや公園の様子については、下記をご確認下さい。

質問、疑問やお手伝いについてのお問い合わせ、またはWebサイト管理人TwitterFaceBook等でいつでもどうぞ。







再現植樹参加者のレギュレーション(服装規定)について。

・1950年初春のアメリカ陸軍、情報部(MIS、CIC等)所属の舞鶴駐屯兵士を再現しています。
※植樹時期は諸説あり、また実際の植樹時の姿は写真等に残っておらず、他の場面での写真やVeteranに聞き取りした範囲から推定し、指定しております。
ご意見や当時の写真等をお持ちの方がいらっしゃいましたら、是非情報提供をお願い致します。

基本ユニフォーム クラスA
シャツ
・カーキチノシャツ(1937型代用可)推奨、または1943年型ウールシャツ(通称マスタードシャツ)

トラウザース(ズボン)
・1944年型ウールトラウザース(通称アイクパンツ)、または1943年型ウールトラウザーズ(通称マスタードパンツ)(1937型、1937型改、50年型による代用可。51年型は不可。) 
・OD トラウザースベルト(カーキトラウザースベルト代用可)。※バックルは黒染めオープン、または真鍮クローズ共に可。

上着
・1944年型ウールODフィールドジャケット(通称44アイクジャケット 45年改良型はok。50年型は不可)
※ディスク型US章を両上襟、歩兵兵科を両下襟に着用。階級章(下記参照)を着用。
※部隊章無し、海外派遣章、従軍章等は派手にならない程度で可。勲章は不可。略綬、部隊章は無し。


・1943年型コンバットブーツ(2バックルブーツ)。
又は1943年型サービスシューズ・タイプⅢ(表革のもの) (1939年型サービスシューズ・タイプ2(表革のもの)による代用可。)

帽子、ネクタイ
・コットンOD モヘアネクタイ(カーキコットンモヘヤネクタイ代用可)
・ウールギャリソンキャップ又はカーキ・チノギャリソンキャップ(歩兵パイピング、またはパイピング無し、部隊DI着用無し)


基本ユニフォーム クラスB
シャツ
・1943年型ウールシャツ(通称マスタードシャツ)

トラウザース(ズボン)
・1944年型ウールトラウザース(通称アイクパンツ)、または1943年型ウールトラウザーズ(通称マスタードパンツ)(1937型、1937型改、50年型による代用可。51年型は不可。) 
・OD トラウザースベルト(カーキトラウザースベルト代用可)。※バックルは黒染めオープン、または真鍮クローズ共に可。

上着
・M1943フィールドジャケット(パターンの指定無し)部隊章は無し、階級章(下記参照)を着用。
※階級章以外の記章類は無し。


・1943年型コンバットブーツ(2バックルブーツ)。

帽子、ネクタイ
・コットンOD モヘアネクタイ(カーキコットンモヘヤネクタイ代用可)推奨、ノーネクタイ可。 
・ウールギャリソンキャップ(歩兵パイピング、またはパイピング無し、部隊DI着用無し)


階級
T3 英語通訳が概ね出来る方
T4 英語での意志疎通がなんとか出来る方
T5 英語に自信の無い方
(上記いずれかをジャケットに必ず着用。シャツは任意。)
※今回の想定は語学兵です。必ず「T」の付いた階級章が必要です。
※階級章については戦後型(紺フェルトにOD刺繍のタイプ)が推奨ですが、ATF製の「ウール階級章(WW2用としては出来が悪いですが、戦後用としては代用可能)」も代用可です。

・土工具
当時、アメリカ軍で使用された土工具類(年代が違っても形状、材質が同じなら可)ある方はお持ちください。
レギュレーションについては考証の結果、変更が加わる可能性があります。
その他注意事項
・髪型は当時を基準に短髪(耳が出て、襟足が短いもの)、もみ上げは耳の線で整える。
・黒髪(地毛で多少茶色の方は構いませんが、黒染め以外の染め、脱色されている場合は不可です)と致します。
・見える部分にタトゥー、刺青がある場合も不可と致します。(見えない様に工夫は可)
・眼鏡、時計、アクセサリー等で当時に無い形状のもの、似つかわしく無い物については当日外していただく場合がございます。
徽章類についても同様です。
・被服についてレプリカ、実物は問いませんがあまりに実物と離れたレプリカ、または損耗した実物等は使用できません。

質問、疑問やお手伝いについてのお問い合わせ、またはWebサイト管理人TwitterFaceBook
等でいつでもどうぞ。






  


Posted by 先任  at 23:55Comments(0)つれづれ

2021年01月05日

2021 謹賀新年



新年明けましておめでとうございます。

あまりめでたくない年明けとなりましたね。。。
昨年は本当に野外での活動ができないまま1年を過ごしてしまいました。
もちろんこの情勢下、それは間違っていなかったと考えていますがやはり残念です。

今年はどうでしょうか?
今のところ、あまり芳しくない様子ではありますが、いつかこの災難も去って日常が戻って来ると信じて待ちましょう。

あまり中身のない更新で申し訳ありません。

「Vosgesの戦闘」に関しては引き続き、様々な資料を検討しながら執筆中です。
細かな部分まで確認していくと、これまで発刊された書籍にも食い違いが多く、また当時書かれた一次資料も必ずしも正確だとは言えない部分があります。
親師団や他の連隊の記録、また証言なども併せて整合しつつ、なるべく偽りのないものを書きたいと思い、調査をしていますので、もし楽しみにして下さってる方が居るならば、しばらくお待ちくださいますようお願いいたします。

1つニュースをお知らせします。
2020年11月にハワイのローカルTV「Khon2」にてリエナクトメントを紹介するコーナーがあり、その中で我々「BCo/100Bn」が取り上げられました。
広告の後に番組が流れます。1分40秒くらいから我々が紹介されています。
是非ご覧下さい。



それでは。
皆様にとって、よりよい1年となりますように。
  


Posted by 先任  at 01:24Comments(0)つれづれ

2020年07月11日

映画「GREYHOUND」を見ました。 ※ネタバレ含みます。 ※一部追記。

映画「Greyhound グレイハウンド」を見ました。
原作「The Good Shepherd ~駆逐艦キーリング」トム。ハンクス主演。

以下感想その他です。
※ネタバレ含みます。 楽しみにしたい方は読まないで下さい。
読んで楽しみが減ったと怒ってもしりませんw

一部追記しました。

















まず、冒頭ローズベルトとチャーチルの演説から始まる物語は、大西洋の船団護衛を端的に説明します。
そしてお決まり(?)の内地でのシーンはあっさり。
荒れる北大西洋。 守るべきコンボイ(船団)
米英加合同の護衛駆逐艦達!
そして襲い掛かる狼群との手に汗握る攻防。



と、このあたりは個人的にはどうでも良いですw


以下、オモテの感想。



シーン、シーンはワッチ(当直)時間ごとに区切られて編集されており、時間の感覚がまさに乗員と一体化する感が凄く良い。
そしてどのワッチでもトムハンクス演じる艦長が常に艦橋に居るあたり、まさに「Always on the deck」。
しかしながら艦橋に居るとはいえ、常に艦長が指揮を執っているわけではなく、きちんと当直士官に預け、戦闘が生起した瞬間に「舵を取る」描写が細かい。
もちろん「舵を取る」と言ってもハーロックのように自ら舵輪を回すわけではないですよ。
「I have the Conn」 ~私が操艦を執る
きちんと宣言し、矢継早に操艦号令をかけるのは圧巻です。 字幕追いつかないw

なお、CiC-Combat Information Centerを「Combat」と略すのは現代ではありませんが、CCiC設立当時は普通にあったようです。
他に「PlotRoom」や「Radar」と言う呼び方も当時の事を記した本で見受けられます。

この作品、ほとんどのシーンは艦橋内とその外に出たウィングだけで描かれているんですが、入れ替わり立ち代わり様々な役職の士官、下士官、兵が艦長に報告、進言または許可を求めてやってきます。 もうすごいリアル。
艦長伝令の使い方も緩急あって面白い。
艦内令達と艦長令達も明確に分けて行っている点も素晴らしい。



原作「駆逐艦キーリング ~The Good Shepherd」であった、艦長と部下との心理描写がそれなりに映像化されています。
映画だけを見ると充分と思えますし、エンターティメントとしてはこのくらいが良いのでしょうね。
それなり、と書いたのは原作はもっと人間描写、心理描写が濃厚だからですw
そりゃあの「ホーンブロワー」書いた「セシル・スコット・フォレスター」さんですからねw

しかし文字で書き起こせない分を役者さん達の表情が素晴らしく演じられています。
最初の戦闘に挑む時と、映画の後半での艦橋内の配員達の表情、動作のほんとに微妙な変化。
これは凄いです。



乗員達の生活風景などもかなり期待していたんですが、そちらはほぼ無し。
残念ではありますが、これはあくまで艦長視点での物語の為でしょう。
配置に就いている時、または報告等に現れる時しか乗員達を見ることができない。
その中で乗員を掌握し、適切に扱うために苦悩し、苦労しつつも任務達成のために命令を下していく重責。そのあたりが多くを説明せず、映像だけで表現していくのがたまらなく凄いのですよ。
こんなの今の邦画には絶対できません。

艦長の視界外の乗員の描写もほとんど無いですが、他の船団や護衛の艦の乗員もまったくと言って良いほど出てきません。
護衛隊は無線で話す艦長の声のみ。
船団に至っては発光信号のみです。

そして敵であるドイツ潜水艦も外観のみで中はいっさい出ません。
まぁ一人だけお調子者のU-ボート艦長の声だけ何度か聞けますが。

この徹底した視点の固定ぶりは本当に凄いと思いました。




また軍装についてですが、あまり詳しくないので間違ってる可能性もありますが以下の通り。

乗員のデニムワーキングはもちろん、ブルーハットとグレイハットが混ざるのが凄く良い。
デッキジャケットも安易にN-1やN-4は使わず、初期のブルーと試作型が混ざっていたように思います。
(予告でチラっとN-1らしきものが見えてああ、と思ってましたがよく見ると私物の羊毛ジャケットのよう(または古い官給タイプ?)

44年頃(笑)の駆逐艦描写としてすごく良く見えました。
※映画の想定は42年初頭。








でもって、ここからは皆さまお待ちかね(?)のウラの感想です。
この映画最高です! 素晴らしい! ケナす奴は最低や!

って人は読まないで下さい♪




まず。
原作ではマハン級だったキーリングですが、撮影の都合もあってか見事にフレッチャー級へと昇格しています。
※皆さまご存じの通りフレッチャー級は1番艦のフレッチャーでも42年夏頃の就役で、更に数か月は慣熟訓練に従事しますので42年2月の物語に登場するのは不可能なんですね。
Jane見ると劇中キーリングの艦番号であるDD-548は建造キャンセルで欠番になってるんですね。ニクいぜ(どっかの手抜きイージスとエラい違い)。

ついでに余計なウンチクですが「フレッチャー」の艦名は米墨戦争の英雄であるフランク・F・フレッチャー提督にちなんでの物で、有名なフランク・ジャック・フレッチャー提督はその甥にあたります。
ま、時系列考えたら当り前の話ですが。

で、ともかくフレッチャー。
フレッチャー級駆逐艦が全編通じて暴れまわる映画と言うのは本当に見たかったし、すごく良かったですよ、ええ。

しかしフレッチャー。。。おそらくは現存するものを撮影にも使用したのか、ほぼ戦後改造型、しいて言っても大戦後期型ですよね。
※撮影ノートによるとルイジアナで保管されている、キッド (USS Kidd, DD-661)を使用したそうな。
なので装備が完全に1945なんですね。
まぁアドバイザーが「かの」デールダイ事務所らしく、WW2ならokというスタンスでしょうw

映画の中で活躍するSGレーダーと艦橋前面のボフォース40mmがなんとも。。です。
とくにSGレーダーはストーリーの中心に近い所にある上にCiCを活用しての対潜戦はもはや44年後半以降。。。
考えたら原作にもレーダー描写あった気がするけどマハン級よなw



CiCや艦橋にあったレーダーレピーターはおそらくSPA-25系列のものに見えるが、このころそんな物は無い。 どの艦艇にどのタイプと言うのはあまり詳しくないですが、駆逐艦等は終戦までTYPE271が主流の筈。
一応PPIスコープではあるもののプロットボードも無ければ、各調節ダイヤルの形状分け(三角とか丸とか)も無かったと思う。
しかし、レーダーレピータの不調(おそらくカーソルが動かなくなった?)で、距離が曖昧にしか読めなくなるの描写は良かった。



またCiCの対勢盤作図も、43年初頭以降は作図符号が規定されているにも関わらず、符号を使わずにイメージで書き込んでいるのが残念(いや、42年初頭だからあってる? いや、42年初頭の駆逐艦にCiCもレーダーも無い。。。何書いてんのかわからんようになってきたw)
またグリスペンで雑に書き込んでましたが作図は普通、鉛筆使いますね。
あれでは詳細な計算ができません。
相対運動の計算もですが、少ない情報を作図して相手位置や動静を予察するには最大限精密な作図が必須です。

ディバイダーの持ち方も悪い、と思ったけどそれは当時の米海軍では普通だった可能性もあるので間違いとは言い切れませんが。

そういえば適要記録板をグリスペンで書き込んでたけど、1950年代までは水性ペイントを使ってたはず。

あと、艦長がCiCを呼び出す際に「Combat Conn」と呼んでいるのには少し疑問。
Connは操舵の意味で、艦長が操舵を執る際には使う言葉で「艦橋」と言う意味でも使えるけど、艦長が呼び出す場合は「Combat Captain」または「Combat Co」を使うんじゃないかと思う。



とまぁ、マニアのどうでも良い話はどうでも良いとして。
この映画の一番の問題点は、海洋アクションにある程度割り振ったのは良いとしても戦闘が雑い。



真昼間に近距離で次々上がる潜望鏡。
どころか次々と5inch砲積んでる駆逐艦相手に浮上戦闘挑む狼群。

いくら海荒れてるし、FCレーダー無いのでと言ってもですよ。5inch×5門ですよ。 当たるってばw
画面にはFCSも映ってるしなw

船団速力が8ktで、まぁ普通ですよね当時。 
ジグザグ航行での船団移動速力で無いなら、まぁ攻撃後は距離を置いてレーダー覆域圏外から追撃して先回りするならともかく、船団の航跡を続行してるようにしか見えないし。
船団の密集具合から考えると、攻撃位置に付けたならばもっと魚雷撃ちそうなものと思うけど、それほどでもないし。

なんつーか。 FURYっぽかったんすよね。
とにかく観客に1時間半の時間をフルに没入させて、味合わせようと言う感じ。
そしてスピーディでよくわからない過程と、判り易い結果をぶつけてマヒさせる。


一晩経って抱いていた違和感の理由が分かりました。
スピーディな展開、派手なアクション、判り易い結果。
これらすべてが現実の対潜水艦戦に相反するからなんですねw
もちろん戦争と言うものは常に様々な事が現実に起きますし、海洋戦闘、対潜戦であってもドラマティックな展開と言うのは実際にあったことでしょう。
それにしても詰め込み過ぎと言うか。。。まぁエンターティメントなわけですね。
まぁ地味で長くてアクションの無いリアルな対潜戦なんか描いても絶対売れませんよね。
マニアの間で人気なRSBCの「死線の太平洋」にしたところで地味さを描写してはいますが、実にドラマティックに転回するわけですし。
あぁ、でもこの映画を見てから「死線の太平洋」を読むと更に理解も深まるし、光景が浮かびやすくなるでしょうね。


いやいやまてまて。

この映画、ほぼ「死線の大西洋」だよなw
いやいやまてまて、RSBCの方が「The Good Shepherd」を大いに参考にして書かれてると言うべきか。
実際に御大が参考にしたかは判りませんが、おそらくは。

そう言えば距離に関して、やはりkm表記で和訳されていたなぁ。
新版原作もそうらしい(買ったけどまだ未読)
まぁNM(ノーチカルマイル)表記やと普通は距離感覚掴めないやろうから仕方ないか。
私の場合は職業柄(笑)、洋上でkmの方が判り難いけど、そのくらいは生セリフで聞き取れたので良かった。

速力単位がKt(ノット)なので、NMで考えないと相対距離の開きや詰まりが判り難いんですよね。

これは素人予想ですが、おそらく買い取った分をりんごさんは新規加入で回収しきらないんじゃないですかね。
つまり、早期配信は独占しても後に円盤化やCS放映に権利を売って回収に出るかと思うので、それまで待つと言うのも手かと思います。
また、りんご製品をお持ちの方などは7日間無料トライアルで視聴した後、解約と言うのも別にルールに反して無いので構わないかと。 ルールではないが、マナーで言うならこれだけの作品を独占した方に問題があると思うので。
私個人の勝手な言い分ですがw

見て下さる方が居れば、この作品についてお話したい欲は現在MAXですので嬉しいですけどね。

色々とマニアの悪い癖で文句ばっか書きましたが面白いですよ。
少なくとも某サメ映画や、国産の海洋物とはレベルが違います。




スクリーンで見たかったなぁ。。。。ほんと。
りんご、マジむかつく。
ムカつくんで、もう一回見たら無料の間に解約でんな。
  


Posted by 先任  at 05:31Comments(0)つれづれそのたミリタリ

2017年12月15日

2017年 まとめ

あっと言う間に年の瀬となってまいりました。
2017も色んな出会いがあり、活動があり、また様々な出来事がありました。
今年1年の振り返りをやっておこうと思います。






1月 恒例の新年会。
毎年実施していますが、今年は多くの参加もあり基礎的事項について訓練ができました。






2月 迫撃砲班リエナクトメント
1夜2日 冬季における24時間の連続状況下で行動。
雨と雪と泥にまみれて過ごす、貴重な体験ができました。   辛かった。。。。


3月
NHKドキュメンタリー「失われた大隊を救出せよ~米国日系人部隊 “英雄”たちの真実」放映
結局撮影への協力は実施しませんでしたが、ブログにて色々と検証し自分でもボージュの戦闘について理解を深める良いきっかけとなりました。
番組の放映内容もまぁ余計な事が少なく良かったと思います。









5月
BCo余吾キャンプ。これもほぼ毎年実施しているキャンプです。初めてラージウォールテント、ラージフライを建ててメスエリアの再現がかなり良くなりました。
参加人数も多く、様々な訓練で勉強し、また余暇を楽しむ交流もできました。








6月 宇治演習
フィールドと仮想敵としてドイツ軍チーム「黒騎士中隊」様のご協力があり、ようやくやりたかった演習が実現しました。
1夜2日の完全状況で接敵行軍から集結地に入り、個人壕の設営と夜を徹しての斥候、歩哨をくり返し明け方に攻撃する手順を時間通りに行う事ができました。
また中隊本部を立上げ、米軍攻撃の指揮と両軍全般の統制を実施。
これも辛かったでしょうが、参加者はかなり貴重な体験ができたものと思います。









6月 MVG2017
サムズミリタリ屋さんの主催による大規模野外イベントに参加、KPの再現を実施し主催に協力する形で配食作業等が実施できました。
特に大人数分の調理、配食の経験はなかなか得られるものではなく、大変勉強になりました。
また幾人もの方々との素敵な出会いがありました。







7月「この戦場は南方2」
日米太平洋戦イベントにおいて日本軍として参加、攻撃を実施する事ができました。
また両軍の糧食(の一部)を担当し、再現食の体験をしてもらう事ができました。



8月
以前から言われてましたが、ようやく「BCo/100Bn」の対外向けパンフレットを作成。
配布を開始。
※もしご希望される方は私に連絡下さるか、イベント等でPKミリタリア様で無料配布しておりますので伺って下さい。





9月ブリエア市における解放式典に併せ、442RCTの記念碑建立に対する寄付の募集を行い、後日まとめての寄付を実施しました。
式典では寄付賛同者の一つとして「BCo/100Bn Japan」の名が読み上げられたそうです。
皆様、ご協力ありがとうございました。





10月
アメリカ軍の歴史ある機関紙「Stars&Stripes」の日本版の中でBCoがカラー写真付きで紹介される。
大変名誉な事で、これまでの活動が実った成果であり正直涙出るほど嬉しい。
掲載自体の嬉しさもありますが、これによって第100歩兵大隊と日系兵士の事を伝え、残していくと言う目的の中での大きな前進である点がとても嬉しかったのです ※これは在日米軍すべての部隊に配布されています。
ご協力下さった方々に感謝です。



11月 キャンプマッコイ 訓練用Tシャツリプロダクションを製作。受注販売を実施。
多くのご注文ありがとうございました。現在生産段階で、来年1月頃のお届けを目指して準備しています。









11月 最終開催を迎えた御殿場のWW2イベント「COMBAT12」に参加
広報展示を実施。
天候や場所の制約もあり、満足いく展示は難しかったですがなんとかカタチにはなりました。

12月
来年3月の舞鶴、アロハ桜の植樹計画が本格的に発動。
「アロハ桜保存会」を立上げ、継続的にオリジナルのアロハ桜を見守りつつ、新たに植樹する桜の成長を見守って行く予定です。
詳細はWebサイトまで


と言う感じで1年を振り返ってみました。
冒頭に書いた通り、今年も本当に様々な事がありました。
皆様のご協力もあって、発展し良い活動ができたと思います。
来年も日本における「Reenact」の発展と普及、そして少しでもハワイ日系社会に何かしらお返しができる活動を目指して頑張って行こうと思います。  


Posted by 先任  at 19:00Comments(0)つれづれ

2017年11月03日

フランス442RCT記念碑の修繕、改築に関する寄付について 3

フランス、ブリエア(ブリュイエール)市において2017年10月15日、町の開放を祝う式典が行われ、以前皆様に寄付のご協力をお願いした記念碑の修繕と新たな記念碑の建立が無事に終わったとの報告がありましたので、お知らせいたします。




以下は寄付の呼び掛け人であるカール・ウィリアムズ氏からのメールの和訳です。



2017年10月15日午前10時30分ごろ、ブリュエール市長、イヴ・ボンジャンがhill555に集まった人々の前に立ちました。
背の高い常緑樹の中で、アメリカとフランスの旗が群衆の上ではためき、7人のハワイ第100大隊退役軍人からなるカラガードは、バンドが「星条旗よ永遠なれ」を演奏するに合わせて気をつけをしました。
ブリュイエール市は、第442連隊戦闘団と第100歩兵大隊の二世による解放から73周年を迎えました。
市長やその他の高官は修復された1947年の古い記念碑に花を置いきました。



短いスピーチの後、市長とカール・ウィリアムズは、現在我々が謳歌する自由のために犠牲を払った、勇敢なニセイを偲んで作られた新しい記念碑を発表しました。
記念碑が人々に示された瞬間、集合した人たちから大きなどよめきが起こりました。
敬意を表する聴衆の誰かが「Wonderful!」と言いました。
その発表は視聴者からのとても大きな拍手の喝采で満たされました。



ブリュイエールからわずか30マイルのところにあるSenones地区で収穫されたピンク色の花崗岩から掘り起こされたデザインはMitch Miyamoto(442の兵士)が考案した、連隊の肩のパッチを元にした「フリーダムトーチ」が元になっています。





美しい記念碑は約90インチの高さと3.5トン以上の重さを誇っています。
建築家のDavid Onoderaさんは出席できませんでしたが、彫刻家のダニエル・プティトゲネはその苦労して彫り上げた記念碑のそばに立っていました。
彫刻家はブリュイエールをを解放して市民に返還するために必要なことを思い起こさせる、自由を維持するために必要な苦痛、死、苦痛を象徴するために、記念碑の内側縁に沿って鋭く切り込んだデザインを彫り上げました。
私たちの娘マリコは、私たちの寄贈者が思い出されるように、頼まれたすべての人の名前を読んみました。
彼女のコメントのコピーはFacebook.com/hill555projectにあります。
地元のVosgesテレビ局が作成したビデオクリップは、https://www.vosgestelevision.tv/info/info/Singuliere-ssVf0nAttG.htmlをご覧ください。
それはフランス語ですが、簡単に理解できます。より完全なビデオが準備されており、まもなく利用可能になる予定です。



翌日、市長、カラーガード、家族と友人たちがエピナルの米軍墓地に集まり、フランスの土壌にまだ残っている第442連隊及び第100大隊の方々を正式に称えるとき、ニセイが犠牲を払うことを再び思い出させました。
厳粛で正式な儀式では、各墓には新鮮な花と華麗な装飾が施されていました。
その後、私たちはHill555に戻って、ハワイの女性団体によって準備された3000本以上の折鶴とレイを捧げました。
折鶴と一緒に同梱されたのは、第100歩兵大隊退役軍人の声明で、折鶴を折った方々によって読まれました。
我々は第100歩兵大隊退役軍人会、特にこの努力を主催したJayne・Hirataさんに非常に深い感謝をします。





この事業に貢献した人は、私たちに代わって究極の犠牲を捧げた人たちのために作られた、非常に美しい記念碑をとても誇りに思うことができるでしょう。
それは、ニセイが市民兵士としての任務を引き継ぎ、非常に多くの人が犠牲を払った卓越した強さ、忠誠心、そして勇気を話すという静かな決意の大胆な声明のように立ちます。

私たちはこの努力を完了するのを手伝ってくれた各貢献者に感謝します。
私たちは約2,000ドルの目標を達成できず、引き続き貢献した方々にこの情報を友人や家族に渡すよう依頼します。
ブリュイエール市長は、これまで完成していた作品の支払いを待つことに満足しており、残りの細部を間もなく終了することを約束しています。
寄付を希望して下さる方は、Hill 555 Projectの小切手を「Carl Williams(827 Crestwater Ln Sacramento、CA 95831)」に郵送してください。
または寄付者は、電子寄付が実施できる「hill555.org」に行くことができます。

※日本から寄付を行う場合、Paypalでの支払いまたはブログ管理人の「先任」が代行する事が可能です。

  


Posted by 先任  at 07:00Comments(0)つれづれ

2017年10月06日

フランス442RCT記念碑の修繕、改築に関する寄付について 2

先日告知していました、フランス北東部の街、Bruyeres=ブリュイエール(ブリエア)市における、記念碑の修復、増設事業についての寄付の受付を終了し、皆様から寄せられた寄付を送金致しました。
ご協力くださった皆様、本当にありがとうございました。

寄付を募っていたCarl(Ogawa)Williams氏から御礼のメッセージが届いていますので紹介致します。
なお、メールのやり取りは複数に渡り、個人情報やその他の近況、家族の状況などのやり取りも多かったので、特に関係する部分を抜き取って、今回は訳文のみで紹介いたしますが、ご了承下さい。


先日いただいたメールに添付されていました、記念碑の建設中の写真です。


現在の記念碑


完成予想図



親愛なるKodaさん。
ブリュイエール、hill555プロジェクトに大いなる貢献をしていただき、ありがとうございました。
寄付の受け取りを確認いたします。
それらは確かに、ブリュイエールの記念碑に貢献いたします。

我々は日本での第100大隊リエナクトが、家族の収容や差別等多くの苦労の中で国の為に戦った、日系アメリカ人達を尊敬し、またその事実を伝え残す為の活動をされている事を知り、大変嬉しくまた誇りに思います。
あなたたちのグループは、我々日系アメリカ人の子孫の多くより、ニセイ・アメリカンの事を深く理解し、それを多くの人々に伝えている事は驚くべき事でした。
私はハワイの100大隊Veteransクラブのジェーン氏と話ました。
彼女はあなたと貴方たちグループについて、非常に高く評価していました。

私はあなたや、仲間の皆さんを10月15日に是非ともブリュイエールに招待したい。
貴方たちに逢うことは私と私の家族にとって、大変光栄な事です。

私達は、先人達の愛国心に基づく偉大な行為がいかに凄い事であったかを理解すると同時に、同じ状況にあった場合、私は志願できたであろうかと自身を振り返ります。

100大隊/442連隊を研究してきたリエナクターとして、あなた方は彼らが達成した偉大な成果をご存知でしょう。
戦前から続いてきた偏見はパールハーバーによって決定的に悪化しましたが、それを彼らは欧州戦線で見事に覆しました。
ニセイの成果は世代を超えて全ての日系人と日本人にチャンスと発展の世界を開きました。

また深く根付いていた人種差別の多くを駆逐し、アメリカの発展も大きく促したのです。
それはすべてのアメリカ人の心に刻まなければならない、驚くべき成果でした。
これらについて、まずアメリカ人がよく理解し学ぶ必要があります。

現在、日系アメリカ人の多くの若者がこれらの事に対する知識や理解を持っていない事を心配しています。
国民としての義務への献身、素朴な勇気の発露を彼らが死と隣り合わせの中で選び取った事を伝え、残さねばなりません。
皆さんのリエナクト活動は、その成果に役立つことでしょう。

貴方たちと10月のブリュイエールで出遭える事を祈っています。


あなた達のこころに、もう一度感謝いたします。


Carl and June (Ogawa) Williams

  


Posted by 先任  at 18:00Comments(0)つれづれ

2017年08月23日

フランス442RCT記念碑の修繕、改築に関する寄付の募集。

フランス、ブリュエール(ブリエア)の解放については、このブログを読んで下さってる方には説明不要かと思います。

第二次世界大戦、欧州戦線において第100大隊を始めとする第442連隊戦闘団の日系兵士達が1944年10月にドイツ軍守備隊を撃破、解放した街です。

詳しく知りたい方はドウス昌代氏による「ブリエアの解放者たち」をお読み下さい。
日系部隊史で最も良書であり、大変良い読み物であると思います。
また時系列等はウィキペディアの「第100歩兵大隊」の項目をご確認下さい。


現在のHill555にある記念碑。

その街の外れに第442連隊戦闘団への感謝と功績を称える記念碑が建てられていますが、現在は老築化が進み荒廃しているとの事でした。
フランス人歴史家Mayor Yves Bonjean氏はこの記念碑の修繕、増築計画を立て、広く寄付を募っています。


増築後のイメージ図

私どもBCo/100Bnとしても少しでも助けになれば、と思い日本から寄付を送ります。
もし、戦後日本の礎の一旦を担ってくれた日系アメリカ人兵士達の事を思い、寄付に協力して下さる方が居ましたら、連絡を下さい。
私の方でまとめて寄付を行う予定です。
※これは信用して下さるしか無いのですがw

なお、計画は2017年10月15日の完成を目指しており、急がれています。
私の方は急ですが8月中に募集を打ち切り、9月初頭に寄付を実施予定です。
また、寄付名は「BCo/100Bn in Japan」で申し込みます。ご了承下さい。

また、Paypalが使用できる場合は個人での寄付も可能です。

http://hill555.org/
のサイトからお申し込み下さい。


ブリエア解放当時。街に展開中の第442連隊戦闘団。



以下にサイトの初めの言葉について和訳を載せておきます

1947年10月、感謝しながらもまだ荒廃していたブリュイエールにドイツの侵略者から街を解放した日系アメリカ人を偲んで、Hill555の近くに記念碑を建てました。
この歴史的に重要な記念碑は、現在経年劣化と自然、または人的による破壊行為の影響を受け老築化しています。

これを受けて、有志による現存する記念碑の修復に加えて、地元の採石された原石を使って記念碑を追加する計画を立てています。
新しい記念碑は442 RCTのショルダーパッチのデザインに基づいて準備されています。
最終的な設計と配置は変更される可能性がありますが、ブリュイエール市長と市議会はこのプロジェクトを承認し、2017年10月までに完成を予定しています。

このプロジェクトは、関心のある個人や組織の貢献を通じて100/442RCT、522FAB、および232ENGに奉仕した人々の家族および友人の支援によって行われます。

「BruyèresHill 555 Project」の名で基金が開設されました。
プロジェクトの進捗状況に基づいて、完了した作業のために市に支払いが行われます。
また残りの資金は記念碑の維持のために市に寄付されることになっています。

Mayor Yves Bonjean



建立当時の記念碑。




記念碑で解放を祝うブリエア市民





ジョン・ツカノ氏「愛の架け橋」に掲載された記念碑。
若きピエール・モーリン氏の姿もある。  


Posted by 先任  at 17:08Comments(0)つれづれ

2017年02月28日

BCo史へのコメント

迫撃砲リエナクトメントのレポートの途中ですが。。。
5年程前に作った「BCo史」の動画にある方からコメントを頂いたのでご紹介します。




「This is quite amazing. I just discovered your group on Facebook. I have two Uncles who served in the 442nd and haven't seen any reenactment in the US. This is an honor that you are passionate about keeping their legacy alive. Arigatou!」

”これはまったく驚異的である。 私はFacebookのあなたのグループを発見したばかりである。 私は、2人の叔父が442連隊戦闘団に従軍しました。、このようなリエナクトメントは米国で見なかった 。 これは光栄であり、あなたは、それらの遺産を生きたまま保持することについて情熱的である。 ありがとう!”

Veteransやご遺族の方が見ていて下さり、またこのような応援のコメントをいただけると本当に励みになります。
別に軍装でふざけたり、いい加減な事をするのが悪いとは言いませんがw そのような視点からも見られる、実在した物であると言う認識はこれからも常に念頭に置き、また可能な再現に努力して行きたいと思います。














  


Posted by 先任  at 06:30Comments(0)つれづれ

2016年12月30日

2016年 総括

2016年もあと1日となりました。
今年1年も様々な活動を行い、また多くの方々にお世話になりました。
あらためて御礼申し上げます。

簡単に1年を振り返ってみます。







1月 BCo新年会 1夜2日に状況で実施。初めて10in1レーションが形になったと思う。








2月 HGG バルジ戦 空挺やけどKP(糧食)で参加。 パンケーキ焼いた。




3月「ざ・オストフロント1942」開催。 なんつーか、すげーイベントやったと自分で思うw




http://kfir.militaryblog.jp/e758868.html
4月 日系部隊研究家で大切な友人だったピエール・モーリン氏が亡くなる。 本当に悲しかった、。








5月 ヒスサバ14開催 BCo春の余吾キャンプ実施。 ショットショー展示。






6月 COMBAT11参加 M1903ライフル購入。 デニムで遊べた。


7月 何したっけな? ずっと編集に追われてた気がするw

8月 仕事ばっか。 あとは編集ばっか。おかげでなんとかオスフロ1942動画完成。














9月 HGG14 沖縄戦に参加。 日帰りナム戦訓練実施。

10月 仕事

11月 だいたい仕事。

12月 ショットショー展示。わりかたのんびりできた。

まぁ子供3人も居て、随分遊ばせていただいてる方やと思います。 嫁に感謝。
来年も更に活動を発展、継続していければと思います。

それでは皆様、良いお年を!!
  

Posted by 先任  at 22:06Comments(0)つれづれ

2016年06月16日

訃報 Isao"Roy"Takiyama LCo/442RCT Veteran

5月キャンプレポートの途中ですが、残念な訃報が入りました。
2012年に私がハワイを訪れた際にお会いし、様々なお話をして下さった442連隊戦闘団L中隊のベテラン、Isao"Roy"Takiyama氏が昨日亡くなられたそうです。93歳でした。



私の右隣の赤いシャツの方がIsaoさんです。
※本物のVeteranの前で米軍の制服を着るのは緊張しましたが、皆さんから「是非、Reenactのユニフォームを着て参加して下さい」と言われたので着用しました。

お会いして下さったVeteranも次々と鬼籍に入られます。 悲しい事ではありますが、ご高齢を考えるとしかたがない事なのでしょう。
長い間お疲れ様でした。

Isaoさんは、442のベテランですが、A中隊の故Goro Sumida氏との親交が深く、100大隊のクラブによく来られていたそうです。
私がクラブを訪れた際も来られていて、お話する機会をいただきました。



Isaoさんは、お会いした際、当初は戦場での体験をあまり語って下さりませんでした。
「今の君たちに言ってもわからない」と思われていたのかもしれません。

話を続け、我々のReenactingを見て頂いてる途中、一枚の写真に注目されたようでした。
泥だらけで穴を掘っている写真。





それを見たIsaoさんは、「こんな苦労をわざわざしているんだね。私は二度としたくない。 しかし、それが自分に与えられた任務だった」 との事を言われました。

またレーションの話もして下さり、缶詰のレーションをヘルメットで調理した事や、畑の野菜を拝借wして生でかじった事など。

私の英語の能力があまり、なので正確ではないかもしれませんが次の言葉が深く残っています。

「我々は死んでも戦うのが任務だった。君たちは兵隊ごっこで死ぬ事はないだろう? でも、同じ苦労をしようとしている。 だから君達は私達442ボーイの事を伝えて行くのが任務なんだよ」 と。

私はReenactingを続けるに当たって、これを生涯忘れないようにします。

ご冥福をお祈り致します。  


Posted by 先任  at 11:58Comments(0)つれづれ日系部隊史

2016年04月15日

故ピエール・モーリン氏を悼みます。



フランス、Bruyeres出身でホノルル在住の日系部隊研究家、ピエール・モーリン氏が去る2016年4月11日の月曜日に亡くなられたそうです。
彼は産まれた街をナチスから解放した日系兵士達442連隊戦闘団と第100大隊の研究、紹介に生涯を捧げました。

1944年晩秋、攻撃開始前にアメリカ軍が得ていたボージュの森の状況は、主に現地の民間人からなる情報員達にもたらされていました。
その中心人物だった1人にマクス・アンリ・モーリンと言うフランス人が居ました。
「ジョーⅡ」との暗号名で呼ばれた彼はブリエア西端の出身で、森に精通しており、また強い愛国者でもあったため、アメリカ軍へ協力する道を当然のように選んだそうです。
第36師団へ森の情報を伝えた後「ジョーⅡ」は師団司令部で命ぜられ第442連隊戦闘団へ道案内として着くのが10月14日。攻撃開始の前日でした。
「ジョーⅡ」はその後、数週間に渡って第442連隊戦闘団へ協力し、無事に戦後を迎えます。
ピエールと名付けられたアンリの息子は、成長して間もなく父親アンリと死別。亡き父親の遺品の中から「ハワイから来た小さいアメリカ兵」に関する記録や当時のメモ、更に多くの軍事地図等を発見。
大変な興味を抱くと同時に祖国、そして故郷を解放した兵士達の事を記録しなければならないと決意し「U.S.samurai」を執筆します。
その後も調査を続けながら晩年はハワイ、ホノルルへと移住し生涯を日系部隊の歴史を綴る事に捧げました。

ちょうどその頃に私はピエールとFacebookで知り合いました。我々のリエナクトメントの写真を見て、の正確な再現性にとても驚いたとメッセージを送ってくれました。アメリカ国防省の記録にすら触れる事もできるピエールでしたが、日本人的な思考や軍隊、兵士の細かな部分を知ることはかなり難しかったようで、私との情報交換を大変喜んでいました。

また、ハワイとフランスの架け橋としてベテランや家族の訪仏を支援しておられました。
※この様子は442連隊公式戦史「Go For Broke」や、ジョン・ツカノ氏の「bridge of love」に掲載されています。




また後年は太平洋戦線に従軍したMIS等の日系通訳にも目を向け、さらにはダッハウ収容所の解放に携わった第522野砲大隊についての本も出版されました。

私自身はハワイ来訪時に陸軍博物館で会い大変フレンドリーに友好を深めた思い出があります。
私はフランス語がまったく出来ず、ピエールは日本語がダメでしたが、カタコトの英語でも趣味の話は盛り上がるのですよ(笑)



時間を忘れてしゃべり続け、博物館の係員に嫌みを言われて追い出された後も外で話してました。

そしてハワイ日系兵士の慰霊祭においては、参列者に過ぎなかった私を「俺の車椅子押してくれ」と誘い、花輪を捧げさせて貰う栄誉をくれたのです。




帰国後も主にフェイスブックやクリスマスカードでピエールとの親交は続き、MISに所属した兵士やアロハ桜の事、また第100大隊に従軍した朝鮮系兵士の事をやり取りしていました。

ピエールからは他にも多くの資料のコピーを貰い
「私はフランスで彼ら(日系部隊)の事を1人でも多くの人に知って貰いたくて本を書いた。あなたは、日本で同じ事をしようとしている。私達は同志で友人だ。私の資料と本はすべて、あなたが自由に使って構わない」
と、力強い言葉も貰いました。
ピエールとのやりとりの中で興味深かったのは、ピエールは442連隊や100大隊に対する軍内部での人種差別を強く感じており、例えば第100歩兵大隊がローマ入城を果たせなかった点を強く糾弾していたのですが、実は私はそこはあまり考えておらず、チビタベッキアへの移動は第442連隊戦闘団との合流を優先した為であり、他に理由は無いのではと言うと驚いていました。
私はそこに人種差別的意識があったならば、その後にレグホーンでの海軍長官フォレスタル大将や英国王ジョージⅥ世の閲兵式に第100歩兵大隊を並ばせて「マイベストユニット」と紹介したマーク・クラーク中将の行動と一貫性が見いだせないとも伝えました。
ピエールは目を丸くして、ノートに何やら書き留めると、大きく笑って言いました。
「多くの人は、怒る所なんだ。これは差別だ、と。でもあなたはそれを冷静に分析し、理論的に導いている。それがあなたの素晴らしい所で、ジャパニーズ(日本人か日系人かどちらを指したのか不明)の素晴らしい所だ!」と。

いつかまた、ハワイに行って会いたい、話したいと思っていた矢先の事でした。

ただ、彼の死を心から悼みます。

R.I.P. mahalo!
  

Posted by 先任  at 10:29Comments(0)つれづれ日系部隊史

2015年11月13日

MIS 陸軍情報部 Oshiro退役空軍中佐との交流。

少し前の話になりますが今年の7月に、日系アメリカ人で戦後に陸軍情報部の語学兵として日本に進駐し、舞鶴で勤務したOshiro氏を案内し、色々なお話を聞いてきました。



Oshiro氏は私が以前、100大隊の研修と70周年セレモニーへの出席のためにハワイに行った際、パンチボウルでお会いしたMISのVeteranで、その時に「私も舞鶴で勤務していたよ」と話され、現在の舞鶴の様子などをお話した相手でした。

今回「最後かもしれない」日本旅行で、、是非舞鶴へ行きたいと希望されたのを娘さんが私にEmailで知らせてきたので案内する運びとなりました。

朝7時過ぎに舞鶴発、京都、ニュー京都ホテルで、お迎え。
ハイエースに乗っていただき、舞鶴へ。
舞鶴でBCoメンバー傭兵G及び、私の嫁を合流。
まずは平桟橋(引揚げ桟橋)へ。
引揚げ時の事を色々お話して貰う。





引揚げ者が帰国して最初に踏んだ「祖国の地」 引揚げ桟橋にて。


引揚げ記念公園は秋までリニューアル工事で見学はできないので、収蔵品の一部だけ展示している赤れんが博物館へ。
途中、N○Kのなんかの取材と遭遇、興味を持たれ、どうもインタビューしたいリクエストが来たが、なんの番組かも判らないし、どう使われるかも不安だらけなので断る。
舞鶴の引揚げ公園の学芸員からもリクエストがあり、そちらは受けてインタビューしてもらう。学芸員、めっちゃ英語うまかった。
インタビュー終わってからお昼ご飯。
Oshiroさんに事前に昼食について聞いた所、「ムスビとチキンのシンプルで装飾の無い食事」を希望されたので、それに併せて嫁に弁当をお重で作らせる。
赤れんが倉庫の一角借りてランチ会。
喜んで貰えたようで何より。

食事の後は岸壁見学やったけど、暑かったので車窓から護衛艦を見ていただく程度に留め、総監部へ。
総監部では海軍記念館(旧、大講堂。舞鶴駐屯の進駐軍、情報部等が入り、後にはダンスホールとして使用されていた。)を見学していただく。
風景、建物的に当時と変化の少ない部分だろう、とタカを括ってたけど御本人は「本部にはほとんど行ってない、わからない」と言う事でした。

続いて某海上自衛隊の官舎へ。
ここは旧、水交会の建物があり、Oshiroさん達CICが勤務するオフィスがありました。
今では門柱だけが、当時を忍ばせます。前回、舞鶴に来た時は場所がよく判らず来れなかったので、今回来れて本当に良かった、と感謝されました。


門柱だけが残る。 北側にグリーンランタンと呼ばれたBARがあり、終業後はまずはそこで一杯やってから街へ出たそうだ。


最後にアロハ桜へ。


Oshiro氏自身は桜とは関わってませんが、色々と想いがあるようでした。

その後は嫁を家で下ろし、再度京都まで送り届けました。
ホテルから車で帰ろうとするのを大きく手を振って見送っていただきました。
そして、背筋をピッと伸ばして挙手の敬礼。ちゃんと答礼できたかな?


以下、Oshiroさんとの会話の中で拾った事とか。

Yoshinobu Oshiro(MIS veteran 退役米空軍中佐)
46年入隊、MIS(陸軍情報部)にて語学兵として勤めるも、キャンプ・サヴェッジには行っていない。おそらく日本語の成績が良かったからではないか?と思うが、本人曰わく読みはカタカナしか読めなかった、との事。ハワイの日本語新聞にはルビが振ってあったが、日本の新聞にはルビが無いので苦労した。

陸軍第500情報部隊のCIC(保全部)一員として47年~49年の間、舞鶴で勤務。
直属上官はMsg.Fujio Takaki!!
※Takaki氏はアロハ桜を手配した本人。これまでずっと少尉と書かれていたが、舞鶴勤務時はまだMsgだったと断言。
また、桜の手配は「兵庫県の池田市」だったと証言。
※池田は昔から大阪で、伊丹の間違いかとも思ったけど、たぶん認識違いのよう。
桜自体は届く前に京都の本部に転勤したので当時は見ていないそうだ。

※ アロハ桜については過去記事参照
アロハ桜物語 序編 http://kfir.militaryblog.jp/e436514.html
アロハ桜物語 前編 http://kfir.militaryblog.jp/e436778.html
アロハ桜物語 中編 http://kfir.militaryblog.jp/e437472.html
アロハ桜物語 後編 http://kfir.militaryblog.jp/e440890.html


CICの舞鶴での任務は満州、シベリアからの引揚げ者の尋問、情報収集。
・抑留中の労働内容、場所、人数。
・移動の時期、手段、人数。
・アトミック(原爆?)に関する噂、話を見たり聞いたりしたか?
・社会主義教育の内容、手法、効果など。
※日本軍に関する質問はほとんどしていない。原隊と捕虜になった場所程度。
平(たいら。舞鶴への引揚げ者が上陸後、検疫、尋問、手続き等が終わるまで拘留されていたバラック群の場所。うちの結構近所。)までの移動は普段はボートを使用した。たまに車両も使った。
なお、拘留が終わって給与を受け取った引揚げ者はトラックで東舞鶴駅まで送って貰い、故郷へ帰っていったそうな。

CICの事務所は中舞鶴の旧水交社(現在は海上自衛隊の官舎が建つ)を使用。
夜は近く(現在のしばた食堂付近)にあったグリーンランタンと呼ばれるBarへ行き、飲んだ後は中舞鶴の町へ更に飲みに行ったそうな。
バドワイザー、焼酎の梅割りなど。

休日はジープに中舞鶴の女の子を乗せてタカハマビーチに遊びに行ったり、天橋立に行き、天橋立にもあるCICのボートで遊んだりした。
天橋立では股覗きもした(天に登る橋!と、感動したよそうな)

朝鮮戦争の勃発に伴い京都の本部へ異動。
朝鮮人捕虜などの通訳も勤める。
(南北朝鮮人と会話するには日本語が最も適していた。また、日系アメリカ兵を日本人だと勘違いし、安心して話をする者も多かった)
戦後、空軍に転属し教官などをして、定年まで勤めた。
オフィサーになってからは人種差別は感じなかった。

・CレーションやKレーションは訓練の時しか食べていない(そりゃそーか)ピストル
・3シーズン、カーキ服で仕事。冬場はアイゼンハワージャケットを着た。フィールドジャケットも使った。
・ビルマやフィリピンに行った者の中には空挺訓練を受けた者がいた。
・平の山で射撃訓練をした(大波の射撃場か?) カーバイン、ピストル。
・ウォルター オカ氏は同級生、家族の事も良く知ってる。
・Kenji Gotoはハワイで有名。日系アメリカ人とMISの為にすごく頑張った人。
・MISは戦後も長く、その活動は秘密で家族にも話せなかった。表彰される事もなく、セレモニーにもひっそりとしか出れなかった。
今は同列にきちんと扱ってもらえるのが嬉しい。

ざっと、こんな所ですかな?  


Posted by 先任  at 11:11Comments(3)つれづれ

2015年09月26日

R.I.P....



もう9月も終わり。

9月末は100大隊の慰霊祭が毎年、パンチボウルで行われています。
2012年に招待を受けて初めてハワイに行き、MemorialServiceに参列させていただきました。





この慰霊祭は、1943年の9月28日に初の第100大隊の戦死者として記録されたSgt.Joe.Shigeo.Takataにちなんで始まった物で、現在では442ndやMIS等を含めた、すべてのWW2ハワイ日系アメリカ人の慰霊祭となっています。






今年、2015年は9月の27日に行われますが、偶然にも仕事でBCoのメンバー2人がハワイを訪れてまして、VeteransClubと調整し、出席する予定です。(前日行われる、準備ボランティアにも参加します)

その調整の為のメッセージを今日、VeteransClubとしている時にふと、伝えられた訃報。

Robert.Tomiya.Sato氏が8月に亡くなられた、との事でした。

Robertさんは、私が最もお会いしたかったVeteranの1人で、たいへん日本語が達者で、戦後は通訳の軍属として日本に来て、東条元首相の通訳もされたそうです。

私が第100大隊にハマるきっかけとなった、文藝春秋のビデオ「ブリエアの解放者たち」でのインタビューが本当に印象的でした。
1h9m52s からRobertSatoさんのインタビューがあります。




※WW2当時のRobertさんの写真と共に

私がクラブを訪れた際は、当初はセレモニーにだけ出席される予定だったのが、私が会いたがっているとの話を受けて、急遽予定を早めてオアフ島へ来られ、お話させていただきました。


※BCoの活動アルバムを見てくださっているRobertさん。


セレモニーの時、私は仕事の制服で参列しましたが、胸の防衛記念賞(10個くらい付いてる)を見て、日本語で「おっかないね」 と言われたのも印象的でした。
たくさん付いてるので、色んな経験してるんだと言う意味だったのか、怖い人だ、と思ったのか。。。今となってはわかりませんが。

セレモニーの後、わざわざ私を探しに来られて、奥さんや娘さんをご紹介下さり、更に「日本海軍の偉い人だよ」なんて笑いながら言って下さりました。

チキンヘカの話を多く聞いたのもRobertさんでした。
仲間が料理好きで、色々作ってくれたそうです。



BCoでも何度も作っているチキンヘカですが、ハワイ料理の本などに載っているのとはまた違い、前線でのヘカ、と言うものをベテランの証言の載った本などから推察して作ってましたが、Robertさんは私が何も言ってないのに、上記の写真を見て「これはヘカだね」と言ってくださり、私は「間違いじゃなかった!」と感動したものです。

実質、お話したのは全部で1時間にも満たない短い時間でしたが、本当に思い出として残っています。
そして、もうお話する事ができない、と言う思いがこみ上げています。

どうか、ご冥福をお祈りいたします。

最後にセレモニーの後でRobertさんが私と握手をして下さりながら言って下さった言葉。

「君達は日本人で、僕たち100の事を(後世に)残してくれてるんだね。頑張ってね。 海軍もARMYも頑張って」

この趣味を続ける上で、この言葉は生涯残して行こうと思います。


  


Posted by 先任  at 22:42Comments(0)つれづれ

2015年06月11日

FBでの評価(ちょっと自慢かww)


https://www.facebook.com/Bco.HQ
BCoのフェイスブックページ。おかげさまで、まもなく1200フォローになりそうです。

https://www.facebook.com/groups/276536462442923/
「Living History~ show your impressions.」 非公開ページですが、申請したらたぶん承認してくれます。
海外のリエナクト、リビングヒストリーの状況見るのに良いですよ。


先日の御殿場「COMBAT9」での再現キャンプについて、フェイスブックの方で海外にも写真と簡単なレポートを上げましたが、予想以上の反響を得ています。
せっかくなので、FBやってない人の為にいくつかピックアップして紹介します。
※英語下手なので、訳は間違ってる可能性があります。
写真はコメントのイメージに合わせただけです。


Большие страйкбольные маневры.
「非常に大規模な演習だ」
byロシアの軍人、リエナクター


日本二戰重演玩家舉辦的野營活動,十分注重細節,至少在公布的照片中,找不到非二戰物件。這樣的生活重演玩法,在缺乏武器、車輛等裝備的台灣來說,值得學習模仿。
「日本の第二次世界大戦リエナクト活動です。写真を注意して見ても、細部まで戦時の物以外は見つける事ができません。 武器や車両などを持てない台湾では、このような生活再現を見て。真似る価値があるでしょう」
by台湾リエナクター


More photos fm the Japanese 100th/442nd reenactors. They meet quarterly, and try to camp out like they did in WWII, using only the tools, food, clothing and armament of the time.
「日本の100大隊リエナクター達の多くの写真。彼らは季節ごとに集まり、WW2で使用されたものに限定した被服を着、食べ物を食べ、道具、武器を使用してキャンプするのである。」
by カリフォルニア在住の日系アメリカ人 退役軍人


I wish half the units in the US were as dedicated to their impressions as you are.
「私はせめて、米国のユニットの半数が、貴方たちのような印象を与えられるようになって欲しい。」
by オハイオ在住 リエナクター


Uniforms strait off the quartermasters shelves!!! Wonder if they march Japanese style?
「ユニフォームが補給から支給されたばかりのようだ!(汚れていないな) 行進が日本スタイルなのは変だよ?」
by オレゴン在住 日系人?


What a great job! Would love to see your impression in person someday.
「なんとすごい!いつか自分であなた達の活動を見たい。
by アメリカ在住 ARCリエナクター(女性)


We need you guys to take a vacation to the US in the Fall and come to Rockford. It's one of the largest reenactments in the US with over 1000 reenactors. You gentlemen would be rock stars.
「我々にはあなた達が必要。秋に休暇を取ってアメリカ、ロックフォードへ来い。そこは全米最大のリエナクトメントで1000人のリエナクターが集まる。君たちはそこでロックスターになるだろう。
by ウィスコンシン在住 退役軍人 リエナクター


Is this Cold War? Germany? Odenwald? early 70's? I'm asking because I've sat on the ground at Graf and looked at the same shit to eat.
「これは冷戦期か? 70年代初頭のドイツ、オーデンワルトか? 俺は地面に座ってその時同じク○飯を食ったから聞いてるんだ」
by ジョージア在住 退役軍人 リエナクター


Some of the BEST troops I have ever seen. Awesome impression. Great, hard work. Just fantastic. Bravo. I would love to see you here in the states.
「これまでに私が見た、BEST部隊の一つ。物凄い印象。すごい、そして大変な労力。まさにすばらしい。ブラボー。私は合衆国であなたに会いたい。」
byシカゴ在住 ミリタリーコレクター リエナクター


I remember the days of having to do this for real
「私はこんなリアルな日々を覚えている」
by イリノイ在住 退役軍人


I did KP in the field when I was in the army....it hasn't changed at all!
「私は陸軍に居たとき野戦KPをしていた。何も変わってないな!」


Dog tents!
「犬小屋!」
by ペンシルバニア在住 退役軍人 リエナクター


In my era, if it's raining we ain't playing. Flintlocks and rain don't mix well!
「私は雨なら遊ばない。フリントロックは雨と相性悪いんだ」
by ペンシルバニア在住 リエナクター


The best reenacting unit I've ever seen. Everything from a entire period lunch (and in such quantity), as well as munitions distribution and even a baseball game. Amazing work done by these guys, I don't think I'll ever see a better portrayal of the 442nd Regimental Combat Team.
「これまでで私が見た、最高のリエナクト部隊。弾薬等の配布やすべての食事の支給、さらに野球の試合まで。驚異的な内容。これほどの442連隊の描写を見ることはないだろう」
by フロリダ在住 学生 リエナクター


Very impressed. Love the attention to detail. Especially the written english on the message board. Top notch boys!
「すごい感銘。注意ぶかいディティールを愛します。メッセージボードに書かれた英語! 最高の連中!」
by ユタ在住 リエナクター


The details are fantastic. You've captured the day to day of eating, sleeping and all other aspects really well.
「ディティールが素晴らしい。貴方たちは日々の食事、眠り、その他すべての面において本当によく再現した」
by ユタ在住 歴史家


This deserves a decent comment- Having looked through the series of pics all I can say is wow! Great job! You guys have done an incredible job here. You look like a unit. The activities you conducted look like unit activities. You all wear the same UNIFORM of a line infantry unit- There is no unnecessary bling or cool items. No camouflage items. Not a speck of modern things like plastic coke bottles etc. No reliance on a thoudsand vehicles or jeeps to provide the eye candy. You have catered for yourselves in period style recipes and chow lines. The detail is incredible. You have taken a very professional way of approaching things in that no detail is left out and everything is done to the best of your abilities.You guys are the best GI reenactment group I have seen yet and you should be very proud of your achievements. Put it in black and white and you would look like you were there! That, my friends, is a benchmark rollout of a reenactment unit.
「これは私が写真を見て言いたいすべてである。 ワォ! すごい内容! 信じられません。
あなたたちは部隊に見える。その活動は実際の部隊のようです。
あなたたちは、迷彩も余計な物もない同じ軍服を着て、ペットボトルその他の現代物もありません。ジープや車両なんかなくてもまったく問題にしていない。
期間中の食事は調理から配食までこなし、プロフェッショナルだ。
細かい事も妥協せず、あなた達の才能が見える。私の見た最も良いGIリエナクトグループである。
あなた達はその業績を誇って良い。そしてすべての人にそれを見せなさい。
あなた達は、まるでそこに居たかのようだ。
私の友人は「リエナクトメントユニットを初めて見た」 これが基準になるだろう。
by オーストラリア 国防省勤務。 リエナクター


, I have correction to point out. WHY ARE YOU NOT HERE IN THE U.S.??? Great job!
「私はあなた達の過ちを指摘します。 ”なぜ、あなた達はアメリカでやってないのだ?” 素晴らしい。」
by オレゴン在住 リエナクター


mecha ii na shyashin !! good job sarge to chief
「めっちゃ いいな 写真! グッド! サージとチーフ」
by アホ仏人wwもとい中隊長


Outstanding impressions, the photos are beyond impressive!! Keep up the excellent work!
「際立った印象だ。超越している。この素晴らしい活動を続けて!」
by Der Erste Zug http://www.dererstezug.com/


A photo album of the reenactment our friends had last week in Shizuoka. We were hoping that some of our WWII vets could attend but alas age and illness were just too powerful and won over international travel. They were there in spirit!
More Re-Enactment photos from our friends in Japan
「この写真集は、我々の友人が静岡で行ったリエナクトメントだ。我々はベテランの何人かが見に行く事を計画し望んだが、病気に阻まれ、海外旅行はできなかった。
しかし、心は彼らと共にあった!」
by 100th Infantry Battalion Veterans aka Club 100   


Posted by 先任  at 00:07Comments(0)つれづれ

2014年11月12日

OnePukaPuka Marching Song



100th Infantry Batalion Marching Song

One Pukapuka Infantry, We are the boys From Hawaii nei
We're fighting for you And the red white and blue,
We're going to the front, And back to Honolulu-lu-lu
Fighting for dear ole Uncle Sam, What the Hell!! We don't give a damn
Let Them Come and Run At the point of Our Gun
When, One Hundred.Leads The Way.

IMUA E Fight! Fight! Fight!, IMUA E Fight! Fight! Fight!,
From PearlHarbor to Italy and France,
IMUA E Fight! Fight! Fight!, IMUA E Fight! Fight! Fight!,

All Hail! Our Fighting Team!!

※私勝手訳

「第100歩兵。我らこそはハワイ男児。
俺たちが戦うのは合衆国と君の為。
俺たちは前線まで行き、故郷へ戻る。
故国のため戦う。戦死がなんだ。俺たちは恐れない。
さぁ、俺たちの銃先にかかってこい。
100大隊はいつ、先陣を切るだろう。

前進! 戦え!戦え!戦え! 繰り返し
真珠湾から、イタリア、フランスまで。
前進! 戦え!戦え!戦え! 繰り返し

我らの戦闘大隊!」

今回は、第100歩兵大隊の歌について書きます。
上記の歌詞は、100大隊B中隊のveteran、ロバート・アラカキ氏に教えていただいたものです。
また、セレモニー等で歌唱隊が442連隊歌と併用して歌い、使用されているものです。

100大隊歌と442連隊歌の関係は諸説あり、どれが正しいものかは今ではわかりません。
そこで、私が知る限りのことを記し考えてみたいと思います。

私が最初に「歌」について知ったのは、ドロシー・マツオ氏著の「若者たちの戦場」に出てくる、マーティン・イイダ軍曹が連隊歌を作った、というエピソードと日本語訳された歌詞でした。
ハワイ、キラウェア出身のイイダ軍曹はL中隊に所属し、140高地の戦闘で戦死しました。
(140高地の戦闘は、キャッスルヒルの戦闘の前哨戦で、1944年7月4~8日にかけての戦闘です)
442連隊がチビタベッキアで第100大隊に合流したのが6月10日ですから、戦地に来て1ヶ月という所でした。
442連隊歌がいつごろ作られたのかは定かではありませんが、歌詞の内容からキャンプ・シェルビーではないかと言う気がします。
とすると、必然的に100大隊歌より442連隊歌の方が先、という事になるのですが。

その後、日系部隊の再現映像を撮られたForest氏、以前から日系部隊を研究しWebサイトで紹介しておられたhawkeye大尉を通じて、我々の再現活動動画に日系3,4世の方々が歌った「442nd Fighting Song」を使用する事となり、初めてメロディを知りました。

Four-Forty-Second Infantry! We're the boys of Hawai'i nei
We'll fight for you.And the Red, White and Blue,
And go to the front.And back to Honolulu-lulu.
Fighting for dear old Uncle Sam. Go for broke! We don't give a damn!
We'll round up the Huns. At the point of our guns,And vict'ry will be ours!



その時の動画がこれです。

その後、442連隊歌の他に第100大隊歌もある、と言う話をブログか何かで知ったのですが、それ以上の情報は無く数年が過ぎます。

2012年9月。
初めてハワイ、ホノルルの第100大隊クラブを訪問した際、冒頭の歌詞をいただきました。
印刷された紙にいくつか手書きが加わった歌詞の紙に「100th Infantry Batalion Marching Song」と書かれているのを見つけた時の興奮は今でも忘れられません。
アラカキ氏に「これはイタリアで歌った歌だよ」 と聞き、楽譜、メロディは無いのかと尋ねたところ「これしか無い」との答えでした。
その時は残念に思ったのですが、よくよく歌詞を眺めていると、ピンと気づくものがありました。

「これって、442ソングの歌詞替え版ちゃうん?」

試しに小さく歌ってみると、ピッタリ合います。
そして他のveteranやご家族の方にも促され、クラブ内で歌ってみると拍手喝采ww
どうやら合っていたようです。

その後、JointMemorialServiceのセレモニーでは、歌唱隊が1番を100、2番を442版の歌詞で歌った事もあって、「同じメロディ、違う歌詞(似ているが)」である事がはっきりしました。

おそらくはどちらかが先に作られ、替え歌的にもう片方が作られたのでしょう。

では、どちらが先だったのか? に戻ります。
私は以前は(希望的な面もありますが)100大隊歌が先だと考えていましたが、前述の通りなら442連隊歌が先だという事になります。

まず、442歌については前述の通りマーティン・イイダ氏が作ったという記述がありますが、曲については作曲と言うわけではなさそうです。



これはアメリカの沿岸警備隊「U.S.CoastGuard」の行進曲で「Semper Paratus」と言う曲です。
とても似ている、と言うよりほぼそのままなのが分かるかと思います。
このSemper Paratusは、戦前のハワイ国土防衛軍でも使用されていたそうで(現在の州軍の士官に確認しました)298,299連隊に所属していた100のオリジナルメンバーなら知っていて当然でしょうが、VVVや普通のハワイ市民であっても知っていて不思議ではありません。
曲調も良く、自分達ハワイアンのテーマのような印象を持っていたのかもしれません。

442歌も100歌も「ハワイ」に関する部分はほぼ共通で、まぁ「コトンク」の事は考えていない作りです。
このあたりは100が先、な気がした理由です。

100の歌詞にある「What the Hell!!」(地獄がなんだ!) と言う部分は442では「Go For Broke!」ですね。
ここも、442の方がしっくりくる点でもあります。

442連隊歌のコーラス部分のライライライ、の部分について、本土で監視していたドイツ軍捕虜に教えてもらった歌から取ったとの記述がどこかの本にあったはずなのだが、どの本だったか。。。

ちなみに第100大隊はキャンプマッコイで、442連隊はキャンプ・シェルビーでそれぞれドイツ軍捕虜監視の任についており、それぞれ良好な関係を築いたとあります。

一方100大隊歌は、コーラスの部分に”Imua e”と入りますが、これはハワイ語で「前へ!」とか前進を意味する言葉で、戦いのトキの声だったそうです。
100の歌詞にある「Pearl Harbor to Italy&France」と言うのは1944年以後でないと作れませんが、veteranからの聞き取りの中で当初は「Pearl Harbor to Italian Front」と歌ってたと言う話があり、余計に悩みます。
まぁどちらにしても「俺たちは”Pearl Harborから戦っている”」と言う、100オリジナルの心境をよく表していると思います。

その他100大隊のveteranから聞き取りした所「これは戦地で歌った」「戦後作られたんじゃないか?」「442の歌だね」「100の方が先に歌っていた」などなど、相手によってずいぶんバラバラでした。
442のベテランには聞いていません。。。聞く時間無かったのです。
果たして、実際はどうだったのでしょうかね?

簡単に整理してみますと。

100大隊歌 作者不明 1943年イタリア以降に作られた。 戦後の可能性も否定できない。ほぼ完全にハワイ仕様。
442連隊歌 イイダ軍曹作詞 1944年7月以前に作られた。 442と歌っているが、ハワイ重視。



ちなみに、英語版ウィキペディアの442RCTには次のように書かれていました。
The song may have originally been written for the 100th Battalion and entitled One-Puka-Puka in place of Four-Forty-Second, thus explaining the reference to Hawaii nei ("Beautiful Hawaii") and the vow to go back to Honolulu.
簡単に訳すと、この歌は元々100大隊の為に書かれ、”442”の所は”OnePukaPuka”でした。 と言う事ですが、ウィキペディアも完全に信用するわけにもいきませんね。
※なんせ第100大隊の項目は私自身が書いてますしw

なお、私は「どちらが先か」と争うつもりはまったくありません。
それ自体は実は重要ではないのです。
私が最も気にする点は「100Songはいつから歌われたのか?、また仮に442Songが先なら、100のメンバーはそれを歌ったのか?」

その2点なのです。
理由は。。。
ここまで読んでお付き合いいただいた方には説明不用かと思いますw




  


Posted by 先任  at 19:18Comments(0)つれづれ日系部隊史

2014年09月28日

MemorialService Day.100th-Bn&442RCT&MIS JapaneseAmericans.



MemorialService Day.100th-Bn&442RCT&MIS JapaneseAmericans.
ですね。



1943年9月28日 Sgt.Shigeo Joe Takata. 戦死。

「自らの危険に顧みず小隊の戦闘を進む途中、Sgt.Takataは故意に敵MGに身をさらして位置を確認し、砲弾により致命傷を負った。その後数分の間にSgt.Takataは小隊長へ敵の位置を知らせた」
と、DSCの感状の一部(勝手に訳してます)にありますが、読んでの通り微妙な内容ですね。

ドウス昌代の「ブリエアの解放者たち」にも「軍事に詳しい者には、この状況ではDSCは授与されない」とも書かれています。

実際のところ、本当にはっきりとしたSgt.Takataの戦死の状況はわかっていませんが、部隊の前進途中、急な砲弾(100大隊の公式戦史では88mm砲)による戦死だったのではないでしょうか?

Sgt.Takataはハワイの野球スターであり、人柄もよく、あまつさえ欧州戦線での最初の日系人戦死者でした。
そのSgt.Takataを「ただの戦死」ではなく「英雄としての戦死」とすることでプロパガンダとしたのか、そのスターの死、初の戦死者を悼む気持ちからの叙勲だったのか。
それは当事者にしかわからないですね。
はっきりと記録に残らず、生存者の目にも止まらなかった(または証言が得られなかった)だけで、本当に英雄的行為の結果だったのかもしれません。

いずれにせよ、約1ヶ月後に戦死広報を受け取り、やがて香典をそっくり赤十字他に寄付したTakata夫人と共にSgt.Joe Takataの名は日系史、合衆国陸軍史に残り、ハワイのパンチボウルでは毎年9月末に慰霊祭が行われるようになりました。





この慰霊祭はSgt.TakataのみならずWW2に関連したすべてのハワイ日系人の慰霊祭となっています。



私も2年前に招待を受け、参列させていただきました。

さて、この式典に先立ち前日にすべての第100大隊兵士の墓を掃除し、花を飾るのですが。。。。行った事のある方はわかると思いますがパンチボウル。。。。とんでもなく広いんですよ。
そして墓は部隊ごとに並んでいるわけではないので、リストと地図を見ながら1つ1つ探して行かなくてはいけません。
暑いハワイですごい重労働になるんですが。。。。

今年は特に協力してくれるボランティアが少なく大変だったようです。
多くはベテラン本人だったり、その家族だったりで今の若い人はなかなか参加してくれないそうです。

毎年とは行かないけれど。。。。何年かに一度。なんとかお手伝いに行きたいと本気で考えてみます。
(格安でもハワイ往復10万か。 クラブハウスに泊めて貰えばホテル代は要らんなw)
  

Posted by 先任  at 22:03Comments(0)つれづれ日系部隊史

2014年06月25日

60mm迫撃砲の訓練




週末に久しぶりにザバイバルゲームに参加してきました。

ご近所(笑)のコンバットゾーン京都様。
家から一時間で着く素晴らしい立地条件で、広くはないものの、野外に無数の板張りの建物が並ぶ市街戦フィールドです。

今回はガスブローバック戦、というくくりでしたが、ガスカートの使用もO.K.と言うことで、60mm迫撃砲の訓練を兼ねて参加してきました。



準備が間に合わなかった第1戦以外は全戦参加(すげー)
ゲーム半分は迫撃砲、半分は45口径拳銃でちゃんとサバゲもしてきましたよ(笑)

メディック戦では特にチームワークが重要なので、さすがに迫で遊ばず真面目に参加しました。

リエナクトメント、再現とはまた違って久しぶりに楽しかったです。

あと、今回面白かったのが相手チームにも自作迫撃砲が居て、計らずとも対砲迫戦ができたこと!

しかも他の参加者の方々もなんだか協力してくださり、ありがたかったです。


ちなみに迫撃砲は確認戦果1。
3人で運用し、大量の砲弾を撃ち込んだ割には「そんなもん?」って感じですが、状況下での運用でそれなりに出来て良かったです。

更に設置と照準、そして装填訓練を実施し、練度を高める必要がありますね。


また、空いた時間には拳銃のタクティカルトレーニングも実施しました。










生暖かく見守って下さった皆様、ありがとうございました。


  


Posted by 先任  at 21:16Comments(0)つれづれ

2013年12月31日

2013年 感謝



大晦日ですね。
本年も皆様には大変お世話になりました。


個人的な事は置いておいても、リエナクトメントグループとして、海外のリエナクターや研究者、ベテラン方とも交流が進み、更なる飛躍の年であったと思います。

来年は、年明け早々の新年野営会を始めとし、2月HGG、3月ウエストフロント、5月の余呉キャンプなどを予定しております。

また、現在100大隊ベテランズクラブや、ハワイのアーティストとも調整中ですが、100大隊史をまとめたショートスライドを制作、発表を予定しております。
内容的にはWikipediaの第100歩兵大隊のページが基本となりますが(だって、あれも私が書いたんだもの)、多くの当時の写真と合わせた物にしたいと考えております。

他にも色々と計画もしておりますが。。。
まずは、新年野営会ですね。

かなり、寒そうですが、頑張って行きましょう。


それでは皆様、良いお年を!
来年も宜しくお願いします。














  

Posted by 先任  at 18:42Comments(0)つれづれ

2013年06月02日

アロハ桜物語 後編



アロハ桜保存会

1982年10月
ハワイに海上自衛隊の練習艦隊(かとり、あさぐも)が入港。
主席幕僚の平間1佐から3枚のアロハ桜の写真がPacificMotionPicture社の社長、小笠原氏(元自衛隊。所属等は不明。ハワイ在住で入港する海上自衛隊の艦隊の世話役をして下さっていたようです)に託され、アロハ桜の概要と共にハワイ報知新聞に掲載されました。
その記事掲載をきっかけにWatanabe氏ら「Club-Maizuru」(戦後舞鶴に駐留したMIS、第500情報部隊隷下の第354中隊及び第355中隊に所属したハワイ二世の会)のメンバーと小笠原氏らが集まり、舞鶴進駐とサクラについての座談会インタビューが行われました。



そのメンバーの中に桜の植樹に携わった方は居なかったのですが、当時の舞鶴の状況やMISなどについて知ることができたので抜粋し、私が直接聞いた話も合わせて掲載します。


入隊当時のWatanabe氏(ハワイ報知新聞より)

Watanabe氏はハワイ・オアフ島のワイパフ出身(両親は福島出身)で22歳で陸軍に入隊。
基礎訓練の後、ミネアポリスの情報学校(後にカリフォルニアのモントレーに移転)で約1年間の教育を受け、日本に進駐。 現地で少尉に任官したそうです。
当初の任地は長崎で、1947年の春に舞鶴に進駐、第500情報部隊の主な任務は引揚げ者からの共産軍に関する情報収集でした。
なお、全国で各県に2,30人ずつ配置されていたそうです。


舞鶴に進駐した第354,355中隊は舞鶴水交社の建物を接収し、使用します。
水交社の建物の裏には壁に穴があり、そこを抜けると「グリーン・ランタン」と呼ばれるビアガーデンがあって、皆さんは毎晩「通勤」したそうです。
まずビールを飲んでから、中舞鶴市街に出てで梅割り焼酎や、ぶどう割りを飲んだとありました。


当時の舞鶴水交会建物


現在は海上自衛隊の官舎となっており、門柱だけが残されています。

私が中舞鶴に住んでいた話をすると「今でもお店はあるのかな?」と聞かれました。
「当時からのお店はほとんど無いと思いますが、焼き鳥屋があって妻が働いてました」と答えると、とても懐かしそうに喜んでおられました。

一方で共楽公園や桜は覚えていないそうです。
桜は海軍の学校(現、舞鶴地方総監部)にはたくさんあったと思う、と言われました。


舞鶴の海軍機関学校。






現在の舞鶴地方総監部と海軍記念館

インタビューでは桜を植樹した方については
「やっぱし舞鶴でお世話になって、何かお返しをしたいと考えたんでしょうね。日本とアメリカの親善を考え、ポトマック川の桜を思い浮かべたのでは?」
と語っておられます。
Takaki氏の思いとは少し違うかもしれませんが、舞鶴-日本に進駐した二世としてそのような感情があったのだと思います。

桜の植樹に関しては
「それを考えるだけでなく実行に移したのが偉いと思うね」
と言う感想や
「1950年頃まで舞鶴に居たが植樹の話は聞かなかった」
と言う話がありました。

また桜を植樹したとされる23人については以下のような話がありました。

Takaki氏がCICならば23人も居ない。おそらく3,4人だろう。
情報部にいる23人が全員戦死すると言う事も、まず有り得ないと思う。
354,355中隊の50名のうち戦死したのは1名で、航空機の墜落が原因だった。

また、Takaki氏はコトンク(本土出身兵)では? と言っておられましたが、これは戦後のTakaki氏が仕事で家族共に本土を中心に生活しておられ、ハワイに戻ってなかったからではないかと思います。


座談会に記事で面白かったのは
「この桜はハワイの日系二世が植えたからいいんであってさサ。メインランドのコトン桜じゃ面白くもなんともないよ」
と言う言葉でした。
この言葉からも日系人といえどもハワイと本土の違いを感じる事ができます。
第100大隊と442連隊と同様に、とかく一緒に括られがちな日系社会ですが、やはりそれぞれの歴史や習慣、経緯を学んで接しないと、と思います。

脱線しました。
桜の話に戻ります。

1973年4月11日の毎日新聞に以下のような記事があるそうです。

「終戦直後軍港の町、舞鶴に進駐した米軍320人のうち23人のハワイ二世部隊の隊員が、当時すさんでいた市民と野球を通じて親善を深めようと試合を申し入れ、22年春(1947年)オール舞鶴との親善試合が実現した。その際”私達は不幸にも日本と戦ったが、日本は父母の国だ。繁栄と友好のしるしにサクラの苗木を贈りたい”と申し入れがあった。
布川氏によると、迫水氏が紹介したCICの高木二世から持ち込まれた話で、矢野市議に連絡した。また、その際、苗木を1本貰い布川氏宅の裏手の広場に枝を伸ばしている」


この記事についてWatanabe氏は長崎では野球をやったが、舞鶴ではしていない、と答えています。

この記事の信憑性は実際にはわからない所ですが、Takaki氏の証言とはほぼ一致しており、また桜に関わった日本人である矢野氏(元舞鶴市議会議長)や布川氏(中舞鶴の地主)らの関係もピタリ当てはまります。
また野球の試合は共楽公園に程近い中舞鶴グランド(元海軍機関学校のグランドで現在は舞鶴地方総監部内)で行われ、戦前から強豪として知られた中舞鶴チーム(明治神宮での御前試合もした事があるとか)を中心に経験者が集まりオール舞鶴チームとして二世チームと戦ったそうです。
私もたまに体育でソフトボールとかしているグランドかと思うと、なんだか感慨を感じるものがありますね。






現在の中舞鶴グランド(奥に見えるのは自衛隊の屋内訓練上)

その試合後の夕食会で桜の話が出て、植樹に至ったのでしょう。


では23人と記載されている日系兵がどの部隊の誰だったのでしょうか?

その答えの一部はハワイ報知新聞の記事の一番最後に掲載されていました。

座談会があった翌日、Watanabe氏から記者に「桜を植えた人が見つかった」と、連絡が入ったそうです。

その人はEdwin・Imamura氏で、通訳として1947年~1950年まで舞鶴に駐屯していました。
※ MISではなく、名簿では第442連隊戦闘団F中隊の出身となっている為、戦後に軍属(Civilian)の通訳として日本に来たのではないかと思われます。

Imamura氏の話を要約すると
1、桜の植樹が行われたのは1950年(昭和25年)の春。
2,野球を含め、23人と言う数字に心当たりはないが二世だけでなく白人や、市民も加えての人数かもしれない。
3、桜の植樹に携わった兵士のほとんどは戦死はしなかった(何故戦死したことになったのかはわからない)

と言う事になります。
そしてImamura氏による植樹者の名前は以下の通りです(敬称略)


・Harry.Murata(MIS Honolulu)
・Stanley.kizu(UNK Salt Lake)
・Seiyu.Inamine(Civilian Honolulu)
・Blackie.Yasutake(UNK Pearlcity)
・Tom.Oshiro(MIS Waipahu)
・James.Nishikawa(Civilian Japan)
・Charles.Tsurumaki(UNK Honolulu)
・Charles.Shimabukuro(Civilian Honolulu)
・Tommy.Ohishi(Civilian Los Angeles)
・Blackie.Tagawa(UNK Honolulu)
・Richard.Sato(MIS Ewa)
・Dick.Inoguchi(UNK Waipahu)
・Mickey.Wakita(Civilian Honolulu)
・***.Sasaki(UNK Waipahu)


※野球チームの写真から掘り起こしたと思われますので、これが本当に植樹した方の名簿なのかは確定できません。
しかし、Imamura氏の同僚であり野球チームである点、駐留した時期などから(そんなに多くの二世が舞鶴に居たわけではないので)この中に植樹した方が居るのは間違いないと考えます。
また名前は愛称と言う場合も考えられます(Blackieさんとか)

MISとして名簿に載っていたのは3名のみ。不明(UNK)の方も含めて多くは軍属であった事がわかります。
第100大隊や第442連隊出身者も、除隊後に軍属として日本に来た方も多くいたそうなので、これらに該当する方も居られたかもしれません。
また写真には白人将校の姿もあり、Imamura氏の証言からも白人の何人かも植樹を手伝った可能性が伺えます。


結論として、Imamura氏が植樹メンバーの1人である事は間違いないと思います。
また、Watanabe氏の話には1979年に亡くなったOkuno氏と言う方は生前に
「我々が植えた舞鶴の桜はもう大きくなっとろうのう、きれいに咲いとるかのう」
と言っておられたそうで、その方も植樹メンバーの可能性が高いと思います。

MISのリストにはShigema.Okuno氏とTetsuo.Okuno氏の2名のOkuno氏がおられますが、どちらが該当するのかはわかりませんでした。
しかし日系データベースによると、Tetsuo.Okuno氏はコトンク(カリフォルニア生まれ)なので、Shigema.Okuno氏ではないかと考えます。

元舞鶴市議会議長の矢野健之助氏も協力した1人なのでしょう。
そして苗木を贈ったTakaki氏と協力した迫水氏。

100本もの桜の苗木を植えるのは簡単ではありません。
おそらくもっと多くの方が協力されたのではないかと思います。

Takaki氏が舞鶴駅で植樹を託したとある日系兵士は誰なのかはわかりませんでした。




中舞鶴駅跡地。 現在はC58機関車が展示されています。 


またTakaki氏が苗木を確認した転属の前日については、正確には朝鮮半島ではなく京都市内への転勤であり、1949年11月の事でした。

もしかすると、キーパーソンであるその方こそが朝鮮戦争で戦死され、その後の話が途絶えてしまったのかもしれませんね。

これら多くの方の協力があって、現在の共楽公園は桜の名所として再び市民の憩いの場となりました。
私をはじめ、多くの自衛官も花見や運動で訪れます。

これらの話は声高に喧伝する事では無いと思いますし、それを植樹に携わった方が望んでいるとも思えません。
ですが、舞鶴市民の1人として、また日系史に興味を持つ人間として、更には海上自衛官としても「アロハ桜」の物語は今後も伝えて、残して行きたいと考え、今回稚拙ながら文章としてまとめさせていただきました。
私自身は調査と言うほどの事はしていませんし、書いた内容の多くはこれまでの先人が書かれた著作、新聞記事、TV番組、インターネットサイトやブログから学んだ物です。
ですが、これまで断片的な話で掲載されていても、それらを纏めた物は無いように思い、素人ながら書いてみました。

もし、これを読んだ皆様が春に桜を見かけた時に、戦後期の日本に後世に残る贈り物をして下さった方々の事を思い出して下されば大変嬉しく思います。












アロハ桜のある共楽公園は舞鶴東港や地方総監部を見下ろせる位置にあり、また反対側には海軍墓地も望めます。

最後に座談会での記事にあった皆さんの「桜」について連想する一言を紹介します。

「ビューティフル。きれい」
「大和なでしこ」
「日本の代表的な花。日本人の心を表す花」
「最近の日本人はそう思いませんが、あっさりしている。咲いて、パッと散るところね」



※個人のお名前等は新聞記事からの抜粋及び、本人の了承によりそのまま掲載させていただきました。
※間違い等ご指摘がありましたら、是非お願い致します。 

アロハ桜保存会
  


Posted by 先任  at 10:59Comments(4)つれづれ日系部隊史