2021年06月12日

Vosgesの戦闘 第442連隊戦闘団 Vol.4「失われた大隊救出 初日」

アメリカ陸軍 第442連隊戦闘団 Vosgesの戦闘  Vol.4をお送りいたします。

前回までのVol.1Vol.2では第442連隊戦闘団の1944年9月29日、マルセイユ上陸からBruyeres解放、10月26日のBiffontaine解放、そしてBelmontとへの後退までを書きました。また、Vol.3では「失われた大隊」が包囲された経緯について、第141連隊の詳報より抜粋し記載致しました。
今回はBruyeres解放後1944年10月26日~31日までの間に行われた「失われた大隊救出の戦闘」のうち、初日の連隊戦闘団の行動に関して記述いたします。

参考資料については前回同様「ヴォージュ(Vosges)の戦闘及び「失われた大隊救出」における第442連隊戦闘団の戦死者数について」と同様ですので、そちらをご参考下さい。部隊記録等の所蔵元については「アメリカ国立公文書記録管理局 National Archives and Records Administration (NARA) Records」となっております。なお、部隊の行動図は記録から可能な限りで起こしましたが、細部は正確ではない可能性があります。
また、現在のGoogleMapを引用し使用していますので、1944年当時とは地形が異なる可能性があります。

失われた大隊救出に関する戦闘は包囲への攻撃主力であった第100大隊及び第3大隊と、結果的に牽制及び側防として働いた第2大隊の行動に分かれます。

当初の連隊の任務はSt. Dieに至る森の掃討でした。
この地域に展開していたドイツ軍はドイツ側の記録及び第442連隊戦闘団を含む第36歩兵師団の捕虜等から得た情報からの記録によると、下記の通りとなります。

上級部隊
・G軍集団(Hermann Balck装甲兵大将)
 ・第19軍(Friedrich Wiese歩兵大将)
  ・第Ⅳ空軍野戦軍団(Gerhard Hoffmann高射砲兵大将)

Vosges地方に展開した部隊
・第198歩兵師団
 ・第198擲弾兵連隊(主に第442連隊戦闘団と直接戦闘で対したと考えられる部隊)
  ・第198フュージリア大隊
  ・マーンケ(Mahnke )戦闘団
  ・メルカー(Marker)戦闘団
  ・第198空軍野戦大隊
  ・第49要塞機関銃大隊
  ・第1432要塞歩兵大隊
  ・第8海軍艦船基幹大隊
 ・第189連隊
・第716歩兵師団
 ・第736擲弾兵連隊(主に第442連隊戦闘団と直接戦闘で対したと考えられる部隊)

西部戦線からの後退で合流した残存集成部隊
・第16国民擲弾兵師団
 ・第221擲弾兵連隊
 ・SS第19警察連隊
 ・第158予備師団
 ・第16空軍野戦師団
・第19国民擲弾兵連隊
 ・第192装甲擲弾兵連隊
 ・第757擲弾兵連隊
 ・第201及び202山岳猟兵大隊
・アーレン(Aalen)戦闘団
・第9装甲師団(一部)

実質的には展開と言うより西方戦線で損害を受け、後退してきた所、これ以上の(ドイツ国内への)後退が許されず、防御命令が下令されています。正確な数字は判りませんが、合計しても1個師団に満たなかったようで、アメリカ第36師団の正面には1個連隊程度の配備だったようです(途中で一部が更に後退して兵力が減った可能性もあります)
また、捕虜の記録からは更に複雑に様々な部隊出身、人種の兵士が含まれていたことが伺えます。
26日までにSt. Dieに至るルートのドイツ軍は砲撃によって大損害を受けており、第442連隊はそこから前進する予定とされていました。
この中で、特に「失われた大隊救出」の戦闘に置いてドイツ軍の主力となったのは第716歩兵師団隷下の第736歩兵連隊と思われます。
第736歩兵連隊は師団主力のあるLa Houssiere(ラ・ウシエール)から北へ移動し、米141連隊第1大隊と第3大隊の間に入って敵を二分すると、そのまま第1大隊を包囲しました。


「失われた大隊救出」に関する10月26日までの第442連隊戦闘団の概況については、以下の通りです。

第442連隊戦闘団と、その所属する第36師団の戦闘序列については前回のVol.3に記載しています。

10月25日0230時:ベルモントにて休養に入っていた第2大隊に第36師団より待機命令。翌朝には出撃準備が下令。1230時に第36師団より第442連隊戦闘団に対し待機、出撃準備が下令。なお、第522野砲大隊は第442連隊が後方に下がっている間は第36師団砲兵司令部の直轄に組み入れられていましたが、26日に連隊が戦線に復帰すると同時に再度連隊戦闘団の隷下に戻っています。
10月26日0300時:第2大隊はベルモントの待機エリアを離れ、移動開始。
北方へ進出し、第7歩兵連隊(第3師団)と141歩兵連隊の間隙を埋めて36師団の左翼側面を防御するよう命ぜられた第2大隊は、夜間の間に暗い森を通り抜けてHill585の手前まで進出し敵と交戦。
これらを排除しつつ街道沿いに敵を掃討し、夕刻には地点315595の集結地に到着。第141連隊第3大隊と交代すると、間を置かずに敵からの射撃を受けて戦闘が開始。

情報に寄れば約100名からなるドイツ軍の一隊が地点327598の高台(Hill.617)に塹壕を構築、北西に伸びる谷を包み込むように5挺の機関銃が配置。更に2基の120mm迫撃砲と対戦車自走砲が左側面に配置され、それらは小火器で補強。

このドイツ軍守備隊からの十字砲火と激しい砲撃に直面した第2大隊は前進を止め、各中隊ごとに壕を掘って防護に移ります。各中隊の位置はE中隊が地点324595、G中隊が地点323600、F中隊が地点322596。
第2大隊の目標はこのHill617の攻略による師団左翼の安全化となります。
一方、442連隊主力たる第100歩兵大隊及び第3大隊は、141連隊の位置までの前進を命ぜられ、27日の深夜に行動を開始します。

また26日の第442連隊の詳報に記された「失われた大隊」の状況は下記の通りです。
「第141連隊第1大隊の状況に関する報告は益々深刻に。敵は反撃して大隊を取り囲み、背後の道路を切断した。」

26日の時点で442連隊本部は「失われた大隊」の置かれた状況を正確に把握しており、また自隊がその救出の為に駆り出された事も認識していた事がわかります。

1944年10月27日

日付の変わる深夜も第442連隊戦闘団は活発に活動していました。
第2大隊は第36歩兵師団の北方を前進する第3歩兵師団の第7歩兵連隊と連絡し、北方を安全化する為、Hill617をその目標に定め、麓に陣を引きます。
師団最左翼として、第100大隊及び第3大隊の進撃路を守る構えになります。
第36師団からの命令により、再出動となった第100大隊と第3大隊は0300時までに準備を完了し、第3大隊が0400時にBelmontより縦列での前進を開始。
1時間遅れで第100大隊がその後を同じく縦列で追従します。








前進を開始する442連隊第2大隊の兵士。
※この4枚の写真は10月14日の撮影であり、「失われた大隊救出」時のものではありませんが、当時の様相を伝える物として引用しました。


第752戦車大隊のM4シャーマン戦車 ※この写真は1944年10月30日に撮影されたものです。


第82化学兵器大隊の107mm迫撃砲。 ※この写真は1944年10月16日に撮影されたものです。

第3大隊には第752戦車大隊D中隊(M4中戦車10輌 1個小隊欠)、第3化学兵器大隊C中隊(M2-107mm迫撃砲12門装備)、第100歩兵大隊には第752戦車大隊B中隊(M4中戦車10輌 1個小隊欠)、第82化学兵器大隊D中隊(M2-107mm迫撃砲12門装備)、第636駆逐戦車大隊C中隊(M10駆逐戦車4輌、M15対空自走砲2輌)が増強されました。


1944年10月27日0600時の状況図。

夜が明けた0743時に第100大隊から442連隊に141連隊の行動について確認する通信があります。
それによると、141連隊は442連隊と交代後Belmontへ後退し休息するとなっており、第100大隊は後続してくれないと自分達が「失われた大隊」同様になる、と抗議しています。

また、442連隊が進入するにあたり141連隊が運用している砲兵(第131野砲大隊)へ注意喚起が行われていました。
第131野砲大隊は第141連隊の交代に伴い、第522野砲大隊と共に第442連隊戦闘団の指揮下へ入る予定でしたが、結局第141連隊が交代しなかった為、元の指揮系統を維持しています。


第131野砲大隊による射撃。※この写真は1944年10月30日に撮影されたものです。

0850時には状況を鑑み、141連隊は後退せず前線に留まる事を師団長に訴え、0910時には442連隊に協同するよう下令しています。

1000時に第100大隊は141連隊第2大隊と交代し超越、更に東へ前進。
一方、第100大隊に追従することとなった、442連隊第3大隊は味方砲弾(と考えられる)の砲撃を指揮所付近に受け混乱し、攻撃開始が遅れます。
1053時にようやく2個大隊として横隊へ展開し攻撃を開始しますが、その前進は進まないものでした。
第3大隊が追従できなかった為、第100大隊も前進を中断し、第3大隊を待ちますがこれに36師団長が怒りをぶつけたのが1150時。
「攻撃すべき時間を2時間過ぎたが2個大隊が道路に座っているだけだ。射撃もしていない。現場で何が問題なのか確認せよ。」
第100大隊は以前のBiffontaineの戦闘で連隊(師団)が約束した後衛部隊が送られず包囲、孤立した経験もあって単独での前進には慎重だったと考えます。
師団は連隊を通じて駆逐戦車(M10)を2輌、第100大隊の支援に付けますが燃料が考慮されておらず、この日は運用できていません。M4シャーマン戦車用のガソリンは保有していましたが、支援に来たM10駆逐戦車は軽油を使用するディーゼルエンジンでした。


午前中に第442連隊本部は第141歩兵連隊本部と合流し、麓の民家に合同本部を立ち上げます。
昼過ぎには第36師団長が合同本部に来て、細かい指示を出していました。

結局師団長にせっつかれ、第100大隊は第3大隊を待たずに1340時に連隊右翼として前進を再開。
第3大隊は前進する都度、狙撃を受けてなかなか進めて居ない状況でした。

一方北方に進撃した第2大隊はHill585を巡って第30師団の第7歩兵連隊との調整が難航していましたが、ようやく1400時に第7連隊が丘を制圧します。
北方を第7連隊に任せた第2大隊はHill617の西側に並び、攻撃を待機します。
第7連隊と連絡する為、北上してHill585に近接したE中隊(記録ではF中隊と混同が見られる)は、事前に第7連隊に針路を伝えていたにも関わらず、砲撃を受けて停止します。


砲撃任務中の第522野砲大隊。 ※この写真は1944年10月15日に撮影されたものです。

その際、第2大隊本部より連隊、第522野砲大隊に対し1641時に抗議が出ていますが、把握していない連隊の方では否定。
実は1440時に第7歩兵連隊から36師団と141連隊に対し、砲撃する旨の通知が行われていましたが、それを442連隊へ通知するのを怠った模様です。
第2大隊から442連隊を通じ、第36師団へは第7連隊との位置関係を繰り返し通知しており、味方誤射を防ぐ努力が見られる事からも、これは師団司令部の失態であったと考えます。
他にも442連隊第2大隊からは目標とされたHill585に敵の存在を認め、築城している旨を報告するもそれは第7連隊によって否定され、その後に7連隊が丘を攻撃するなど、錯綜がみられます。

その間にHill617を牽制していた第141連隊第2大隊は442連隊の後方を守り、第3大隊は143連隊と協同でHill624の攻略へ向かいます。


1944年10月27日1500時頃の状況図。

一方1520時頃に第3大隊に対してドイツ軍は戦車の支援を受けた強力な部隊により攻撃を実施。
第100大隊の後方から支援に駆逐戦車(M10)を投入しようとしますが、燃料がM4戦車用のガソリンしかなく(M10は軽油を使用するディーゼルエンジン搭載型)、第3大隊のK、I中隊は手持ちの火器による反撃を余儀なくされます。
K中隊のPfc.Matsuichi Yogiを始めSSgt.Joe Shimamura、Pfc.Katsutoshi Sanoらがバスーカ砲を持って戦車4輌及び随伴するハーフトラックを撃破。
SSgt.Shimamuraの証言によると、撃破した敵戦車のうち、1輌は夜の間に修理され後退しています。



戦車4輌の撃破を報告している記録。442ndRCT 1944年1027日の連隊詳報より。


SSgt.Joe Shimamuraの墓碑。彼は戦争を生き延び、その後何度かこのボージュの森を訪れていた。



Pfc.Matsuichi Yogiは2日後の10月29日に砲弾によって戦死し死後、この日の戦車撃破の功績で殊勲十字章(DSC)を授与されます。
また、この時の戦闘の様子が「失われた大隊救出」の戦闘をイメージした絵画に描かれ、アメリカ陸軍10大戦闘の1つとしてワシントンD.C.のFort McNair陸軍軍事史センターに飾られています。





またK、I両中隊の反撃により敵を撃退しますが、その戦闘の最中にI中隊のホノルル出身、Pfc.Amakawa Nobuoが戦死します。
死後叙勲された銀星章(SSM)によると、敵機関銃座を発見したPfc. Amakawaは味方部隊に対して敵が射撃を開始する前にその機関銃座に攻撃し、撤退させる事で味方の中隊を救ったとあります。
その後、狙撃兵によってPfc.Amakawaは首を狙撃され、戦死しました。
この日、第442連隊戦闘団で唯一の戦死者でした。
死後、銀星章(SilverStar)を授賞しています。
Pfc.Amakawaは1920年8月1日ホノルル産まれ。
マッキンレー高校卒業後、陸軍軍属として施設建築に従事しており、1943年3月に志願入隊し442連隊へ配属されていました。

ドイツ軍の戦車を始めとする装甲車両群を撃退し、反撃に転じたI、K中隊はI中隊を右翼、K中隊を左翼として東へ進撃。
ドイツ軍の防御線を突破します。
この日の戦死報告は前述したPfc.Amakawaのみでしたが、実際にはかなりの被害を出しており、負傷者の多くは野戦救護所経由で後方の病院へ搬送されていました。

I中隊では、第1小隊長の2Lt.Richard HayashiがPvt.Henry Nakadaら3名に斥候を命じています。
2Lt.Hayashiはカリフォルニア出身で戦前に徴兵で入隊、語学兵として陸軍情報部(MIS)で勤務し、43年にはニューカレドニア島で日本軍捕虜の尋問や翻訳にあたっていた所、第442連隊の設立を知り嘆願を重ねて転属となりました。太平洋戦線から欧州戦線へ転属した唯一の日系兵でした。
結局Pvt.Nakadaらの斥候は敵機関銃の射撃を受けてちりじりとなり、森の藪の中で丸一日を過ごしてなんとか帰還しています。Pvt.Nakadaはロサンゼルス出身でアラスカの港湾で働いていた所を徴兵されていますが、12人兄弟の5男で実に7名がNakada家から従軍しています。これは当時のアメリカ全土での、一家からの従軍数にトップタイでした。

一方、442連隊第2大隊が北進した後を埋めるように配置された第141連隊の第3大隊ですが、山中で激しい砲撃と歩兵からの攻撃を受け、大きな被害を出しています。
1616時には141連隊のK中隊から「残存兵力25名」との報告が上がっています(歩兵1個中隊は193名で編制)
141連隊の第3大隊を支援したい同連隊第2大隊も、第100大隊の進撃側面を防御する必要に迫られ、身動きがとれない状態だったようです。


1944年10月27日2000時頃の状況図。

日没後も第442連隊並びに第141連隊は活発に活動しています。
1837時には師団長から442連隊に対し「孤立した大隊まで押して到達せよ」との指示が届いていました。
各中隊は相互に支援しながら暗い山中を前進し、可能な限り防御に適した地形での夜間を迎えようと試みていました。
第442連隊は第3大隊を先頭に「失われた大隊」へ近接しており、その戦闘の音が失われた大隊にも聞こえていたようです。
第100大隊は第3大隊の後詰めにあたる位置で追従し、敵に後背を取られる事を防いでいます。
その後方には第141連隊の第2大隊が入り、防御を固めていました。

第2大隊は北方のHill585の安全化を確認した後、Hill617を攻略する準備をしていました。
しかしここでも第3師団第7連隊との連絡の齟齬が発生しています。
1826時には第2大隊の作戦幕僚から442連隊の作戦幕僚宛に「7連隊のバカは何している?=What's the dope on the 7th Inf?」との苛立ちを示すメッセージが送信されています。
その後の位置確認で第7連隊がHill585から東へ前進したのを確認し、ようやく第3大隊は落ち着いて正面のHill617に対峙できました。
同じ頃、それまで本隊である442連隊戦闘団から離れ、ドラグーン作戦にグライダー降下してした対戦車中隊がようやく復帰し、連隊本部に合流します。
対戦車中隊は当時、英国製のオードナンス QF 6ポンド砲を装備していましたが、これらは山間部で使用する事が困難であり担架兵等の支援部隊となって連隊全体を支援しました。

20時頃に各大隊は前進を止め、それぞれに壕を掘って防御態勢を築きます。
もちろん翌朝の攻撃再開に備え、深夜に至るまで積極的に夜間斥候を送り、敵の監視と情報収集を続けていました。

失われた大隊の方では2015時の報告によると水の不足と、士気の低下が懸念されています。
24日と25日に2度に渡り、突破の足がかりとして派出したパトロールの失敗が兵力と士気を大きく下げていたものと考えます。
しかし同時に、包囲はしていたもののドイツ軍の方も積極的に「失われた大隊」を攻め上げて全滅させようとはしていなかったようです。



以下は10月27日における第442連隊戦闘団及び第141歩兵連隊の戦闘記録によるものです。特に記載がない場合、第442連隊戦闘団隷下部隊の記録と考えて下さい。

0030時:作戦指示No.7受領
0032時:RCT(連隊戦闘団)本部よりS2へ。
連隊規制時間知らせ。
S2:0032時。
連隊戦闘団:状況知らせ。
S2:第3大隊が0400時、第100大隊が0500時に行動開始する。
砲撃準備は完了しておらず、通信確認のみ。
パトロールは常時実施中。
0045時:第442連隊より第141連隊長へ。
我のF中隊から第7連隊が担当する道路障害、Erivalの北へパトロールを派出。現在の所は砲撃もなく静か。

0325時:Lt.Asai(ACo/連隊LO)より第3大隊へ。
各隊の位置。
第141連隊I中隊及びL中隊、地点325593。
K中隊地点323587、G中隊地点319589。
E中隊各小隊地点312587、314584、317586。
F中隊各小隊地点311584、312579、312574。

B中隊地点344514(344574の誤りと推察)、C中隊及びA中隊2個小隊地点346514(346574の誤りと推察)。
彼らの背後にドイツ軍の封鎖線があり、身動きが取れない。
第7歩兵連隊第2大隊の位置、地点311631。

0505時:第3大隊副大隊長よりLt.Asai(ACo/連隊LO)
大隊はIP(進入点)を通過。

27日0600時:第36師団長より現況概要。
戦闘前の段階で敵の障害は地点338579であると報告された。
Foret Dominialeの森と丘の線(地点317579~328592)に沿い地点308578、315580、326598を防御線としている。
期間中、この地域での進展は報告されていない。
南側では戦闘パトロールが地点254437と255436で機関銃の射撃を受けた。
砲兵は通常の運用中。
24時間の捕虜の合計4名、フランス戦線全体の合計は14009名。

0730時:第141連隊副連隊長より師団G4へ。
物資投下位置を示す、白い矢印について通知。

0743時:第100大隊副大隊長よりLt.Gilbert(442連隊補給中隊)
我々の通過後、141連隊はその場所に留まるかどうか知っているか?
Lt.G回答:計画では我々が現在位置する、休息エリアに戻る事となっている。

第100大隊副大隊長よりS3へ。:
141連隊が我々の位置まで戻った場合、戦線を維持できず442連隊が同じ状態に陥る。
141連隊E中隊はその位置に留まると考えていた。連隊長へ確認せよ。
S3:了解。

0820時:第2大隊長よりS3へ。
第3師団は何をしているのか?
S3:こちらは地点314615から減じた小隊をもって地点318661を強化した。
第2大隊長:他に何か?
S3:いいえ。7師団と30師団は左側面に位置し、そこまで前進している。
第2大隊長:次はどこまで?
S3:30師団第3大隊は地点318630。
第2大隊長:彼らはそれほど前進していない。次は?
S3:7師団が地点340640。
第2大隊長:我々の受持ちが広く、手薄になっている。7連隊の指揮所の位置は?
S3:地点296620の交差点。
0830時:師団長より第141連隊第2、第3大隊へ。
442連隊の将校から貴官が連絡を取っている砲兵へ警告あり。

0848時:S3より141連隊指揮所へ。
442連隊からそちらに行っているのは?
141指揮所:はい、指揮官とS2。
S3:そこにこちらの大隊は居るか?
141:ここに位置しているが、集結地を閉所していない。

0850時:141連隊長より師団長へ。
141連隊は442連隊の攻撃及び側面を支援する為、前線に残る事を提案する。
師団長の命令が下るまで、移動しない。

0910時:141連隊長より141連隊第2、第3大隊長へ。
必要に応じ、442連隊と共に攻撃を再開する準備を成せ。
移動経路はPt.9へ向かう針路。

0915時:LBより141連隊長へ。
戦闘パトロールに派出したうち、5名のみが捕虜1名と共に帰還。
他は敵による待ち伏せに合い、捕らわれた模様。
捕虜の証言からPt.10の北方に150名のドイツ軍が存在し、アメリカ軍の東方側面に位置しているとの事。
機関銃を含む敵パトロールにより南方より攻撃を受けたが、撃退した。

0925時:442連隊S3より141連隊S3へ。
第100大隊が集結地を閉鎖したと報告された。

0927時:S3より第3大隊副大隊長へ。
第3大隊は閉所したのか?
第3大隊副大隊長:そう考える。有線及び無線で確認していない。

1000時:第3大隊副大隊長回答
以前の指揮所は閉所し、1045時に地点308586で開設する予定。

1005時:141副連隊長より141連隊S2へ。
地点315585に442連隊の1個大隊が存在、エリア3059を集結地としている。
143連隊G中隊はBiffontaineの北方の丘、南東の鼻に位置。
F中隊は地点318578に位置。
第100大隊はE及びG中隊を超越し攻撃中。
第3大隊は北方より側面攻撃を試みる。
我々の部隊は予備として、必要な箇所に火力支援を送る

1015時:師団長より141連隊長へ。
指揮所を訪れ、連隊長より状況報告を受けた。
全ての戦車を直ちに442連隊の指揮下へ置くよう命じた。
141連隊第2、第3大隊への戦車の編入を解く。

1027時:141連隊第2大隊長より141連隊S3へ。
第442連隊B中隊、141連隊E中隊を超越。

1046時:141連隊長より141連隊S2へ。
味方砲兵の射撃が届かず、442連隊第3大隊及び141連隊第3大隊の指揮所に着弾、両大隊の攻撃が遅れた。

1053時:442連隊より141連隊S3へ。
第100大隊及び第3大隊攻撃開始。

1145時:141連隊S2より師団G3へ。
補給品投下任務は開始されたか?
G3:航空機はエリア上空を旋回したが、深い霧に阻まれ補給品を投下できなかった。航空機は基地へと帰投したが、視界が回復したならば速やかに再開する。

1150時:師団長より連隊長
攻撃すべき時間を2時間過ぎたが2個大隊が道路に座っているだけだ。
射撃もしていない。
現場で何が問題なのか確認せよ。
連隊長回答:イエス・サー、すぐに行く。

1200時:第100大隊よりS3へ。
先遣小隊が敵と接触中。第3大隊を待つ。第3大隊が来たならば速やかに進発する。
S3回答:ちょうど3大隊と通話した。彼らはまだ途中である。

1203時:LBより141連隊長へ。
味方部隊の位置は?
連隊長:そちらへ向かっている。
1100時に航空機が補給品を投下する手筈だったが、悪天候で許可が下りなかった。
天候による許可が下り次第実施する。

1210時:S3より第100大隊長へ。
2輌の駆逐戦車がそちらへ向かっている。
100大隊長回答:これを使用するか?
S3:はい、彼らはディーゼルエンジンだ。
100大隊長:ここに燃料が必要な戦車が数輌ある。これらを活用できるか?
S3:イエス、まもなく燃料トラックが来る。右翼の最も近い部隊、143連隊F中隊を下ろす。

1215時:師団長よりS3へ
ドイツ軍A中隊が地点315635で降伏、Hill585の抵抗は弱体化している。
どうだ?
S3回答:全て把握している。

1230時:S3より第100大隊へ。
連絡先は右翼に位置する143連隊F中隊、地点316580。
接触したら知らせ。

1245時:S3より連隊長及び第2大隊長へ。
ドイツ軍L中隊(A中隊の誤りか)が地点315635で降伏。
Hill585=地点313618の抵抗は減少した。
第2大隊長回答:我のF中隊はその地点でドイツ軍が築城していると報告。第7連隊は道路障害が無いと報告した。
S3:Les Eaux(レゾー)に敵が居る。師団長はそちらへの攻撃を希望。正確な方向及び時間は後に出される。

1250時:141連隊第2大隊長より141連隊S3へ。
143連隊F中隊は地点313575に位置し、141連隊F中隊の1個小隊は地点317575に位置。
143連隊F中隊は森の端で小火器による射撃を受け、141連隊F中隊の1個小隊はそれに対応中。他の小隊は地点313579から315580にて行動中。

1315時:師団長ダールキスト少将は442連隊、141連隊の合同指揮所に位置。

1320時:141連隊第3大隊長より141連隊S3へ。
141連隊大3大隊は地点322575から32の線沿いに移動中の442連隊第3大隊と接触しつつ、道路上に展開中。
442連隊第3大隊がI、K両中隊を超越、攻撃の準備ができたならば、141連隊第3大隊は攻撃の準備を完了する。

1324時:S3より師団指揮所へ。
状況知らせ。
師団:変化無し。道路障害にいつ接触したか?
S3:0945時。小変更あり。第100大隊は第3大隊を待っており、第3大隊は最後の位置から東に移動中。
第100大隊と第3大隊の合流を確立し、攻撃を開始するのを待機している。
1個小隊が道路障害に接触したが当初報告された位置ではなく、その先の次の交差点であった。
第2大隊は攻撃準備中。
F中隊、地点309608-312605-308605
E中隊、地点307613
G中隊、地点315602。
道路障害へ接触したのはE中隊で、彼らは最初の道路障害の位置でレジスタンスと合流した。

1335時:S3より第100大隊長へ。
どの方角へ向かっているか?
100大隊回答:道路を越えて東、先遣部隊の位置、地点314585。
道路を右方向へ進み、次の交差点から南東へ前身する。
141連隊を超越する。

1340時:S3より第100大隊へ。
状況は?
100大隊回答:左翼にC中隊、中央にB中隊、右翼A中隊、戦車は定位置に着きつつある。
S3:移動開始するか?
100大隊:はい。
S3:第3大隊、またはドイツ軍と接触したか?
100大隊:接触無し。
S3:第3大隊と接触したらすぐ報告せよ。

1345時:連隊長より第100大隊長へ。
左翼のバンダレイ(境界)について質問は無いか? 第3大隊は視認したか?
100大隊長回答:いいえ、第3大隊へは2度のパトロールを派出したが、視認していない。
私はパーセル中佐(第3大隊長)と会話した。彼は道路を前進中で3、4名の小銃手によって阻まれている。
使用道路について確信があり、それは間違いの可能性もあるが信じている。

1355時:連隊長より第3大隊S3へ。
そちらの大隊の状況は?
3大隊S3回答:大隊長を呼ぼうとしたが、ちょうど他の中隊へ出向いている。
折り返し電話する。
連隊長回答:出撃開始から既に4時間が経過している。

1400時:第2大隊長よりS3へ。
Hill 585より射撃音が聞こえるが、状況知らせ。
S3回答:敵はHill585より後退、第7歩兵連隊が進入している。
こちらへの報告では、まだ丘は完全に制圧できていない。
第2大隊長:OK。我々がHill585の南東を進んでいる事を通知せよ。

1400時:師団長より141連隊長へ。
1700時にLB(失われた大隊)へ向け155mm及び105mm砲による医薬品入り弾の射撃計画を実施予定。

1406時:141連隊S3より師団G3へ。
141連隊第3大隊は442連隊と協同。第2大隊は143連隊F中隊と共同して攻撃を実施し、丘を攻略することを計画中。

1410時:S4より副連隊長へ。
状況は?
副連隊長回答:遅れている。
S4:位置を知らせ。
S5:第100大隊、地点314585。
第2大隊、地点315598。
第3大隊、地点314595。

1435時:第3大隊よりS2へ。
K中隊位置。地点333586。I中隊の右翼がB中隊にコンタクトした。
敵の機関銃にぶつかり、100大隊との接触が遅れた。

1440時:師団G3より141連隊S2へ。
143連隊F中隊の位置、地点315577。
砲撃は320576及び318573に集中するよう141連隊によって要求された。
第100大隊の位置、地点316525。※316585の誤りか
第3大隊の位置、地点316595。
第100大隊は(指揮所を)閉所した。
第7連隊は地点304616の道路障害にて442連隊と接触した。
第7連隊は地点307613の敵に対し砲撃を行う。

1441時:師団G2より141連隊S2へ。
ISUM(Intelligence Summary=情報要約)
敵はForetDomanialsの防御線(317579-317582-323589-327590-328592)を維持。
326598の丘(※Hill617)には300名の敵が見積もられる。
442連隊は抵抗を受ける事なく、この防御線の左側面へ移動したが、正確な位置、と突破した地点は不明。
敵の砲撃がある。

1445時:141連隊長より442連隊へ。
Pt.10に対する射撃を許可。

1450時:連隊長より第3大隊S3へ。
地点337578に敵の道路障害がある。砲撃しても安全か?

第3大隊S3回答:大隊長は付近に部隊が散在していると考えている。
I中隊は反撃を開始、ちょうど無線による連絡を得た。
我々は前線観測員を通じて砲撃を要求する事が可能。

1455時:141連隊第2大隊より141連隊S3へ。
442連隊B中隊は我のE中隊の前線に沿って移動中。

1510時:Lt.Stevenson(442RCT-HQ)より第3大隊S3へ。
貴隊の正確な先遣隊の位置は?
第3大隊S3回答:地点333586で、それより多少動いた可能性がある。
I中隊は反撃を実施したが、先遣隊の位置は最後の報告でその地点である。

1520時:連隊長より第3大隊S3へ。
地点347582の北を地点342592まで流れる小川に砲撃しても安全か?
第3大隊S3回答:はい、我々の大隊に限り。
連隊長:他に何か情報を受信しているか?
3大隊S3:反撃について再度確認する。
連隊長:小川へ砲撃を行う。

1520時:141連隊第3大隊より大隊長へ。
地点323591に戦車の支援を受けた敵の攻撃、K中隊は地点322592を維持している。
戦車の位置は地点323588と思われ、これを排除するまで射撃が出来ない。
第3大隊長:戦車への射撃を行え。

1525時:S1よりS3へ。
対戦車中隊到着。
S3:OK、彼らを野営地まで送られたし。

1530時:第2大隊S3よりS3へ。
第7歩兵連隊について何か知っているか?
S3:師団を通じてメッセージを送ったが、直接の連絡は無い。
第7歩兵連隊第2大隊の位置、地点304622でHill585へ移動中。
2大隊S3:彼らはそこへ行き、何をするつもりか?
S3:師団は彼らを確認次第、通知する。
抵抗は少なくなっている。彼らは境界線を越えないだろう。

1535時 第3大隊S3よりS2へ。
K中隊は4輌の敵戦車のうち、1輌をバズーカで撃破。
S2:貴隊は移動しているか?
3大隊S3:ゆっくりと。

1540時:141連隊第3大隊長より141連隊長へ。
地点322597から322593へ伸びる尾根は現在L中隊によって強化されている。
442連隊第2大隊の一部は地点319598から補給ルートに沿って移動し、間隙が生じた為にI中隊を移動させ、間隙を埋める。
現在、状況は把握されている。

1543時 S3より第3大隊S3へ。
どのように配置したか?
3大隊S3回答:I中隊を右翼とし、左翼にK中隊で反撃中。
L中隊はI中隊の後方400ヤードで予備。
S3:B中隊と直接接触したか?
3大隊S3:そう聞いている。
K中隊は戦車に随伴するハーフトラックを撃破した。

1545時:Maj.May(36師団砲兵幕僚)よりCpt.Ritter(522野砲大隊幕僚)へ
地点340583、将軍(36師団長)はこれをクリアにせよと要求している。
そして、道路障害を除去できるかを知りたがっている。
回答:それは不可能。K中隊がそこへ移動中。

1550時:第442連隊より141連隊S3へ。
K中隊の前方に4輌の戦車が存在、1輌を撃破したがハーフトラックだった。

1600時 第2大隊長よりS3へ。
第7歩兵連隊が退去しないならば、彼らの情報が必要。
我々がそこに行く事を知らせなければ。
Lt,Asai(ACo/連隊LO):私が第7歩兵連隊へ出向き、彼らにわが方の配置について知らせる。
2大隊長:現在目標は砲撃されている。
S3:第3大隊には前線観測員がおり、彼らに2大隊の位置は通知しているため、味方砲弾を心配する必要はない。
7歩兵に連絡し、配置状況を調べて折り返し貴官へ通知する。

1605時:Cpt.Ritter(522野砲大隊連絡将校)よりCpt.Harris(522野砲大隊幕僚)へ。
道路障害に対する射撃を観測できるか?
Cpt.H回答:目標から遠い。観測員はそこから1000ヤード離れている。
Cpt.R:観測員がたどり付けないようなら、道路障害に対し正確な1発を射撃せよ。
第141連隊が障害の反対側に存在する為、正確な射撃が必要。

1610時:Cpt.Ritter(522野砲大隊連絡将校)よりCpt.Harris(522野砲大隊幕僚)へ。
第100大隊の先遣隊の位置、地点320586。

1615時:141連隊第1大隊(包囲されていない本隊)より141連隊長へ。
戦車と連絡を付けたが、第100大隊と共に移動していない。
141連隊長:第1大隊(LBを除く)は補給部隊として第100大隊に後続する事になっている。

1616時:141連隊第3大隊S3より連隊長へ。
I中隊に東方及び南東から砲弾落下。
L中隊の位置、地点322597の丘の鼻付近。
K中隊の位置、地点318596。
K中隊の残存25名。反撃を受け、多くの損害を出している。

1620時:36師団G2よりS2へ。
I中隊による反撃について知らせ。
S2:東方より実施され、すでに終了している、という事のみ把握。
I中隊位置、地点333583、K中隊位置、地点333586。
状況を打破するため道路障害の撃破を試みている。
K中隊は1輌の戦車、1輌のハーフトラックを撃破した。
Lt.Gilbert(442連隊補給中隊):
143連隊指揮所の位置を知らせ。
36師団G2:私の知る限りでは、まだLavalに位置。
Lt.Gilbert:Custer(第7歩兵連隊)の情報を取得しようと試みた。
現在E、F中隊が攻撃中で、E中隊は7連隊の南に来ている。
7連隊へ通知したか?
G2:イエス。彼らはHill586に位置し、E中隊の到来を待っている。

1625時:141連隊第2大隊より141連隊S3へ。
442連隊C中隊は築城中。もし彼らが残っているならばそれらを引き抜く事が可能だが、そうでない場合はルートの側面を防護するために留まる必要がある。

1635時:Cpt.Harris(522野砲大隊幕僚)よりCpt.Ritter(522野砲大隊連絡将校)へ。
我々の前線観測員が観測できず、Cpt.Fieblemanが弾着修正を実施しようとしている。
Cpt.Ritter回答:143連隊長は、煙幕を展開し近接できると言った。
Cpt.Fieblemanがそれを実施しする事を願う。

1641時:第2大隊S3よりLt.Gilbert(442連隊補給中隊)へ。
我々の目標に味方からの砲撃。S3が第3大隊からの要求と言ったため確認した所、砲撃要求は無し。
F中隊が近接しているが、砲撃元が誰なのか判らないため、突入できない。

1645時:S3より第2大隊S3へ。
F中隊の目標に対する砲撃任務はCol.Hanley(第2大隊長)と貴隊の前線観測員によって要求された。
2大隊S3回答:彼らは両名ともここに居て、その要求をしていない、と言っている。
Cpt.Ritter(522野砲大隊連絡将校)よりLt.Andrews(522野砲大隊幕僚)へ:
私が通信した際に「前線観測員が要求しない限り、射撃任務は取り消されない」と言った事を覚えているか?
Lt.Andrews回答:私はそれについて何も知らない。

※第30師団第7歩兵連隊が1440時に要求した射撃によるものと思われる。
36師団と141連隊にはこの砲撃の情報はもたらされていたが、442連隊へ通知された形跡が無い。


1700時:S3より第111戦闘工兵大隊へ。
ここの丘の上にドーザー付き戦車が必要。
111工兵:ここに2輌ある。そちらの状況は?
S3:狙撃兵の存在があるが、周囲に歩兵が居る。
111工兵:ドーザー付き戦車を送った方が良いな。

1818時:RCT本部よりCpt.Ritterへ。
(そちらが把握している)我々の部隊の状況を知らせ。
Cpt.Ritter:
L中隊、地点334587。
I中隊、地点334583。
K中隊、地点336584。
C中隊、地点324567(324587の誤り?)。
B中隊、地点326587。
A中隊、地点325584。
G中隊、地点314609。
F中隊、地点318610。
E中隊、地点319610。

1825時:141連隊対戦車中隊長より141連隊S3へ。
442連隊G中隊は我々の道路障害に位置している。対戦車小隊を引き抜いても良いか?
第442連隊:対戦車小隊を障害から引き抜いてもOK。

1825時:LBより141連隊S3へ。
補給の為の砲撃の調整を続ける事ができないが、翌朝に継続する。
航空機は翌朝使用するか?
友軍の位置が知りたい。士気は旺盛。
S3:状態は? 水の確保はできたか? 何ケース確保しているか?
明日は航空機を使用する。
友軍はPt.10付近に来ている。

1826時:第2大隊S3よりS3へ。
7連隊のバカは何している?

連隊S3:(7連隊)第1大隊の位置、地点324639。
彼らは貴隊に向かって道路の両側へ展開し行動中。
2大隊S3:彼らはDomfaing(ドンフェン)への道をLesRougesEaux(レ・ルージュオー)に来た。
連隊S3:イエス。
各中隊の現在地、K中隊、地点312632、I中隊、地点316628、L中隊、地点319629。
第2大隊位置、地点314618のHill585。
2大隊S3:E中隊に電話し、彼らは戦車による攻撃からの射撃戦を実施中であると述べた。
連隊S3:そちらの場所は?
2大隊S3:E中隊の1個小隊は地点313609を制圧。E中隊は地点311605から314607へ展開中。
F中隊は1個小隊をE中隊の右翼、1個小隊を左翼に配置し残りはE中隊の背後へ。
G中隊は地点311601から319603。
連隊長:道路障害に2輌の戦車を配置しているか?
第2大隊長:はい、そこにあります。
連隊長:141連隊は2門の対戦車砲をそこから引き抜きたいと要請している。
第2大隊長:OK
連隊長:明日はそれらの戦車を使用せよ。

1837時:連隊長より第3大隊長へ。
我々は明日0630時に攻撃を開始する。師団長は我々が孤立した大隊まで押して到達することを望んでいる。連絡を密にせよ。
第3大隊長:了解しました。

1842時:第100大隊副大隊長より第100大隊長へ。
状況は?
第100大隊長:砲撃と小火器。A、C中隊が迫撃砲、砲兵を取得、第3大隊に追従する。

1850時:対戦車中隊長より連隊長へ。
ちょうど今、補給中隊に合流しました。

連隊長:OK。今夜はそこに居ろ。

1902時:141連隊第2大隊S2より141連隊S3へ。
第100大隊(442連隊第3大隊の誤りか)I中隊が141連隊E中隊の左翼小隊と接触。
141連隊C中隊は同連隊E中隊及び442連隊A、B中隊と同位置にあり、442連隊C中隊及び141連隊E中隊のすぐ前方に位置。

1913時:S3より第3大隊長へ。
連隊長は電話で位置を確認するよう述べた。
141連隊はI中隊と接触したと言っている。
貴隊の位置は最後の報告では地点335585だった。
第3大隊長:イエス。I、K中隊は丘の上でV字に防御している。
彼らはL中隊の1個小隊と共に位置し、B中隊の後衛となっている。
また、第2大隊も電話しL中隊から派出中のパトロールについて調整した。
S3:貴隊は大隊の境界線の左に位置しているか?
第3大隊長:イエス。もう滅茶苦茶だった事を示している。
我々は第100大隊へ接触するために小隊を派出したが、その距離は1000ヤード以上だった。よって私は更に大隊の前方へ穏やかな斜面を移動したが、登った所で機関銃による十字砲火を受けた。
K中隊は地獄のような有様だ。
S3:現在の状況を把握しているか?
第3大隊長:不明。本日は1輌の戦車が居て、4輌を撃破したと報告されている。
S3:Good!

2015時:LBより141連隊S3へ。
水の浄化剤が必要。兵が弱っている。水は9リットル保有。
53名の行方不明をパトロールで出した。
A中隊の第1,第2小隊は所在不明。戦死者4名。

2032時:第143歩兵連隊よりLt.Gilbert(442連隊補給中隊)へ。
第100大隊の状況は?
S3:A中隊位置、地点326586。
S3:B中隊位置、地点326588。
S3:C中隊位置、地点324588。
砲撃を受けている。
第3大隊が左翼に位置している。
第3大隊の位置、地点336585。
143連隊:第100大隊の右後方の防御は?
S3:141連隊G中隊は地点315585、B中隊(※ここには居ない)は地点320587に両中隊が位置。
143連隊:OK。

2130時:Lt.Massengale(442連隊本部中隊)よりLt.Gilbert(442連隊補給中隊)へ。
第7歩兵連隊は地点363634から地点363604にかけて東方へ押す。
7連隊F中隊は地点322624の道路障害、E中隊はHalley(アレ)の障害、G中隊はHill585の頂上。
第30歩兵連隊の戦闘パトロール位置、地点385665、I中隊は地点374678(未確認)、L中隊は地点358671。
143連隊第3大隊は地点2857。
F中隊はBiffontaineに潜入する敵と接触中の141連隊F中隊と接触中で、混在している。

2220時:第36師団よりLt.Gilbert(442連隊補給中隊)へ。
貴指揮所が受けた60から70発の砲弾の方位やサイズに関する情報がはあるか?
Lt.Gilbert:522野砲大隊へ確認して欲しい。

2345時:第442連隊S2より141連隊S2へ。
既に解隊したMerker戦闘団の一員であったコンラッド(衛生兵)をK中隊が地点332586付近で捕虜とした。
Merker戦闘団は現在、第9装甲師団の一部となっており、10月24日にGerardmer(ジャラールメ)経由で LA BRESSE(ラ・ブレス)に近いLA HOUSSIERE(ラ・ウシエール)地点317600に配置された。
198師団にいくつかの中隊が編成され、大隊指揮所の位置は地点317600。
この20時間の任務は、彼らに出向く50名の部隊を捜索し、全滅させる事だったが、それらの発見はできなかった。
本日1300時に戦車(442連隊が撃破したもの)と共にHill603攻撃が命ぜられた。
198フュージリア大隊の捕虜は、道路の左翼側面に配置された要塞機関銃大隊、第10中隊について話したが、戦力は不明。



最後に、K中隊のPfc.Matsuichi Yogiに送られた殊勲十字章(DSC)の文面をご紹介いたします。
叙勲の文面に関しては、その時の戦闘の様相を伝える貴重な資料ではありますが、同時に多少「盛られて」いる場合も多く、内容は必ずしも事実だけを伝えているわけでは無いと考えています。
しかし、これは叙勲者の功績を否定するものでも、アメリカ陸軍の制度を批判するものでもありません。
皆さんも、実生活の中でこのような経験はどこかであるのでは無いでしょうか?
軍隊と言うもの、多少のことはあってしかるべき、と考えるのは贔屓目でしょうかね。

それでは、また次回「28日の戦闘」へと続きます。
訳の間違い、整理ミス、誤字脱字等があるかとお思います。
ご指摘いただけると、大変ありがたく思います。




「1918年7月9日、議会法によって承認されたアメリカ合衆国大統領は、特別な英雄主義のために、米国陸軍の上等兵マツイチ・ヨギ(認識番号30104464)に殊勲十字章(死後)を誇りを持って授与します。
1944年10月27日から1944年10月29日まで、フランスのヴォージュ山脈で敵軍に対抗するために第36歩兵師団、第442連隊戦闘団、第3大隊K中隊に所属する中で、敵装甲部隊に対する軍事作戦に関連して。

 ヨギ上等兵は、敵の反撃中に大胆に露出し、バズーカでドイツのIV号戦車を撃破しました。更に敵の狙撃兵の射撃を無視して、彼は自分の武器で2つのドイツのバズーカ砲の内1つを排除し、正確なライフル射撃でもう1つを撃破しました。
2日目に彼は、敵の機関銃陣地に援護射撃を行う事で、小隊がその陣地を突破できるようにしました。
ヨギ上等兵の戦闘精神と任務の範囲を超えた果敢な勇敢さは、軍隊の最高の伝統に生きた栄光を加えます。彼の個人的な勇気と彼の命を犠牲にしての義務への熱心な献身は、米国の軍隊の最高の伝統を例示し、彼自身第36歩兵師団、および米国陸軍に大きな功績を残しました。
  


Posted by 先任  at 14:41Comments(0)日系部隊史

2021年02月16日

Vosgesの戦闘 第442連隊戦闘団 Vol.3「失われた大隊」

アメリカ陸軍 第442連隊戦闘団 Vosgesの戦闘Vol.3「失われた大隊」をお送りいたします。



救出後の「失われた大隊」=第141連隊第1大隊の兵士たち。

前回までのVol.1、2では1944年9月29日 マルセイユ上陸から10月26日のBiffontaine解放、そしてBelmontへの後退までを書きました。
今回は「失われた大隊」=第141連隊第1大隊の経緯と記録を掲載いたします。
記録が入り込んでいて、私が上手く纏めていないので見難いかと思いますが、ご了承下さい。

参考資料については前回同様「ヴォージュ(Vosges)の戦闘及び「失われた大隊救出」における第442連隊戦闘団の戦死者数について」に加え、第141連隊の戦闘記録及び通信記録、また第36師団の記録を使用しています。
部隊記録等の所蔵元については「アメリカ国立公文書記録管理局 National Archives and Records Administration (NARA) Records」となっております。


第141連隊の連隊日誌(Regimental Journal)

なお、部隊の行動図は行動記録から可能な限りで起こしましたが、細部は正確ではない可能性があります。
また、現在のGoogleMapを引用し使用していますので、1944年当時とは地形が異なる可能性があります。

それでは「失われた大隊」と呼ばれる事となる第141連隊第1大隊の行動について記述します。
※22日~24日までの第442連隊戦闘団の行動は前回の記事をご参照下さい。
※前回までの記事と、多少前後する内容がありますが同時並行で動いている部隊ですのでご了承下さい。

この一連のVosgesの戦闘は連合軍第7軍が発令した第6軍団隷下の第3師団、第45師団、そして第36師団によるドイツ侵攻作戦の一部、"Operation Dogface"によるものでした。
"Operation Dogface"の目的はVosges山脈に陣取るドイツ第19軍を駆逐し、アルザス平原へ侵攻することとなっていました。


記録を記載する前に、簡単に用語と編制について記述します。

この地域には前述のとおり第6軍団隷下の第3師団、第45師団、そして第36師団が展開しています。

第36師団には師団長ダールキスト少将と副師団長。
司令部には参謀長の他、G1~G4までの各セクションの幕僚が居ます。
G1は人事管理、G2は情報、G3は作戦、G4は補給を担当します。
隷下には以下の部隊がありました。※1944年10月のヴォージュの戦闘時。
・第36歩兵師団 「C/S ROBERT」
・師団司令部

第36師団長 Mag.John Ernest Dahlquist

・第141歩兵連隊「C/S RONDO」
 ・第1大隊(A中隊、B中隊、C中隊、D(重火器)中隊)「C/S RONDO RED」 
 ・第2大隊(E中隊、F中隊、G中隊、H(重火器)中隊)「C/S RONDO WHITE」
 ・第3大隊(I中隊、K中隊、L中隊、M(重火器)中隊)「C/S RONDO BLUE」
連隊司令部にもS1~S4までの各セクションの幕僚が居ます。
S1は人事管理、S2は情報、S3は作戦、S4は補給を担当します。
・第142歩兵連隊「C/S 不明」
 ・同上
・第143歩兵連隊「C/S ROSES」
 ・同上

・師団砲兵司令部「C/S RUMPAS」
 ・第155野砲大隊(155mm砲×12門)「C/S RUMBLE」
 ・第131野砲大隊(105mm砲×12門)「C/S 不明」
 ・第132野砲大隊(105mm砲×12門)「C/S RUDDY」
 ・第133野砲大隊(105mm砲×12門)「C/S RUSSET」

・第111戦闘工兵大隊「C/S RULER」
・第111医療大隊「C/S RODEO」
・第36偵察騎兵隊(自動化)「C/S ROVER」

・師団特別部隊司令部「C/S RUFFLES」
 ・本部中隊
 ・第736軽火器整備中隊「C/S ROSCOE」
 ・第36補給中隊
 ・第36通信中隊
 ・憲兵小隊
 ・音楽隊
・第36防諜派遣隊

増強部隊
・第753戦車大隊
・第636駆逐戦車大隊「SHAMROCK」
・第442連隊戦闘団「C/S NEON」
 ・戦闘団司令部「C/S CARVINE」
 ・第100歩兵大隊「C/S NEON RED」
 ・第2大隊「C/S NEON WHITE」
 ・第3大隊「C/S NEON BLUE」
 ・第522野砲大隊(105mm砲×12門)「C/S NEEDLE」
 ・第232工兵中隊「C/S RULER DOG」
 ・他支援部隊


1944年10月8日撮影 フランス・ビフォンテーヌ付近の航空偵察写真(2枚を私が合わせて、戦域を表したものです)

1944年10月22日0800時:
第36師団命令
「第442連隊(第100歩兵大隊)はBiffontaineの北、西を確保し南方からの敵を阻止せよ。また、第3大隊はクロワトーマス=Croix Thomasで交差する村を攻撃確保せよ」
「第143連隊はレ・プリエール=Les Poulieres、ラ・シャペル=La Chapelle間の渓谷を通りビフォンテーヌ=Biffontaineへ向かえ」
「第141連隊はベルモント=Belmontを出発、師団左翼のヴァネモン=Vanemontを見下ろす森林地帯を確保せよ」
「第111工兵及び第232工兵は第141、143連隊進出に追従し、道路を開設して補給路を構築せよ」

10月23日
第141連隊第1大隊は1日分の糧食を携行し1158時にA中隊を先頭としてBelmontを出発、右側に位置する第100歩兵大隊と共に前進。その中間を第442連隊第3大隊が進みます。
断続的な冷たい雨が降る中の前進でした。
A中隊長マーティン・ヒギンズ中尉=1st Lt. Martin J. Higginsはブリーフィング時に大隊長、ウィリアム・バード中佐=Lt.Col William Birdに対し「強力な部隊の支援が得られなければ、高度差の大きい山間部で包囲される危険性がある」と伝えたそうですが、大隊長バード中佐は「強力な部隊が追従する」と答えたとヒギンズ中尉の回想にあります。
午後には第100歩兵大隊がビフォンテーヌを占領。
第1大隊は第442連隊第3大隊の占領区域を通過して、ビフォンテーヌ北東の森へと侵入。
第3大隊は第100歩兵大隊と交代し、第1大隊に追従しますが、その距離は開き気味でした。
その後夜間になり、第1大隊は敵の攻撃を受け前進が困難となりますが、後続の第3大隊とは距離があり、支援が受けれない状況となります。第141連隊は第1大隊の苦境に際し、翌朝から工兵中隊と第3大隊を投入しての支援を計画します。
各部隊はその場で防御態勢を敷き、翌朝を迎える事となりました。


以下は10月23日における第141連隊の戦闘記録及び442連隊が傍受した無線記録によるものです。
特に記載がない場合、第141連隊隷下部隊の記録と考えて下さい。

1200時:連隊前線指揮所をベルモント南方に開設。

1200時:連隊長より副連隊長へ。
第1大隊に対し、ブリエアから東方への進撃が下令。(1158時に出発)

1310時:G3(師団作戦幕僚)より副連隊長へ。
第100歩兵大隊ビフォンテーヌへの攻撃開始。

1422時:副連隊長よりG3へ。
第1大隊、目標への前進を開始。第3大隊はベルモントへ前進中。

1526時:S3(連隊作戦幕僚)より副連隊長へ。
第3大隊ベルモント着、A中隊(第1大隊)は地点300586へ前進。第7歩兵連隊は北方を前進中(地点省略)

1600時:第1大隊長よりS3へ。
第1大隊は第442連隊K中隊を超越し、ビフォンテーヌ北東の森へ前進。地点302587。

1630時:不明
第100歩兵大隊と交代した第3大隊は第1大隊が使用した経路を追従。

1745時:連隊長よりS3へ。
A中隊は地点320585(Hill624)着。東方より小火器による射撃を受ける。

1758時:連隊長よりS1(連隊管理幕僚)へ。
今夜は指揮所移動は実施しない。指揮所移動時はS1を前方に送る。

1800時:第1大隊より連隊長へ。
可能であれば、第3大隊による支援が必要。
:連隊長より第3大隊長へ。
翌朝、丘の上へ欲しい。迫撃砲を受ける為、今夜移動する必要はない。
針路は確保されている。
:第3大隊長より連隊長へ。
現在位置で壕を構築し待機する。

2010時:第1大隊長より連隊長へ。
100ヤード前方に重砲の射撃を受け100ヤード後退し、壕を構築。
B中隊は地点320585、A中隊は道路脇の地点320586、C中隊の1個小隊は地点309585、2個小隊が後方道路を確保中。
442連隊と連絡は取れていない。
:連隊長の解答
C中隊からパトロールを出し442連隊と連絡を取れ。
警戒の為の歩哨は充分な距離で配置せよ。
朝から前進を再開せよ。第3大隊が追従し支援する。

2045時:S3より工兵中隊LO(連絡将校)へ。
0600時に第3大隊と共に前進を開始し、支援を行え。

2055時:連隊長よりS3へ。
連隊長とS3は明朝1030に第2大隊指揮所へ前進する。派遣の車両14輌を待機させるよう副連隊長へ通知せよ。
第2大隊は訓練を継続し、2時間後に報告せよ。

2056時:S3より副連隊長へ。
明朝0600より第3大隊を第1大隊が接触した道路障害へ向けて出発させる。
ルートは地点309585から318601。※実際の第1大隊の進路とは離れている。

2140時:
連隊長より第2、第3大隊長へ。
0700までポイントNからラ・ウシエール=La Houssiereに至る地域の防衛を継続せよ。
第1大隊は適宜の場所から反撃を実施し、道路障害突破の可能性を探る。
第2、第3大隊は0600に行動開始し所定の経路により前進せよ。(地点省略)
各Ptでの報告を実施せよ。

2210時:連隊S3より442連隊へ
我第1大隊がビフォンテーヌ方面にパトロールを派遣する。
接触したならば通知されたし。

2230時:工兵LOよりS3へ。
工兵中隊は明朝0700時に第3大隊に合流する。

2240時:第1大隊長よりS2(連隊情報幕僚)へ。
捕虜からの情報。
敵は第244擲弾兵師団、第933擲弾兵連隊、第7中隊。
中隊の戦力は人員70名(本来は120名)、6挺のMG(機関銃)と小銃を装備。
捕縛位置は地点320585の大隊正面。
第244師団の指揮官はScharffer少将。第933連隊の指揮官はRollins大佐。
第244師団は南フランス戦線初期に特定した部隊。



上記の記録を見る限り、既に23日の時点で第1大隊は第3大隊と離れ、また強力な障害に当たって前進が困難になりつつあった事が伺えますが、まだこの時点ではそれほど深刻には受け止められていなかったのでしょう。
第3大隊は第1大隊の支援に、と伝えながら実際にはかなり北方の目標を指示されており、第1大隊へ追従していません。
また当初は第2大隊を予備として後方へ下げようとしていたのを第1大隊の状況変化により、すぐに投入を決定している事も読み取れます。


1944年10月23日 第141連隊の行動概要

10月24日
1030時:第36師団命令
「第442連隊を中央、第143連隊を右翼、第141連隊を左翼とし、サン・ディエに向けて前進せよ。」

第141連隊第3大隊がベルモント北に到着、同第1大隊はA中隊の1個小隊を大隊本部設営の為に残し、B、C、A中隊の順で深い森林地帯を南東へ前進します。
ジェラールメ=Gerardmerとサン・ディエの間に横たわる山岳部は斜面が急で、降り続いた雨によりぬかるみ、車両の通行が困難となっていました。師団命令により、工兵隊は泥濘に枕木を並べ、ワイヤーで引きながら戦車を通そうと努力しますが、かなりの時間と労力を要しました。
師団長ダールキスト少将は第141連隊本部を訪れ、更なる前進を命じますが、連隊の幕僚は揃って困難を訴えたと「US-SAMURAI」には記述されています。
第141連隊連隊長カール・E・ルンドキスト大佐=Col. Carl E. Lundquistは隷下部隊の前進による敵地での包囲、孤立の可能性を告げますが、師団長ジョン・アーネスト・ダールキスト少将=Mag.John Ernest Dahlquistは速やかなるサン・ディエへの前進を繰り返し、それに従ったとされています。
ビフォンテーヌにほど近いHill665にて側面からの攻撃を受けたA中隊はそれを撃退しつつ、本部との補給ルートの確保に苦心します。
第2小隊からパトロールを編成し、補給ルート確保のため出発させたA中隊でしたがこれは失敗に終わります。

後続の第3大隊と距離が開き始めた第1大隊はA中隊を左翼、B中隊を右翼とし、D中隊(重火器中隊)とC中隊の火器小隊がこれを支援して前進。
夕刻になりA中隊はデヴァント・ル・フェイ= Devant le Feysから山道を登る際中、「ユットパス」と呼ばれる峠を越えた直後に後背から中隊規模の敵の攻撃を受けます。


ユットパス付近の現在(2012年 Michael Basilone Remy氏撮影)

B、C中隊もまたHill645付近で強力な敵と遭遇し戦闘になっていました。
これらはドイツ軍の第933国民擲弾兵連隊と第198フュージリア大隊によるもので、追従できていない第3大隊との間に割り込む形の攻撃により、第1大隊主力は他の大隊及び大隊本部から切り離されます。
更にドイツ軍は森で伐採した木々で道路を塞ぎ、周囲に機関銃やロケット対戦車兵装を配置すると併せて各種の地雷を設置。あらゆる障害と火力で第1大隊を包囲します。
「前方へ待避」したA、B中隊は斜面を下り「トラパン・デ・ソール=Le trapin des saules(柳の罠と言う意味で深い森を指すVosges地方の方言)」と呼ばれる窪地、直径500m程の円形に近い平地へと出た所で周囲を包囲されている事に気付きました。

東方に「マーカー6」と名付けられた小さな丘陵地があり、ドイツ軍はそこから次第に第1大隊への包囲を狭めていきます。
残存の兵達はそれぞれに壕を掘り、周囲から迫る機関銃、砲迫から身を守ろうとしますが、降り続いた雨により壕はぬかるみ、冷たい水が溜まり始めます。
夜間になり、連隊長の命により第141連隊第2大隊は正面から、第3大隊は山頂部から第1大隊へ向けて前進し、包囲を解こうと試みるもドイツ軍はしたたかに攻撃を加え、第1大隊への接近を許しませんでした。
夕刻に負傷者を大隊の救護所へ送った担架隊が攻撃され、戻った結果味方へのルートが遮断された事実を知ります。

こうして第141連隊第1大隊は「失われた大隊」となります。
※実際には無線連絡が取れており、場所も確定していたので本当の意味で「失われて」はいませんでした。


以下は10月24日における第141連隊の戦闘記録及び442連隊が傍受した無線記録によるものです。特に記載がない場合、第141連隊隷下部隊の記録と考えて下さい。

0500時:第1大隊よりS3(連隊作戦幕僚)へ
A中隊パトロールを派出するも敵と遭遇。

0545時:第1大隊よりS3へ
パトロールは442連隊とは接触できず。

0600時:副大隊長よりS3へ
第3大隊行動開始。

0826時:442連隊第3大隊長よりS3へ。
442連隊第3大隊との交代は?
S3回答:
前線へ向かう途中で速やかに通知する。

0830時:S3よりG3(師団作戦幕僚)へ
第1大隊B中隊が今朝、前進を開始したが数百ヤード進んだ時点で敵小火器の射撃により停止。0600時に第3大隊は行動を開始、0800時に地点310585で報告があった。

1030時:連隊長よりS3へ。
第3大隊が道路障害を突破し、敵を分断して北側に追いやるので、北東方面について心配する必要は無し。また連隊本部を前線まで前進させる。

1005時:連隊長よりS3へ。
I中隊は0830時、Pt.32(地点316599)へ到達。
第3大隊の指揮所は地点316596.
I中隊は地点318601よりMG及び小火器による射撃を受け、これを撃退。
第3大隊はPt30(地点324595)へ前進中。

1050時:連隊長よりS3へ
第1大隊指揮所及びA中隊の位置"322588"、B中隊及びC中隊はPt.9(地点333585)及びPt.10(地点338578)。
大隊がPt.10で敵と接触中と思われる。すみやかに軽戦車を取得する。

1108時:第3大隊副大隊長からS3へ
K中隊の位置Pt.30"324595" 現在地は確保している。パトロールをPt.9及びPt.28に派出した。

1135時:131野砲大隊FO(第1大隊に付随する観測将校)から連隊長へ。
第1大隊は敵の砲撃を受けている。敵砲の概略位置への対砲迫射撃を要請する。

1230時:S3より第2大隊長へ。
緊急移動を準備でき次第トラックを使用し行う。

1300時:S3より連隊長へ。
戦車は報告されているか? 連隊で使用できる戦車は軽戦車4輌、中戦車4輌がベルモントにいる。
連隊長回答:すみやかに8輌の戦車を前線へ送れ。
対戦車小隊を付け。第3大隊の前線を交代させよ。
対戦車中隊長は他の対戦車小隊を率いて前線へ送れ。

1348時:副連隊長よりS3及び後方へ。
指揮所を地点288594へ移動させる。

1348時:S3より連隊長へ。
第442連隊は後退。
第2大隊をザモンタリュプト=Xamontaruptから現在地へ移動させる。

1410時:S3より131野砲大隊長へ。
FO(弾着観測将校)をB中隊に合同させよ。

1435時:S3より師団長へ。
4輌の中戦車が尾根の上に。
追加情報は得てないがB中隊は移動している筈。
---(判読不能)指揮官から戦車を得て良いか?
師団長回答:141連隊には戦車を渡しただろう。

1442時:131野砲大隊長よりS3へ。
地点307613、314607、312611へ砲撃しても良いか?
S3回答:ダメだ。射撃するな。

1446時:S3より師団長へ。
連隊長に1700時に停止し、現位置で戦車を取得するよう伝える。

1615時:連隊長より師団長へ。
2時間通信が途絶え、その間に2回の反撃を受ける。
最初の攻撃はフェイ= DEVANT LE FAYから北東方向に開始され、第1大隊指揮所とA中隊が攻撃を受けた為、対戦車小隊で増強を行う。。
敵は低地より道路を通って前進、また砲撃を受けている。
B中隊、C中隊は目標に向けPt.D(地点340579)まで下り、迫撃砲小隊を除くA中隊も射撃し、反撃を押しのけた。
K中隊は地点325596で北東から来た敵に反撃を受けた。K中隊を補強するため、L中隊を送る。
双方の攻撃は50~60名の敵であったと推定。攻撃準備射撃を受ける。
攻撃に対し、態勢は完全ではない。
第1大隊に戦車2輌、第3大隊に2輌、ビフォンテーヌに2輌、第2大隊に2輌の戦車を用意する。
第3師団と連絡は取れていない。

1630時:師団参謀長より連隊長へ。
指揮所を訪問した。師団長は兵士が壕に入り、良くとどまる事を望んでいる。
早朝に前進を開始せよ。
森の中では砲兵とよく調整せよ。
戦車が停滞することを心配せず、可能なように使用せよ。

1652時:連隊長よりS3へ。
第2大隊は前線指揮所に到達、2輌の中戦車を伴う。
大隊は右翼の道を下り、第1大隊と連絡を取って合同するように伝える。

1710時:S3より753戦車大隊副指揮官及びD中隊へ。
ベルモントの集結地へ移動せよ。日中に行動できる準備をなせ。

1730時:第1大隊よりS3へ
「食糧無し、水無し、弾薬無し。これらとSCR-300(無線機)用バッテリーを要請する」

1735時:S3よりS3補助へ。
敵は第1大隊指揮所を通り抜けたが、指揮所は戦闘の後復旧した。

1850時:連隊長より131野砲大隊へ。
敵の砲撃以外は静かだ。(※砲撃は行っているか、の意味?)
131野砲大隊回答:1小隊8門×4.野砲大隊とカノン砲中隊が毎時2発づつ(64発?)の砲撃を実施している。

1852時:副連隊長よりG3へ。
第2大隊は地点316585を集結地とし移動。第1、第3大隊は防御中。
南方より砲撃を受けつつあり。

1900時:131野砲大隊長より副連隊長へ。
131野砲大隊は深夜までビフォンテーヌ東方への砲撃を行う。必要ならば継続する。

1925時:副連隊長より第143連隊長へ。
143連隊から1つの砲兵を141の支援に欲しい。対砲迫に非常に有効。
143連隊F中隊回答:同様に射撃を行う。第1大隊のチャンネルに無線を合わせる。

1945時:副連隊長より工兵大隊長へ。
道は酷く修理が必要。師団長はすべての工兵が支援すると言った。
工兵LO回答:工兵は大隊の前進に合わせ、道を復旧して行きます。
他の工兵は後方から支援をしています。

1947時:副連隊長より第2大隊長及び第143連隊長へ。
第2大隊集結地へ到着、これより明日、第1大隊の位置(地点340575)へ接近させる。
戦車及び、57mm砲及び自走高射機関砲を第143連隊F中隊の位置(地点313575)へ送る。

2000時:副連隊長より師団砲兵へ。
対砲迫射撃は非常に有効に敵砲兵へ着弾している。砲撃を受けなくなった。

2100時:工兵大隊長よりS3へ。
午後から60~100発の砲撃を受けた。戦車及び自走砲からと思われる。


上記通信記録からだけでは、もう一つ第1大隊は包囲されていった状況は判り難いです。もちろん、これはリアルタイムで交信された記録ですので、それが全ての状況を把握しているわけではありません。
※把握していたなら、包囲という事態にはならなかったでしょう。

交信記録に加えヒギンズ中尉の回想と、「US-SAMURAI」の記述を見ながら多少憶測を加えて書きます。


1st Lt. Martin J. Higgins(10th Cavalry時代 1943年1月29日撮影)

交信記録から見る第1大隊各中隊の位置と、実際の位置には多少の乖離があると考えます。
第1大隊はこの24日のうちにトラパン・デ・ソールに閉じ込められ、包囲されているのは間違いありませんが、交信記録の位置はそれを示していません。

1050時の位置は昨日からさほど変化してないので正しいと仮定すると、その後攻撃を開始して移動していく過程で位置がズレたのではないでしょうか?

幾度となく敵の反撃を受け、迂回と突破を繰り返しているうちにその差は大きくなり、午後には大隊指揮所が攻撃を受け戦闘に巻き込まれます。
第1大隊指揮所が復旧、報告したのが1615時。その時点で第1大隊の各中隊は森の奥と移動しており、更に大規模な攻撃を受け、その報告もままならない間にトラパン・デ。ソールまで「前方に退避」したものと考えます。

夜間になり第1大隊は将校の集合を行います。集まったのは4人の中尉でした。
A中隊長1st Lt. Martin J. Higgins。
B中隊長1st Lt. Harry G. Huberth。
C中隊長1st Lt. Joseph P. Kimble
そしてD中隊第2小隊長1st Lt. Gordon E. Nelson。
大隊本部は攻撃を受けて分離させられており、大隊長以下幹部達の居場所は不明でした。この時、包囲された人員は275名とされていますが、当初は大隊のほぼ全兵力である600名が包囲下にあるとの情報だったようです。
またフランス人ガイド2名(HenriGrandjean氏、PierrePoirat氏)も一緒に包囲されています。
275名と言う数字は約2個中隊に満たない人数(1個小銃中隊は192名で編制されますが、35名は本部要員であり更に連戦による損耗があったものと考えます)で、記録だけでははっきりとしませんがB、C中隊の兵力とA中隊の一部及びD中隊の機関銃小隊及び迫撃砲小隊一部の合計がその包囲下に閉ざされた物と推測されます。
A中隊は火器小隊と小銃小隊の一部を大隊本部に残していました。
その大隊本部は敵の襲撃を受けて後退し、包囲の輪から外れて森へ。翌日には味方に合流することに成功します。
一方包囲された「失われた大隊」では、4人の中尉のうちA中隊長のマーティン・ヒギンズ中尉=1st Lt. Martin J. Higginsが暫定的な指揮官となり、防御の方針を示します。
残る兵力を持って円形に陣を敷き、全周を防御する。弾薬、糧食は集積して再分配し、その消耗を最大限節約する。第131野砲大隊から派遣され、一緒に包囲される事となった弾着観測士官、2nd Lt. Erwin H. Blonderと無線手が持つSCR-300無線機を最重要として守り、必要最低限の通信の他はバッテリーの損耗を防ぐ、等です。
また各小隊の前哨に有線電話を引き、それらからの報告を指揮所へ統合する事で敵の接近を早期に察知、要すれば砲撃支援を要請する事を計画しました。
火力は各中隊の火器小隊が持つ6挺のM1919機関銃とD中隊機関銃小隊が持つ2挺のM1917機関銃、そしてB中隊火器小隊の60mm迫撃砲が3門、D中隊迫撃砲小隊の81mm迫撃砲が2門の他、小銃及びカーバイン銃でした。
しかし地形と植生の問題から81mm迫撃砲は有効に設置することができなかったと回想されていますが、それを除けばほぼ1個大隊分に近い火力は保有していた事になりますが、問題は弾薬でした。
まる2日、戦闘を続けてきた結果弾薬は充分ではなく、それは何度も補給を要請していた事からも伺えます。


夜間になってヒギンズ中尉は各中隊から偵察隊を志願編成し、主力と連絡を取るために派出しますが、途中で地雷にかかり、更に銃撃を受けて大きな被害を受けます。
翌朝までに3名のパトロールが「トラパン・デ・ソール」のヒギンズ中尉の元へ戻り、残りは戦死または行方不明という結果となります。
しかし、この時敵の銃撃によってはぐれた1名、ペンシルバニア出身の ホレス・マレ二等兵=Pvt. Horace Maleは森の中をさまよった後に第141連隊の第111工兵大隊へたどり着き、第1大隊の置かれた状況と位置をほぼ正確に報告することができました。25日の朝の事でした。
また並行して、補給ルート確保の為に派出した3名も途中から前進が叶わず、戻った際に包囲された事実がはっきりとしました。

第36師団司令部でもこの事態は多少なりとも把握していたらしく、師団長は25日の0230時に休養に入っていた第442連隊の第2大隊に対し、待機命令を下しています。



1944年10月24日 第141連隊の行動概要

10月25日

「失われた大隊」の暫定指揮官となったヒギンズ中尉は早朝から48名の大規模なパトロールを編成(指揮官はC中隊のジェームス・ギルマン少尉=2nd Lt. James GilmanとA中隊のハロルド・C・クリピッシュ軍曹=S/Sgt. Harold C. Kripisch)、西側の味方方向を遮断した敵を突破し、補給のために接近していた第2大隊のパトロールとの接触を企図します。
しかし途中でドイツ軍が設置したSマインと呼ばれる対人地雷にかかり、敵に発見されてしまいます。
機関銃による銃撃、迫撃砲、更地雷によってに多くが戦死または行方不明となり、5名のみが翌朝トラパン・デ・ソールに戻りました。その際、同時に1名の捕虜を捉えています。


以下は10月25日における第141連隊の戦闘記録及び442連隊が傍受した無線記録によるものです。特に記載がない場合、第141連隊隷下部隊の記録と考えて下さい。
以後、包囲された第1大隊(A、B,C中隊及びD中隊の一部)を「LB」と記載します。

0045時:G3よりS3へ
爆撃任務計画は0900より目標(LB)包囲線から稜線森林内、南方及び東方。
G3が無線にて航空機を統制する。
S3は0830時に安全の為の目印の位置を報告せよ。

0648時:第2大隊S3より副連隊長へ。
重砲による砲撃を受けている。対砲迫の為の射撃班を得れるか?
砲撃は概略090°方向(東方)から。

0730時:連隊長よりS2へ。
第2大隊は道を切り開き、補給ルートを確保する。現在Pt.9で補給は停止させられている。
第3大隊はPt.28に強力な戦闘パトロールを送り、もし突破したならば他の部隊を送り出す。
K中隊への反撃はPt.28に推定20~30名の敵によって行われ、L中隊はK中隊を補強するために送られた。

0825時:G3より連隊長へ。
爆撃は地点364560を予定。航空機は南西から北東へ航過する。
弾着点中央は街の北東。
イヴー=IVOUX(地点310540)も爆撃するが、この北東には爆撃はしない。
連隊長回答:爆撃は長さ1200ヤード、幅600ヤードと推定。これらの場所は大丈夫。
両方の爆撃時に通知せよ。

0850時:S2よりG2(師団情報幕僚)へ。
敵は補給線を地点331586で断ちMGを設置した。
大量の重砲弾を浴びたため、道に沿って敵の観測所が見積もられる。
敵の位置はおそらく地点315630及びイヴー、少なくとも150mmを持つ砲兵。
地点360670及び地点357674にも敵が要る。
第3師団は障害に阻まれ。敵を谷底で押さえていない。

0905時:連隊長より戦車隊指揮官へ。
無線と共に連隊の前線指揮所へ来て、ベルモントに残る6輌の中戦車と連絡を取り続けよ。

0910時:第2大隊S2よりS3へ。
E中隊はPt.N(地点331588)。敵との接触無し。
前方より小火器の発砲音が聞こえる。A中隊のものと考える。

0927時:師団参謀長よりS3へ。
指揮所へ行く。

0927時:連隊長より師団参謀長へ。
道を車輛が行動する度に敵は砲撃を加えている。
敵は森の中で我々を監視する無線網を構築している模様。
我々は前線に4輌の軽戦車と4輌の中戦車を所有している。
師団参謀長回答:
師団長は他の7輌の戦車を可能な限り速やかに上に上げたいと考えている。
目標の森の端に監視哨を設置し、森全体へ兵力を配置するな。
目標が取られた場合、強力な増援がラ・ウシエールとヴァネモンから来る。
可能であれば、これらの街へ道路障害を設置せよ。

1300時:第141連隊長より
新たに前線指揮所開設。地点308587

1300時:S3よりS2へ。
A中隊の2個小隊はPt.E。B中隊、C中隊はA中隊と連絡中。
E中隊はPt.Nで接敵中。
A中隊の他の小隊はE中隊が接敵した敵の左翼から前進。
G中隊はA小隊へ接近中、接敵せず。
第3大隊の情報は無いが、K中隊がPt.30、Pt.28で接敵していると思われる。

1305時:第1大隊長よりS2へ。
E中隊現在地Pt.N。敵の侵入により補給ができない。

1305時:第2大隊長よりLBへ。
Pt.Nにおいて、味方部隊より補給を得る為に突破を試みる。
Pt.9においても味方部隊が接触を計る。
我々が接敵した敵は小グループだが、非常に攻撃的である。

1315時:S2よりS3へ。
1100に第3大隊は指揮所開設。地点3260

1315時:連隊長より131野砲大隊長へ
対砲迫射撃は待機中か?
131野砲回答:
1300に砲撃を実施。午後は敵の砲撃が南方からある間、断続的に射撃を行う。

1335時:連隊長より副連隊長へ。
まだ前線指揮所は砲撃を受けている。これらはイヴーより砲撃されていると思われる。

1400時:連隊長より副連隊長へ
今すぐ、タンクドーザー(戦車にブルドーザーのブームを付けたもの)が前線指揮所に欲しい。
111工兵大隊長回答:
必要なのはタンクドーザーですか、通常のブルドーザーですか?
連隊長回答:通常のブルドーザーで構わない。第3大隊が道路障害を除去するのに必要だ。

1450時:連隊長より副連隊長へ。
第442連隊第2大隊が第141連隊に組み込まれた。可及的速やかに大隊長は指揮所に報告せよ。
1545時:師団砲兵より副連隊長へ。
指揮所を訪れ、砲撃支援と対砲迫射撃について調整した。

1555時:連隊長より442連隊第2大隊長へ。
大隊はI中隊を超越し、包囲部隊を通過して高地を攻略、Pt32、28、25を保持せよ。
大隊はこれらの地点から141連隊左側面を防御せよ。
明朝0630までに連隊前線指揮所を通過せよ。

1600時:第3大隊長よりS3へ。
K中隊投入準備良し。第2大隊長へ連絡させる。
連隊長より:中戦車2輌を攻撃に使用する。

1608時:S3より第3大隊長へ。
第2大隊攻撃準備良し。
第3大隊の準備良ければ開始可能。

1610時:連隊長より131野砲大隊長へ。
対砲迫射撃開始。

1623時:LBより連隊長へ。
今、谷の観測をせよ。
連隊長回答:可及的速やかにFO(弾着観測将校)を観測所に配置する。

1630時:S2より連隊長へ。
野砲は我々の地域へ移動する気だったが、副師団長が許可しなかった。
連隊長回答:攻撃は1600に激しい砲撃によって開始された。
追加報告は無い。

1640時:LBよりS2へ
第198空軍野戦大隊から3名の捕虜を得て、以下の情報を入手。
1.現在、合計80名の人員で構成された2個中隊がある。
2.元々は3個中隊65名であったが、それぞれ2台の軽戦車の支援を受けており、3丁の機関銃を保有。
3.現在の地域に8日間滞在している。
4.捕獲地点321586

1642時:G3より副連隊長へ。
442連隊の大隊はいつ使用するか?
副師団長回答:明朝0630に道路交差点をクリアさせる。

1658時:連隊長よりS3へ。
対砲迫射撃を察知している敵砲へ行え。

1703時:副連隊長より連隊長へ。
143連隊F中隊は地点311574から地点313573まで進出した。
地点316584から電話線を構築する。

1710時:副連隊長より442連隊第2大隊長へ。
状況付与。
敵の監視が最も集中している連隊前線指揮所を、バイパスするための新ルートに偵察小隊を配置して示している。

1720時:副連隊長より143連隊第2大隊長へ。
貴F中隊の位置にパトロールを派出、今頃到達予定。
こちらのG中隊がHill624の反対側斜面で敵を発見した。

1730時:G2よりS2へ。
2名の捕虜の所属が新たに判明。
第202山岳大隊第3中隊。捕獲場所は地点314622.
各中隊は200名で編制されているが、他の5個中隊はこの地域に存在するか不明。

1735時:S2よりS3へ。
偵察隊が発見した新ルートについて。
連隊長は442連隊第2大隊のルートまたは時間を変更するか?
連隊長より442連隊第2大隊長へ。:
前線指揮所を通過するルートを使用。
部隊先頭は0500時~0600時に指揮所を通過せよ。

1803時:第3大隊長より連隊長へ。
K中隊は南側斜面を200ヤード前進した。
連隊長回答:L中隊はLBへ接近し弾薬と水を補給せよ。全員が2本の弾薬帯(バンダリア)と満水の水筒を持て。
L中隊はPt.9及びPt.10へ移動せよ。
その後I中隊は442連隊第2大隊が守る高地を通過し、戦車と共にK中隊を支援せよ。
補給物資を積載した戦車をLBへ送る計画中だが、もし無理な場合はL中隊を使用する。
1822時:連隊長より第3大隊長へ。
まぜ、タンクドーザーを送り返すのか?
もう使用しないのか。工兵隊が接触するまでこれを維持せよ。

1826時:第2大隊長より連隊長へ。
E中隊を使用し、K中隊へ連絡を試みる。
連隊長回答:大隊は今夜攻勢を維持し、敵を引き付けることでLBへの連絡が可能となる。

1831時:戦車大隊長より連隊長へ。
4輌の戦車を持ってきた。4輌は前線にある。
連隊長回答:戦車は今夜は指揮所の位置でとどまれ。

1934時:連隊長より131野砲LOへ。
午前に戦車を得て、A及びB中隊へ送る事を試みる。
戦車の移動を支援する為。2025時から2030時に地点327570へ砲撃を要請する。

2115時:第1大隊長より連隊長へ
斥候をPt10(338579)に派出。封鎖線に接触、 1名死亡、1名負傷。
連隊長回答:強力なパトロールを派出し封鎖線側面にあて、正面から攻撃を行う。

2140時:連隊長より副連隊長へ。
敵は第1大隊通過後、地雷原を設置し包囲を閉じた。

2142時:第1大隊長より連隊長へ。
戦車将校によれば、戦車隊は第1大隊が補給物資取得にパトロールを出すため、前進しないとの事。
連隊長回答:A中隊の移動は連絡を待て。

2151時:連隊長より第1大隊長へ
A中隊から強力なパトロールを派出、封鎖線を撃破して戦車隊が物資を輸送できるようにする。これが達成されたならば連絡するので必要に応じ、連隊長へ連絡を取れ。

2200時:連隊長より第2大隊長へ。
パトロールを派出し、143連隊F中隊と地点211574から地点313573で連絡を取れ。
有線電話を地点316584から構築せよ。

2330時:連隊長よりS3へ。
LBに関して大きな変更はない。
A中隊によるPt,10での突破は失敗した。
突破予定の戦車は調整不足により失敗。

第2大隊の位置。
G中隊は地点320583の道路上。E中隊はその左、地点320587で2輌の戦車の支援を得ている。
この両中隊は敵と接触中。パトロールと敵の位置への攻撃により夜間中、圧力を維持する。

F中隊(1個小隊欠)は地点315582、F中隊の1個小隊と対戦車小隊は地点308579にあり、143連隊F中隊と連絡中。
第3大隊の位置。
K中隊は地点322592の左に位置し、南方の敵と接触中。
2個小隊を敵の東方へ配置し、地点325597から332589の道路を解除する。
L中隊は地点319600。
I中隊は地点316603の左に位置し、主要道路にまたがっている。

地点309587に第1大隊を除く他の指揮所が開設されている。

442連隊第2大隊を含む第141連隊は0730に攻撃を開始する。
141連隊第2大隊は地点338579へ向かい、東に道路を下れ。
第3大隊は442連隊第2大隊を超越し、0730時に南東方向へ攻撃し、第1の目標地点331589へ向かえ。
第442連隊第2大隊は第3大隊の位置を通過し、地点321604、331597、341592の高地(Hill617付近)を防衛せよ。

第1目標が第3大隊によって確保されたならば、B目標(地点365567)を目指す。
第2大隊がLBに接触したならば、LBはPt.A(地点349563)を押し、第2大隊はルートを変え、地点322584南側から地点338579の南側までの森の端を延長して防護し、連隊を防衛せよ。

第442連隊第2大隊は目標に沿い、連隊の左側面を担当、第3大隊は地点347584から目標までを担当せよ。


1944年10月25日 第141連隊の行動概要

10月26日
前日の包囲突破を目的とした大規模パトロールも失敗に終わりましたが、士気は高かった、とヒギンズ中尉は述懐しています。
しかし、他の兵士達は異なる感想を持っていたようです。
ウィリアム・マーフィー二等兵=Pvt. William Murphyは入隊前の仕事、シカゴで自動車の整備をしていたこと、そして3人の子供の事を考えていました。
インディアナ出身のハワード・ジェサップ・アンダーソン軍曹=SSgt.Howard Jessup, Andersonは「ただ、穴にこもって一言も話さず祈り続けていた」と語っています。
ペンシルバニア出身でA中隊の先任下士官、ウィリアム・バンドリック曹長=1stSgt. William Bandorickは、「チョコレートケーキ、ベーコン、卵、そしてフラップジャック(英国由来の焼き菓子)・・・食べ物の事ばかり話していた」と言います。
携帯食料は初日でほぼ食べきり、彼らにはまともな食糧がありませんでした。
一部の兵士は砲撃で死んだ鳥を捕まえ、またキノコを探り当てたとありますが、もちろん全ての兵士に分け与えれる量ではありません。

また水の不足も深刻でした。
泥の混じった小さな泉があり、そこから夜中にこっそりと汲んでいましたが同時にその泉はドイツ軍も使用していたと記録されています。
ヒギンズ中尉はドイツ兵を泉で見かけても発砲しないよう指示していました。
人道的見地ではなく、水の汚染を防ぐためです。




現在のトラパン・デ・ソールの泉の様子(2012年 Michael Basilone Remy氏撮影)

敵の砲撃は日に日に増え、ツリーバースト(樹木に砲弾が命中し、殺傷力のある木片が飛び散る現象。後に日系兵士達もこれによって多くが負傷した)により被害も増えます。
彼らは規定よりも更に深く退避壕を掘り、木の枝や土で屋根を作ってそれに耐えました。
この地域のドイツ軍には「K-18」170mm重砲、88mm砲、ネーベルヴェルファー・ロケット砲等が配備されていました。

ヒギンズ中尉の報告からは砲撃により3名の戦死と28名の負傷が報告されています。

地上からのあらゆる補給が途絶えたため、空中投下による補給が計画されます。
細部は後述の無線記録に記載してあります。
ヒギンズ中尉は投下地点を示すためのマーカー作りを指示しました。
パーカーの内張り(マウンテンパーカーの可能性)、白シャツ等を裁断し、約8m(25フィート)の白い大きな矢印を作成。
また発煙手榴弾を木の上に付け、枝を利用して遠隔で発煙できるように仕組みました。

結局天候の不良、視界制限や連絡の不備もあり物資投下は28日まで行われませんでした。

以下は10月26日における第141連隊の戦闘記録及び442連隊が傍受した無線記録によるものです。特に記載がない場合、第141連隊隷下部隊の記録と考えて下さい。

0535時:連隊長より本部中隊へ。
工兵LO及び合流した工兵小隊を速やかにLBが来る前線へ送れ。

0643時:連隊長よりS3へ。
0415時に442連隊G中隊より頂上へ向かう道路の接敵線を案内する要請があった。
ガイドは0350時まで居たが、0600まで現れなかった。
連隊LOは0620時に442連隊第2大隊を前線指揮所へ入れ、連隊長が最終的に指示を出した。
S3の報告には0635時に442連隊の最後尾が指揮所を通過するとなっている。

0702時:連隊長よりS2へ。
0700時に第442連隊の先頭が指揮所を通過。

0714時:連隊長よりS2へ。
442連隊は小火器による射撃を受けて停止、大隊長によるとこれは砲撃の着弾区域であり、行程をクリアする必要がある。
また、第141連隊と有線を接続したいとのこと。

0734時:連隊長より第3大隊長へ。
只今、442連隊の最後尾が指揮所を通過した。、

0745時:G3よりS3へ。
第7連隊E中隊位置、地点304617、残りの大隊は地点314624でで北方を封鎖する。
師団長は141連隊と今朝、接触するように要求している。

0750時:第2大隊長より連隊長へ。
前線へ向かう。砲撃は南側の快闊地へと移動し、それを電話で確認できました。

0757時:第3大隊長より連隊長へ。
第3大隊攻撃を開始した。442連隊は位置を確保。

0805時:第2大隊長よりS2へ。
士官は一晩中活動している。1個中隊が所定の位置へ移動、他の2個中隊もまもなく配置する。

0815時:副連隊長より連隊長へ。
143連隊からの報告で、2輌の戦車がイブーの南方へ進発するのを視認した。
連隊長回答:1名が包囲線周辺の地雷によって死亡、442連隊は夜間を徹して配置を完了し、1個中隊はすでに進発した。
F中隊は既に射撃戦を実施していると思われる。

0830時:副連隊長よりG3へ。
2輌の軽戦車と2輌の中戦車が第3大隊に随伴、E中隊とA中隊にそれぞれ2輌の戦車が随伴している。

0845時:S3より工兵隊へ。
補給路を開く為、公平が必要。戦車が前線に到達するの道路が切断されている。
南東へ向かう"ERIVAL"(意味不明)の通路を要請する。

0850時:師団長よりS3へ。
指揮所へ行くので、S3は状況を説明せよ。

0923時:師団長より連隊長へ。
前線指揮所に行く。
連隊長回答:
第1大隊は36時間に渡り包囲下にあるが、砲兵用の無線機にて連絡が取れている。
今朝、接触を試みている。

0931時:連隊長より131野砲大隊長へ。
イヴーへ対砲迫射撃を実施しているならば、それを継続せよ。

0935時:第1大隊長より連隊長へ。
0835時にLBより連絡のあった包囲線突破の命令について受信を確認。

1008時:第3大隊長より連隊長へ。
L中隊はまだ拘束中、K中隊は左翼へ迂回中。
I中隊は定めた位置にいる。

1009時:442連隊第2大隊長よりS3へ。
レジスタンスと会合、通路を横切るのに時間を要する。

1011時:131野砲大隊長よりS3へ。
イヴーに対し対砲迫射撃実施。
その後、南方及び東方に砲撃をシフト。
敵の放火を鎮めたかを知りたい。

1020時:第2大隊長より連隊長へ。
敵が森に進出し、運動するのを阻止するため、観測員を定所に配置し、迫撃砲陣地を設置する為の場所を求める。
連隊長回答:
指揮官の必要に応じて使用せよ。ビフォンテーヌの東で多くの迫撃砲が活動している。

1030時:第Ⅵ軍団司令官より連隊長へ。
第Ⅵ軍団司令官、第36師団長、参謀長が指揮所へ行く。
LBについて。現在39時間包囲されている。
軍団司令官は442連隊第2大隊が東へ直進すべきと述べる。
141連隊は戦車を包囲線まで出し、直接射撃を行うべきで、歩兵にその両翼を回らせよ。

1040時:師団長より第143連隊長へ。
歩兵を随伴させた観測員を配置して第2大隊の側面から谷を観測させる。
そこからならば多くの目標を狙えるだろう。
LBが包囲する敵を突破するのを支援するため、谷を越え東方まで143連隊に攻撃させる可能性がある。

1045時:連隊長より第1大隊長へ。
第2大隊はSマイン(対人地雷)に遭遇したが、戦車を前線に送るチャンスはある。

1045時:師団長より131野砲大隊長へ。
LBと共にいる観測員へ連絡が取れるならば、彼らが充分な弾薬がある場合、攻撃を行うためのメッセージの送信をしたい。
131野砲回答:
最後の通信は0920時。

1047時:師団長より連隊長へ。
LBに対し、速やかに後方を攻撃させよ。
36時間も包囲下にあって、4個大隊を預けているにも関わらず行動していない。
速やかに攻撃を行え。
第442連隊第2大隊を待機させた。敵を砲撃できないのか?
連隊長回答:砲撃地点がLBに近く、砲撃は不可能。犠牲者が増える。

1050時:連隊長より師団長へ。
第2大隊について。
F中隊は森の区画、地点318578に入るよう指示、E中隊は停止。
ルート上をG中隊が下っている。
機関銃とFOを森に入れて観測する。
K中隊は側面に取り付いてる筈で、そこに442連隊第2大隊を配置する。
E中隊は150ヤード前進、K中隊は300ヤード前進。砲兵は使用できない。

1055時:第3大隊長よりS3へ。
反撃を受ける。敵は地点324591の高地の谷全体からK中隊の左翼へ来た。
L中隊を使用して敵を抑える事は可能。
連隊長回答:L中隊を使用せよ。戦車の支援を得よ。

1105時:連隊長より副連隊長。
442連隊第2大隊の1個中隊は地点314601であらゆる手段で戦闘を行え。
残る2個中隊は、今朝K中隊が位置した場所で行動せよ。

1108時:師団長より副連隊長へ。
連隊長に第2大隊の前方へ砲撃を要請させよ。
当初、目標へ砲撃。次に音を聞きながら調節せよ。
第2大隊にいるFOはこの実施が可能なはず。

1115時:S3より第2大隊長へ。
第2大隊FOを介して、音による砲撃の調整を行う。
効果確認の為、すぐに射撃を行い連隊長に通知せよ。
地点324591のK中隊に注意せよ。
師団長は143連隊F中隊が配置されていた場所に中隊を配置するよう命じている。

1118時:師団長より連隊長へ。
LBへのメッセージは伝えたのか。
連隊長回答:ちょうど文書のまとめ準備を終わらせ、今送信した
砲兵は地点332588地点からE中隊の前縁1000ヤードに照準中。

1122時:第3大隊長よりS3へ。
I中隊を支援していた戦車が後退した。
S3より戦車隊LO:
速やかに軽戦車を2輌、I中隊へ送れ。

1135時:131野砲大隊長より連隊長へ。
今、LBに居るFOを連絡が取れた。
連隊長回答:次のメッセージを送れ。
速やかにLBは全ての行程から後退し、Pt.1へ戻れ。繰り返す、速やかに。
ドイツ軍はPt,9を占領、第2大隊が確認。
Pt.30の南東北側。
K中隊がPt.Nに接触。
Pt.9を砲撃する。貴隊の位置情報は131野砲が押さえている。
了解を確認せよ。

1150時 :S2よりS3へ。
LBからのメッセージは以下の通り。
封鎖された道路上に伐採された木と対戦車砲が配置されており、これを排除するには工兵が必要。
・0800時:封鎖線に兵力を出している。
・0855時:封鎖線から移動し、作戦部隊へ連絡して敵を背後から攻撃する準備を完了。
・0920時:工兵は地雷を無力化する必要がある。
・0830時(0930のミスか?):第1大隊長より、強力な味方部隊が貴隊へ接近中であるとの連絡を受けた。

1153時:
連隊長より第442連隊長へ。
I中隊を超越したG中隊は地点319602で壕に入った敵と遭遇。
敵の火力線はI中隊の位置からHill617までと推定。
周囲を調査して、状況を推定する。
現在、攻撃計画を策定中、完了したら通知する。

1201時:G4(師団補給幕僚)より副連隊長へ。
航空機を使用し、LBへの物資投下を計画したい。LBの区域で航空機を使用するには最低12時間が必要。S3は連絡あり次第航空機を出す為に、物資の搭載が完了している事を望む。
S3より副連隊長へ。
連隊長は航空機による補給を要請する。彼らが必要とする物を通知するため、可能であれば数分待たれたい。

1202:副師団長から第131野砲大隊長へ。
CUB航空機(L-4 グラスホッパー)にLB上空を飛行させ、FOへ連絡をとることは可能か?
131野砲回答:LBは1205時にこのメッセージを受信した。

1210時:442連隊より連隊長へ。
I中隊を超越した中隊はいくつか?
連隊長回答:まだ何もない。

1210時:連隊長より第2大隊長へ。
Hill321605へ砲撃し、次に500ヤード近づける。
そちらが敵が居ると考える尾根に効果を与える為の砲撃。

1212時:師団LOから連隊長へ。
師団長はLBが攻撃に出る事を望んでいる。LBに送信したメッセージにはその意図が無い。
連隊長回答:LBは弾薬が欠乏しており、攻撃が可能とは考えられない。
師団LO回答:師団長は第2、第3大隊が攻撃を実施し、LBを救出する事を望んでいる。
442連隊の任務は丘の頂上からPt,9へ向かう事である。
師団長の師団砲兵計画は敵包囲線への砲撃である。
連隊長回答:現在、封鎖線付近にLBの一部が居るため、観測将校によってそれがクリアされない限り、地域へ砲撃しないように。

1240時:S3よりS2へ。
LBよりメッセージ。
命令通りパトロールを派出。友軍に接触できる唯一の方法と考えるが、位置は不明。
おそらくPt,8とPt.N。
こちらのメッセージを伝える前に出発した模様。

1242時:連隊長より師団長へ。
第2大隊が停止し、442連隊はI中隊を戦闘をしながら通過。
師団長が命令した442連隊の1個中隊、F中隊が先端。
E中隊は地点322587の通路にまたがる。
K中隊は南東より反撃に合ったので、そちらへ砲撃を行う。
L中隊は大隊長の指揮下へ戻し、適切に使用させる。
師団長回答:大隊を並べそのまま押せ。

1244時:131野砲大隊長よりS3へ。
砲撃はPt.9へ調整した。

1258時:S3より第2大隊長へ。
砲撃修正、Pt.9の400ヤード南、300ヤード東。

1301時:連隊長より第3大隊長へ。
L中隊を前進させ、K中隊とE中隊間の200ヤードを埋めよ。
各中隊はその位置で圧力を維持。
第3大隊回答:I中隊は数か所の敵を確認し射撃戦闘中、442の火力支援を実施。
戦車1輌をバズーカで撃破し、その他は退却している。

1330時:S3より副連隊長へ。
部隊は1600時に再攻撃を準備中。

1312時:LBより連隊長へ
Pt,8で50名の敵。Pt.Nで7名を確認。28名が負傷している。

1337時 131野砲大隊長よりS3へ。
LBはPt,8とPt.Nへの砲撃を要請。

1340時:連隊長よりLBへ。
第1大隊へのメッセージ。
部隊をPt.30へ移動させ、Pt.30の南東300ヤードでK中隊と接触せよ。
砲兵は最初のメッセージの位置、Pt.Nの東300ヤードのドイツ軍に砲撃する。この命令はポイント30に到着した時点で発令する。

1345時:連隊長より第2、第3大隊長へ。
第3大隊が主力となる。
第2大隊は攻勢を維持し、Pt.9を突破する準備をなせ。
K中隊を除く第3大隊はPt.9からPt.30への攻撃で南への通路をクリアしその間の敵を排除せよ。
砲兵はHill624に照準し、1550時より10分間の準備射撃を行う。
第3大隊はLBの左側で工兵を使用せよ。
第2大隊はPt.9への通路を下り、敵の側面を迂回、敵が谷を下って後退する際に射撃せよ。

1355時:連隊長より442連隊第2大隊長へ。
1600時の攻撃にI中隊が必要な為、引き抜いても良いか?
第2大隊回答:はい。

1422時:LBから連隊長へ。
明日までその位置に留まる許可を要求する。死傷者のため、日中はPt.10に到達できません。
移動前に戦力の半数を戦闘パトロールとして出している事を了解されたい。

1440時:連隊長よりLBへ。
1600時にPt.9から攻撃を行う。攻撃前に10分間、Pt.N近傍に集中射撃を行う。
以前のメッセージに従い、引き続きPt.9及びPt.30への移動を試みよ。

1505時:連隊長より第2大隊長へ。
主攻撃は戦車を伴い、通路を下り強襲する。
通路左側への強襲を維持せよ。
第1大隊長は戦車を随伴する。

1509時:戦車隊LOよりS3へ。
戦車に対戦車砲が指向するのが明確。

1509時:連隊長より第1大隊長へ。
戦車の準備は良いか?
師団長は貴官が戦車と共に前進し指揮を執る事を望んでいる。
回答:準備良し。

1510時:第3大隊長より連隊長へ。
E中隊の1個小隊が不明。K中隊より報告。
連隊長回答:攻撃は1600時に開始する必要がある。

1520時:副連隊長より連隊長へ。
方位070~080°(東方)からまだ発砲がある。
カブ航空機が去る度に敵は砲撃している。
ベルモントの高架に着弾した。

1530時:連隊長より第442連隊へ。
Pt.25へ進まず、Pt.30へ進み、別命あるまで待機されたし。

1533時:131野砲LOより131野砲大隊長へ。
20発の砲撃を15分間受けた。対砲迫射撃を要請する。

1537時:S3よりS2へ。
L中隊とI中隊はPt.9を攻撃、K中隊は針路を確保する。
E中隊とG中隊は東方へ押し出し、突破を計る。
G中隊が派出したパトロールは右側面で戦闘を行ているが連絡を取る。

1550時:連隊長よりS3及び第2大隊長へ。
砲撃開始。戦車を用い、前進せよ。

1600時:副連隊長よりG4(師団補給幕僚)及びLBへ。
の物資投下準備の為の資料要請メッセージを受信したか?
回答:はい。ただし、12時間前に通知する必要があります。消耗品については、材料の梱包を開始する前に、投下する特定の時間と場所が必要です。投下物資を知らされたし。

副連隊長より連隊長へ:
投下補給品について。
2日分のKレーションと水、医療用品。
45口径弾薬1ケース、30カーバイン弾薬1ケース、MG(機関銃)2ケース、M1弾薬30口径4ケース。
通信士官は次のバッテリーを投下したいと考えている。
BA-70を4、BA-39を2、BA-40を6。
投下時間0800時、投下地点349573を調整中。
朝0800時ならば霧がかかるので、その時間以外は投下が出来ないでしょう。

1600時:師団長より連隊長へ。
砲撃の集中はどうか?
連隊長回答:攻撃準備射撃は終了する必要がある。
F中隊の観測員は敵砲兵に射撃した。位置は地点314573.
F中隊は地点320577で小火器による射撃を受けた。
師団長回答:F中隊の位置を確認せよ。

1603時:131野砲大隊長より連隊長へ。
各砲15発、2個中隊が砲撃を実施した。

1618時:連隊長より131野砲大隊長へ。
効果を知らせ。
131野砲回答:最初の砲弾は100ヤード不足した。
範囲が拡大し、それ以降の報告は無い。

1622時:第2大隊長より連隊長へ。
F中隊は地点316575、FOは側面の通路を開くために迫撃砲で射撃する。
攻撃は時間通り開始し、G中隊は通路側面の地点318580で遭遇、現在対処中。

1630時:131野砲大隊長より連隊長へ。
状況知らせ。
連隊長回答:砲撃は受けていないが、機関銃、迫撃砲及び小火器を受けている。

1637時:第3大隊副大隊長よりS3へ。
L中隊移動中、その後の情報なし。

1642時:S3より442連隊第2大隊長へ。
第7連隊の道路障害にパトロールを派出せよ。I中隊とFOは準備を中止した。

1650時:戦車大隊LOよりS3へ。
移動し、大隊の火力支援を行う。

1702時:連隊長より第3大隊副大隊長へ。
Pt.9への通路を押し下げ、開通させよ。本日は戦車がダウンした。

1715時:S3よりS3補助へ。
攻撃は1600時、定刻通り開始。
L中隊は前線へ移動、その他の報告なし。
追走した442連隊G中隊は撃退されたが、詳細は不明。
442連隊G中隊は第3師団の一部と接触するためのパトロールを派出するが、事前の状況が明らかになるまで出発はしない。
各方面で小火器による圧迫を受けている。

1720時:連隊長より師団長へ。
戦車は地点330591まで通路を下り、第3大隊を推し進めている。

1720時:第2大隊長よりS3へ。
F中隊展開、その1個小隊は地点316576の北側に、少なくとも3挺の機関銃を備え、小銃擲弾と自動火器を装備した敵の前線を確認。
地点314574の森の端に位置するF中隊の1個小隊と観測員は、地点318573の建物の付近で迫撃砲を観測、今砲撃を行わせる。また地点329576の森に高射砲を確認。
F中隊は地点315580に前哨を置き、敵の侵入を防ぐ。
G中隊はルート上。
E中隊の1個小隊は攻撃時、自動火器の射撃に遭遇したが、以降連絡はない。
S3回答:155野砲大隊をのPt.N及びPt.2から西を砲撃させる。

1720時:LBから連隊長へ。
ポイント10に位置する強力な敵により、前進は停止。側面はMG(機関銃)と多くの地雷原によりカバーされ、停止させられた。以前のLD(攻撃開始線)まで撤退した。

1720時:442連隊第2大隊より連隊長へ。
G中隊はL中隊が居た地点。
E中隊は地点320599、先遣小隊は地点322596。
F中隊は141連隊K中隊が居た地点の南西200ヤード。
I中隊は141連隊L中隊と共にPt.28のそびえ立つ長い尾根へ向かう。
連隊長回答:E中隊先遣小隊は道路を横切り、地点323599まで前進せよ。

1720時:LBより連隊長へ。
Pt.10で強力な地雷原と機関銃に覆われた地域に当たり、以前の攻撃開始線まで後退した。

1750時 G3からCOへ:G3より連隊長へ。
物資投下準備完了。

1752時:師団砲兵指揮官より連隊長。
攻撃準備射撃の効果は確認できない。

1759時:G3よりS3へ。
第6軍団司令官は442連隊第2大隊を延伸させ、パトロールではなく直接的に141連隊左翼を7連隊と接続させて左側面を強化したいと考えている。

1800時:連隊長よりLBへ。
明朝0800時以降、地点344574に木箱に詰めた食料、弾薬、水を届ける。
煙または何か白いもの、で表示を行え。どちらを使用するか知らせ。
了解したら報告せよ。

1820時:S3より442連隊第2大隊へ。
442連隊F中隊をメイルフィン=MAILLEUFAINGの北東へ移動させ、次の4つの道路に障害を設置、第7歩兵連隊と物理的に接触せよ。
今夜パトロールを派出し、これを実施せよ。
道路障害は師団境界となる。移動開始時に報告せよ。


1840時:LBより連隊長へ。
必要な医薬品、3日間配給なし。現在の死傷者7名。任務部隊と合流するために派出した、我のパトロールは把握しているか? 攻撃前に可能な限りの弾薬が必要。

1905時:戦車大隊LOよりS3へ。
戦車は1500ヤード移動しただ、誰にも接触できなかった。
現在第3大隊本部がL中隊を見失っているため、戦車は本部にある。

1905時:師団長より連隊長へ。
LBと連絡があるか?
連隊長回答:
定期的に無線である。
師団長回答:
ビフォンテーヌの向かい側、開けた地点へLBを出すのが良策である。
連隊長回答:
その計画はすでに議論されているが担架が足りず、良い案とは思わない。
師団長回答:負傷者をそのままに、とは命令しないがLBは今夜移動する必要がある。

1912時:G3よりS3へ。
気象条件が許せば、0800時にLBへの物資の空中投下が実施される。天候不良の場合、それは適切な時期に行われる。
すべての防空部隊及び他の関係部隊へ通知済み。 航空機は戦闘機爆撃機になる予定。

1912時:第2大隊長よりS2へ。
敵の前線は地点316575から地点317580まで伸びており、北東からhill624に向かっています。
地点310578の小さな丘にMGを装備した敵の小さなグループが配置されている。

敵は壕に入り、戦線に沿っていくつかの自動火器を持っています。
観察された敵の要員は、よく訓練された軍隊であるという印象を持つ。
彼らは輪郭を隠すためにヘルメットの上にフードが取り付けられた迷彩服を着ているので、狙撃兵かもしれない。
樹木に沿って地点318574に少なくとも2門の120mm迫撃砲。
森の中の自走砲は地点378575(318575の誤りと推察)。
地点375562(315562の誤りと推察)の森の端に沿った位置に敵砲兵中隊。

敵歩兵の分隊が地点311567の付近から第143連隊のパトロールに対し発砲。
パトロールは、ビフォンテーヌの北東の道路で重車両の通行を報告。
Hill624には敵の周辺にSマイン(対人地雷)が設置されている。
第442連隊第2大隊長は、彼らが受けている機関銃の発砲から、地点373605(313605の誤りと推察)の針路上に陣地に入った100人の敵を推定。
本日午後、地点315601におけるG中隊の道路障害に対する小規模な反撃は撃退。


1953時:師団長より連隊長へ。
第3大隊からの新たな情報は無いか?
連隊長回答:無し。

1955時:第2大隊長より連隊長へ。
E中隊のすべての小隊長と下士官は死傷、各小隊に10名しか残っていない。
F中隊の正面には12挺の機関銃と100名の敵が推定。
左翼が露出し、丘の上にも動きが聞こえる。
143連隊のパトロールは谷が大きく開いていると伝えた。
連隊長回答:
隙間を埋める為に偵察小隊を送る。F中隊が活動するのを朝まで待つのを認める。

2010時:LBより連隊長へ。
我々の周囲、小さな開放地は0745時に白色のマーカー、可能であれば黄色の発煙でマークする。
弾薬、食糧、煙草、医薬品を要請。
敵が常に観測しているため、我々の位置を察知しないように。
我々のパトロールから聞いているか?

2015時:連隊長から師団長へ。
E中隊は小火器による苛烈な射撃を受けて移動していない。2個小隊から9名の死傷者。G中隊は機関銃の射撃を受けて停止中。
F中隊は移動中。
第3大隊からの報告は無い。
第2大隊の位置。
F中隊 FOを含む1個小隊は地点312573。1個小隊は地点313579、1個小隊は地点311584の道路障害。敵の位置は地点312581。
G中隊 1個小隊は312585、1個小隊は314583、1個小隊は317585。
E中隊 1個小隊は319589、1個小隊は320588、1個小隊は他の2小隊を追従中。

2017時:S3よりG-3へ。
午後の砲撃は少な目だった。

2037時:第3大隊より連隊長へ。
I中隊と付随するFOは彼らが行った地点に到達し、壕を掘った。
大隊はこれがPt.9だと考える。

2100時:S2より副連隊長へ。
本日午後のK中隊の位置は442連隊の位置。

2100時:連隊長よりS3へ。
新たな指揮官による偵察小隊を可及的速やかに前線指揮所へ送る。
これによりE、F両中隊間の隙間を埋めよ。

2102時:S3より師団長へ。
第3大隊からはまだ受信していない。
師団長回答:第3大隊に付随する砲兵FOからの報告は無いか?
S3回答:確認する。

2105時:131野砲大隊長よりS3へ。
第3大隊付随のFOから少し前に報告はあったが、位置情報は得ていない。

2120時:S3より副連隊長へ。
偵察小隊出発。

2125時:第3大隊副大隊長より連隊長へ。
伝令が到着、担架分隊を取得した。
連隊長回答:伝令が戻り次第、有線班を派出し部隊の配置を完了せよ。

2145時:連隊長よりLBへ。
補給を送る。パトロールは接触できなかった。
航空機が来たら発煙せよ。

2145時:連隊長より師団長へ。
L中隊より担架兵の要請があり、第3大隊の位置の取得を試みる。
師団長回答:第442連隊が明日、141連隊の攻勢位置を超越しLBへの接触を試みる。
連隊長回答:ビフォンテーヌの北東の敵に対し砲兵、迫撃砲、バスーカ、ライフルグレネードで集中射撃を行う計画。尾根の主要な大部分を叩ききる
1000時にLBに補給品投下を計画されたい。
師団長回答:計画を承認。

2218時:第3大隊長より連隊長へ。
地点322595の前線の400ヤード南に居る。
L中隊の位置、地点325590。
I中隊の位置、地点323597においてK中隊と接続中で、Pt.30の南方に敵を察知中。
K中隊の位置、323591。
1輌の中戦車が大隊に居る。
約75から100名の敵が大隊の正面、少なくとも3挺の機関銃を据えて陣地にいるため、今夜は壕を掘り待機する計画。

2225時:副連隊長より3Sへ。
2245時に偵察小隊が出発する。

2240時:連隊長より師団長へ。
第3大隊は中戦車1輌を持ち、左翼にいる。戦車2輌はやられた。
敵は2個中隊、それぞれ約100名で8挺の機関銃を持ち、第3大隊の正面に位置している。
補給ルートを使用しLBに近接、Pt.9より400ヤードに到達、夜間の為壕を掘り待機する。
偵察小隊をE、K両中隊の隙間に配置する。
F中隊は地点317575で敵が構築作業をしているのを聴知。

2240時:442連隊S3よりS3へ。
副師団長は141連隊に対しI,K,L,E及びG中隊から将校による概要を0300時に442連隊指揮所へ報告するよう命令。

2253時:G3よりS3へ。
第3化学戦大隊C中隊は442連隊へ赴き、指揮官またはLOが速やかに442連隊指揮所に入る。

2255時:442連隊S3よりS3へ。
第442連隊長は0700に141連隊の前線指揮所に入る。
第753戦車大隊のB、D両中隊長及び第636戦車駆逐大隊C中隊長と協議を望むので通知されたい。

2310時:連隊長よりLBへ。
航空機による補給品投下は1100時。
強力な友軍部隊が来ている。

2350時:副師団長より連隊長へ。
F中隊は前線前方に442連隊の1個中隊を加える事により、再編せよ。
131野砲大隊FOは522野砲大隊を加え、442連隊を直接支援する。
将校は0300時に442連隊指揮所に概要を報告せよ。
第1大隊長は前線に留まり、LBが救助または接触できた際に指揮を復帰する。
1000時、攻撃開始。
442連隊の要請がなく、また陣地にいた敵が442連隊の側面に回り込む際は141連隊が火力を送る。
救出後、連隊はベルモントで現在442連隊が使用していた場所を提供する。


1944年10月26日 第141連隊の行動概要

10月25日早朝、失われた大隊から本隊への脱出に成功したホレス・マレ二等兵=Pvt. Horace Maleの報告により、第141連隊、及び上級部隊である第36師団は第1大隊が包囲された事を正確に把握します。
第141連隊は残る第2、第3大隊を使用してその突破を試みますが、いずれも失敗に終わります。
10月26日の1600時から開始された総攻撃は各所で大きな損害を出し、支援の戦車も撃破され散々な結果でした。
周到なドイツ軍の包囲が固く、無線以外の手段では失われた大隊へ連絡を付ける事もかなわず、また失われた大隊も戦力、糧食、医薬品、弾薬全てが不足し、身動きが取れなくなりました。
ここに来て10月25日、第36師団は第141連隊独力での救出は困難であると判断、師団を上げての救出作戦が必要である事を認識し、他の第143連隊と第442連隊戦闘団の投入を決定します。
夜間の時点で、第2大隊は大きな被害を受けて身動きが取れず、E中隊ではすべての将校、下士官が死傷。F中隊も倍近い敵を正面にして停止。G中隊は機関銃の射撃を受けて同じく停止していました。
第3大隊は森の奥へ入り込んだものの、やはり激しい敵の抵抗を受け、連隊との連絡も途絶し連隊本部や師団では新たな「失われた大隊」となる可能性も示唆していたのがわかります。


次回は第442連隊戦闘団による救出作戦の詳細を掲載いたします。  


Posted by 先任  at 17:12Comments(0)日系部隊史

2020年11月26日

Vosgesの戦闘 第442連隊戦闘団 Vol.2「ビフォンテーヌ解放」

アメリカ陸軍 第442連隊戦闘団 Vosgesの戦闘  Vol.2 「ビフォンテーヌ解放」をお送りいたします。

前回のVol.1では1944年9月29日 マルセイユ上陸から10月18日のBruyères解放までを書きました。
今回はBruyères解放後1944年10月19日~26日までの連隊戦闘団の記録を掲載いたします。

参考資料については前回同様「ヴォージュ(Vosges)の戦闘及び「失われた大隊救出」における第442連隊戦闘団の戦死者数について」と同じですので、そちらをご参考下さい。
部隊記録等の所蔵元については「アメリカ国立公文書記録管理局 National Archives and Records Administration (NARA) Records」となっております。

なお、部隊の行動図は行動記録から可能な限りで起こしましたが、細部は正確ではない可能性があります。
また、現在のGoogleMapを引用し使用していますので、1944年当時とは地形が異なる可能性があります。

この一連のVosgesの戦闘は連合軍第7軍が発令した第6軍団隷下の第3師団、第45師団、そして第36師団によるドイツ侵攻作戦の一部、"Operation Dogface"によるものでした。

10月19日
Bruyeres解放から一夜明けた翌日。
第442連隊戦闘団第3大隊は早朝には街から移動を開始しており、住民達の多くに一夜にして消えたオリエンタルの兵士達、と言う印象を残しました。
Bruyeres市内で写真屋を営んでいたJean Marie Thomasが解放の時の写真を幾枚か撮影しています。






Jean Marie Thomas氏撮影の1944年10月18日解放時のもの。442連隊L中隊と思われる。

連隊の次の目標はBruyeresの東にあるD高地でした。
連隊はA高地を占領した第100歩兵大隊を予備として残し、第2、第3大隊をもってD高地を攻撃します。
D高地は昨日の第3大隊L中隊による斥候から強力な敵の防御線を確認していました。
1000時:2個大隊並列による攻撃開始。
第2大隊は左翼にG中隊、右翼にF中隊、支援にH中隊、予備をE中隊として高地に突入。
第3大隊は中央L中隊、左翼I中隊、右翼K中隊とした3個中隊並列で高地の南側を制圧し、鉄道の確保に向かいます。
D高地のドイツ軍は、そのほとんどが夜間に後退しており抵抗は微弱でした。
1145時:第2大隊はD高地を占領。その際、D高地の山頂に居たのはたった2名のドイツ兵でした。

第2大隊はD高地にてE、G中隊が掃討を実施、第3大隊はI中隊とK中隊を並列させて高地南側を前進します。
1600時:第3大隊は線路までたどり着きますが、線路の反対側から強力な射撃を受けて停止。
1800時:夕闇が迫る中、I、K中隊は地雷原に踏み入ってしまい危険度が高ったが、は前進を止めて、個人壕を掘り敵と対峙します。
この時、側面をカバーする予定だった第143連隊の行動が遅れており第2、第3大隊は敵方に約2km突出し、孤立の危険がありました。

夜間になり、D高地に中隊規模のドイツ軍が侵入。
第2、第3大隊や進撃路の構築に当たっていた第232工兵中隊が散発的に攻撃を受けます。
第2大隊はE,G中隊が防御線を構築し予備としていたF中隊をこのドイツ軍への対応に当てます。
F中隊の前進に合わせ。H中隊及び第3大隊L中隊の一部がそれを支援しました。

1500時:第442連隊本部はBruyeres市内に移動します。

1700時;第100歩兵大隊は占領したA高地に警戒部隊としてA中隊を残すと他のB,C,D中隊はBruyeresの街の北端へと入ります。
小学校に大隊本部が入り、その周辺に各中隊の兵士達がそれぞれ地区を割り当てられて一夜を過ごす事ができました。
そのまま数日は過ごせるかと思われた街での夜でしたが、2100時には大隊長シングルス中佐(Ltc.Gordon Singles)と大隊作戦幕僚キム大尉(Cpt.Kim Young-Oak)は第442連隊本部へ呼び出され「20日1200時までにC高地を占領せよ」との新たな命令を受領します。


Mag.John Ernest Dahlquist


Col.Charles W.Pence


Ltc.Gordon Singles


Cpt.Young-Oak Kim

Bruyeresの街の北東に位置するC高地は有力なドイツ軍の1隊が防御しており、他の味方から孤立しているにも関わらず、抵抗は頑強でした。
第100歩兵大隊はこの日のうちに斥候をC高地へと送っていますが、敵に発見され射撃を受けて後退しています。
第100歩兵大隊に課せられた命令はあくまで連隊からの命令ですが、それを命じたのは師団長ダールキスト少将(Mag.John Ernest Dahlquist)であったと「ブリエアの解放者たち」には記されています。
なお同書によれば2300時に大隊本部へと戻ったキム大尉は午前0400時頃までかかって作戦計画を立て、夜明けと共に部隊の前進を開始したとされています。
また、同じく同書ではB中隊長Cpt.Sakae Takahashiを始め幾人もが、解放された市街でのドイツ協力者に対する暴行や非難を目撃したと記述されてもいます。




10月19日の第442連隊戦闘団の戦死者は6名でした。

100/A/Pfc.Nishimura Wilfred Katsuyuki
100/C/2Lt.Fujitani Ross Kameo
442/G/Pvt.Kanetomi Jero
442/E/Pfc.Kondo Henry M
442/E/Pfc.Horiuchi Paul F
442/I/SSgt.Inakazu Ben Masaki


10月20日 深夜、日付けが変わってもD高地の戦闘は継続しています。

0130時:D高地のドイツ軍は2両の戦車を立ててG中隊の防御正面に対し強力な逆襲を開始します。
G中隊のSgt.Yoshimi R Fujiwaraは前進する敵戦車を確認すると高台へと登り、ライフルグレネードを射撃するも不発。一旦引き返して本部からロケットランチャー(バズーカ砲)を持って再度高台へ。
5発のロケットを発射し、戦車1両を撃破します。
これを持って敵は後退。ドイツ軍の逆襲を失敗に終わらせました。

1000時:僅か一夜で街から出て、C高地攻撃を命じられた第100歩兵大隊は戦車の支援が断られたため、化学戦部隊の迫撃砲にる煙覆を得てA,B,C3個中隊並列のままで高地の背後まで前進、B中隊が右翼、C中隊が左翼として攻撃をかけ、更にA中隊がその南側側面から包囲するように回り込みます。


10月20日 煙幕弾が撃ち込まれるC高地を撮影したものと思われる。

支援砲撃に続いて、各中隊は攻撃を開始後一気に高地を駆け上がり、敵を突破。
師団長からの命令通り1200時までにC高地占領を完了しました。
しかし、師団長命令により時間までの占領を企図して迅速に行動した結果、頂上への突破を優先したために後方に多数の残敵を残す事となり、長時間に渡る掃討戦が必要となりました。
1415時:掃討戦の実施中、連隊本部を通じて師団長よりD高地へ全兵力を向けよとの命令が下ります。
1445時:第100歩兵大隊は敵の逆襲の兆候と、掃討戦が継続している事を返答。
1520時:第442連隊長ペンス大佐(Col.Charles W. Pence)はそれを師団長へ報告するも、師団長からは「1個中隊を残し、速やかに引き上げよ」が再度命令されます。
第100歩兵大隊ではC高地の麓に敵戦車も確認しており、占領したばかりのC高地を離れればすぐさま敵に再占領されるのが予測できた為、せめて1個中隊(A中隊)を残しての移動を進言しますが、師団長からの命令は「全兵力をC高地から移動させよ」であり第100歩兵大隊はC高地から下り、D高地を目指す事になりました。
これはC高地の位置が所属する第36師団ではなく第45師団の受持区域内に入っていたためではないか、と「ブリエアの解放者たち」でドウス昌代氏は指摘しています。
第100歩兵大隊は高地からの撤退を開始しますが、ドイツ軍の逆襲を警戒しつつ、更に残敵とも戦いながらの撤退は簡単な事ではなく、更に時間を要する事になります。

一方、D高地では頑強なドイツ軍の抵抗に第2大隊が手を焼いていました。
早朝に第2大隊の輸送隊がD高地のドイツ軍より攻撃を受けます。
レーションを輸送していた指揮官の1Lt.Charles Farnumが狙撃され戦死。
H中隊のSSgt. Kuroda, Robert Tは分隊を率いてこのドイツ軍の一隊を攻撃、手榴弾で敵機関銃班を撃破します。
SSgt.KurodaはFarnum中尉の所持していたM1カーバインを拾い、更に機関銃座を撃破するも、敵の銃弾に倒れます。

更に昼前にF中隊第2小隊のT/Sgt.Ohama Abrahamが倒れた兵を救出するために敵の銃火に身をさらし、自身も狙撃されて倒れます。
そのTSgt.Ohamaを載せた担架が更に銃撃されPfc.Kameoka Bob、Pfc.Okamoto Ralphら4名が射殺された瞬間、それを目撃したF中隊のほぼ全員が誰の命令も合図も無く敵に突貫、付近にいたドイツ軍ほぼ全員を撃ち倒し一気にD高地を占領します。
約50名の敵の戦死を確認、夕刻まで隠れていた7名を捕虜としました。
D丘は1200時には制圧されていました。
その報告は師団にも挙がっている筈であり、1415時に第100歩兵大隊へ向けたD高地への移動命令は不自然であると考えられます。


10月20日 第2大隊衛生派遣隊による負傷者の回収。

1300時:D高地を占領した第442連隊は午後になって、ドイツ軍の装甲部隊がBelmontからBruyeresへ移動中であるのを第2大隊の斥候が確認し、次の行動に移ります。
第753戦車大隊長Lt. Col. Felberを指揮官とし第442連隊第100歩兵大隊A中隊(の1個小隊)、同対戦車中隊を加えた"Felber Task Force"を編成し、更に第36偵察部隊も動員してBelmontを攻略し、左翼の防御を行う作戦でしたが、実際に戦闘に入る前にアメリカ陸軍航空隊のP-47サンダーボルト戦闘機がドイツ軍の車列を空襲し、これに大きな被害を与えて後退させました。




10月20日 戦闘を終え、Bruyères市内へ入る第3大隊L中隊。

1710時:第2、第3大隊は第522野砲大隊の他、指揮下に入っていた第141野砲大隊、第93自走砲大隊による20分間の支援砲撃を受けて、攻撃を再開。
線路を超えて敵を追撃するも、更なる地雷原と敵の陣地からの攻撃に阻まれBelmont手前の森まで接近することができませんでした。
その戦闘の最中、K中隊のBAR(ブローニング自動小銃)の射撃により、ドイツ軍の地区司令官の副官を射殺し、彼が携行していた重要な地図を入手します。
これらはすぐに師団G2(情報部)にもたらされ、第36師団長ダールキスト少将と第442連隊長ペンス大佐はその夜のうちに敵の防御線の裏を斯く計画を立案します。

第3大隊副大隊長Major.Emmet L O'Connorを指揮官とし、第2大隊F中隊と第3大隊L中隊、有線、無線各通信班及び地雷処理班と第522野砲大隊の観測員1Lt.Binotti E Albertを加えた"O'Connor Task Force"を編成。
"O'Connor Task Force"の任務は第2、第3大隊の主力がBruyeres東の505高地を攻撃するのに呼応して敵の防御線の隙間を掻い潜り、同高地の南側から敵の側背を襲うものでした。
※なお"Task Force"について「機動部隊」と訳される事が多いですが、ちょっと意味合いが変わってしまうので「任務部隊」と訳するのが適当と考えます。
アメリカ陸軍では1943年のイタリア戦線からこの種の"Task Force"が任務に応じて多く編成されていました。


1745時:師団長から442連隊長へ第100大隊を"O'Connor Task Force"の支援に付けるよう、行き先の変更が命ぜられます。
2300時:になって、ようやくC高地から引き上げが完了し、再びBruyeres市北東へと戻った第100大隊の本部へ、副師団長が表れ新たな命令が下ります。直ちにBruyeres北東の更に奥、Biffontaine村へ向かえ、とされた命令は副師団長によって即時発行を促され第100歩兵大隊は闇夜に再び出撃しました。
休養、武器の手入れはもちろん携行レーションすら食べる時間が無かったと後に述懐があります。
闇夜の進撃により、第100歩兵大隊は敵の抵抗に会うことなく突破に成功します。




10月20日の第442連隊戦闘団の戦死者は17名でした。

100/A/Pvt.Furukawa Tatsumi
100/A/Pfc.Shimabuku Roy Kokichi
442/2HQ/1Lt.Farnum Charles Oliver Jr
442/2HQ/Pfc.Hadano Hatsuji
100/C/Pfc/Hattori Kunio
442/2HQ/Pvt/Shimabukuro Tomoaki
442/F/TSgt.Ohama Abraham J
442/F/Pfc.Kameoka Bob T
442/F/Pfc.Okamoto Ralph Sueo
442/G/1Lt.White Floyd E Jr
442/G/Sgt.Nakamoto Seichi
442/G/Pfc.Nagato Fumitake
442/G/Pfc.Okada John T
442/H/Pfc.Shigemura Frank Masao
442/H/SSgt.Kuroda Robert T
442/H/Pfc.Miyaguchi Masayuki John
442/M/Pfc.Kato Yoshio






上記2枚の写真はいずれも10月20日の撮影で、442や100大隊の「失われた大隊救出」のものとして度々引用されるものですが、実は「ヤラセ」写真で、この3名は同じ人物です。
この3名とカメラマンが様々な場所を歩き、角度を変えながら繰り返し撮影を行っている様子が当時の記録フィルムに残っております。
しかしながら、彼らは紛れもなく442連隊の兵士であり、撮影された場所も砲弾の後が生々しく残る戦場です。
したがって、この写真が「間違いである」と言う主張ではありません。


10月21日は明け方前から"O'Connor Task Force"の行動が開始されました。

0500時:IPを通過した"O'Connor Task Force"は0740時には前方集結地へと到達。

0900時:行動開始後、わずか25分で505高地に陣取るドイツ軍の背後に回り込み、敵を観測した1Lt.Binotti E Albertの報告から第522野砲大隊が全力射撃を行い、敵の主要な防御を粉砕します。
0945時:連隊長ペンス大佐はオコーナーに左翼へ展開し、更に敵を圧迫するよう命令。
1030時:正面左翼からの第2大隊、右翼からの第3大隊の攻撃と背後からの"O'Connor Task Force"からの攻撃に挟まれたドイツ軍は505高地から後退し始めます。
1130時:敵戦車によって前進を阻まれていた第2大隊は、第522野砲大隊の支援を受けて戦車を撃破し、前進。
1200時:第3大隊のI、K両中隊が505高地を占領し"O'Connor Task Force"と連絡を付けます。
1430時:"O'Connor Task Force"はBruyeres-Belmont街道の途中にある小集落La Broquaineにて潜んでいた敵戦車を狩り出し、残敵を掃討。残りをBelmont方面へ駆逐します。
その後主力と合流、編成を解いてF,L両中隊は原隊へと復帰します。


1944年10月8日撮影のBiffontaine周辺の航空偵察写真。 現在とほぼ地形に変化はない。

"O'Connor Task Force"の予備隊として投入された第100歩兵大隊は、戦況の変化によって目標をBiffontaineへと変え、Bruyeres東方の山地を東へと前進します。
Biffontaine周辺を制圧できた場合、Belmontのドイツ軍は退路を断たれる事になる計画でした。
しかしBiffontaineは連隊主力からは距離が離れており、友軍の前線から1マイルも奥に位置しています。
通信は有線電話に限られ、そのワイヤーも延長を重ねてようやく到達する状態であり、更には途中でドイツ軍によって幾度も切断されました。

第100歩兵大隊はB中隊を後衛としC,A小隊の順で縦列で森を前進します。
途中ドイツ軍のパトロールと遭遇し、戦闘になったのは後衛のB中隊でした。
この戦闘でB中隊のPfc.Komatsu James Kameoが戦死、B中隊長Cpt.Takahashi Sakaeが機関銃弾を浴びて負傷します。

一方前進方向の抵抗は微弱であったようです。
1500時:第100歩兵大隊各中隊は予定地点に到着し、退避壕を構築して夜に備えました。

夜間になり、連隊の予備に指定された第2大隊はBruyeres市街に再度戻り、休息に入ります。
第3大隊は第100歩兵大隊とBelmont間の残敵を掃討するため、北東への前進を準備し、待機しました。

この頃、連隊本部には第6軍司令官のトラスコット中将が視察に訪れていますが、タイミングを合わせたかのような街への砲撃に会う事になりました。




10月21日の第442連隊戦闘団の戦死者は2名でした。
100/B/Pfc/Komatsu James Kameo
442/E/Pvt/Shoji Toshiaki

※一部書籍、Webサイト等で第100歩兵大隊C中隊のPfc.Hasegawa, Kiyoshiがここで戦死と記載されているものがありますが、彼の戦死日は1943年10月21日であり、イタリア戦線での出来事です。



10月22日 連続した戦闘で部隊の疲弊は頂点に。


10月22日 第2大隊従軍牧師Cpt.Higuchi Hiroが聖書を読み上げています。
この後、すぐに第2大隊には再び出撃が命ぜられる事になります。


0830時:第3大隊は3個小銃中隊並列で攻撃を開始。険しい山岳地形を残敵掃討しながら東へと前進します。
第100歩兵大隊は連隊を介した師団長からの「Biffontaine攻略の命令」によりBiffontaineを半包囲するように3個中隊を配置し、防御線を構築しましたが、敵の砲兵火力による支援を受けた敵の歩兵部隊による攻撃を受けます。
激しい戦闘が行われ、ドイツ軍の撃退に成功したものの水、及び弾薬に深刻な不足を生じ、更には突出しているために負傷者の後送にも難をきたしていました。
Belmont付近で待機していた"Felber Task Force"から5両のM5軽戦車とA中隊の一部がその補給にあたる為に出撃しましたが、山間に差し掛かった所で敵の射撃を受けます。
瞬く間に3名(SSgt.Suyama George W、Pvt.Sugiyama Itsuo、SSgt Togo Shiro)が戦死、その他多くの負傷兵が発生します。
※この戦死した3名は"Felber Task Force"からの原隊復帰後に戦死が確認、記録されたため日付が10月23日、と記載されていますが、この戦闘での戦死者です。

最後尾のM5軽戦車に跨乗していたA中隊のSSgt.Sasaoka Itsumuは銃弾を受けましたが、傷をものともせず車載機関銃で反撃し味方が通過するまで射撃を続けて援護しますが、力尽きて戦車から落下します。(MIA=行方不明として記録)
その後SSgt.Sasaokaはドイツ軍戦時捕虜となり、ドイツ国内のブランデンブルクの捕虜収容所へ収監。
1945年1月31日にソビエト軍が侵攻し、ドイツ軍収容所警備員が収容所から解放。ソビエト軍の装甲部隊へと向かった彼らは誤認したソビエト軍によって発砲を受け15名の捕虜が死亡しました。その中にSSgt Sasaoka Itsumuが含まれていました。


なお、この時襲撃したドイツ軍は翌日に同じ道路を整備中の第232工兵中隊を攻撃しますが、第3大隊M中隊の81mm迫撃砲の射撃を受けて後、何もしていないにも関わらず、突然降伏する事になり工兵を驚かせた、と記録されています。

結局"Felber Task Force"は突破には成功したものの第100歩兵大隊へは辿りつくことができず、補給の問題は継続します。

ドイツ軍はBiffontaineへと突出した第100歩兵大隊を包囲すべく戦力を運用した模様です。
第100歩兵大隊では作戦将校のCpt.Kim Young-Oakが連隊に問い合わせをしていました。
「大隊はBiffontaine村へと下りた場合、現在居る尾根はたちまち敵に占領されて包囲される。現有戦力での村の奪取は危険である」
しかし師団長に厳命されている連隊長ペンス大佐は重ねて攻撃を命令します。
「100大隊が村へ下りたら、夕方までには他の部隊で現在地を確保されたし」
Cpt.Kimは連隊長へ要請を出しますが、他の大隊もそれぞれの任務があり守られなかったようです。

第100歩兵大隊の右後方、南側で発生した戦闘は予備として一旦後退した第2大隊が再び復帰することで埋められE、Fの2個中隊が703高地に入って側面を防御します。
そこへドイツ軍が攻撃、激しい戦闘の末撃退に成功。
この戦闘でE中隊のPfc.Yasui Hideo、Pfc.Kitagawa Roy J及びF中隊のPfc.Fukuba Shigeo Frank、Pfc.Mukai Hachiroが戦死。


10月22日撮影 街はずれで出撃準備中の第2大隊。


第3大隊の1Lt.Milton BrennerはL中隊の一個小隊を率いて山地へと侵入。
地図は戦前の不正確なもので、ドイツ軍が道を増やしており役に立たなかったと言う。
それでも迷いながら捜索を続け、昼頃には第100大隊へ通じる道を発見します。
1530時:連隊長ペンス大佐は速やかに輸送隊を編成し、第2大隊の予備だったG中隊を護衛に着けて第100歩兵大隊へと送り出しました。
1730時:輸送隊が第100歩兵大隊へと到着し、弾薬不足の危機からは脱します。

師団長は翌23日までにBiffontaineの攻略を命令。
各部隊はパトロールをと斥候を繰り返しながら一夜を明かしました。



10月22日の第442連隊戦闘団の戦死者は8名でした。

100/A/SSgt.Togo Shiro
100/A/Sgt.Suyama George W
100/A/Pvt.Sugiyama Itsuo
100/D/Pfc.Tsukano Ichiro
442/E/Pfc.Yasui Hideo
442/E/Pfc.Kitagawa Roy J
442/F/Pfc.Fukuba Shigeo Frank
442/F/Pfc.Mukai Hachiro



10月23日 Biffontaine攻撃

1000時:第100歩兵大隊はBiffontaineへの攻撃を開始。
C中隊はA中隊の射撃の援護の下にBiffontaine村へと下ります。

迅速な攻撃によって敵の不意を衝いた為か、敵が陣容を立て直す前にC中隊は多くの家屋を占拠。
C中隊に続き、B中隊が村の反対側から攻撃を開始すると敵の応戦に合います。
それらを駆逐し、村を両側から攻撃していくと、敵は後退を開始。
D中隊は後退するドイツ軍に更に火力を浴びせて停止させ、23名の捕虜と多数の火器を鹵獲しますが、第100歩兵大隊ではこの時既に手持ちの武器の弾薬が底をついており、速やかにドイツ軍の火器、弾薬が配布されました。
また捕虜の1人はドイツ信号班の少佐で、当初彼はしきりに第100歩兵大隊の兵士達に降伏を勧めていたようです。
彼は後に師団情報部のために極めて役にたったそうです。
また第3大隊K中隊は山の麓から村を攻撃し、第100歩兵大隊を支援しますが「ブリエアの解放者たち」によると誤射、誤爆による民間人への犠牲があったようです。
名前は伏せますが、この件は私もVeteranから直接聞いています。

1300時:第100歩兵大隊は約3時間の戦闘の末、Biffontaineを占領します。

この戦闘では負傷者の介護やドイツ軍の動静の監視等で、多くの村民が第100歩兵大隊を助けました。

ドイツ軍は村の外で陣容を立て直し、逆襲を実施します。
戦車を先頭にたてて50ヤードまで接近し、激しい射撃を繰り返しました。
多くの建物は崩壊し、兵士達は地下室に潜って戦闘を継続します。

これらの戦闘でD中隊のPvt.Fuyumuro Edward Shigetoが戦死、またA中隊長1Lt.Sakamoto Samuel Mや作戦将校Cpt.Kim Young-Oakも銃弾を受けて負傷します。

逆襲を撃退した後、第100歩兵大隊は負傷者を後送するための隊を編成します。
442連隊衛生小隊の2Lt.Kanaya Jimmie(※公式記録にはKanabe Jamesと記載されていますが、誤りです)を指揮官としA中隊長1Lt.Sakamoto Samuel Mや作戦将校Cpt.Kim Young-Oakを含めた11名の負傷者と担架を担ぐ28名のドイツ軍捕虜、そして6名の護衛で大隊本部まで運搬する予定でしたが、この一隊が山中で敵に包囲されます。
混乱の中でCpt.Kim Young-Oakと第100歩兵大隊派遣衛生隊の衛生兵Pfc.Chinen Richard Kは脱出に成功しますが、他の20名の兵士達は捕虜となり、その多くが終戦までドイツ軍の収容所で過ごす事となります。

その際のメンバーは下記の通りです。

100/A/1Lt.Sakamoto Samuel M
100/C/2Lt.Miyashiro Takeichi T
442/H/2Lt.Gleicher Sol Harold
442/Med/2Lt.Kanaya Jimmie

442/HQ/Pfc.Kajimoto John T
100/A/Sgt.Kamikawa Harry H
100/C/SSgt.Tokunaga Michael M
100/A/Pfc.Kashiwamura Tetsuo
100/A/Pfc.Sagara Horace
100/A/Pfc.Takamura Naoki
100/C/Pfc.Hirokane Katsumi
100/C/Pfc.Akita Stanley
100/C/Pfc.Yonezawa Kaoru
100/C/Pvt.Miyashiro George J
100/C/Pvt.Nakagawa Sunao
442/Med/Pfc.Fujii Sueo
442/Med/Pfc.Murai Marushi
442/Med/Pfc.Nakamine Kotaro
442/Med/Pfc.Nakata Milton K
442/Med/Pfc.Uchimura Masayoshi

第100歩兵大隊は村のはずれに防御陣地を構築しましたが、夜通し敵の攻撃を受ける事になります。
その際はドイツ軍火器が多く使用されたとの記録が残っています。
正規の補給も山伝いに行われていましたが、個人が手で持って搬送する量は戦闘にはまったく足りて居ませんでした。
深夜にドイツ軍は大規模な突撃を実施し、それは第100歩兵大隊の防御第一線まで食い込むものでありましたが、なんとか撃退に成功し、敵は後退しました。
第2大隊は再び予備に指定され、Belmontへ後退し休養に移ります。




10月23日の戦死者は1名でした。

100/D/Pvt.Fuyumuro Edward Shigeto

また同じ戦闘でA中隊のPvt Akimoto Victorも負傷してドイツ軍に捉えられますが、その傷が癒えず12月14日にドイツ軍の捕虜収容所内で死亡しています。


10月24日 Biffontaineからの後退

夕刻までに第141連隊と第143連隊がBiffontaineに入り、第442連隊戦闘団はようやく交代して後方へと下がります。
1400時:第3大隊は1個小隊を残してBelmontへと後退。
L中隊の第2小隊が翌朝までBiffontaineにとどまりました。




10月24日撮影 Belmontへ後退中の第3大隊の兵士。


1730時:第100歩兵大隊がBelmontへと後退。
"Felber Task Force"は解散し、戦車隊は師団に戻ります。
またその間に7名のドイツ兵を捕虜にしました。




この日は戦死者はありませんでした。

10月25日及び26日は10日間の連続した戦闘からの休養でした。
この休養は完全な3日間が与えらる予定でした。
泥と汗と硝煙、汚物等様々な物で汚れ切り、湿ったままの軍服を乾燥させ(着替えは届いていなかった)シャワーを浴びて温食を食べました。

イタリア戦線ではカッシーノ戦の他は連続した戦闘状況も数日で、多くは1日か2日でドイツ軍は抵抗を諦めて降伏するか敗退していました。
また夜間通しての戦闘も少なく、夜は警戒しながらも交代で多少の仮眠を取ることができました。
しかしここ、Vosgesではそれはままなりませんでした。

ドイツ軍は頑強に抵抗し、一旦後退しても幾度となく逆襲に来ては日系兵達を疲弊させました。
また敵の陣地は実によく練られ、構築されており暗い森の中では目前まで気付かない事も多く、大きな被害に繋がりました。
そして多数の砲撃。
昼夜問わず降り注ぐ砲弾は日に数千発にも上り、高い木に当たって炸裂し破片と木片を散らして身体を切り裂く"ツリーバースト"が容赦なく襲い掛かりました。
降り続く冷たい雨は兵士達を心底から凍らせ、凍傷と下痢を発生させました。
戦闘の初期には無敵の軍隊に思えた連隊の兵士達は、戦闘の疲労やシェルショック(戦闘神経症)を発症し、後送されました。
これは彼らの勇気の不足を示すものではありません。
シェルショックは激しいイタリア戦線でも第442連隊からはほとんど発生せず、他の部隊と明らかな違いを見せていました。
それが連続した戦闘と回復する時期を持たない日々の為に破壊されていったのです。

Belmontの休養地でも砲弾の洗礼は続いており、幾人もの兵士が負傷しています。

しかしこれらはまだ”最悪の状況”ではありませんでした。

24日に第442連隊と交代した第141連隊がBiffontaine北方から東へ攻撃、第1大隊が突出してしまい包囲される事となりました。

第141連隊の第2、第3大隊が第1大隊の包囲線に攻撃をかけるも失敗。
10月25日0230時:第442連隊戦闘団に師団長から救出の為の待機命令が下り、一日早く休養に入っていた第2大隊に待機が命ぜられたのです。

以下次回。
  


Posted by 先任  at 14:31Comments(0)日系部隊史

2020年10月21日

Vosgesの戦闘 第442連隊戦闘団 Vol.1 「ブリエア解放」

前回はVosgesにおける第442戦闘団の戦死数と言う事で調査結果を参考資料とともに紹介させていただきました。
今回からはその戦闘の経過を日ごとにまとめた物を連載いたします。
参考資料については前回同様ですので、そちらをご参考下さい
部隊記録等の所蔵元については「アメリカ国立公文書記録管理局 National Archives and Records Administration (NARA) Records」となっております。


それではそれらの記録を元に、再度「失われた大隊」救出の戦闘と、戦死者を追ってみます。
加えてドウス昌代氏の「ブリエアの解放者たち」からのエピソードを追記します。
なお、部隊の行動図は行動記録から可能な限りで起こしましたが、細部は正確ではない可能性があります。
また、現在のGoogleMapを引用し使用していますので、1944年当時とは地形が異なる可能性があります。



Bruyères北西の丘、Hill555に立つ第442連隊戦闘団を称える石碑。

1944年9月29日
第442連隊戦闘団はUSS THURSTON, USS DICKMAN, USS CHASE, USS HENRICOに分乗してイタリア・ナポリからフランスのマルセイユに上陸。その後10マイルを徒歩移動しました。


マルセイユから前進する第442連隊戦闘団兵士。

なお、連隊戦闘団の対戦車中隊のみは1944年7月16日~10月27日の間抽出され、第1特殊部隊(ロバート・フレデリック大佐指揮)においてグライダー降下訓練を受けたのちに、第517空挺歩兵戦闘団と共にドラグーン作戦に従事しておりこの、Vosgesの戦闘の序盤には居ませんでした。

9月30日
0600:指定エリアに到着。以後約10日間に渡り補充兵の訓練等を実施。
10月2日
第6軍団(VI Corps)に配属されますが、部隊の管理は第7軍(7th Army)直轄とされます。
10月4日
第36歩兵師団に配属。
10月9日~
0830:CP閉所。
第100歩兵大隊、第2大隊及び連隊所属の各支援部隊は師団輸送隊のトラックにより北上を開始。
リヨンを経由し450マイルを走破、ヴォージュ県エピナル近郊の宿営地へと向かいました。
10月10日
主力より遅れていた第3大隊は貨物列車にて移動を開始します。
10月13日
連隊主力ヴォージュ県エピナル近郊の宿営地着。
1230:CP開設。
2200:第3大隊宿営地着。




エピナル郊外の宿営地にて休息をとる第100歩兵大隊B中隊の兵士達。


10月14日
1400:連隊はトラックを使用し短距離(2マイル)移動を開始。
Bruyeresの西4kmの森の入口にて兵士を下ろしたトラックはUターンし、あらたな兵士を迎えに戻るピストン輸送でした。


エピナル郊外からVosgesの森へ向けてトラックで移動する第2大隊の兵士達。


Vosgesの森へ進入する第2大隊I中隊の兵士達。

一部の部隊は徒歩で前進を余儀なくされます。
第232工兵中隊が地雷を除去、道路を整備し、更に前進する連隊を第522野砲大隊が砲撃により支援を行いました。

Vosges山脈は険しくそそり立つ山々ではありませんが、深い針葉樹の森に覆われており日中もほとんど日が射さない上、木材を主要産業としていたBruyeresからの業者が占領により森へ入らなくなっており、下生えは伸び放題だったと言われています。

「ボージュ山脈の森は数多くの小道が存在し、それらは曲がりくねり地元民ですら迷うと言われる。また、下生えが多く針葉樹の間隔が密接している為、敵の掩蔽は容易であり、あらゆる場所に存在する可能性がある。」
1944年10月6日、第36師団S2発行による地形情報より。

この一連のVosgesの戦闘は連合軍第7軍が発令した第6軍団隷下の第3師団、第45師団、そして第36師団によるドイツ侵攻作戦の一部、"Operation Dogface"によるものでした。


1944年9月22日に撮影されたBruyères付近の航空偵察写真。

Bruyeresの街は西から北、東にかけて4つの丘に囲まれており、連合軍はそれらをA,B,C,D高地と(Hill"A","B","C","D")と名づけ。Bruyeres解放に必要な拠点としていました。
更にその手前にはHill486、Hill555が大きく横たわり、連合軍の接近を阻んでいました。
南側のHill486は"テキサス部隊"である第141連隊が担当し、更にその南側から第143連隊が攻撃します。
第442連隊戦闘団はHill555を超えてBruyeresに迫る事を命令されました。



10月15日
Bruyeresの北西にある山岳(Hill555)は深い森で、各所に敵の射撃陣地や地雷が埋設されていました。
攻撃に先立ち、連隊は師団から支援を得ます。
第752戦車大隊、第636駆逐戦車大隊、第83化学戦大隊(107mm迫撃砲装備)第36偵察騎兵群(M6装甲車装備)、第886管理中隊、第56衛生大隊。

0800:第2大隊は縦列でRP(分進点)を通過、F中隊を先頭としE中隊、G中隊が続きます。合言葉は「ポォとポウォー」でした。


連隊の前進を支援する第522砲兵大隊の105mm榴弾砲。

H中隊の機関銃小隊がそれを支援します。

0930:F中隊はBruyeresから3kmの地点で敵の抵抗に会い、射撃を開始。
戦闘は1230:まで続きました。
この間、ドイツ兵5名を倒し14名の捕虜を得ます。
戦死1名(SSgt.Yamada Hideo) 負傷4名。
更にE中隊も砲撃により戦死1名(Pvt.Sagami Yohei)負傷2名。
午後には敵の抵抗が更に増大したため、第2大隊は停止。

夜間になってG中隊がHill486に斥候を送り、右翼は米第141連隊と接触。
また左翼は第100歩兵大隊と接触を確認します。

0800:第2大隊と並行する形で第100大隊もB中隊を先頭に前進を開始、森へと侵入します。
0915第100歩兵大隊B中隊は森に300ヤード進入した所で機関銃による射撃を受け停止。

2個中隊規模の機関銃による射撃に加え砲撃、戦車まで投入した激しい抵抗に会いB中隊は1日中戦闘を継続するも後退を余儀なくされます。
B中隊は戦死1名(SSgt.Hirahara Tomosu)を出しますが捕虜5名を得ました。

C中隊はB中隊を支援するため、LDを横切る形で侵入しますが、木々の影や陣地からドイツ軍の小火器による抵抗を受けます。
更に1430:には砲弾の落下もあり多くの死傷者を出します。
戦死3名(Sgt.Mayeda George M//Cpl.Sakai Yoshinori//Pfc.Tengwan Yoshio)、負傷19名。
D中隊は各中隊の支援でしたが、地形上迫撃砲が機能せず、効果的な支援ができませんでした。
A中隊は予備として待機していましたが、砲撃による被害を受けました。

ボージュの戦闘において、必ず語られるのがツリーバーストです。これは敵の砲弾が、頭上の木々にあたって炸裂し、砲弾の破片に加えて木々の破片までが殺傷力を持って飛び散るもので、壕を掘っていても頭上から降り注ぐ鉄と木の破片による被害が大きく出た事を指しています。
この日、予備として待機していたA中隊では一発の敵砲弾がツリーバーストとして炸裂した事により3名が戦死(1名はWOD-病院での戦死、1名は負傷後長く入院生活を余儀なくされ、戦後に死亡)、17名が負傷しました。




ドイツ軍第223擲弾兵連隊、及びSS第19警察連隊から約20名の捕虜を得て、敵のCPの位置情報並びに地雷原の情報を入手。
この日の連隊の戦死者、11名。

100A/TSgt.Miyoko Mitsuru E
100A/Pvt.Matsunaga Kaname
100B/SSgt.Hirahara Tomosu
100C/Sgt.Mayeda George M
100C/Cpl.Sakai Yoshinori
100C/Pfc.Tengwan Yoshio
442E /Pvt.Sagami Yohei
442F/SSgt.Yamada Hideo
232Eng/Pvt.Yamamoto Takeo
232Eng/SSgt.Fuji Abe M
100A/Pfc.Moriguchi Rokuro (砲弾による負傷、入院後回復せず1947年5月29日に死亡)


10月16日
0600:第100大隊左翼、第2大隊右翼並列での攻撃を開始。
第100大隊はA高地、第2大隊はHill555を目指します。
232工兵中隊が地雷及びHill555前面の障害処理を実施しE中隊、F中隊が並列で前進しますが、丘に差し掛かる手前の開けた場所で激しい銃撃と砲撃を受けて停止。
第100大隊は第2大隊の左翼からHill555の北側を経由してA高地を目指しますが、Hill555を超えた地点で深い谷に当たり前進を阻まれます。

夜明けから発生した霧が谷を覆い、視界が不良となる中で1個大隊規模のドイツ軍が反撃。
各種砲による砲撃に加え戦車の支援を受けたドイツ軍は第100及び第2大隊に襲い掛かりました。
すかさず第522野砲大隊及びD,H中隊の迫撃砲で敵の反撃に対し痛打を与え、この反撃を失敗に終わらせます。
なお師団右翼の第143連隊は442連隊の攻撃に呼応するように前進し、Bruyeresの南方Cample-Ducまで前進することに成功。

0800:再度攻撃開始。
F中隊はBruyeresの北西、Hill555の一部を占領、Bruyeresまで1kmに迫りますが激しい抵抗を受けます。
E中隊が主力となってHill555を攻撃し、連隊の火力支援を受けつつ1100に占領。
ついで連隊がBruyeres前面の平地を前進しますが、今度はB高地より砲撃を受け停止します。
B高地からは砲撃に続き3両の戦車と複数の自走砲、更に歩兵による攻撃を受けました。
1730:約一時間の攻防戦の後、連隊は一旦後退します。
第100大隊は左翼にB中隊、右翼にC中隊としてA高地(Hill578)のふもとまで前進し、A中隊が間隙をカバーしました。
第100歩兵大隊では、大隊作戦将校(S3)となっていたCpt.Young-Oak Kimの発案により、太いワイヤーを使用して本来は下りれない勾配の斜面で戦車を下ろす計画が実行されました。
あまりに多数の敵機関銃の配置から、歩兵単独での攻撃は被害が増大するのみと考えられました。
「ブリエアの解放者たち」によると、その戦車を下ろす作業の実施中に状況を把握していない師団長より、強い攻撃命令が第100大隊に幾度となく下り、Cap.Kimは師団と接続されていた有線電話線を引き抜き、あっけにとられる大隊長に「砲撃にやられました」と言ったと言うエピソードがあります。
一日中、敵の砲撃が行われ被害も増えましたが21名の捕虜を得て、Bruyeresの街の防衛に関する情報を得ています。
Bruyeresはドイツ軍第736擲弾兵連隊第1、第2の2個大隊が防御しているとの情報でした。


1944年9月29日に撮影されたBruyères付近の航空偵察写真。




接触した敵部隊は下記の通りです。

第198SS警察連隊。
第1316工兵大隊第Ⅲ中隊。
第49要塞機関銃大隊。

16日から17日にかけて冷たい雨が続き、兵士達は泥だらけの中で過ごす事になります。

この日の戦死者は10名でした。

100B/Pvt.Noritake Yoshito
100C/Sgt.Imai Tomio
442E/Pfc.Katayama Noritada
442E/Pfc.Kato Joseph Hisato
442E /TSgt.Matsumoto George H
442E /Pfc.Komoto Nobuo
442F/Pvt.Miyazono Tokio
442F/Pfc.Horinouchi James Joji (George)
442F/Pfc.Yamaoka Tsutomu
442H/Pfc.Saito George S



10月17日
0730:夜明けと共にHill555の第2大隊及び左翼の第100大隊に対し、ドイツ軍が2個中隊の歩兵を中心とした反撃に出ます。
1時間程の激しい戦闘が行われた後、H中隊の火力と第522野砲大隊の支援射撃を得て、ドイツ軍はA高地及びB高地へと後退、再編成を行いました。
0930:第2大隊は戦車による二度目の反撃を受けるが、地形の問題で対戦車砲が動かせず、第2大隊のE及びF中隊はバズーカ砲班を6個編成し、戦車に対応、これを頓挫させます。
同時に第100大隊に対しても歩兵を中心とした反撃が行われました。
第100大隊はちょうど前進を開始するタイミングにぶつかり、適切な防御を行う事ができなかったため、一部では戦線を突破されます。
手榴弾を投げ合い、時には銃剣すら使用する近接戦闘の末、第100大隊は防御線を立て直し、敵の撃退に成功。
この戦闘でA中隊のSgt.Tezuka Theodore TとPfc.Shigeta Hideoが戦死。

その後、敵の後退に呼応する形で連隊は前進を再開するもA高地、B高地から射撃を受けて停止。
ドイツ軍は丘のふもとの民家等を利用して機関銃を配置し、前進を阻みました。
推定15挺の機関銃と2門の対戦車砲があったと記録されています。

午後になり、第2大隊G中隊が連隊右翼からHill555を回り込んでふもとを攻撃し、数件の民家を攻略。
第100大隊はC中隊から1stLt.Masanao Otakeが率いる斥候を出し、A高地ふもとの民家を確認中、敵に発見されます。
Lt,Otakeは分隊の後退を援護し、サブマシンガンによって射殺されました。
この行動により、殊勲十字章を死後授章します。
なお、「ブリエアの解放者たち」によると、師団長自らが前線に来て、直接オオタケ中尉に対し「直ちに攻撃せよ」と指揮系統を無視して命令し、それが実行されるかを後ろから監視。
オオタケ中尉はC中隊から1個小隊を率いて予備として待機中であったが、師団長の直接の命令によりA丘へ前進、Pfc .Ajitomi Tokio、Pvt.Sakai Yoshinoriと共に戦死したとの記述があります。
Lt.Masanao Otakeは野球のアロハチームの一員で、戦前から軍に徴兵されていた第100歩兵大隊オリジナルメンバーの1人でもありました。
兵士として優秀なだけでなく、物事を冷静にかつ公平に判断できる人物で、アンツィオで将校に任官し、小隊長をしていました。また、第2大隊H中隊に弟のSgt.Masayuki Otakeがいました。


夜間になって各中隊は積極的に夜間斥候を出し、敵の位置の把握に努めます。
またこの時点で街のレジスタンス、ドロラン氏との接触に成功し街への近接経路についての情報を得ます。
降り続く雨の中、不眠不休の戦闘を継続しながら翌18日を迎えます。



この日の戦死者は11名でした。

100A/Sgt.Tezuka Theodore T
100A/Pfc.Shigeta Hideo
100C/2lt.Otake Masanao Russel
100C/Pfc.Ajitomi Tokio
100C/Pvt.Sakai Yoshinori
2BnHQ/Pvt.Kanaya Walter Etsutoshi
442F/Pfc.Tanji Mitsuo
442F/Pfc.Ikehara Dick Kikuichiro
442F/Pvt.Tagami Yoshio
442G/Cpl.Kokubu James Toshio
442G/Pfc.Chibana Henry Matsuzo


10月18日 Bruyeresへの進入。
合言葉は「スーベニア」と「リムジン」でした。

夜明けまでに第3大隊は市街への突入を企図し、第2大隊の右側(南側)へ配置。
I中隊とL中隊が未明のうちに攻撃開始線へ敵の射撃を受ける事なく移動することができました。

0800:準備砲撃が開始され、30分間、5個砲兵大隊(計60門)からの射撃が行われました。
第3大隊を中心に8個中隊(A,B,C,E,F,G,I,L)が並列となり前進を開始。
連隊を上げての攻撃となります。
充分な煙幕が砲兵によって展開され、その遮蔽の元にそれぞれの目標を目指し、全力で前進します。

100大隊はようやく戦車の支援を受けて、A丘ふもとを3個中隊のライフル中隊すべてを出して攻撃します。
B中隊が先頭となり、ふもとの民家を攻略。A中隊はB中隊の左側面をカバーした後、丘に沿って残敵を掃討しながら前進。C中隊は大隊の右翼からA丘を攻撃しました。
この戦闘でB中隊のSgt.Hosoda Max MとC中隊のPfc.Ogawa Edwardが戦死。
1100:戦車からの砲撃により、森からの反撃が弱まったと判断したB中隊長サカエ・タカハシ大尉と、大隊作戦幕僚のヨンオク・キム大尉は2人だけで銃を構えず、森へ対峙。
身振りを交えながら「出てこい! カモン」と呼びかけ、結果ドイツ兵45名が投降。
前線の防御線は崩壊していると判断した第100大隊はA丘を駆け上って攻撃。
1420:A高地を占領。更に70名以上のドイツ兵が投降します。
第100歩兵大隊はA高地において逆襲対処の為、壕を掘りつつ警戒に移りました。
なお後日、このA高地攻略の功績により第100歩兵大隊は1944年6月のベルヴェデーレの戦闘以来、2度目の大統領部隊感状を受賞しました。

一方、第2、第3大隊はE,F,Gの3個中隊を先頭として、目標とされたB丘の攻略に挑みます。
午前中に開始した攻撃は敵の激しい抵抗にあり、正午になってもまだ高地ふもとに達した兵は居ませんでした。

山間部から撃ち下ろされる機関銃と砲弾に、平地から前進できない部隊は次々と被害を受けます。
E中隊Pvt.Fukumura Ichiji、F中隊Pfc.Morimoto Toshiaki、G中隊T/4.Yoshinaga Akiraが戦死。
第2大隊通信所には敵砲弾が直撃し、Sgt.Kijima Tadashiが戦死。
各中隊の火器小隊から60mm迫撃砲が抽出され、集中射撃を加えて敵の機関銃を沈黙させ、一気にB丘のふもとへと迫る作戦が成功。
F,G両中隊が敵を引き付けている間にI中隊が右側面から迂回し、丘の南側斜面から攻撃し、包囲の危険を感じたドイツ軍は後退します。
1500:攻撃開始から6時間半を経て、第2大隊はB丘を占領。

B丘の占領後、第3大隊L中隊は北側からBruyeres市街へと進入、通りを家ごとに確認していきました。
1830:L中隊の斥候が南側から街へと入った第143連隊C中隊と接触。
Bruyeresの街の雌雄は決しました。
しかし、残った一部のドイツ軍は広場や通りにバリケードを築いて抵抗を続け、街の各所で散発的な市街戦が真夜中まで継続されました。

砲撃が止み「どうやらアメリカ軍が来たらしい」と知った市民4000人は地下室から出て、その「小さなアメリカ人」に驚きました。
そして残っていた僅かなワインや食べ物が持ち出され、家々に招待がありましたが、多くは戦闘行動を継続中であり、通じない言葉と身振りでで断るしかなかったようです。

第3大隊L中隊はD丘に斥候を出し、敵の防御線を確認するも銃撃を受けて後退。
1700:K中隊は残存する狙撃兵に対処した後、Bruyeres市街へ進入。
連隊の前線指揮所もHill555沿いの陣地へと移動しました。

天候は寒く、16日間も連続で雨が続いています。
補給路は泥に埋もれ、多くの車両が足止めされたため、補給の問題が生じたため工兵が道路整備を行いました。

この日、第93自走砲大隊及び第141野砲大隊が第442連隊戦闘団の支援に派遣され、第522野砲大隊と共に火力を増大させます。

第2、第3両大隊は61名を捕虜を得て、この日の戦闘では合計134名の捕虜を得ると同時にほぼ同数の敵を倒した、と記録されています。




なおこの日遭遇したドイツ軍部隊は下記の通りです。

第192装甲擲弾兵連隊第Ⅱ中隊。
”アーレン”戦闘団 赤色中隊
第716工兵大隊第I中隊
第198擲弾兵大隊第Ⅱ、第Ⅲ中隊

なお連隊戦闘団の戦死者は6名でした。

100B/Sgt.Hosoda Max M
100C/Pfc.Ogawa Edward
442/2HQ/Sgt.Kijima Tadashi
442.E/Pvt.Fukumura Ichiji
442.F/Pfc.Morimoto Toshiaki
442.G/T/4.Yoshinaga Akira


Vol.2に続きます。


information

写真展 「アロハの桜」~二世軍人が残してくれたもの~
主催:Bco/100Bn



2020/10/28(水)~11/ 2(月)
12:00~20:00(初日は、13:00から、最終日は、18:00まで)

ギャラリー「イロリムラ
〒530-0016 大阪市北区中崎1丁目4番15号
TEL:06-6376-0593

戦後間もない舞鶴の地にハワイの日系二世たちから桜が送られました。
それから約70年経った2018年、ハワイ在住の日系二世の方々を招いて、
その意思を継ぐ新しいアロハ桜の植樹式が行われました。
かつて対立しあった二国を繋いだ桜。
生まれ変わったアロハの桜をどうぞご覧ください。
合わせて関西のリエナクター(歴史再現)集団BCo/100Bnの活動の様子も展示いたします。

協力
アロハ桜保存会
100th Infantry Battalion Veterans Education Center
MIS Veterans Club of Hawaii  


Posted by 先任  at 16:36Comments(0)そのたミリタリ日系部隊史

2020年10月21日

Vosgesの戦闘 第442連隊戦闘団 Vol.1 「ブリエア解放」

前回はVosgesにおける第442戦闘団の戦死数と言う事で調査結果を参考資料とともに紹介させていただきました。
今回からはその戦闘の経過を日ごとにまとめた物を連載いたします。
参考資料については前回同様ですので、そちらをご参考下さい
部隊記録等の所蔵元については「アメリカ国立公文書記録管理局 National Archives and Records Administration (NARA) Records」となっております。


それではそれらの記録を元に、再度「失われた大隊」救出の戦闘と、戦死者を追ってみます。
加えてドウス昌代氏の「ブリエアの解放者たち」からのエピソードを追記します。
なお、部隊の行動図は行動記録から可能な限りで起こしましたが、細部は正確ではない可能性があります。
また、現在のGoogleMapを引用し使用していますので、1944年当時とは地形が異なる可能性があります。



Bruyères北西の丘、Hill555に立つ第442連隊戦闘団を称える石碑。

1944年9月29日
第442連隊戦闘団はUSS THURSTON, USS DICKMAN, USS CHASE, USS HENRICOに分乗してイタリア・ナポリからフランスのマルセイユに上陸。その後10マイルを徒歩移動しました。
当時の南フランス戦線は補給線が伸び切っており、鉄道の機関車や貨車が不足していたため、港からトラックによる輸送が行われていましたが、それは非効率極まりなかったと442連隊の幕僚が証言しています。


マルセイユから前進する第442連隊戦闘団兵士。

なお、連隊戦闘団の対戦車中隊のみは1944年7月16日~10月27日の間抽出され、第1特殊部隊(ロバート・フレデリック大佐指揮)においてグライダー降下訓練を受けたのちに、第517空挺歩兵戦闘団と共にドラグーン作戦に従事しておりこの、Vosgesの戦闘の序盤には居ませんでした。

9月30日
0600:指定エリアに到着。以後約10日間に渡り補充兵の訓練等を実施。
この時点で連隊は機関銃、迫撃砲等を新たに受領し、各中隊へ配布したため部隊では試験や訓練が行われました。
セプテームの宿営地は風が強く、また雨が降った為に多くの被服や装具が濡れ、ある者はそれから3か月間も乾いた被服を着る事が無かったと話しています。
10月2日
第6軍団(VI Corps)に配属されますが、部隊の管理は第7軍(7th Army)直轄とされます。
10月4日
第36歩兵師団に配属。
10月9日~
0830:CP閉所。
第100歩兵大隊、第2大隊及び連隊所属の各支援部隊は師団輸送隊のトラックにより北上を開始。
リヨンを経由し450マイルを走破、ヴォージュ県エピナル近郊の宿営地へと向かいました。
この時、連隊に割り当てられたトラックの実に25%が故障して使用できなくなり、第3大隊の移動は翌日に持ち越されます。
10月10日
主力より遅れていた第3大隊は貨物列車にて移動を開始します。
それは弾薬や糧食を輸送する貨物列車に混じる形で行われ、なんとも奇妙な編成だったそうです。
10月13日
連隊主力ヴォージュ県エピナル近郊の宿営地着。
1230:CP開設。
2200:第3大隊宿営地着。




エピナル郊外の宿営地にて休息をとる第100歩兵大隊B中隊の兵士達。


10月14日
1400:連隊はトラックを使用し短距離(2マイル)移動を開始。
Bruyeresの西4kmの森の入口にて兵士を下ろしたトラックはUターンし、あらたな兵士を迎えに戻るピストン輸送でした。


エピナル郊外からVosgesの森へ向けてトラックで移動する第2大隊の兵士達。


Vosgesの森へ進入する第2大隊I中隊の兵士達。

一部の部隊は徒歩で前進を余儀なくされます。
第232工兵中隊が地雷を除去、道路を整備し、更に前進する連隊を第522野砲大隊が砲撃により支援を行いました。

Vosges山脈は険しくそそり立つ山々ではありませんが、深い針葉樹の森に覆われており日中もほとんど日が射さない上、木材を主要産業としていたBruyeresからの業者が占領により森へ入らなくなっており、下生えは伸び放題だったと言われています。
また何日間も続く雨と曇天により、霧が立ち込めで視界が更に遮られ、山の斜面や道は部分的に泥濘となって進撃を妨げました。

「ボージュ山脈の森は数多くの小道が存在し、それらは曲がりくねり地元民ですら迷うと言われる。また、下生えが多く針葉樹の間隔が密接している為、敵の掩蔽は容易であり、あらゆる場所に存在する可能性がある。」
1944年10月6日、第36師団S2発行による地形情報より。

この一連のVosgesの戦闘は連合軍第7軍が発令した第6軍団隷下の第3師団、第45師団、そして第36師団によるドイツ侵攻作戦の一部、"Operation Dogface"によるものでした。


1944年9月22日に撮影されたBruyères付近の航空偵察写真。

Bruyeresの街は西から北、東にかけて4つの丘に囲まれており、連合軍はそれらをA,B,C,D高地と(Hill"A","B","C","D")と名づけ。Bruyeres解放に必要な拠点としていました。
更にその手前にはHill486、Hill555が大きく横たわり、連合軍の接近を阻んでいました。
南側のHill486は"テキサス部隊"である第141連隊が担当し、更にその南側から第143連隊が攻撃します。
第442連隊戦闘団はHill555を超えてBruyeresに迫る事を命令されました。



10月15日
Bruyeresの北西にある山岳(Hill555)は深い森で、各所に敵の射撃陣地や地雷が埋設されていました。
攻撃に先立ち、連隊は師団から支援を得ます。
第752戦車大隊、第636駆逐戦車大隊、第83化学戦大隊(107mm迫撃砲装備)第36偵察騎兵群(M6装甲車装備)、第886管理中隊、第56衛生大隊。

0800:第2大隊は縦列でRP(分進点)を通過、F中隊を先頭としE中隊、G中隊が続きます。合言葉は「ポォとポウォー」でした。


連隊の前進を支援する第522砲兵大隊の105mm榴弾砲。

H中隊の機関銃小隊がそれを支援します。

0930:F中隊はBruyeresから3kmの地点で敵の抵抗に会い、射撃を開始。
戦闘は1230:まで続きました。
この間、ドイツ兵5名を倒し14名の捕虜を得ます。
戦死1名(SSgt.Yamada Hideo) 負傷4名。
更にE中隊も砲撃により戦死1名(Pvt.Sagami Yohei)負傷2名。
午後には敵の抵抗が更に増大したため、第2大隊は停止。

夜間になってG中隊がHill486に斥候を送り、右翼は米第141連隊と接触。
また左翼は第100歩兵大隊と接触を確認します。

0800:第2大隊と並行する形で第100大隊もB中隊を先頭に前進を開始、森へと侵入します。
0915第100歩兵大隊B中隊は森に300ヤード進入した所で機関銃による射撃を受け停止。

2個中隊規模の機関銃による射撃に加え砲撃、戦車まで投入した激しい抵抗に会いB中隊は1日中戦闘を継続するも後退を余儀なくされます。
B中隊は戦死1名(SSgt.Hirahara Tomosu)を出しますが捕虜5名を得ました。

C中隊はB中隊を支援するため、LDを横切る形で侵入しますが、木々の影や陣地からドイツ軍の小火器による抵抗を受けます。
更に1430:には砲弾の落下もあり多くの死傷者を出します。
戦死3名(Sgt.Mayeda George M//Cpl.Sakai Yoshinori//Pfc.Tengwan Yoshio)、負傷19名。
D中隊は各中隊の支援でしたが、地形上迫撃砲が機能せず、効果的な支援ができませんでした。
A中隊は予備として待機していましたが、砲撃による被害を受けました。

ボージュの戦闘において、必ず語られるのがツリーバーストです。これは敵の砲弾が、頭上の木々にあたって炸裂し、砲弾の破片に加えて木々の破片までが殺傷力を持って飛び散るもので、壕を掘っていても頭上から降り注ぐ鉄と木の破片による被害が大きく出た事を指しています。
この日、予備として待機していたA中隊では一発の敵砲弾がツリーバーストとして炸裂した事により3名が戦死(1名はWOD-病院での戦死、1名は負傷後長く入院生活を余儀なくされ、戦後に死亡)、17名が負傷しました。




ドイツ軍第223擲弾兵連隊、及びSS第19警察連隊から約20名の捕虜を得て、敵のCPの位置情報並びに地雷原の情報を入手。
彼らは比較的、部隊の持つ装備についてはよく話したが、総合的な兵力や陣地についてはほとんど知らされておらず「ただ、その場所で防御せよ」と言われていただけだったと記録されています。
この日の連隊の戦死者、11名。

100A/TSgt.Miyoko Mitsuru E
100A/Pvt.Matsunaga Kaname
100B/SSgt.Hirahara Tomosu
100C/Sgt.Mayeda George M
100C/Cpl.Sakai Yoshinori
100C/Pfc.Tengwan Yoshio
442E /Pvt.Sagami Yohei
442F/SSgt.Yamada Hideo
232Eng/Pvt.Yamamoto Takeo
232Eng/SSgt.Fuji Abe M
100A/Pfc.Moriguchi Rokuro (砲弾による負傷、入院後回復せず1947年5月29日に死亡)


10月16日
0600:第100大隊左翼、第2大隊右翼並列での攻撃を開始。
第100大隊はA高地、第2大隊はHill555を目指します。
232工兵中隊が地雷及びHill555前面の障害処理を実施しE中隊、F中隊が並列で前進しますが、丘に差し掛かる手前の開けた場所で激しい銃撃と砲撃を受けて停止。
第100大隊は第2大隊の左翼からHill555の北側を経由してA高地を目指しますが、Hill555を超えた地点で深い谷に当たり前進を阻まれます。

0730:夜明けから発生した霧が谷を覆い、視界が不良となる中で1個大隊規模のドイツ軍が反撃。
各種砲による砲撃に加え戦車の支援を受けたドイツ軍は第100及び第2大隊に襲い掛かりました。
すかさず第522野砲大隊及びD,H中隊の迫撃砲で敵の反撃に対し痛打を与え、この反撃を失敗に終わらせます。
なお師団右翼の第143連隊は442連隊の攻撃に呼応するように前進し、Bruyeresの南方Cample-Ducまで前進することに成功。

0800:再度攻撃開始。
F中隊はBruyeresの北西、Hill555の一部を占領、Bruyeresまで1kmに迫りますが激しい抵抗を受けます。
0930:ドイツ軍は戦車の援護を受けつつ反撃。第2大隊は6個の対戦車ロケット班を編成して、これに対抗し撃退します。
E中隊が主力となってHill555を攻撃し、連隊の火力支援を受けつつ1100に占領。
ついで連隊がBruyeres前面の平地を前進しますが、今度はB高地より砲撃を受け停止します。
B高地からは砲撃に続き3両の戦車と複数の自走砲、更に歩兵による攻撃を受けました。
1730:約一時間の攻防戦の後、連隊は一旦後退します。
第100大隊は左翼にB中隊、右翼にC中隊としてA高地(Hill578)のふもとまで前進し、A中隊が間隙をカバーしました。
第100歩兵大隊では、大隊作戦将校(S3)となっていたCpt.Young-Oak Kimの発案により、太いワイヤーを使用して本来は下りれない勾配の斜面で戦車を下ろす計画が実行されました。
あまりに多数の敵機関銃の配置から、歩兵単独での攻撃は被害が増大するのみと考えられました。
「ブリエアの解放者たち」によると、その戦車を下ろす作業の実施中に状況を把握していない師団長より、強い攻撃命令が第100大隊に幾度となく下り、Cap.Kimは師団と接続されていた有線電話線を引き抜き、あっけにとられる大隊長に「砲撃にやられました」と言ったと言うエピソードがあります。
一日中、敵の砲撃が行われ被害も増えましたが21名の捕虜を得て、Bruyeresの街の防衛に関する情報を得ています。
Bruyeresはドイツ軍第736擲弾兵連隊第1、第2の2個大隊が防御しているとの情報でした。


1944年9月29日に撮影されたBruyères付近の航空偵察写真。




接触した敵部隊は下記の通りです。

第198SS警察連隊。
第1316工兵大隊第Ⅲ中隊。
第49要塞機関銃大隊。

16日から17日にかけて冷たい雨が続き、兵士達は泥だらけの中で過ごす事になります。

この日の戦死者は10名でした。

100B/Pvt.Noritake Yoshito
100C/Sgt.Imai Tomio
442E/Pfc.Katayama Noritada
442E/Pfc.Kato Joseph Hisato
442E /TSgt.Matsumoto George H
442E /Pfc.Komoto Nobuo
442F/Pvt.Miyazono Tokio
442F/Pfc.Horinouchi James Joji (George)
442F/Pfc.Yamaoka Tsutomu
442H/Pfc.Saito George S



10月17日
0730:夜明けと共にHill555の第2大隊及び左翼の第100大隊に対し、ドイツ軍が2個中隊の歩兵を中心とした反撃に出ます。
1時間程の激しい戦闘が行われた後、H中隊の火力と第522野砲大隊の支援射撃を得て、ドイツ軍はA高地及びB高地へと後退、再編成を行いました。
0930:第2大隊は戦車による二度目の反撃を受けるが、地形の問題で対戦車砲が動かせず、第2大隊のE及びF中隊はバズーカ砲班を6個編成し、戦車に対応、これを頓挫させます。
同時に第100大隊に対しても歩兵を中心とした反撃が行われました。
第100大隊はちょうど前進を開始するタイミングにぶつかり、適切な防御を行う事ができなかったため、一部では戦線を突破されます。
手榴弾を投げ合い、時には銃剣すら使用する近接戦闘の末、第100大隊は防御線を立て直し、敵の撃退に成功。
この戦闘でA中隊のSgt.Tezuka Theodore TとPfc.Shigeta Hideoが戦死。

その後、敵の後退に呼応する形で連隊は前進を再開するもA高地、B高地から射撃を受けて停止。
ドイツ軍は丘のふもとの民家等を利用して機関銃を配置し、前進を阻みました。
推定15挺の機関銃と2門の対戦車砲があったと記録されています。

午後になり、第2大隊G中隊が連隊右翼からHill555を回り込んでふもとを攻撃し、数件の民家を攻略。
第100大隊はC中隊から1stLt.Masanao Otakeが率いる斥候を出し、A高地ふもとの民家を確認中、敵に発見されます。
Lt,Otakeは分隊の後退を援護し、サブマシンガンによって射殺されました。
この行動により、殊勲十字章を死後授章します。
なお、「ブリエアの解放者たち」によると、師団長自らが前線に来て、直接オオタケ中尉に対し「直ちに攻撃せよ」と指揮系統を無視して命令し、それが実行されるかを後ろから監視。
オオタケ中尉はC中隊から1個小隊を率いて予備として待機中であったが、師団長の直接の命令によりA丘へ前進、Pfc .Ajitomi Tokio、Pvt.Sakai Yoshinoriと共に戦死したとの記述があります。
Lt.Masanao Otakeは野球のアロハチームの一員で、戦前から軍に徴兵されていた第100歩兵大隊オリジナルメンバーの1人でもありました。
兵士として優秀なだけでなく、物事を冷静にかつ公平に判断できる人物で、アンツィオで将校に任官し、小隊長をしていました。また、第2大隊H中隊に弟のSgt.Masayuki Otakeがいました。


夜間になって各中隊は積極的に夜間斥候を出し、敵の位置の把握に努めます。
またこの時点で街のレジスタンス、ドロラン氏との接触に成功し街への近接経路についての情報を得ます。
降り続く雨の中、不眠不休の戦闘を継続しながら翌18日を迎えます。



この日の戦死者は11名でした。

100A/Sgt.Tezuka Theodore T
100A/Pfc.Shigeta Hideo
100C/2lt.Otake Masanao Russel
100C/Pfc.Ajitomi Tokio
100C/Pvt.Sakai Yoshinori
2BnHQ/Pvt.Kanaya Walter Etsutoshi
442F/Pfc.Tanji Mitsuo
442F/Pfc.Ikehara Dick Kikuichiro
442F/Pvt.Tagami Yoshio
442G/Cpl.Kokubu James Toshio
442G/Pfc.Chibana Henry Matsuzo


10月18日 Bruyeresへの進入。
合言葉は「スーベニア」と「リムジン」でした。

夜明けまでに第3大隊は市街への突入を企図し、第2大隊の右側(南側)へ配置。
I中隊とL中隊が未明のうちに攻撃開始線へ敵の射撃を受ける事なく移動することができました。

0800:準備砲撃が開始され、30分間、5個砲兵大隊(計60門)からの射撃が行われました。
第3大隊を中心に8個中隊(A,B,C,E,F,G,I,L)が並列となり前進を開始。
連隊を上げての攻撃となります。
充分な煙幕が砲兵によって展開され、その遮蔽の元にそれぞれの目標を目指し、全力で前進します。

100大隊はようやく戦車の支援を受けて、A丘ふもとを3個中隊のライフル中隊すべてを出して攻撃します。
B中隊が先頭となり、ふもとの民家を攻略。A中隊はB中隊の左側面をカバーした後、丘に沿って残敵を掃討しながら前進。C中隊は大隊の右翼からA丘を攻撃しました。
この戦闘でB中隊のSgt.Hosoda Max MとC中隊のPfc.Ogawa Edwardが戦死。
1100:戦車からの砲撃により、森からの反撃が弱まったと判断したB中隊長サカエ・タカハシ大尉と、大隊作戦幕僚のヨンオク・キム大尉は2人だけで銃を構えず、森へ対峙。
身振りを交えながら「出てこい! カモン」と呼びかけ、結果ドイツ兵45名が投降。
前線の防御線は崩壊していると判断した第100大隊はA丘を駆け上って攻撃。
1420:A高地を占領。更に70名以上のドイツ兵が投降します。
第100歩兵大隊はA高地において逆襲対処の為、壕を掘りつつ警戒に移りました。
なお後日、このA高地攻略の功績により第100歩兵大隊は1944年6月のベルヴェデーレの戦闘以来、2度目の大統領部隊感状を受賞しました。

一方、第2、第3大隊はE,F,Gの3個中隊を先頭として、目標とされたB丘の攻略に挑みます。
午前中に開始した攻撃は敵の激しい抵抗にあり、正午になってもまだ高地ふもとに達した兵は居ませんでした。

山間部から撃ち下ろされる機関銃と砲弾に、平地から前進できない部隊は次々と被害を受けます。
E中隊Pvt.Fukumura Ichiji、F中隊Pfc.Morimoto Toshiaki、G中隊T/4.Yoshinaga Akiraが戦死。
第2大隊通信所には敵砲弾が直撃し、Sgt.Kijima Tadashiが戦死。
各中隊の火器小隊から60mm迫撃砲が抽出され、集中射撃を加えて敵の機関銃を沈黙させ、一気にB丘のふもとへと迫る作戦が成功。
F,G両中隊が敵を引き付けている間にI中隊が右側面から迂回し、丘の南側斜面から攻撃し、包囲の危険を感じたドイツ軍は後退します。
1500:攻撃開始から6時間半を経て、第2大隊はB丘を占領。

B丘の占領後、第3大隊L中隊は北側からBruyeres市街へと進入、通りを家ごとに確認していきました。
1830:L中隊の斥候が南側から街へと入った第143連隊C中隊と接触。
Bruyeresの街の雌雄は決しました。
しかし、残った一部のドイツ軍は広場や通りにバリケードを築いて抵抗を続け、街の各所で散発的な市街戦が真夜中まで継続されました。

砲撃が止み「どうやらアメリカ軍が来たらしい」と知った市民4000人は地下室から出て、その「小さなアメリカ人」に驚きました。
そして残っていた僅かなワインや食べ物が持ち出され、家々に招待がありましたが、多くは戦闘行動を継続中であり、通じない言葉と身振りでで断るしかなかったようです。

第3大隊L中隊はD丘に斥候を出し、敵の防御線を確認するも銃撃を受けて後退。
1700:K中隊は残存する狙撃兵に対処した後、Bruyeres市街へ進入。
連隊の前線指揮所もHill555沿いの陣地へと移動しました。

天候は寒く、16日間も連続で雨が続いています。
補給路は泥に埋もれ、多くの車両が足止めされたため、補給の問題が生じたため工兵が道路整備を行いました。

この日、第93自走砲大隊及び第141野砲大隊が第442連隊戦闘団の支援に派遣され、第522野砲大隊と共に火力を増大させます。

第2、第3両大隊は61名を捕虜を得て、この日の戦闘では合計134名の捕虜を得ると同時にほぼ同数の敵を倒した、と記録されています。




なおこの日遭遇したドイツ軍部隊は下記の通りです。

第192装甲擲弾兵連隊第Ⅱ中隊。
”アーレン”戦闘団 赤色中隊
第716工兵大隊第I中隊
第198擲弾兵大隊第Ⅱ、第Ⅲ中隊

なお連隊戦闘団の戦死者は6名でした。

100B/Sgt.Hosoda Max M
100C/Pfc.Ogawa Edward
442/2HQ/Sgt.Kijima Tadashi
442.E/Pvt.Fukumura Ichiji
442.F/Pfc.Morimoto Toshiaki
442.G/T/4.Yoshinaga Akira


Vol.2に続きます。


information

写真展 「アロハの桜」~二世軍人が残してくれたもの~
主催:Bco/100Bn



2020/10/28(水)~11/ 2(月)
12:00~20:00(初日は、13:00から、最終日は、18:00まで)

ギャラリー「イロリムラ
〒530-0016 大阪市北区中崎1丁目4番15号
TEL:06-6376-0593

戦後間もない舞鶴の地にハワイの日系二世たちから桜が送られました。
それから約70年経った2018年、ハワイ在住の日系二世の方々を招いて、
その意思を継ぐ新しいアロハ桜の植樹式が行われました。
かつて対立しあった二国を繋いだ桜。
生まれ変わったアロハの桜をどうぞご覧ください。
合わせて関西のリエナクター(歴史再現)集団BCo/100Bnの活動の様子も展示いたします。

協力
アロハ桜保存会
100th Infantry Battalion Veterans Education Center
MIS Veterans Club of Hawaii  


Posted by 先任  at 16:36Comments(0)そのたミリタリ日系部隊史

2020年10月16日

KIA at Vosges at 442 RCT. Vosgesでの戦死者数について。

ヴォージュ(Vosges)の戦闘及び「失われた大隊救出」における第442連隊戦闘団の戦死者数について。
About the death toll of the 442nd Regimental Combat Team in the Battle of Vosges and the "Rescue of the Lost Battalion".

One of the most important battles in talking about the 100th Infantry Battalion and the 442nd Regimental Combat Team, the battle for about a month in the Vosges Mountains on the French Front, and the famous "Rescue of the Lost Battalion" battle. There have been various theories about the number of deaths in the war, and there was doubt about its accuracy. ..
This time, I had a little chance, so I tried to verify it again.
There are some thoughts about counting people who have died in the war by "number", but I thought that it was necessary to leave the facts that could be pursued as facts, and I have been working on it for about three weeks.
To be honest, just looking at the KIA list makes me feel very sad. It was a painful task.

We would also like to thank the people who wrote and published various materials prior to this survey.
At the same time, we would like to thank everyone involved, including the 100th Infantry Battalion Veterans Club, for providing the necessary materials for the investigation.

This survey does not deny various researches and presentations so far.
We have re-examined the materials currently available and derived what is considered to be more accurate.
I may also have mistakes or omissions.
Also, I think there are some unfamiliar points and unsightly points in how to read and organize your own materials.
If you find any mistakes or points that are difficult to understand, we would appreciate it if you could point out and give us guidance.

第100歩兵大隊並びに第442連隊戦闘団を語る上で最も重要な戦闘の一つである、フランス戦線Vosges山脈における約1か月間の戦闘と、その中でも有名な「失われた大隊救出」の戦闘において、かねてより戦死者数について諸説あり、その正確性に疑問がありました。。
今回、ちょっとした機会もあり、あらためて検証してみました。
なお「戦死」した方々を「数」でカウントする事には思うところもありますが、やはり追及できる事実は事実として残す必要があると考え、約3週間にわたって作業を実施してきました。
正直、KIAリストを見てるだけでも酷く悲しい気持ちになります。辛い作業でした。

また、今回の調査にあたり先だって様々な資料をまとめ執筆、発表して下さっていた方々にお礼を申し上げます。
同時に調査に必要な資料を提供して下さった第100歩兵大隊VeteransClubを始め、関係者の皆さまにもお礼を申し上げます。

今回の調査はこれまでの様々な研究、発表を否定するものではありません。
現在入手可能な資料を元に再調査し、より正確に近いと考えられるものを導き出したものです。
私にも間違いや記入漏れがある可能性もあります。
また、自身資料の読み方やまとめ方に不慣れな点、お見苦しい点もあるかと思います。
もし間違いや判りにくい点がありましたら、ご指摘、ご指導いただけると幸いです。

私の調査による第442連隊戦闘団、フランス戦線での戦死者数。
※調査の詳細については後述。

Vosges・Bruyeres解放の戦闘(1944年10月14日~25日) ※失われた大隊救出前
第100大隊:29名/第2大隊:42名/第3大隊:3名/第232工兵中隊:2名
計:76名

Vosges・失われた大隊救出の戦闘(1944年10月26日~31日)。
連隊本部:1名/第100大隊:11名/第2大隊:12名/第3大隊:29名/派遣衛生小隊:1名/第232工兵中隊:1名/第522野砲大隊:1名
計:56名

Vosges・ラ・ウシエール~セントダイの戦闘(1944年11月1日~17日)※失われた大隊救出後
第100大隊:5名/第2大隊:20名/第3大隊:15名/第232工兵中隊:2名/対戦車中隊:3名
計:45名

Vosgesの一連の戦闘の合計:177名

シャンパン・キャンペーン 
第100大隊:1名/第2大隊:7名/第3大隊:6名/第232工兵中隊:2名
計:16名

フランス戦線全体での合計:193名

KIA on the French front, the 442nd Regimental Combat Team according to my research.
* Details of the survey will be described later.

Battle of Vosges / Bruyeres Liberation (October 14-25, 1944) * Before the rescue of the lost battalion
100th Battalion: 29 / 2nd Battalion: 42 / 3rd Battalion: 3 / 232th Engineer Company: 2
Total: 76

Vosges-Battle to rescue the lost battalion (October 26-31, 1944).
Regiment Headquarters: 1 / 100th Battalion: 11 / 2nd Battalion: 12 / 3rd Battalion: 29 / Dispatched Medical Platoon: 1 / 232th Engineer Company: 1 / 522nd Field Artillery Battalion: 1
Total: 56

Vosges La Ushiere-Battle of St. Dai (November 1-17, 1944) * After rescue of the lost battalion
100th Battalion: 5 / 2nd Battalion: 20 / 3rd Battalion: 15 / 232th Engineer Company: 2 / Anti-Tank Corps: 3
Total: 45

Total of Vosges series of battles: 177

Champagne campaign
100th Battalion: 1 / 2nd Battalion: 7 / 3rd Battalion: 6 / 232th Engineer Company: 2
Total: 16

Total KIA from 442 RCTs across the French front: 193



November 11, 1944. Cpt. Hiro Higuchi, a chaplain of the 2nd Battalion, reads out the names of the dead at the memorial ceremony for the dead in the battle at Vosges.
As the chaplain reads out the names of the soldiers who are no longer there, he says it has begun to snow quietly.
1944年11月11日。Vosgesでの戦闘における戦死者の追悼式典において、戦死者の名前を読み上げる第2大隊従軍牧師Cpt.Hiro Higuchi。
牧師が名前を読み上げる中、静かに雪が降り始めたと言う。



まず、失われた大隊救出の戦闘に関して「救出したテキサス部隊より多数の死者」と書かれているのをよく見かけますが、これは明らかな間違いです。
「失われた大隊救出」における戦闘は(詳細は後述)1944年10月26日~31日にかけて行われており、その期間の連隊戦闘団全体での戦死者は56名、直接救出の正面だった第100大隊と第3大隊及び連隊本部、砲兵弾着観測班の戦死者はその内の44名で、リストによりお名前も判明しています。
多少記録に間違い、誤差が今後発見されたとしても救出した第141連隊第1大隊所属の211名より多い戦死者と言う事はあり得ません。
日本でこの時の戦死者216名と言う記述をWikipediaを始め見かけますが、その根拠が見つからず苦心して探していました。

1944年10月~11月半ばのフランス戦線・ヴォージュでの戦闘全体での戦死者数にしたとしてもこれまで確認した資料では216名にはならないのです。

とにかく史料、資料や書籍によってバラ付きの多い数字なのですが、以下の資料を元に考えてみました。
※なお100及び442や全米日系人協会等でも「216名」が共通認識としてあり、たびたびスピーチ等でも使用されています。

First of all, we often see the statement "more dead than the rescued Texas troops" regarding the battle to rescue the lost battalion, which is a clear mistake.
The battle in "Rescue the Lost Battalion" (details below) took place from October 26th to 31st, 1944, during which 56 were killed in the entire regimental combat team, directly in front of the rescue. Forty-four of them were killed in the 100th Battalion, the 3rd Battalion, the Regimental Headquarters, and the Artillery Impact Observation Team, and their names are known from the list.
Even if the record is a little wrong and an error is discovered in the future, it cannot be said that there are more than 211 who belonged to the 1st Battalion of the 141st Regiment who rescued.
In Japan, I see a description of 216 killed in action at this time, starting with Wikipedia, but I couldn't find the basis for it, so I was struggling to find it.
Even if the total number of deaths in the battle on the French front Vosges from October to mid-November 1944 is calculated, the number of people confirmed so far is not 216.

Anyway, the numbers vary a lot depending on the materials and books, but I thought about it based on the following materials.
* It should be noted that "216 mens" is commonly recognized by 100 and 442 and the National Association of Japanese Americans, and is often used in speeches.



主に使用した資料は以下の通りです。

一次史料(合衆国陸軍の公式記録)
・Monthly Historical Report (1-31 Oct 44)
当時、上級司令部への報告として442連隊戦闘団司令部が作成した1944年10月の月報
(作成日時1944年11月15日)


・Historical Information(Request to 442RCT)
Information Education Section, MTOUSA(地中海作戦司令部情報研究部)
連隊史編纂の為の確認書簡で、442RCT連隊長バージル・ラスマス・ミラー大佐(Oct.15.44)第4軍司令官アレキサンダー・パッチ中将(Oct.25.45)の確認サインがあります。


・Historical Information(List of 442nd RCT Dead)
上記書簡への回答として連隊が作成した死亡者リスト。
(1945年12月10日作成)


・NARRATIVE OF EVENTS 442nd Inf Reg,Sep,Oct,Nov 1944
部隊の経過概要報告として作成された文書です。


二次資料(軍関係発行図書)
・「442nd COMBAT TEAM」
Information Education Section, MTOUSA(地中海作戦司令部情報研究部)が編纂した連隊戦闘団部隊史。
(1947年発行 小冊子化1979年再発行)


・「American's」及び「四四二部隊」
連隊の情報将校であったオヴィル・C・シャーレイ退役少佐(発刊時中尉)が1946年に著述した442連隊の記録「American's」とその和訳版(昭和25年=1950年発行)。※原文(1946年)も確認。




・「BATTLE CAMPAIGNS Excerpts from the 442nd Journals
Battle of Northeastern France, Part I」
October 26, 1944 - October 30, 1944」
日系アメリカ人遺産協会と第二次世界大戦記念同盟よって編纂された部隊史の抜粋。
(最終改訂日2011年12月29日)

・「PROUD TO SERVE」
日系新聞「RAFU-SHIMPO」が日系アメリカ人遺産協会と発行している部隊史
(2012年発行)


その他(ドキュメンタリー、証言集等)
・「ブリエアの解放者たち」
ドウス昌代による第100歩兵大隊と第442連隊戦闘団を追った、Veteranの貴重な証言と膨大な公式記録に基づくノンフィクション。


・「Echoes of Silence Profiles」 100th Infantry Battalion Veterans Education Center.
第100歩兵大隊退役軍人会教育センター資料。

「|N FREEDOM'S CAUSE A RECORD OF THE MEN OF HAWAII WHO DIED IN THE SECOND WORLD WAR」
THOMAS D. MURPHYによるハワイ出身兵士の記録。




・他刊行書籍及びWebサイト。
多岐に渡る為、省略いたします。


The Regiment's Monthly Historical Report, which should be the most credible primary source, was just after the battle caused great damage (military annihilation).
Therefore, I have to doubt the accuracy of the numbers, but the numbers listed for reference are as follows.

KIA: 117
MIA: 40
157 in total
WIA: 639
Injuries not in combat: 18

Total: 814
(October 1-31, 1944)


KIA: 44
MIA: 3
Total: 47
WIA: 217
Injuries not in combat: 8
(November 1-30, 1944)

The total number of dead and missing in both months is 204.
* However, there are many people (33 people) who have been confirmed to be alive after that for missing = MIA, or who became POW = wartime prisoners of war and survived after the end of the war.

* The French front is the 442nd RCT Marseille landing- "Battle of Vosges (including" Rescue of the Lost Battalion ")" (September 29 to November 17, 1944)
It is divided into the "Champagne Campaign" (November 22, 1944-March 23, 1945).
Monthly reports are monthly report materials, so they are not divided by region. * November figures are the sum of Vosges and champagne campaigns.
It also includes cases where you died in a hospital after being injured in a previous battle, and does not include cases where you were injured in these battles and died later.


本来ならば最も信用すべき一次史料である連隊の月報(Monthly Historical Report)については、戦闘によって大損害(軍事上は全滅と言える)を受けた直後のものであり、また下記に記す理由からその数字の正確性は疑わざるを得ませんが、参考に掲載されている数値を記しますと以下の通りです。



戦死:117名
行方不明:40名
計157名
負傷:639名
戦闘によらぬ負傷:18

計:814名
(1944年10月1日~31日)



戦死:44名
行方不明:3名
計:47名
負傷:217名
戦闘によらぬ負傷:8名
(1944年11月1日~30日)

両月の戦死者、行方不明者の合計は204名です。
※但し行方不明=MIAについてはその後に生存が確認されたり、POW=戦時捕虜となって終戦後に生還した方も多く存在(33名)します。

※ フランス戦線は1944年9月29日の第442連隊戦闘団マルセイユ上陸から11月17日までの「ヴォージュの戦闘(「失われた大隊救出」を含む)」と1944年11月22日から1945年3月23日までの「シャンパン・キャンペーン」に分けられます。
月報は月ごとの報告資料ですので、戦線毎には分けられていません。※11月の数値はVosgesとシャンパンキャンペーンの合算。
また、以前の戦闘で負傷後に病院等で亡くなった場合が含まれ、同時にこれらの戦闘で負傷し、後に亡くなった場合は含まれていません。



書いた通り、このタイプ打ちの史料は、この時点で生死が判明していなかった方が入ってなかったり、照合が取れていない可能性が高いですが、戦死と記載された170名及びMIA:43名、WIAについては階級氏名所属が判る、貴重な資料となっています。
その内訳合計は下記の通りです。

1944年10月月報
戦死:117名
行方不明:40名
計157名
負傷:639名
戦闘外負傷:18名

1944年11月月報
戦死:44名
行方不明:3名
計:47名
負傷:217名
戦闘外負傷:8名

1944年12月月報
戦死:1名
行方不明:2名
計3名
負傷:17名

1945年1月月報
戦死:6名
行方不明:0名
計6名
負傷:24名
戦闘外負傷:1名

1945年2月月報
戦死:1名
行方不明:0名
計1名
負傷:4名
戦闘外負傷:0名

1945年3月月報
戦死:1名
行方不明:0名
計1名
負傷:0名
戦闘外負傷:0名

合計
戦死:170名
行方不明:45名
計:215名

As mentioned above, it is highly possible that this typed material is not included or collated by those who were not known to be alive or dead at this time.
For 170 and MIA: 43, WIA listed as KIA, it is a valuable material to know the rank, name and company.
The total breakdown is as follows.

October 1944 Monthly Report
KIA: 117 MIA: 40 157 in total
WIA: 639 Out-of-combat injury: 18

November 1944 Monthly Report
KIA: 44 MIA: 3 Total: 47
WIA: 217 Out-of-combat injury: 8

December 1944 Monthly Report
KIA: 1 MIA: 2 3 in total
WIA: 17

January 1945 Monthly Report
KIA: 6 MIA: 0 6 in total
WIA: 24 Out-of-combat injury: 1

February 1945 Monthly Report
KIA: 1 MIA: 0 1 in total
WIA: 4 Out-of-combat injury: 0

March 1945 Monthly Report
KIA: 1 MIA: 0 1 in total
WIA: 0 Out-of-combat injury: 0

Total of all French fronts
KIA: 170 MIA: 45
Total: 215

連隊史としてはおそらく最初(1946年)に発行された「442nd COMBAT TEAM」には巻末に戦線ごとの損害が表で掲載されています。
それによると



ヴォージュの戦闘
戦死:142名
病院での戦死:18名
行方不明:42名
計 202名
負傷:871名
未入院負傷:321名
戦闘外負傷:28名
計1402名

シャンパン・キャンペーン
戦死:8名
病院での戦死:3名
行方不明:2名
計13名

これによるとヴォージュの戦闘における戦死者数は160名、死傷者の合計が1400名程となり、資料には示していませんが複数の書籍でこの数字を元にしたものと思われる記述が散見されます。
戦死者数と行方不明数の合計は202名。

更にシャンパン・キャンペーンにおける戦死者=KIA及び戦闘後の戦死者=DOWと、行方不明者=MIAを合計した13名を加えると215名となります。
この2つの史料からが「216名」に最も近い数字となります。
おそらく「442nd COMBAT TEAM」は月報を元に計算されたものであろうと考えます。


Probably the first (1946) issue of the history of the regiment, the "442nd COMBAT TEAM" lists the damage for each front at the end of the book.
according to it

About the death toll of the 442nd Regimental Combat Team in the Battle of Vosges and the "Rescue of the Lost Battalion".

Battle of Vosges
KIA: 142
DOW (death in hospital): 18
MIA: 42
202 in total
WIA: 871
WIA (not hospitalized): 321
Out-of-combat injury: 28
1402 in total

Champagne campaign
KIA: 8
DOW: 3 people
MIA: 2 people
13 people in total

According to this, the number of casualties in the battle of Vosges was 160, and the total number of casualties was about 1400, and although not shown in the material, there are some descriptions in several books that seem to be based on this number. I will.
The total number of dead and missing is 202.
In addition, the total of 13 people who died in the champagne campaign = KIA, post-battle war dead = DOW, and missing people = MIA totals 215 people.
From these two materials, the number closest to "216" is.
I think that "442nd COMBAT TEAM" was probably calculated based on the monthly report.

また1945年秋頃に陸軍の記録部より442連隊宛に442RCTの連隊記録の為の確認書簡が存在します。
フランス戦線全体(ヴォージュにおける戦闘及びシャンパンキャンペーンにおける戦闘の被害合計が記載されており、ミラー連隊長やマーク・クラーク中将等の確認のサインがあります。
こちらもKIA、WOD、MIAの合計が215名となり、上記の連隊史と一致します。
※これは上記の「442nd COMBAT TEAM」編纂の為の確認作業であったと考えられます。

この確認書簡への返答として1945年12月に連隊が作成した資料「Historical Information(List of 442nd RCT Dead)」には(記録上)すべての戦死者を名前、階級。所属、日付で掲載しており、軍の公式史料としては最も信頼すべきデータがあります。
ただ、ここに記載されているのも亡くなった日付であり、どこの戦闘で負傷したのかは定かではありません。
また、リストによるフランス戦線(ヴォージュの戦闘による戦死者164名、及びシャンパン・キャンペーンでの戦死者13名)での戦死者合計は177名となっています。
※MIAについてはその後、戦死と判定された者のみの合計であり、生還した者は含んでいない数字。

なぜ確認の為の書簡に対する返答で示されている内容と、実際に発刊された連隊史の数字が合致しないのかは判りません。

そこで、戦死された方のプロファイルや墓地のデータ等を元にそれぞれがどこの戦闘によって亡くなったかを1人1人調べて検証いたしました。

結果、連隊史にあるMIA=行方不明者の中には生還された方が多く存在する事がわかりました。(期間中のMIA:44名中、33名が後に捕虜として生存確認、2名が捕虜収容所にて死亡。

Around the fall of 1945, the Army Records Department sent a confirmation letter to the 442nd Regiment for the 442RCT regimental record.
The total damage of the entire French front (combat in Vosges and battles in the champagne campaign is listed, and there are signs of confirmation by Captain Miller and Vice Admiral Mark Clark.
Again, the total number of KIA, WOD, and MIA is 215, which is consistent with the above regiment history.
* It is probable that this was a confirmation work for compiling the above "442nd COMBAT TEAM".
In response to this confirmation letter, the material "Historical Information (List of 442nd RCT Dead)" prepared by the regiment in December 1945 lists (on record) all the dead in the war. It is posted by affiliation and date, and has the most reliable data as official military data.
However, the dates listed here are the dates of death, and it is unclear in which battle they were injured.
In addition, the total number of killed in action on the French front by Liszt (164 killed in action in Vosges and 13 killed in the champagne campaign) is 177.
* MIA is the total for those who were subsequently determined to be killed in action, and does not include those who survived.
I don't know why the content shown in the response to the confirmation letter does not match the numbers in the actual regiment history published.

Therefore, based on the profiles of those who died in the war and the data of the graveyard, we investigated and verified each person who died in which battle.

As a result, it was found that many of the MIA = missing persons in the history of the regiment have survived. (MIA during the period: 33 out of 44 were later confirmed as prisoners of war, and 2 died in the POW camp.

また、連隊史編纂の元となった戦死者リストにも漏れがありました。

第100歩兵大隊A中隊所属のPfc Rokuro Moriguchiが1944年10月15日に砲弾による負傷後、病院へ収容。回復せず終戦後の1947年5月29日に亡くなっています。
連隊史による合計の215名にこのPfc Rokuro Moriguchiを加えた数字が「216名」の根拠となっている可能性が高いと考えています。




Pfc Rokuro Moriguchiについては色々調べてみましたが、詳細が記されたものはほとんど無く、この「PukapukaParade」(第100歩兵大隊VeteransCub会誌)の2号(1947年3月発行)に名前が掲載されているのを発見いたしました。
これによると、Vosgesでの戦闘で受けた脊髄への損傷により1947年の時点でまだロサンゼルスの病院に居る事が判ります。
そして、この2か月後に亡くなる事になります。

There was also a lack in the list of killed in action, which was the source of the regimental history compilation.

Pfc Rokuro Moriguchi, a member of the 100th Infantry Battalion A Company, was admitted to the hospital after being injured by a shell on October 15, 1944. He did not recover and died on May 29, 1947, after the end of the war.
We believe that the total number of 215 people in the history of the regiment plus this Pfc Rokuro Moriguchi is likely to be the basis for "216 people."

I've researched Pfc Rokuro Moriguchi in various ways, but few have detailed information.
I found his name in issue 2 (published March 1947) of this "Pukapuka Parade" (100th Infantry Battalion Veterans Cub Journal).
This shows that he was still in a hospital in Los Angeles as of 1947 due to a spinal cord injury he suffered during the battle in Vosges.
And he died two months after this article.

また第522野砲大隊のPfc.Tomita Nobuakiがヴォージュの戦闘による負傷(弾着観測班員として前線配置中に砲弾により負傷、日付不明)後、1944年11月6日にフランスの病院においで戦死していますが、各一次資料のKIA及びMIAリストに掲載されていません。
第522野砲大隊は独立しての行動も多く、連隊とは別に報告していた可能性があります。


「|N FREEDOM'S CAUSE A RECORD OF THE MEN OF HAWAII WHO DIED IN THE SECOND WORLD WAR」より。

この両名を加えるならば「217名」となってしまいますが、前述したとおりこの連隊史に掲載されている表はMIA=行方不明者を加えており、やや実際より多めの数字になっています。
これが現状、わたしが調べた「216名」の元となります。

In addition, Pfc. Tomita Nobuaki of the 522nd Field Gun Battalion was injured in the battle of Vosges (injured by a shell while being placed on the front line as a member of the artillery observer team, date unknown).
Later, he died in a French hospital on November 6, 1944, but is not on the KIA and MIA lists of each primary source.
The 522nd Field Gun Battalion often acted independently and may have reported it separately from the regiment.
If you add these two names, it will be "217 people", but as mentioned above, the table published in this regiment history adds MIA = missing person, which is a little higher than the actual number.
This is currently the source of the "216 people" I examined.


なお、ドウス昌代氏による名著「ブリエアの解放者たち」では、戦死者161名、行方不明43名と言う記述があり合計すると204名。更に負傷者は約2000名と記されています。
これは知る限りの資料の中で負傷者数は一番多い数字です。

また英語版Wikipediaには戦死140名、行方不明43名、負傷者1800名と記述されています。
「四四二部隊」には戦死者の数を示す表等はありませんが、11月11日に行われた追悼式に第3大隊の従軍牧師Cpt.Hiro Higuchiが読み上げた戦死者名を140名、また別の箇所で負傷者を1800名と記述しています。

2011年に最終更新されている「442nd Journal」によるそれによると27日から31日までの「失われた大隊」救出における戦死者数は50名となっています。
※ヴォージュにおける約1ヶ月間の戦闘の総戦死者は169名と記載。

そして2012年に発行された「PROUD TO SERVE」では、各戦闘による戦死者を日付ごとに掲載しており、詳細に知ることができます。
それによると27日から31日までの「失われた大隊」救出における戦死者数は54名となっています。
※その後MIAから2名の戦死が確認され現在は56名となります。
※ヴォージュにおける約1ヶ月間の戦闘の総戦死者は174名と記述。

上記のように、とにかく数字のバラツキの多い話です。
過去幾度も発行されてきた部隊史はその数字が回を追うごとに「失われていた部分」が保管されており、より正確性を高めているものと考えられますが、完全に網羅している物は残念ながら無いようです。
同時にこれらの書籍は二次資料以下であり、根拠とする事はできません。

In the famous book "Unlucky Liberator" by Masayo Duus, there are 161 killed in action and 43 missing, for a total of 204. In addition, WIA is listed as about 2000 people.
This is the highest number of injured people in the materials I know of.

The English Wikipedia states that 140 people were killed in action, 43 were missing, and 1800 were injured.
There is no table or the like indicating the number of war dead in the "Americans," but, in November conducted a memorial service in 11 days killed's name chaplain Cpt.Hiro Higuchi of the third battalion was read aloud 140.
In another place, the number of injured is described as 1800.

According to the "442nd Journal," which was last updated in 2011, the number of people killed in the rescue of the "lost battalion" from the 27th to the 31st was 50.
* The total number of people killed in the battle in Vosges for about one month is stated as 169.

And in "PROUD TO SERVE" published in 2012, the killed in action by each battle is posted by date, and you can know in detail.
According to the report, 54 people were killed in the rescue of the "lost battalion" from the 27th to the 31st.
* After that, two people were killed in action by MIA, and now there are 56 people.
* The total number of people killed in the battle in Vosges for about one month is described as 174.

As mentioned above, it's a story with a lot of variations in numbers.
It is thought that the unit history, which has been published many times in the past, is more accurate because the "lost part" is stored each time the number is repeated.
But unfortunately there seems to be no complete coverage.
At the same time these books is equal to or less than secondary sources, it can not be the basis.

結論としては、1945年の一次史料による軍の公式な第442連隊戦闘団の記録としては
・「失われた大隊救出」の戦闘における戦死者:54名
・一連のヴォージュの戦闘による戦死者:164名
・シャンパン・キャンペーンでの戦死者:13名
・フランス戦線での戦死者合計:176名。

となりますが、この史料にある「抜け」を埋めるべく私が独自に資料(連隊の名簿に沿って戦死者、負傷者、負傷後の病院での死亡者、行方不明者及びその他の死亡者を各資料及び墓地データ、新聞記事、veteransクラブの発行誌、インタビュー等)等を再調査し、1名1名のプロフィールを確認して、フランス戦線における第442連隊戦闘団の戦死者リストを作りました。
その結果は下記の通りとなります。
※リストについては、最下部に掲載。
※MIA(行方不明者)から戦死と判定された方、及びDOW(病院での戦死)については発生日時で記載しております。

Vosges・Bruyeres解放の戦闘(1944年10月14日~25日) ※失われた大隊救出前
第100大隊:29名/第2大隊:42名/第3大隊:3名/第232工兵中隊:2名
計:76名

Vosges・失われた大隊救出の戦闘(1944年10月26日~31日)。
連隊本部:1名/第100大隊:11名/第2大隊:12名/第3大隊:29名/派遣衛生小隊:1名/第232工兵中隊:1名/第522野砲大隊:1名
計:56名

Vosges・ラ・ウシエール~セントダイの戦闘(1944年11月1日~17日)※失われた大隊救出後
第100大隊:5名/第2大隊:20名/第3大隊:15名/第232工兵中隊:2名/対戦車中隊:3名
計:45名

Vosgesの一連の戦闘の合計:177名

シャンパン・キャンペーン 
第100大隊:1名/第2大隊:7名/第3大隊:6名/第232工兵中隊:2名
計:16名

フランス戦線全体での合計:193名


次回以降、このVosgesの戦闘について記録よりまとめた物を連載していく予定です。

In conclusion, the following is the official record of the 442nd Regimental Combat Team of the Army from the 1945 primary sources.
-Killed in action in the "Rescue Lost Battalion" battle: 54
-Killed in action from a series of Vosges battles: 164
・ Killed in action in the champagne campaign: 13
・ Total killed in action on the French front: 176

But probably not accurate.
In order to fill in the "missing" in this material, I have my own material (according to the list of regiments, killed in action, injured, dead in hospital after injury, missing and other dead, each material and graveyard We re-examined the data, newspaper articles, magazines published by the veterans club, interviews, etc.), confirmed the profile of each person, and made a list of the dead of the 442nd Regimental Combat Team on the French front.
The result is as follows.

* The list is posted at the bottom.
* Those who have been determined to be killed in action by MIA (missing person) and DOW (killed in action at the hospital) are listed by the date and time of occurrence.

KIA on the French front, the 442nd Regimental Combat Team according to my research.
* Details of the survey will be described later.

Battle of Vosges / Bruyeres Liberation (October 14-25, 1944) * Before the rescue of the lost battalion
100th Battalion: 29 / 2nd Battalion: 42 / 3rd Battalion: 3 / 232th Engineer Company: 2
Total: 76

Vosges-Battle to rescue the lost battalion (October 26-31, 1944).
Regiment Headquarters: 1 / 100th Battalion: 11 / 2nd Battalion: 12 / 3rd Battalion: 29 / Dispatched Medical Platoon: 1 / 232th Engineer Company: 1 / 522nd Field Artillery Battalion: 1
Total: 56

Vosges La Ushiere-Battle of St. Dai (November 1-17, 1944) * After rescue of the lost battalion
100th Battalion: 5 / 2nd Battalion: 20 / 3rd Battalion: 15 / 232th Engineer Company: 2 / Anti-Tank Corps: 3
Total: 45

Total of Vosges series of battles: 177

Champagne campaign
100th Battalion: 1 / 2nd Battalion: 7 / 3rd Battalion: 6 / 232th Engineer Company: 2
Total: 16

Total KIA from 442 RCTs across the French front: 193

Vosges・Bruyeres解放の戦闘(1944年9月29日~10月25日)※失われた大隊救出前
第442連隊戦闘団 KIA(76名)
Battle of Vosges / Bruyeres Liberation (September 29-October 25, 1944) * Before the rescue of the lost battalion
442nd Regimental Combat Team KIA:76

100 A / Pvt . Matsunaga Kaname / 1944 / 15.Oct /
100 A / TSgt . Miyoko Mitsuru E / 1944 / 15.Oct / DOW
100 A / Sgt . Tezuka Theodore T / 1944 / 17.Oct /
100 A / Pfc . Shigeta Hideo / 1944 / 17.Oct /
100 A / Pfc . Nishimura Wilfred Katsuyuki / 1944 / 19.Oct / DOW
100 A / Pvt . Furukawa Tatsumi / 1944 / 20.Oct /
100 A / Pfc . Shimabuku Roy Kokichi / 1944 / 20.Oct /
100 A / Sgt . Suyama George W / 1944 / 23.Oct / MIA→KiA
100 A / Pvt . Sugiyama Itsuo / 1944 / 23.Oct / MIA→KiA
100 A / SSgt . Togo Shiro / 1944 / 24.Oct /
100 A / Pvt . Akimoto Victor / 1944 / 14.Dec / 24.Oct POW 14.Dec 収容所にて死亡 Died in German POW camp
100 A / SSgt . Sasaoka Itsumu / 1945 / 01.Jan / 22.Oct POW 01.Jan 1945 収容所にて死亡 Died in German POW camp
100 A / Pfc . Moriguchi Rokuro / 1947 / 29.May / 15.Oct WIA 29.May 1947 DOW
100 B / SSgt . Hirahara Tomosu / 1944 / 15.Oct /
100 B / Pvt . Noritake Yoshito / 1944 / 16.Oct /
100 B / Sgt . Hosoda Max M / 1944 / 18.Oct /
100 B / Pfc . Komatsu James Kameo / 1944 / 21.Oct /
100 C / Sgt . Mayeda George M / 1944 / 15.Oct /
100 C / Cpl . Sakai Yoshinori / 1944 / 15.Oct /
100 C / Pfc . Tengwan Yoshio / 1944 / 15.Oct /
100 C / Sgt . Imai Tomio / 1944 / 16.Oct /
100 C / 2lt . Otake Masanao Russel / 1944 / 17.Oct /
100 C / Pfc . Ajitomi Tokio / 1944 / 17.Oct /
100 C / Pvt . Sakai Yoshinori / 1944 / 17.Oct /
100 C / Pfc . Ogawa Edward / 1944 / 18.Oct /
100 C / 2lt . Fujitani Ross Kameo / 1944 / 19.Oct /
100 C / Pfc . Hattori Kunio / 1944 / 20.Oct /
100 D / Pfc . Tsukano Ichiro / 1944 / 22.Oct /
100 D / Pvt . Fuyumuro Edward Shigeto / 1944 / 23.Oct /
442 2HQ / Pvt . Kanaya Walter Etsutoshi / 1944 / 17.Oct / DOW
442 2HQ / Sgt . Kijima Tadashi / 1944 / 18.Oct /
442 2HQ / 1lt . Farnum Charles Oliver Jr / 1944 / 20.Oct /
442 2HQ / Pfc . Hadano Hatsuji / 1944 / 20.Oct /
442 2HQ / Pvt . Shimabukuro Tomoaki / 1944 / 20.Oct /
442 E / Pfc . Kaneichi Takeo / 1944 / 08.Nov / 21.Oct WIA 08.Nov 1945 DOW
442 E / Pvt . Sagami Yohei / 1944 / 15.Oct /
442 E / TSgt . Matsumoto George H / 1944 / 16.Oct /
442 E / Pfc . Komoto Nobuo / 1944 / 16.Oct / DOW
442 E / Pfc . Katayama Noritada / 1944 / 16.Oct /
442 E / Pfc . Kato Joseph Hisato / 1944 / 16.Oct /
442 E / Pvt . Fukumura Ichiji / 1944 / 18.Oct / DOW
442 E / Pfc . Kondo Henry M / 1944 / 19.Oct /
442 E / Pfc . Horiuchi Paul F / 1944 / 19.Oct /
442 E / Pvt . Shoji Toshiaki / 1944 / 21.Oct / DOW
442 E / Pfc . Yasui Hideo / 1944 / 22.Oct /
442 E / Pfc . Kitagawa Roy J / 1944 / 22.Oct / DOW
442 F / SSgt . Yamada Hideo / 1944 / 15.Oct /
442 F / Pfc . Horinouchi James Joji (George) / 1944 / 16.Oct /
442 F / Pfc . Yamaoka Tsutomu / 1944 / 16.Oct /
442 F / Pvt . Miyazono Tokio / 1944 / 16.Oct /
442 F / Pfc . Tanji Mitsuo / 1944 / 17.Oct /
442 F / Pfc . Ikehara Dick Kikuichiro / 1944 / 17.Oct /
442 F / Pvt . Tagami Yoshio / 1944 / 17.Oct /
442 F / Pfc . Morimoto Toshiaki / 1944 / 18.Oct /
442 F / TSgt . Ohama Abraham J / 1944 / 20.Oct /
442 F / Pfc . Kameoka Bob T / 1944 / 20.Oct /
442 F / Pfc . Okamoto Ralph Sueo / 1944 / 20.Oct / DOW
442 F / Pfc . Fukuba Shigeo Frank / 1944 / 22.Oct /
442 F / Pfc . Mukai Hachiro / 1944 / 22.Oct /
442 G / Cpl . Kokubu Jimmie Toshio / 1944 / 17.Oct /
442 G / Pfc . Chibana Henry Matsuzo / 1944 / 17.Oct /
442 G / T/4 . Yoshinaga Akira / 1944 / 18.Oct /
442 G / Pvt . Kanetomi Jero / 1944 / 19.Oct /
442 G / 1lt . White Floyd E Jr / 1944 / 20.Oct / DOW
442 G / Sgt . Nakamoto Seichi / 1944 / 20.Oct /
442 G / Pfc . Nagato Fumitake / 1944 / 20.Oct /
442 G / Pfc . Okada John T / 1944 / 20.Oct /
442 H / Pfc . Saito George S / 1944 / 16.Oct /
442 H / Pfc . Shigemura Frank Masao / 1944 / 20.Oct /
442 H / SSgt . Kuroda Robert T / 1944 / 20.Oct /
442 H / Pfc . Miyaguchi Masayuki John / 1944 / 20.Oct /
442 I / SSgt . Inakazu Ben Masaki / 1944 / 19.Oct /
442 L / Pfc . Fujioka Teruo / 1944 / 26.Oct / DOW ATに同名者有 There is a soldier with the same name in AT-Co.
442 M / Pfc . Kato Yoshio / 1944 / 20.Oct /
232 Eng / Pvt . Yamamoto Takeo / 1944 / 15.Oct /
232 Eng / SSgt . Fuji Abe M / 1944 / 15.Oct /


Vosges・失われた大隊救出の戦闘(1944年10月26日~10月31日)
第442連隊戦闘団 KIA(55名)
Vosges-Battle to rescue the lost battalion (October 26-31, 1944)
442nd Regimental Combat Team KIA (55 people)

442 HQ / TSgt . Sanmonji, Uetaro / 1944 / 28.Oct /
100 HQ / 1Lt . Boodry James / 1944 / 28.Oct /
100 B / Pfc . Fujita, Sadami / 1944 / 28.Oct /
100 B / Pvt . Hayashi, Torao / 1944 / 28.Oct /
100 B / Pvt . Imamura, Larry M / 1944 / 28.Oct /
100 B / Pvt . Tabata, Teruo / 1944 / 28.Oct /
100 B / Pvt . Nakano, Tsutomu / 1944 / 29.Oct /
100 B / Cpl . Takeuchi Tadashi  / 1944 / 30.Oct /
100 B / Pvt . Morikawa, Hiromu / 1944 / 30.Oct /
100 C / Pfc . Sunada, Albert Mitsuo / 1944 / 31.Oct /
100 C / Pvt . Nishimura Shigeki / 1944 / 31.Oct /
100 D / Cpl . Uejo, James K / 1944 / 29.Oct /
442 E / Cpl . Nakamura, George S / 1944 / 29.Oct /
442 E / Pvt . Seike, Toll / 1944 / 29.Oct /
442 E / Pvt . Tanamachi, Saburo / 1944 / 29.Oct /
442 E / Pvt . Ninomiya, Ban / 1944 / 29.Oct /
442 E / Pfc . Yoshida, Minoru / 1944 / 31.Oct / MIA→KiA
442 E / Pvt . Masaoka, Ben F / 1944 / 31.Oct /
442 E / Pvt . Matsumura, Renkichi / 1944 / 31.Oct / MIA→KiA
442 F / SSgt . Kokame, Nobuo / 1944 / 29.Oct / DOW
442 F / SSgt . Shimizu, Jimmy / 1944 / 29.Oct /
442 G / Pfc . Omokawa Geoge / 1944 / 30.Oct / MIA→KiA
442 G / SSgt . Nakamura, Ned T / 1944 / 31.Oct /
Med(2nd) / Pfc . Hayashida, Henry / 1944 / 29.Oct /
442 I / 1Lt . Moseley David L / 1944 / 01.Nov /
442 I / Pfc . Amakawa, Nobuo / 1944 / 27.Oct /
442 I / Pfc . Minatodani, Isamu / 1944 / 28.Oct /
442 I / SSgt . Harano, John / 1944 / 29.Oct /
442 I / Sgt . Tokushima, Harry H / 1944 / 29.Oct /
442 I / Sgt . Fukeda, Akira / 1944 / 29.Oct /
442 I / Sgt . Matsumoto Goro / 1944 / 29.Oct /
442 I / Pfc . Onaga, Takeyasu / 1944 / 29.Oct /
442 I / Pfc . Oshiro, Choyei / 1944 / 29.Oct /
442 I / Pfc . Tashima, Masaru / 1944 / 29.Oct /
442 I / Pfc . Yamauchi, Chiyoaki / 1944 / 29.Oct /
442 I / Capt . Byrne, Joseph L / 1944 / 30.Oct /
442 K / Pfc . Takubo, Kenji / 1944 / 28.Oct /
442 K / SSgt . Yamashiro, Gordon I / 1944 / 28.Oct /
442 K / Sgt . Koito, Sadamu / 1944 / 28.Oct /
442 K / Pfc . Takemoto, Iwao / 1944 / 28.Oct /
442 K / Pfc . Yamamoto, Fred M / 1944 / 28.Oct /
442 K / Pfc . Yunoki, Shiyoji / 1944 / 28.Oct /
442 K / Pfc . Tanaka, Ko / 1944 / 29.Oct /
442 K / Pfc . Yogi, Matsuichi / 1944 / 29.Oct /
442 K / Pfc . Okamoto James T / 1944 / 29.Oct /
442 K / Pvt . Ogata, Fred S / 1944 / 29.Oct / DOW
442 L / Cpl . Narimatsu John T / 1944 / 01.Nov / DOW
442 L / Sgt . Murata, Robert Shigeru / 1944 / 29.Oct /
442 L / SSgt . Fujinaka, Noboru / 1944 / 28.Oct /
442 L / Cpl . Kenmotsu, Yasuo / 1944 / 28.Oct /
442 L / Pvt . Endo, Masahru / 1944 / 28.Oct / MIA→KiA
Med(3rd) / Pvt . Hamamoto, Katsuyoshi / 1944 / 28.Oct /
Med(3rd) / T5 . Kubo, Tadashi T / 1944 / 31.Oct /
232 Eng / Pfc . Kotsubo, Seichi / 1944 / 28.Oct /
442 Med / Pvt . Isobe, Kosaku / 1944 / 30.Oct /
522 / Pfc . Tomita Nobuaki / 1944 / 06.Nov / **.Oct WIA 06.Nov DOW



Vosges・ラ・ウシエール~セントダイの戦闘(1944年11月1日~11月17日)
第442連隊戦闘団 KIA(42名)
Vosges La Ushiere-Battle of St. Die (November 1st to 17th, 1944)
442nd Regimental Combat Team KIA (42 people)

100 HQ / Pfc . Kubokawa James / 1944 / 02.Nov /
100 HQ / TSgt . Minami Yoshio / 1944 / 02.Nov /
100 B / Sgt . Takara, Ronald Kotaru / 1944 / 01.Nov / 戦闘外死 Death other than battle
100 B / Pfc . Sato Saburo / 1944 / 03.Nov / 06.Nov DOW in Naplesの記録有り
100 D / Pfc . Iseri Mike Mitsuo / 1944 / 03.Nov /
442 2HQ / SSgt . Masuoka Peter S / 1944 / 03.Nov / DOW
442 E / Sgt . Sakamoto Masami / 1945 / 03.Mar /
442 E / Pvt . Sato Shin / 1944 / 01.Nov / 11/1 Hill617から移動中
442 E / Cpl . Nagata Taichi / 1944 / 06.Nov / MIA→KiA
442 E / Pfc . Kawano Cike C / 1944 / 06.Nov /
442 F / Sgt . Kitsuse Paul T / 1944 / 02.Nov /
442 F / T5 . Kondow Howard H / 1944 / 02.Nov /
442 F / Pfc . Izuzaki Henry S / 1944 / 02.Nov / aa izumizakiが正しい
442 F / . Hayama Makoto / 1944 / 05.Nov /
442 F / Pfc . Masaoka Kay K / 1944 / 06.Nov /
442 F / Pvt . Masuda Eso / 1944 / 06.Nov /
442 F / Pvt . Okida Katsu / 1944 / 06.Nov /
442 G / Pfc . Nishimoto Joe M / 1944 / 14.Nov /
442 H / Pfc . Yoshigai Mitsuichi / 1944 / 02.Nov /
Med(2nd) / Pfc . Tamanaha Kunio Douglas / 1944 / 13.Nov /
442 I / Pfc . Oshiro Sam Yasuichi / 1944 / 01.Nov /
442 I / Pvt . Okura Susumu / 1944 / 02.Nov /
442 I / Sgt . Tanimoto Larry Tadayuki / 1944 / 03.Nov /
442 I / Pfc . Tabuchi Shigeo / 1944 / 04.Nov /
442 I / Pvt . Taketa Shigeto / 1944 / 04.Nov /
442 I / Pfc . Tahara Cooper T / 1944 / 05.Nov /
442 I / Pfc . Yamasaki Harry Shizuo / 1944 / 05.Nov /
442 K / Pfc . Yasuda, Fred S / 1944 / 01.Nov /
442 K / Pfc . Endo Robert Tsuyoshi / 1944 / 02.Nov /
442 K / Sgt . Kanazawa John S / 1944 / 07.Nov /
442 K / Pfc . Tsumaki Kenichi / 1944 / 07.Nov /
442 L / Pfc . Kawahara Richard Hiroo / 1944 / 02.Nov / DOW
442 L / TSgt . Okazaki Takaaki / 1944 / 07.Nov /
442 L / Pfc . Gushiken George / 1944 / 07.Nov /
442 L / Pfc . Miyaoka George Suetomo / 1944 / 07.Nov /
442 L / Sgt . Hashimoto John T / 1944 / 14.Nov / MIA→KiA
442 L / Pfc . Ikeda Masao / 1944 / 15.Nov / MIA→KiA
442 M / Pvt . Abe Chester K / 1944 / 02.Nov /
442 M / Sgt . Mizokami Timothy / 1944 / 13.Nov /
442 M / Pfc . Yasuhira Arata / 1944 / 13.Nov /
232 Eng / Pfc . Asato Shotaro H / 1944 / 03.Nov /
232 Eng / Pfc . Choriki Danny H / 1944 / 06.Nov /
442 AT / Sgt . Fujino Yoshimi / 1944 / 05.Nov /
442 AT / Pfc . Fujioka Teruo / 1944 / 06.Nov / Lcoに同名者有
442 AT / 1Lt . Rogers Ben W Jr / 1944 / 14.Nov /




シャンパンキャンペーン(1944年11月22日~1945年3月23日)
第442連隊戦闘団 KIA(16名)
Champagne Campaign (November 22, 1944-March 23, 1945)
442nd Regimental Combat Team KIA (16 people)

100 C / pfc . Tanaka John Y / 1945 / 20.Jan /
442 E / Pvt . Futamata George M / 1945 / 10.Feb /
442 F / Pfc . Mitani Kazuo / 1945 / 18.Jan /
442 G / Pfc . Oshiro Seikichi / 1945 / 09.Jan / 戦闘外死 Death other than battle
442 G / 2LT . Kurata Minoru / 1945 / 16.Jan /
442 G / Pfc . Kondo Herbert Y / 1945 / 16.Jan /
442 H / Pfc . Kaneshiro Seichi / 1945 / 01.Jan /
442 H / Sgt . Karatsu James S / 1945 / 02.Jan / DOW
442 I / 2Lt . Oliver Harry Eugene / 1944 / 05.Dec / 15.Dec POW  **DED
442 K / SSgt . Sugawara Senji / 1944 / 30.Nov / DOW
442 K / T5 . Miura Larry Nagao / 1944 / 30.Nov / DOW
442 K / Pfc . Tsunematsu Bertram Akira / 1945 / 17.Feb /
442 L / Pfc . Sugawa Jiro / 1944 / 05.Dec /
442 L / TSgt . Otsubo Akira R / 1944 / 23.Nov /
232 Eng / Sgt . Uyeno Theodoro T / 1945 / 15.Feb /
232 Eng / Cpl . Masumoto Seichi / 1945 / 15.Feb /



フランス戦線(1944年9月29日~1945年3月23日)
第442連隊戦闘団MIA(行方不明者)→POW(戦時捕虜)
All French Front (September 29, 1944-March 23, 1945)
442nd Regimental Combat Team MIA → POW

442 HQ / Pfc . Kajimoto John T / / / 23.Oct POW
100 A / Sgt . Kamikawa Harry H / / / 23.Oct POW
100 A / 1Lt . Sakamoto Samuel M / / / 23.Oct POW
100 A / Pfc . Kashiwamura Tetsuo / / / 23.Oct POW
100 A / Pfc . Sagara Horace / / / 23.Oct POW
100 A / Pfc . Takamura Naoki / / / 23.Oct POW
100 A / Pvt . Yamaka William Sakae / / / ** POW
100 C / 2Lt . Miyashiro Takeichi T / / / 23.Oct POW
100 C / SSgt . Tokunaga Michael M / / / 23.Oct POW
100 C / Sgt . Mine Yutao / / / 28.Oct POW
100 C / Pfc . Hirokane Katsumi / / / 23.Oct POW
100 C / Pfc . Akita Stanley / / / 23.Oct POW
100 C / Pfc . Yonezawa Kaoru / / / 23.Oct POW
100 C / Pfc . Horiba Kai I / / / 27.Oct POW
100 C / Pvt . Takahashi George / / / 29.Oct POW
100 C / Pvt . Miyashiro George J / / / 23.Oct POW
100 C / Pvt . Nakagawa Sunao / / / 23.Oct POW
100 C / Pvt . Watanabe Kozo / / / ** POW
442 E / Pfc . Kuroiwa Harry H / / / 19.Oct POW
442 E / Pfc . Okitsu Jou / / / 19.Oct POW
442 H / 2Lt . Gleicher Sol Harold / / / 23.Oct POW
442 H / Pfc . Saito Carl Kunitoshi / / / ** POW
442 H / Pfc . Tachibana Sadao / / / ** POW
442 3HQ / Pvt . Kanno Tom T / / / ** POW
442 I / Pfc . Funai George Teruo / / / 05.Dec POW
442 Med / 2Lt . Kanaya Jimmie / / / 23.Oct POW
442 Med / Pfc . Fujii Sueo / / / 23.Oct POW
442 Med / Pfc . Murai Marushi / / / 23.Oct POW
442 Med / Pfc . Nakamine Kotaro / / / 23.Oct POW
442 Med / Pfc . Nakata Milton K / / / 23.Oct POW
442 Med / Pfc . Uchimura Masayoshi / / / 23.Oct POW
442 Med / Pfc . Dochin Niroku / / / ** POW
442 Med / Pvt . Daida Sadamu / / / ** POW

フランス戦線(1944年9月29日~1945年3月23日)
第442連隊戦闘団MIA(行方不明者)→KIA(戦死確認)※KIAリストに記載
All French Front (September 29, 1944-March 23, 1945)
442nd Regimental Combat Team MIA → KIA * Listed on the KIA list

100 A / Sgt . Suyama George W / 1944 / 23.Oct / MIA→KiA
100 A / Pvt . Sugiyama Itsuo / 1944 / 23.Oct / MIA→KiA
442 E / Cpl . Nagata Taichi / 1944 / 06.Nov / MIA→KiA
442 E / Pvt . Masaoka, Ben F / 1944 / 31.Oct / MIA→KiA
442 F / SSgt . Kokame, Nobuo / 1944 / 29.Oct / MIA→KiA
442 G / SSgt . Nakamura, Ned T / 1944 / 31.Oct / MIA→KiA
442 L / Sgt . Hashimoto John T / 1944 / 14.Nov / MIA→KiA
442 L / Pfc . Ikeda Masao / 1944 / 15.Nov / MIA→KiA
442 Med / Pvt . Isobe, Kosaku / 1944 / 30.Oct / MIA→KiA

フランス戦線(1944年9月29日~1945年3月23日)
第442連隊戦闘団MIA(行方不明者)→POW(戦時捕虜)となった後、収容所における死亡。)※KIAリストに記載
All French Front (September 29, 1944-March 23, 1945)
442nd Regimental Combat Team MIA → POW.
Later, he died in a German POW camp. * Listed on the KIA list

442 I / 2Lt . Oliver Harry Eugene / 1944 / 05.Dec / 05.Dec POW-Dead
100 A / Pvt . Akimoto Victor / 1944 / 14.Dec / 24.Oct POW-Dead
100 A / SSgt . Sasaoka Itsumu / 1945 / 01.Jan / 22.Oct POW-Dead


※なお戦時捕虜の中でSSgt Sasaoka Itsumuは戦時捕虜となり、ドイツ国内のブランデンブルクの捕虜収容所へ収監。1945年1月31日にソビエト軍が侵攻し、ドイツ軍収容所警備員が収容所から解放。ソビエト軍の装甲部隊へと向かった彼らは誤認したソビエト軍によって発砲を受け15名の捕虜が死亡しました。その中にSSgt Sasaoka Itsumuが含まれていました。
* Among the POWs during the war, SSgt Sasaoka Itsumu became a POW and was imprisoned in a POW camp in Brandenburg in Germany. Soviet troops invaded on January 31, 1945, and German camp guards were released from the camp.
They headed for the Soviet armored forces.
Misidentified Soviet troops fired, killing 15 prisoners.
Among them was SSgt Sasaoka Itsumu.




最後になりましたが、貴重な史料、資料等をご提供くださった故Edward Masaru Yamasaki氏(第2大隊I中隊 T5 2017年4月27日永眠 92歳 日系アメリカ人3世)に特別の感謝と哀悼の意を表します。

部隊記録等の所蔵元については「アメリカ国立公文書記録管理局 National Archives and Records Administration (NARA) Records」となっております。

Last but not least, special thanks and condolences to the late Edward Masaru Yamasaki (2nd Battalion I Company T5, April 27, 2017, 92 years old, Japanese American III) who provided valuable historical materials. I would like to express my intention.

The collection source of unit records, etc. is "National Archives and Records Administration (NARA) Records".  


Posted by 先任  at 16:15Comments(0)そのたミリタリ日系部隊史

2019年12月11日

中隊先任下士官

1SG. 1StSgt. First sergeant.



よく1等軍曹と和訳される事が多いですが、正確ではありません。
Sfc.Sergeant.Firstclassは現代では1等軍曹にあたるかもしれませんが、WW2の頃はTSgt. TechnicalSergeant.でありちょっと意味合いが違います。

給与グレードは曹長Msg. Master Sergeantと同格であり、役職を示すもので中隊規模の部隊の最先任下士官です。
階級としては元の階級(多くはMsg.ですがまれに更に下の階級から宛てられる場合も)であり、その役職を代わる際には元の階級に戻ります。

さて今回の記事は別に階級章の話ではなく、1人のハワイ日系アメリカ人についてです。


アメリカ陸軍第100歩兵大隊B中隊の先任下士官だったTakashi Kitaoka氏の物語をまとめて見たのでご覧下さい。

Takashi Kitaoka

1912年2月1日 マウイ島ハナ産まれ。
熊本出身の両親、北岡寅木とサダの間に4人兄妹の末子として産まれました。

カエレクシュガーカンパニー(Kaeleku Sugar Company)のプランテーションで働いた後、虎木とサダはカエレクにコーヒーショップを開きます。
コーヒーショップの向かいは家があり、2つのベッドルーム、ストーブとアイスボックスを備えたキッチン、屋外トイレ、独立した風呂小屋がありましたが当初は電気が無く、灯油ランタンが部屋を照らしました。

コーヒーショップでは中国系の料理人が主に中華料理とアメリカ料理を作り、寅木はパンを焼きました。
Takashiも午前2時から起きてパンを捏ねたりをしていたそうです。
Takashiの主な仕事はストーブ、オーブンの為の薪を運んできて、くべ易い大きさに割る事でした。

日系人は基本的に家で食事を取り、昼食は弁当を持つので多くの客は独身のフィリピン系などでした。
北岡家の食事は母がコーヒーショップで作り、その多くは日本食でした。
他に料理人が作る中華料理やハワイの料理も食べました。


買い物は多くを近くのハナから購入しており、ワイルクまで出る必要は無かったが、月に数回ホノルルから来る船に注文もしていました。


カエレクプランテーションキャンプのコミュニティには多くの労働者のフィリピン人、日系人、および少数のハワイ人、牧場主のポルトガル人が合計して3~400人ほど居ました。
それらの人々は民族性を他に主張することなく、良好な関係を築いていたそうです。

移動手段は徒歩か馬です。
学校にも当初馬で通っていましたが、それは途中からスクールバスに代わりました。

コーヒーハウス、レストラン、プランテーション店、鍛冶屋、映画館等があり、映画や芝居の興行、また独立記念日や他の民族イベントが楽しみでした。

医師は3マイル離れたハナに住んでいます。
プランテーションが雇っている医師でしたが、彼はコミュニティ全体に奉仕してくれ、時には出産も助けてくれました。
歯科医は半年に一度しか立ち寄りませんでしたので、歯痛が発生しても医師が抜歯する以外の対処が無かったそうです。
ハナの反対側に3マイルほど離れた所に牧場があり、彼らはハナへの往復の途中でコーヒーショップで食事することがありました。
彼らは週末にはプランテーションへ来て、野球等のスポーツで親交もありました。


子供の頃からTakashiは馬に乗ってホノカラニ等へ行き海で釣りをしました。魚は家族の夕食となります。
またナヒク近くの自然のプールへ泳ぎに行き、プール流れ込む小川でエビを摂りました。更にマンゴー、山のリンゴ、グアバ、アボカド、タケノコとワラビなども。

Takashiは小学校1年~3年までカエレクの小さな学校に通い、飛び級をしてハナ学校の5年生になります。
それから8年生までハナに通いました。
昼食は多くがムスビ、時々サンドイッチでしたがアリに襲われる事が多かったそうです。
1926年にハナからワイルクまでの道路が建設されました。 14歳のタカシは初めて町を訪れ、その町の大きさに驚いたそうです。

北岡家は仏教徒でしたが、Takashiは他も含めて宗教に関心を持ちませんでした。
ただ、父親の寅木が日系コミュニティーのリーダーだったためもあり、日本語教育に熱心だったためハナ本願寺の日本語学校には8年通いました。
1924年、排日移民法が制定された影響もありハワイにも反日感情があったとTakashiは語っています。
直接差別された、という経験は無かったそうですが、日系人以外の人種が日本的な物を好まない風潮を肌で感じていたそうです。

なお寅木はコミュニティーのリーダーで日本語教育推進の委員長もつ務めていましたが、開戦の頃には引退していたため、FBIに逮捕されはしなかったそうです。
また母のサダも日系の婦人会に積極的に参加し活躍していました。

ハナには高校が無かったため、Takashiは奨学金を得てホノルルの中部太平洋予備校(Mid-Pacific Institute)に入学し初めてマウイを出ます。
奨学金だけでは足りない授業料を彼は食堂等で働きながら支払いますが、それでも足りなかった分はどこからか父親が工面したのだろうと回想しています。

また、ここでは本土からの教師に教えでかつで興味を持たなかったキリスト教の世界観に興味を持つようになります。
なお、高校1年生の時に母サダが脳卒中で亡くなりました。

予備校を出てハワイ大学へと進んだTakashiは大恐慌の中で政治学と社会学を学びます。
またPalama Settlementに拠点を置く結核協会の保健教育者として、彼は講演、映画の上映を行いそのパンフレットを発行しています。
更に1935年にはホノルル・スターブリテン誌に日本人コミュニティについて記事を書き、日本人のハワイ移民50周年を記念した特別版を作成しました。

また同年、東京での日米学生会議に出席する事となり日本へ渡っています。
会議の後、Takashiは両親の出身であるは熊本に1人で行きました。
日本語はあまり話せませんでしたが、良い経験をしたと語っています。

なお後に妻となるMarry Yuki Miwaとはハワイ大学2年の時ににYMCA主催のキャンプで知り合ったようで、大学中から付き合いをしていました。

Takashiは1937年に推薦を受けてアメリカ本土、テキサスのベイラー法律学校へ入学します。
テキサスに来た彼は初めて黒人に対する差別を目の当たりにします。
またネイティブアメリカンの友人を作り、アメリカのこれまでの歴史や、人種について考える機会が増えたようです。
彼は法律学校を3年で卒業しますが、司法試験の合格には至らずハワイへと帰ります。
※戦後、司法試験に合格し弁護士となります。

ハワイへと帰ったTakashiはその年の12月にマリー・ユキ・ミワ(Marry Yuki MIwa)と結婚します。
Yukiは福島県出身の両親から1913年に産まれ、父親の職業は医師で元々は武家だったそうです。おそらくは会津の方だったのではないかと思います。
兄の1人は日本へと帰り、陸軍将校だったようですが詳細は不明です。
大学卒業後はハワイ州の事務局で秘書として働いていました。
結婚後、彼女は赤十字の支援を得て夫の居る第100歩兵大隊を追いかける事となります。
支援があったのも最初のキャンプマッコイだけで、後にシェルビーのあるミシシッピ、さらには演習先のルイジアナまで彼女は大隊を追いかけます。
その行程には後に第100大隊長にまでなるMituyosi Fukudaの妻、Toshiko Fukudaも居ました。



結婚式の写真、と書かれているキャプションもあるが部隊章からキャンプ・シェルビーに居た頃であり、1943年の夏、欧州出征前に記念で撮影したものと考えます。


Takashiは結婚直後に陸軍に徴兵され3~4ヶ月の基礎訓練の為にスコフィールドバラックスに召集されます。
召集された兵士は様々な人種が混ざっていましたが、下士官以上はすべて白人だったと語っています。
その後、ハワイ州兵第298歩兵連隊へと配属され(※マウイ島出身者は299歩兵連隊の筈ですが、ホノルルで徴兵されたからなのかもしれません)更に訓練を受けます。


最初の徴兵によってスコフィールドに居た頃の写真と推察します。

1941年9月、28歳となっていたTakashiは年齢制限の為に除隊します。
除隊後ホノルルの行政職を得て働いていたTakashiは12月7日を迎えます。

12月7日朝、騒音に目覚めたTakashiは家を出た所で多くの航空機が飛んでいるのを目撃します。(※それが日本軍機であったかどうかは判りません)
直後にラジオで予備役の招集を聞き、彼は298連隊へと連絡し、再び召集されます。

召集されたTakashiはE中隊に配属され海岸警備に当たります。
武器は小銃と機関銃、そして迫撃砲がありましたが、陣地も含めてとても充分とは思えず不安にかられたそうです。

1942年6月に第298、299連隊から1432名の日系人(と少数のハワイ系、朝鮮系等を含む)がSSマウイ号に乗せられて本土に移動。本土に着いた時点で第100歩兵大隊と編成されてウィスコンシン州のキャンプ・マッコイへと移送されます。


キャンプマッコイ。1942年夏頃の写真と思われます。階級はSgt.です。



キャンプマッコイ。1942年~43年の冬頃と思われます。SSgt.に昇任しています。

Takashiは戦前の従軍経験があった事と高等教育を受けていた事から下士官となり当初はCpl.後にSgtとして訓練に励んでいましたが更にSSgt.へと昇任しB中隊の小銃分隊長に指名されます。

当時のB中隊長はクラレンス・R・ジョンソン大尉 (Cpt.Clarence.R.Johnson)で白人でしたが、ジョンソンは海外派遣前に転属しています。
次の中隊長は日系将校Cpl.Taro.Suzukiでした。
後にB中隊長として名を馳せるCpl.Sakae.TakahashiはF中隊に居ました。

マッコイでは訓練の傍ら、週末にはスパルタやラクロスと言った町に出て楽しむ事も出来ました。
あまりに多くの酒を飲むので大隊長ファーレント・ターナー中佐(Lcl.Farrant.Turner)が「ウィスコンシンを干上がらせてしまわないように」と注意した程だったそうです。

1943年2月にミシシッピー州のキャンプ・シェルビーへと移った第100歩兵大隊は更に実戦的な訓練や演習を行ないます。

1943年8月20日 大隊はキャンプ・キルモアを経てニューヨークのブルックリンからジェームス・パーカー号(USS James Parker (AP-46) )に乗船、欧州へ派遣されます。
1943年9月2日に北アフリカ・アルジェリアののオランに上陸した大隊は当初、鉄道警備の任務を与えられる予定でしたが大隊長以下の抗議により実戦部隊である第34師団隷下の第133歩兵連隊に第2大隊として配属されます。
9月22日にイタリア戦線、サレルノに上陸。
上陸戦闘こそなかったものの兵士、装備、車両が上陸時に水没し大変な目に合います。

そして9月29日。第100歩兵大隊はベネヴェントの近くで初めて敵の砲弾の洗礼を受け、朝日野球団のエースであったShigeo Joe Takataを初めとする犠牲を出します。
JoeはTakashiの友人でもありました。

この戦闘の後、Takashiはそれまでの実力を評価されB中隊の先任下士官=1StSgt.へと昇任します。
それまでと違い、中隊すべてを管理する役職にTakashiは当初困惑しますが、その役目を果たして行きます。


1943年イタリアでの写真。階級ははっきりと見えませんが、1Sg.またはMsg.と思われます。


10月にはヴォルトルノ川の渡河作戦では、夜間戦闘の混乱で中隊をはぐれ、Pvt.1名と取り残される経験をしています。

11月の600高地の戦闘では、先に前進した部隊が進路にトイレットペーパーを置いてあるのを目撃します。
それは地雷の位置を示していました。
しかし風で飛ばされたりもあり、多くの兵士が地雷の犠牲になりました。

そして1944年1月、モンテカッシーノの戦闘が始まります。
高地を下りながらの戦闘、何本もの溝があり飛び降りる事ができません。
部隊は間に合わせの材料ではしごを急造して下りますが、その途中にも敵の射撃を受けました。
副大隊長だったジャック・ジョンソン少佐もそこで戦死しました。
ジョンソン少佐は最も日系兵に人気のあった白人将校で、戦前からハワイ大学でフットボールのキャプテン兼スター選手で、それを知る者も多く大隊に居ました。
少佐が撃たれた際、すぐに救出と手当てを命じましたが、夜間の混乱で少佐の後送が後回しになったしまうミスがあったとドウス昌代著の「ブリエアの解放者たち」には記述されています。
それによると、当初は息子が第100歩兵大隊に配属された事を喜び、自身で配合させたハイビスカスの新種に「ワンプカプカ」※100の意味 と名づける程だった少佐の父親は、救出の順序を間違えて戦死させた事を悲しみ、戦後は怨みにまで思っていたとの事でした。

そしてTakashiもまたカッシーノで負傷します。
カッシーノから撤退した翌朝、彼は先任下士官として中隊員を確認し、その無事な兵の少なさに愕然とします。
192人で編制される歩兵中隊、その中で無事な兵はたったの28名でした。
直後に砲弾が降り、Takashiは鎖骨を折って昏倒します。
気付いた時には野戦病院に居ました。

約1ヶ月の治療の後、彼は中隊へと復帰します。
部隊には多くの失われた兵士の代わりに本土の第442連隊から若い補充兵が送られてきます。
Takashiは先任下士官としてそれらを各小隊へ割り振る仕事がありましたが、それは胸を痛める仕事でした。
斥候やパトロールが遭遇する小規模な戦闘には犠牲者も出ます。
その多くは戦闘に慣れていない補充兵でした。
送ったばかりの新兵が数日後には戦死者として記述しなければならない名前になっている事をひどくく悲しみました。

Takashiもまたハワイ兵と本土兵の仲が順調でなかった事を語っています。
曰く、言葉も生活も人生観も違う。ということです。
しかし、戦闘を経て彼らの関係は改善されていったとも話しています。

1944年9月、第442連隊戦闘団の第1大隊となっていた第100歩兵大隊は連隊と共にフランス戦線へと転戦します。
Takashiはこの時休暇を得て、A中隊長だったMituyoshi Fukudaと共に一時帰国します。
帰国したTakashiはシカゴで妻と会うことができました。
なおB中隊の先任下士官は1Sg.Yutaka Suzukiに交代しています。



休暇で帰国したシカゴでの写真と推察します。階級章は付けていませんが、34師団章を右に着用しています。


その後前線に戻ったTakashiはシャンパン・キャンペーンを経てゴシックラインの戦闘に赴きます。
終戦後は充分なポイントを得ていたため、最初の帰国グループの1人として妻の下へ戻りました。
当時イリノイ州シカゴで働いていた妻Yukiとシカゴで1年を過ごしながら法律の再講習を受け、司法試験をパスします。
その後ハワイへと戻り、2年間退役軍人局で働いた後にホノルルの検察庁に入庁しました。


判事に任命され、宣誓するTakashi.宣誓する相手、最高判事は同じく第100歩兵大隊出身のJack Mizuha.

さらにハワイ労働省監督官を経て1962年には裁判所判事となります。
しかし共和党員だったTakashiは知事が民主党になってからは判事に任命されていません。

その後第100歩兵大隊Veteransクラブ会長なども歴任しますが、戦闘で受けた傷が原因の難聴のため、自ら役員を退くことになります。


2016年8月9日 永眠 104歳。

B中隊では「キット」と呼ばれ、戦後は判事だった事から「ジャッジ・キタオカ」と呼ばれていたそうです。  


Posted by 先任  at 14:58Comments(0)そのたミリタリ日系部隊史

2017年03月23日

NHK-BSの442連隊戦闘団ドキュメンタリー 「失われた大隊を救出せよ~米国日系人部隊 “英雄”たちの真実」



さて、先日書いたNHK-BSの442連隊戦闘団ドキュメンタリー 「失われた大隊を救出せよ~米国日系人部隊 “英雄”たちの真実」が放映されました。
出かけていましたのでリアルタイムでは見れませんでしたが、録画して見ましたので感想を書かせていただきます。

まず総評として、良い内容だったと思います。
ボージュの森の戦闘に焦点を絞り、Veteranの証言をベースに構築した内容はよくまとまっており、特に誇大なエピソード等もなく事実をそのまま伝える姿勢だったと思います。
まぁ事実だけで充分にドラマティックなんですけどね。

西海岸での強制収容や忠誠心アンケート等についてはあっさりと、また第100歩兵大隊に関してはまったく触れず、といった内容でしたがシンプルで視聴者が理解しやすくするには必要な措置だったのでしょうね。

今まで442RCTについて詳しい本を読んだり、また文藝春愁の名ドキュメンタリー「ドキュメントアメリカ第442歩兵連隊:日系二世たちの第二次世界大戦」をご覧になられた方にとっては特に新しい話、事実は無く物足りなかったかもしれませんが、そうでない方に向けた作品でしょうから良かったと思います。

再現ドラマパートも、限られた予算や撮影日数の中で良くできていたと思います。
心配した偏った解釈や、日本人として日系人を理解しようとするような感覚は無く、また「大統領指令」に関しても一切触れられませんでした。やはりそれがあったと示すものは無かったのでしょう。

という事で、良い内容でしたよ。

Well, the NHK-BS 442 Regiment Combat Team documentary that I wrote the other day "Please rescue the lost battalion - the truth of the American Japanese troops" heroes "was aired.
I was out, so I could not see it in real time, but I wrote it and recorded my impressions as I watched it.

First of all, I think that it was a good content.
I focused on the battle of the Forest of Vosges and the content built on the basis of Veteran's testimony was well organized and I think that it was a posture to convey facts as it is without any particularly exaggerated episodes.
Well the fact alone is dramatic enough.

Regarding the compulsory detention and loyalty questionnaire on the west coast, we did not touch on the 100th Infantry Battalion at all, but it was simple but it was a necessary measure to make the viewer easy to understand .

Especially if you read a detailed book about 442 RCT, and also for those who watched the documentary Although it may not have been enough without it, I think that it was good because it would be a work for those who were not.

I think that the reproduction drama part was well done within the limited budget and the number of shooting days.
There was no worrying biased interpretation or feeling of trying to understand Nikkei as a Japanese, nor was it mentioned about the "presidential directive" at all. I guess there was nothing to say that it was there.

So it was good content.




と、言う感想だけで終わる事は誰も期待してないでしょうから、マニアらしい細かい話もしようと思います。
もちろんこれはマニアとしての感想であり、番組や製作者を批判するものではありません。

まずナビゲーターの呂敏さんの祖父について。

Anyone you think we do not expect only me to simple impressions.
I think I will make a detailed story like mania.
Of course, this is the impression of as mania, does not criticize the program and producer.

"Mr.Robin" who appeared as a program navigator
About his grandfather.





Hiroo Furuya 第100大隊D中隊
1917年12月6日ハワイ生まれでマッキンレー高校出身。
1941年3月25日24歳で陸軍に入隊、第100大隊創設時からのオリジナルメンバーです。
ブロンズスター、歩兵戦闘章授与者。
パープルハートと呼ばれる戦闘負傷章を授与されていない事から、一度も大きな負傷をせずに戦い抜いた方でしょう。
写真は入隊時の物とされていましたが、CIBが付いてますので44年以降の物と思われます。
男前ですね。
調べてみましたが、どうも重機関銃に配置されていたようです(確かではありません)

なお、呂敏さんがローソン・サカイ氏に紹介する際「100大隊Veteran」と言ってるので、実際には呂敏さんは祖父のルーツや42RCTと100大隊の違いについてもご存知なんでしょうね。

必ず家長の椅子に座っていた、と言うエピソードがニセイを感じさせます。
2012年8月29日 永眠。

Hiroo Furuya 100th Battalion D Company
Born in Hawaii on December 6, 1917, he is from McKinley High School.
On March 25, 1941, he joined the army at the age of 24, and is an original member since the establishment of the 100th battalion.
Those with a Bronze Star and infantry combat batch.
From things that have not been awarded a combat injury chapter called the Purple Heart, will those who even once fought without a big injury.
Photo would have been described as those at the time of enlistment, it seems that things have since 44 years with a CIB.
A handsome man.

It should be noted that, when the Mr.Robin to introduce to Mr. Lawson Sakai.
"100 battalion Veteran" was said.
Actually Mr. Robin knows about the grandfather's roots and the difference between 42 RCT and 100 battalion.

Episode saying that he was always sitting in a chief of a patriarch, makes me feel Nisei.
August 29, 2012 it died.


番組は開戦から第100大隊の出征、442RCTの創設、イタリア戦線までをさらりと流します。
これは尺の都合もありますし、今回焦点を当てているボージュの戦闘を描く為には必要な措置だったのでしょう。まぁ寂しくはありますが仕方ありません。

日系人への差別について、番組では真珠湾攻撃後にと言う様な話でしたがその以前から大きな差別があった点はきちんと言って欲しかったと思います。
また本土とハワイの温度差についても説明不足だったかと。

ブリエア解放に続いて、本題の失われた大隊救出に入ります。

Program is campaigning of the 100 battalion from the war, the creation of 442RCT, will flow without hesitation until the Italian Campaign.
This is It is also the convenience of the scale, will was the necessary measures in order to draw a battle of the Vosges that rely on this time focus.
There is no help.

About discrimination against Japanese Americans.
In the program said that it became big after Pearl Harbor attack.
However, I think I should mention from its previous and there was a great discrimination.
Also, it was insufficient to explain the temperature difference between the mainland and Hawaii.

Following the Bruyères release, the program will go to the "rescue of the Lost Battalion" of the main subject.



まず失われた大隊こと第141連隊第1大隊が包囲された経緯から、最初の救出に141連隊の他の大隊が失敗した件。
この件は実は今まであまりメディアには出ていません。
きちんと描いたのは良かったと思います。

その後、442RCTが投入されるくだりも「日系部隊だから」と言う点について断定せず、様々な可能性として放送した点は大変評価します。

First, I explained the circumstances that the first battalion of the 141st Regiment was besieged "The Lost Battalion".
The case that another battalion of the 141 regiment failed in the first rescue.
Actually this case has not really come up to the media much.
Neatly drawn was I think that was good.

Then, about the reason why 442 RCT was introduced.
Did not conclude that "because Japanese unit".
That was broadcast as a variety of possibilities are very much evaluation.

なお、このくだりについては先日、ブログに書いてますのでご参照下されば幸いです。
http://kfir.militaryblog.jp/e837723.html

その中で第36師団長ダールキスト少将の手記が出てきました。
これについては私は本などでも見た事が無かったので「JAP」の表記に驚きました。
しかも手記、戦後に書いたものですよね。本当に「JAP」と書いたのでしょうか?
これが事実ならば少将に人種差別のkらいがあったと言われても否定できないかもしれません。
「442RCT」と書けば良い、普通書くところを「JAP REGIMET」と書いているのですから。

Among them, the 36th Division Commander E. Dahlquist 's general accounts came out.
I was surprised at the notation of "JAP" because I never saw it in books etc. about this.
Moreover, I think this memo, what the general wrote after the war.
Is it really written "JAP"?
If this is the case, it may not be denied even if it is said that Major General had racial discrimination.
It is normal to write "442 RCT" for the general, but because it is written "JAP REGIMET".


ヒロ・ヒグチ氏にも焦点を当てていました。
ちなみに442RCTでは第100大隊にイスラエル・ヨースト大尉、第2大隊にマツオ・ヤマダ大尉、そして第3大隊のヒロ・ヒグチ大尉と3人の従軍牧師(いずれもキリスト教)が居り、更に第100大隊にはMoralOfficerとしてカツミ・コメタニ大尉が居ました。

ヒロ・ヒグチ大尉は1907年1月31日ハワイ、ヒロ生まれ。
ハワイ大卒で更に南カリフォルニア大にて神学の学位を取りました。
442RCTに所属してからのエピソードは番組の通りで、彼の残した記録や妻への手紙に綴られた兵士達の心情は442RCTの兵士達の貴重な記録となりました。
戦後はハワイに戻り、連隊で戦死した全員の家族を見舞ったそうです。

その後もVeteranの交流や日系人の立場の向上、布教活動にも努め1981年11月10日永眠されました。

The program also focused on Hiro Higuchi.
By the way, there were three served pastors at 442 RCT.
Captain Jostra Israel Jost to the 100th battalion.
Captain Matuo.Yamada to the second battalion.
And Captain Hiro Higuchi of the 3rd Battalion and 3 veteran pastors (all Christianity) existed.
Also in the 100th battalion there was Captain Tsutomu Kometani as MoralOfficer.
Captain Hiro Higuchi was born January 31, 1907 in Hilo, Hawaii.
He took a degree in theology at the addition of Southern California University in Hawaii college.
The sentiments of the soldiers who were spelled on the record he left behind and the letter to his wife became valuable records of 442 RCT soldiers.
After the war, Cpt. Higuchi returns to Hawaii and seems to have visited family members of all members who died in the regiment.

After that I also tried to promote exchange between Veteran and the position of Japanese Americans, missionary work.
It has been passed away November 10, 1981.



協会の建設を手伝うVeteranの写真として紹介されましたが、おそらく第100大隊B中隊のジェシー・ヒラタ氏と思います。
It was introduced as a photograph of the Veteran to help the construction of the association.
I think that it is probably Jesse Hirata of the 100th Battalion B Company.



ヒロ・ヒグチ氏が撮影した442連隊のどこかのKPの写真。
KP/442RCT

極秘資料について

日本は当時、日系人強制収容や黒人差別を扱い「アメリカは人種差別国家である」と宣伝していましたが(事実ですね)、日系人部隊を編成しアメリカ兵として戦う事はその反プロパガンダとなる、と言う点がルーズベルト大統領宛の書簡で紹介されました。
これは442RCTの編制にも深く関わりますが、同時に第100大隊が名を上げる要因にもなります。
もちろんすでにイタリア戦線で功名を上げていた第100大隊ではありましたが、メディアがこぞって取り上げ、更にその名を不動のものとして行きました。
様々な軍広報や従軍記者が第100大隊を訪れ、その写真や動画、記事を本国に送ることとなりました。
なお番組では今回公開された、となってますが以前から知られていた内容です。
冒頭で紹介した「ドキュメントアメリカ第442歩兵連隊:日系二世たちの第二次世界大戦」にも出てきます。

When the Japanese empire was WW 2, the Japanese empire reported Japanese American discrimination and black discrimination.
It was advertised as "the United States is a racist country."
To organize a Japanese American unit and fight as an American soldier becomes its anti-propaganda.
It was introduced in a letter addressed to President Roosevelt.
It is deeply involved in the formation of 442 RCT, but it also becomes a factor that the 100th battalion will raise its name.
Of course, already the 100th Battalion, which had raised the great achievement in the Italian Campaign
The media took up a whole thing and furthermore made the name immovable.
A variety of military public relations and war correspondent visited the 100th Battalion
They decided to send their photos, videos and articles to their home countries.
It should be noted that the program has been the first time the public, and he said.
But this is what has been known for a long time.

さて次は戦闘を解説するCGについて。
Well next is about CG to explain battle.



大変分かりやすくて良い手法でした。
特に地形を立体的に描き、各部隊の行動を駒で示していた点は良かったです。
ただ、実際の行動と比較すると??な部分も多かったですが、その辺は「わかりやすく」と言う点なのでしょう。
せっかくなので、他の連隊の動きやドイツ軍の防御についてもやって欲しかったとは思います。
さすがにこの「包囲」は無いが。。。。まぁ「わかりやすく」w
It was a good technique and easy to very understandable.
Especially, it was good that the topography was drawn in three dimensions, and the action of each unit was indicated by pieces.
However, it was often different from the actual action.
Will for the "easy to understand".
I think I wanted to display the movement of other regiments and the defense of the German army as well.



617高地 第2大隊
なんかすげー奇襲みたいに言ってましたが、普通の歩兵の戦術ですw


実際のボージュの森での撮影シーン。
友人ミカエル・バシロン・レミーが出てきました。
Shooting scene in actual Vosges forest.
My friend Michael Basilone Remy came out.



彼はここではまともな格好してますがw、第36師団(失われた大隊所属)のリエナクターでもあり、小さな頃からこの森で遊んでいて。色んな物を発掘していたそうです。
さすがに大人になってからは危険性に気付いて、金属探知機で地雷や砲弾が無いか確認しながらになったそうですが。

パウダー入りの銃弾が番組にも出てきましたね。

He is in ordinary dress, but Reenactor of the 36th Division (belonging to the lost Battalion).
I was playing in this forest from a young age. He seems to have excavated various things.
After becoming adults indeed it noticed the danger and it seems to have been checking for metal mines and land mines and cannonballs.

Bullet of powder containing came out as well to the program.





ちなみに我が家には彼と、また別の友人ロジェ・デ・アンフラジオから贈られた薬莢とレインコートの切れ端があります。
これは第100大隊の進撃路にあった塹壕から掘り起こされたもので、まず第100大隊が使用したものと見て間違いないようです。
By the way, in my house there is a piece of shell casings and a raincoat.
These were awarded by Michael and my friend Roger de Anfradio
This was excavated from the trenches that were in the stroke of the 100th battalion, and it seems that it is no doubt that it was used by the 100th battalion first.

さて、最後になりますが再現ドラマパートについて。
最初に言いますが、再現ドラマにおいて大切な事は、記録だけでは理解しにくい、わからない部分を映像化して見せる事であり、そこの軍装の再現は二の次です。
あれが違う、これが違うとマニアなので見つけてしまいますし、まぁ書きますがそれを持って批判してるわけではありません。
特に今回のドラマは全体的に大変よく出来ていたと思います。
その前提を書いた上で、まぁ書きますね。

About the reproduction drama part.
First of all.
The most important thing in the replay drama is to visualize the unknown part, which is hard to understand only by recording. The exact reproduction of the military is secondary.
It is different, you will find because this is different and mania.
I write it but I am not criticizing it with it.
Especially this time of the drama I think that was well done overall very.
Writing that premise, I will write it well.

まず装備、被服ですが全体的に悪くは無かったと思います。

被服について。
ほぼ全員がM1943フィールドジャケットを着用していましたが、ボージュの森の戦闘でも多く使用されていたのが確認できます。
ただ、比率としては旧来のODフィールドジャケット(通称M41)が多かった点、良い感じで混ざっていたら良いのにな、と思いました。
M1943フィールドジャッケトのパターンまでは言及しませんよw
そんなの、どんな映画もリエナクターも(もちろんBCoでも)やってません。
当時、多く使用されていたのはM1943、パターンA、パターンBであると考えられます。
しかしながら初期生産である点、損耗された点などから現存数が少なくよく見る実物はほとんどがパターンC以降です。
またレプリカもどのほとんどがパターンDをモデルに作っており、大戦当時にもっとも使用されたタイプはなかなか無いのが現状です。

ジャケットの下はウールパンツとウーツシャツでした。
時期的にもセーターを着込んでいるようですが、そのあたりも予算の都合でしょうか。仕方ないと思います。
マフラーは使用していましたが、網目の見えるような大戦時はあまり使用されていないタイプでしたね(赤十字社の慰問品等で存在はする)

足元はバックルブーツと、アンクルブーツにレギンスの兵が混在していた点は大変良かったと思います。まさにこの頃は混在していたのが写真でも確認できます。
さすがにオーバーシューやシューパックは用意が難しかったでしょうね。
もっとも履いてない写真も確認できますので、必ずでは無かったかもしれません。

First of all, I think that it is equipments, clothes but overall it was not bad.

About clothing.
Almost everyone was wearing M1943 field jacket. It can be confirmed that it was used a lot in battle of the forest of Vosges.
However, traditional OD field jacket as the ratio (aka M41) is often was the point.
I thought it would be nice if both of them were mixed.
M1943 Field jacket pattern is not mentioned.
Such the, what movies Reenactor is also not doing (of course even BCo).
At that time, it was thought that M1943, pattern A, and pattern B were used much.
However, from the point of initial production, worn points, etc., the existing number is small, most of the actual things that are often seen are from pattern C onwards.
In addition, most replicas are making patterns D as models, and it is the present situation that the type most used at the time of the Great War is not quite right now.

Below the jacket was wool pants and wool shirt.
Although it seems that in time basis to be dressed in a sweater, what circumstances also hit the budget. I think that it can not be helped.
Although it was using a muffler, it was a type that was not used much during the great war like seeing a mesh (it will be present as a memorabilia of the Red Cross)

I think that the point where the leggings soldiers were mixed in buckle boots and ankle boots was very good. It can be confirmed in the photograph that just this time was mixed.
It would have been difficult to prepare is truly over-shoe and shoe pack.
You can also check the wearing pictures, but maybe it was not necessarily.

ヘルメット。
当然のように大戦型は使用されてませんでした。
主役級だけでも使用して欲しかったが、まぁ仕方ない。
ノルマンディー上陸や空挺部隊で見られるタイプのヘルメットネットが使用されなかっただけでも良かった。
日系部隊は官給型の目の細かいタイプや独特のタイプのネットを使用しているか、ネット無しが多かった事が記録から確認できます。

helmet.
WW 2 type helmet was not used for the leading actors.
I wanted the WW 2 type to be used even with only the protagonists.
A helmet net of the type used by Normandy landings and airborne troops.
It was very good that it was not used this time.
442RCT use a lot of fine type of eye of government-furnished type.
Or using a unique large mesh type net, or no net.

小火器について
ま、プロップやしw
About small firearms
Decent small arms in the drama, which is produced in Japan would not appear.

ノブオ・アマカワ氏の戦死するシーンでは偵察、と訳してましたがポイントマンが正しいですね。
まぁ、セリフを書いた人は理解していたのでしょう。
ポイントマンが視聴者に分かりにくい、と言うなら偵察だってわからんじゃろw
ミリタリーかじってる人でも偵察をちゃんと理解してる人、少ないんじゃないかと良く思う。

In the scene where Mr. Nobuo Tenkawa is killed, it was translated as reconnaissance, but the point man is correct.
Well, the person who wrote the script would have understood.
If it says that it is difficult for viewers to understand pointmen, you will not know if they are scouts.
I think that few people understand reconnaissance properly in military mania.

ローソン・サカイ氏は本来の役職はBAR助手だったんですが、小銃手として出てましたね。

師団司令部の雰囲気はとても良かったと思います。
作戦当時、ブリエアいた36師団司令部はホテルを接収して使用していたようです。
なので再現ドラマのような状態だったと考えてもおかしくは無いと思います。
無線機などには突っ込まないでおきましょう。まぁ私もあまり詳しくないですし。
もしかしたら、あんなのもあったのかも。
I think the atmosphere of the division headquarters was very good.
At the time of the operation, it seems that the Bruyères 36 Division Headquarters took over the hotel and used it.

The radio is not that good.

連隊本部はスクワッドテントを使用して撮影していたようですね。
It seems that the regiment headquarters were shooting using a squat tent.
If we cooperate, the great regiment headquarters could be regenerated.



これは当時の記録写真にも無く、実際はわかりません。
ただ機材類はかなり少なく、連隊戦闘団の本部というには寂しい感じでしたね。
また兵士達の宿営天幕としてもスクワッドテントが登場しましたが、これは大きな問題であると私は考えます。



なぜなら当時、前線でこれらの大型天幕は本部や救護班等でしか使用しておらず、兵士達はシェルターハーフテントしか持ちませんでした。
しかも前線ではそのシェルターハーフテントですら張る事は困難で、せいぜいが掘った塹壕の屋根にしたり、くるまって寝る程度の事しか出来なかったと推察します。
彼らが連続した戦闘で疲弊していたのはこの野営、夜間の休息方法も大きな原因なのです。
ドラマではストーブの炊かれた大天幕で折畳みベッドを使用して寝ているシーンが映ります。



構成上はブリエアを開放後し、ビフォンテン村を第100大隊が占領、待機中のシーンであり最前線ではなく、やや後方に位置するシーンではありますが、それでも一般の小銃手等が大天幕で就寝していた事はありません。
接収、借受た農家や建物を使用する事はあっても、大天幕は無いのです。
連続した戦闘で疲弊していた事実が、このシーンで霞んでしまいます。
ここは、前線での劣悪な環境で仮眠を取る、歩兵の姿を出して欲しかったと思います。

Squad tents also appeared as soldiers' camping tents, but I think that this is a big problem.
Because at that time, these large tents were used only in headquarters, relief team, etc. on the front line.
The soldiers had only a shelter half tent.
Moreover, difficult to put even the shelter half tent in the front line.
At most the roof of the dug entered or around, sleeping around.
This camp is also a major reason why they were exhausted by consecutive battles.
In the drama, a scene sleeping using a stove or a folding bed appears.
After releasing the configuration on the Bruyères of the scene, waiting in the village. Not at the forefront, but the scene is located slightly behind, but still never rifleman had been sleeping in a large tent.
Even though we use farmers and buildings rented, we do not have a large tent.
Fact that had been battered in a continuous battle, will hazy in this scene.
Here, I think that I wanted to put out the figure of infantry of the poor environment in the front line.

なお、余談に近いですがヒロ・ヒグチ氏の回想で大天幕内の兵士が映るシーン。
ラッキーストライクとおぼしくタバコを咥える兵士が映りますが、このシーンは素晴らしかったです。



兵士が1本取り出したタバコを逆さにして自然に咥えます。
これは現代のフィルターのついたタバコでは絶対やらない行為です。これを自然にやっていたこのシーンは本当に素晴らしい。

Soldier will e mouth naturally in the upside down one taken out cigarettes.
This is an act absolutely not done in tobacco with a modern filter. This scene that I did this naturally is really wonderful.


また戦闘時にツリーバーストの描写がありました。
これはブリエアの解放者や、オヴィル・C・シャーレイの442連隊戦闘団にも書かれ442連隊とボージュの森の戦闘にとってはかかせないエピソードで、多くの兵士がこの砲弾で引き裂かれた木の破片で傷つきました。
バンド・オブ・ブラザーズでもバルジの戦いで同様のエピソードが出てきます。

以前民法で放映された日系人を扱ったドラマがありましたが、そこではツリーバーストが、木に当たった銃弾が弾けて飛んでくる、といったトンデモ描写がされていましたが、今回はそんな事はなくきちんと描写されていたので良かったです。
「ボージュの戦闘を描くなら必ず入れるように」と事前に言っていたのが効果があったかどうかはわかりませんがw
There was a depiction of a tree burst at battle.
This is an episode that is indispensable for the battle of the Vosges forest. Many soldiers were hurt by the fragments of the tree torn with this shell.
Even at Band of Brothers, similar episodes will come out at Battle of Bulge.

There was a drama dealing with the Japanese Americans that have been aired in the previous Civil Code.
There the tree burst was displayed with a bad mistake. This time has been well represented.
I said beforehand "If you draw a battle of Vosges, please be sure to enter", but I do not know if that is the effect.

ルディ・トキワ氏の回想で、WW1に従軍した父親がFBIに逮捕されるシーン。
すごい違和感があったんですよね。
軍籍にないFBIの捜査官であっても、合衆国陸軍の軍服を足で踏みにじるような事をするでしょうか?



いや、ドラマで飾ってあったのが日本陸軍の将校服の上着だったから、と言う意味ではなく。。。あれも言ってくれればあの男が用意できたと思います、踏まれるのは勘弁ですがw

「ブリエアの解放者たち」にはこうあります。
”FBIが戸口をノックした時、トランクから引っ張り出したかつての軍服を、なにげなく飾って迎え入れた。FBIは表情一つ動かさずにそれを一瞥したに過ぎなかった”

また他のインタビューでもトキワ氏は”FBIはその軍服とメダルを無視した”と話していました。
確かにWW1に従軍した一世をスパイ容疑で逮捕、拘禁するという事自体、大変な侮辱で差別的な扱いであった事と思います。
しかし、軍服を床に投げつけ足で踏みにじると言う描写は、本当にあった事でないなら、入れるべきでは無いと思いました。

In the recollection of Mr. Rudy · Tokiwa, the scene where FBI arrested by father who served in WW 1.
There was a sense of incongruity. FBI investigators have trodden the military uniform of his father in the leg.
Even investigator of not in the military register FBI, or will to do things, such as trample with a foot on the military uniform of the United States Army?

The had been decorated in the drama was the jacket of the Japanese Army officer clothing.
They probably were not ready costumes of WW1 US Army.
Although we could prepare.

In another interview, Tokiwa said that "FBI ignored that uniform and medals."
Certainly I think that arrest under the spy charge of Issei who served in WW 1 was a discriminatory treatment with a great insult.
But was there really a scene where throwing military uniforms on the floor and trampling on foot?
If it is not true, I thought that should not be included.

戦闘も終盤に差し掛かり、手榴弾を投擲するシーンがありました。基本姿勢に則って投げており大変良かったです。ただレバーは投げるまで離さない方が良いでしょう。

ドイツ軍の機関銃の射撃方法が、まぁ映画的と言うか「バババババババババ」と言う感じで、MG42らしく無かったのは残念ですが、仕方無いでしょうね。
それよりも土嚢を適当に積んだだけの陣地は残念でした。
とは言え、それも予算と時間の関係でしょう。
一晩かかってもちゃんと掘ってあげたのにw

There was a scene to throw grenades at the end of battle as well. He threw it in accordance with the basic attitude and it was very good. However, the lever is better to keep up to throw.

Shooting method of the German military machine gun.
It was not like MG42.
More than that, the position of the machine gun was bad at a bad time. .
That said, it would also be the relationship of the budget and time.
If you have me leave it to us, but was raised to dig properly even if it takes all night.


全体的にメインで映っている役者さん達の挙動は良かったと思います。
小銃の保持要領もまぁ変な現代風ではなかったですし。

さらっと見て、気になった点は以上でしょうか。

再三書きますが、再現ドラマにおいて細かい軍装等の描写は重要では無いと思います。
なので、これらの感想のほとんどはマニアとして思った戯言ですよ。
ですが、何箇所かは大事な意味を持つシーンもあり、そこはきちんと描写して欲しかったと思います。特に兵士達の宿営シーンや、トキワ氏の父親のシーンですね。

さて、これまで日本で作られた日系部隊関連の番組でVeteranやご遺族から高い評価を受けている作品はそうはありません。
この番組もいずれ彼らの見るところとなるのでしょうが、どのような感想を得られるのでしょうか?

あぁ、フランスのミカエルは「ディレクターがDVD送ってくれると言ってた。楽しみにしてるよ」と言ってましたよ。

I think that the behavior of the actors reflected in the main on the whole was good.
The way to hold the rifle was not modern.

I will write it again, but I think that depiction of fine military equipment etc is not important in the reproduction drama.
So, most of these thoughts is a nonsense that I thought as mania.
However, there are scenes that have important meanings in some places, I think that I wanted to describe it properly. Especially the campaign scene of soldiers and Mr. Tokiwa's father's scene.

That is my impression.
People of any overseas might also see this documentary.
How they evaluate, I want to know.

Thank you very much.

ReenactmentGroup BCo/100Bn in Japan. Hide Koda  


Posted by 先任  at 06:32Comments(0)そのたミリタリ日系部隊史

2017年03月09日

失われた大隊救出

迫撃砲班リエナクトの途中ですが、間に挟みます。


2017年3月19日19時からNHK-BS1にて下記の番組が放映される予定です。
BS1スペシャル
「大統領指令 “失われた大隊を救出せよ”」
http://www4.nhk.or.jp/bs1sp/

※当初、この記事を書いた2017年3月9日の時点では上記の番組タイトルで発表されていましたが、3月14日に確認した所番組名は「失われた大隊を救出せよ~米国日系人部隊 “英雄”たちの真実」に変更になった模様です。内容に変化があったかどうかは知るよしもありませんが、タイトルが変わったのは良いと思います。
なお、私はこのブログとTwitter、Facebookでは書きましたが直接NHKへ働きかけはしていませんw


この番組で制作会社とNHKから「番組の制作に協力してほしい」との依頼があり、昨年から何度かメール及び電話にて調整を行いました。
経緯としてはハワイやフランスで取材した方が現地の第100大隊クラブや、フランス・ボージュの友人であるミカエル・レイミー氏(番組にも出演しているようです)から私の事を紹介されたようです。


ミリタリヤマガジン表紙の彼、ミカエルw


詳しくは書きませんが、当初聞いた番組の製作意図、兵士達の扱いに疑問があり、私は意見として「現状では協力は困難。日系部隊に関して誤解がある内容であり、そのまま制作、放映するのは誇りを持って戦った彼らに失礼であり、日本でどのように紹介されるか興味を持っているVeteran、ご遺族の心情を考慮すべきである」との内容を送りました。
制作サイドからは「充分に了解しており、決して誤解を与えるような番組にはしない」との回答をいただき完全にではないものの一応の納得をして「では撮影の予定が決まれば連絡してください」という事を伝えてありました。

撮影予定日だけは事前に聞いていたため、参加可能なメンバーと日程調整、機材、装備、被服の準備等も行い(詳細を聞いたが「調整中」との回答だったため、あらゆる事に対応できるよう準備を行ってました)、待機していたのですが結局、別の手配で集まった方々で撮影を実施したとの事でした。

撮影内容も知人のFBやTwitterでチラチラと見ましたが。。。セット等を見る限りは「あぁ、協力したらもっと良い物になったのにな」と言う印象でした。
それ以上は放映を見てからにしたいと思いますw

もっとも、撮影部分はドキュメンタリーの中の再現ドラマ部分ですので、重要ではありません。
※もとより私自身は当時の兵士役として出演する気はありません。

ただ、我々を外したからには制作意図に関しての修正が効かなかった可能性のみ心配しました。

そして発表されたタイトルが冒頭のものです。

「大統領指令 “失われた大隊を救出せよ”」

見た瞬間「???」となりました。
大統領指令。 日系部隊、ボージュの戦闘に関して聞き覚えの無い言葉でした。
442RCTが包囲されたテキサス大隊=第141連隊第1大隊救出の命令を師団から受け、それを多大な犠牲を払いながらも成功させた事はあまりに有名です。
アメリカ陸軍十大戦史にも数えられ、その記念絵画もあるほどです。
しかし、それが大統領からの命令だったとは。
慌てて家の日系部隊関連資料を漁りました。


日本語書籍


英語書籍

でてきません。

公刊戦史にもドウス・昌代氏の名著「ブリエアの解放者たち」にも、おそらくすべての442連隊関連の元になっているであろう1950年発行の「442部隊」 ※原題「Americans」 オヴィル・C・シャーレイ著(442RCT情報将校)にも。
冒頭写真

ネットで検索すると、チラチラありましたがどれもその根拠は示されていません。
ウィキペディアには「10月25日には、第442連隊戦闘団にルーズベルト大統領自身からの救出命令が下り、部隊は出動した。」 とありますが、どこからの引用かは不明。
ちなみに英語版wikiにはその記載はありません。

あ、一つありました。



矢野徹著「442連隊戦闘団」 1979年発行 ※写真は同書のハードカバー版「442」 2005年発行

矢野氏の「442連隊戦闘団」は記録(実際は前述のAmericansの和訳)と、Veteran及び関係者へのインタビュー紀行及びそこからイメージしたと思われるドラマ=小説部分が混在した構成になっているのですが、そのドラマ部分に登場するジミィ・タムラ少尉と会話するホーキンス中隊長(階級不明)のセリフが下記の通りです。

「この失われたテキサス大隊を救出するため、これまで奴らの連隊の第2、第3大隊が出動したが、どちらもドイツ軍に追い返されてしまった。大隊は全滅寸前だ...それで、本国テキサス州の連中が騒ぎたて、大統領に圧力をかけたんだな.....大統領の命令はヨーロッパ戦線アメリカ軍最高司令部を通じて、われわれ36師団長ダールキスト少将に直接伝えられたってわけだ」

この矢野氏の著書は、当時日系部隊を紹介する本など殆ど無かった時代と言うこともありますし、日本において日系部隊を紹介した功績は大変大きいと私は思います。
ただ、同時におそらくは間違いではないか?と思われる点を後に残した点もあると私は考えます。
※決して矢野氏を批判するわけではありません。史実の記録と想像で書かれた物語を混在させて描き出す手法は読者にインパクトを与える上で重要であり、記録だけを読むのは普通は苦痛でしょう。これは当時素晴らしい本だったと思います。

この本のドラマ部分に登場する兵士の多くは「部隊に実在していない」名前です。
証言部分で登場するVeteranも実在の名前だったり名簿には無い名前だったり。
もしかすると、当時ご存命だったVeteranを気遣い偽名を使った可能性もあります。

また前述のジミィ・タムラ少尉はカッシーノ戦からの歴戦として書かれていますが、100大隊の名簿にその名は無く、また同時にカッシーノ戦の時の所属は36師団141連隊となっていたり、更には442のエピソードと100のエピソードが混在していたりもしています。

他にもテキサス大隊を救助した際のやりとりとしてたびたび引用される「ジャップ部隊」と言われて「ジャップとはなんだ!」と叱り、テキサンに謝罪させたエピソードもまた、この矢野氏の著作を始めとする日本の本でのみ見る話です。

もちろん部隊には多くの人間が居り、その他の話が絶対ではないですし、矢野氏自身がVeteranにインタビューしているので、他には語らなかったエピソードである可能性もあります。
しかし他の書籍で「救助した連中からジャップと言われた覚えは無い」 との否定的な話が多く、また部隊の攻撃は継続中であり、もっと淡々としていたような証言が多いのです。
過去のドキュメンタリーにあった「タバコあるかい?」と聞かれて「あるよ」と応えたVeteranの証言も、字幕では「あるよ」だったが実際の英語は「in messpan」と続いています。
これを私は「タバコはあるが、背嚢の食器の中だ。 今は出せない→君にあげるタバコは無い」と言う意味であろうと解釈します。
「ブリエアの解放者たち」にも水を求められて断るエピソードがあります。
救出されたテキサス大隊は、そのまま後方に下がって暖かい食事、シャワー、補給が得られるのですが、攻撃を継続している442RCTは携帯レーションすらままならぬ状況でした。

それが矢野氏の本では実にドラマティックに描かれています。
著者本人が「冒険小説」を書いたと言ってますし、重ねて言いますがそれを批判する気はありません。
ただ、上記の事などからもこの「大統領指令」はかなり疑問を持つのです。

また普通で考えても25日に包囲が判明した1個大隊の救出について、大統領が即日に連隊を名指しで命令を下す事があるでしょうか?
確かに、当時テキサス大隊の窮地は本土でもラジオで伝えられていたようで、アメリカ国民がそれを注視していた事は多くの記述もあり事実かと思います。
フランスの研究家で友人だった故ピエール・モーリン氏の著書「AmericanSamurais」には大統領や議会もラジオで失われた大隊の事に注目、更には442RCTがその救出に行動していた事がハワイでも放送され、人々の注目を集めていたことが書かれています。
これは何を意味するでしょう?
味方部隊の窮地、救出部隊の行動、それらをラジオ放送でワシントンの大統領もハワイの人々も聞いて居た。

このラジオが放送された日付は確認できませんでしたが、間違いなく「付近の戦闘終結後」でしょう。
いくら「自由の国」とはいえ、そもそもが陸軍から提供される情報を元に放送される時代です。
まさかリアルタイムで「今、味方のテキサス隊がピンチです」「442部隊が救出に出撃しました!」などと流せるはずがありません。

つまり、国民がこのニュースに反応し、議会や圧力がかかって大統領が部隊に命令を下す、と言うのは有りえないのです。
もちろんポーズとしてそう言った可能性は否定できませんが、その頃には大統領は救出成功を知っていた事でしょう。でなければ失敗した場合、責任の所在が問題になると思います。



ブリエア攻撃前、宿営地にて休息中の100大隊B中隊


ブリエア解放

また別の面からもこの戦闘に注目してみました。
これも日系部隊関連の書籍、特に日本で発行された本に多くある話で「白人のテキサス隊を助けるために有色人種部隊である442が犠牲となった」というもの。
もちろん結果的には事実でもあり、その多くの犠牲を払った勇敢な442RCTには敬意を惜しみません。
しかし、最初からいわゆる「弾除け」「犠牲を出して良い部隊」として442RCTが指定されたわけでは無いように思います。






モーリン氏の著書「U.S.SAMURAIS in Bruyères」にある略図(当時の記録から起した物を見やすくしたもの)と、シャーレイ氏の「442連隊戦闘団」にみる記録、ドウス・昌代氏の「ブリエアの解放者たち」にある証言等から簡単に第36師団の行動を俯瞰してみました。

10月15日0800 442RCT(左翼)と143連隊(右翼)は集結地を出発しブリエア攻撃を開始。442RCTは北の山沿いを、143連隊は街道と集落を経由しながら東へ進撃。
この間、141連隊、142連隊は更に右翼に戦線を形成し、南側を防御。
10月18日1000 442RCT(左翼)ブリエア東から、143連隊(右翼)ブリエア南から攻撃開始。
      1830 ブリエア解放
10月19日~22日 442RCT(右翼)はブリエア東側の高地郡を攻撃。141連隊、143連隊(左翼)はベルモント北側を通過、北東へ攻撃。
10月23日 442RCTに対しビフォンテン攻略が下令。突出の危険がありRCT本部は難色を示すも師団長命令により実施。攻略後、442RCTは予備となり143連隊と交替しベルモントにて休息。143連隊もベルモンテ近郊で待機していた模様。
141連隊がビフォンテン北側から東へ攻撃、第1大隊が突出してしまい包囲される。
10月24~25日 141連隊の第2、第3大隊が第1大隊の包囲線に攻撃をかけるも失敗。
10月25日0230 442RCT(第2大隊)に救出の為の待機命令。
10月26日0300 442RCT第2大隊は141連隊第3大隊と交替するもドイツ軍の猛攻を受ける。
10月27日0400 442RCT第100大隊(右翼)、第3大隊(左翼)は師団右翼として攻撃開始。
          143連隊も師団左翼として攻撃を開始してる筈だが不明。
10月29日 予備として北側で待機していた442RCT第2大隊は連隊の右翼(南側)へ展開。
       442RCT第100大隊(右翼)、第3大隊(左翼)は攻撃を続行。
       141連隊第3大隊が442RCTの左翼から援護を実施(ただし442RCT側は確認していない)
10月30日 442RCT第3大隊が141連隊第1大隊へ到達。

多少間違いがあるかもしれませんが、だいたいの流れは上記の通りだと思います。
こう見てみると分かるのは「遊んでいた連隊は無い」という事でしょうか。
142連隊の行動は記述に出てきませんが、おそらく141連隊が抜けた分をカバーし、広い戦線を維持していたものと考えます。
143連隊も失われた大隊救出時、442RCTの左翼にいた筈です。
※「ブリエアの解放者たち」では、143連隊の姿が見えない、と442RCT本部で話が出ていますが、実際には左翼を固めつつ、進撃していました。被害も出しています。
141連隊の残存は大きい被害を出しており、第1大隊を失っていたため攻撃に出る余力はほとんど無かったものと考えられますが、それでも442RCTの後詰として追従しているのが図から伺えます。
救出作戦自体は大規模となっており、多数の支援部隊や救急体制が整えられていたとの証言がありますので、その護衛などをしていたのではないでしょうか?

また、442RCTが特別に救出の為に投入されたとの印象もありません。
通常の攻撃の手順で予備と交替しているように思えます。
確かに連続した戦闘で疲弊し、休息もままならない状況ではありましたがそれは他の連隊も同様だったと言う事です。

失われた大隊を包囲する敵の抵抗は頑強で、連続した戦闘による疲弊も相まって442RCTは多大な犠牲を払います。しかし、それは特に「日系部隊だから犠牲を払わされた」と言う意味ではないと思います。
逆に「日系部隊だから突破に成功した」とは言えるでしょう。
師団は442RCTを見殺しにしていたわけではありません。
救出作戦時442RCTの第100大隊には
「第752戦車大隊B中隊」
「第636戦車駆逐大隊C中隊(M10駆逐戦車装備)」
「第82化学戦大隊D中隊(重迫撃砲装備)が、
第3大隊には
「第752戦車大隊D中隊」
「第3化学戦大隊C中隊(重迫撃砲装備)」
が増援として指揮下に入れられています。
更にRCTの持つ第522野砲大隊にも師団直轄の第133野砲大隊を加え、おそらくは師団の持つ最大火力を支援に当てていたのではないでしょうか?




第36師団長、ジョン・ダールキスト少将は多くの日系部隊関連書籍で「悪役」のような印象で扱われています。
彼の命令によって、442RCTは多大な犠牲を払った、と。
実際、連隊に対してはもちろん大隊に対しても強引な攻撃を直接命じ、更に証言によっては直接兵士にさえ前進を命じたと言うのもあります。準備期間も無く、布陣を整える前に頭ごなしに攻勢を命じるやり方は第100大隊本部でもかなり不評だった事が伺えます。

しかし、別の見方をするならば彼の指揮によって442RCTは空前の戦功を挙げ、その名を轟かせたと言う一面も存在するのではないでしょうか?
もちろんそれで犠牲になった方を、前線で苦労した方々の想いを否定するわけではありません。

ある証言にあります。
「雲の上の人みたいな師団長、少将閣下が弾の飛んでくる前線まで来てハッパをかけているのに驚いた、と」
確かにボージュの戦闘において、師団長はかなりの割合で前線に来て、直接指示を出しています。
もちろん指揮統率の面から言ってそれが手放しで素晴らしいとは思いません。前線の隷下部隊の指揮官はやりにくい事、この上ないでしょう。

しかしある評価にあったような「事務屋で前線の事を知らない、出世狙いの将軍」と言う印象からは少し違うような気がします。

師団長付きだったウェルス・ルイス中尉(ノーベル文学賞受賞者シンクレア・ルイスの長男)が師団長のすぐそばで敵弾に倒れたのは10月28日。
ある本にはその後恐れて前線に出てこなくなった、とありますが29日以降も師団長は敵弾飛び交う前線に姿を見せて激を飛ばしているのです。




また「犠牲をなんとも思ってない」ような印象を受ける書き方もありましたが、有名なエピソードである、失われた大隊救出後のセレモニーでの一幕。
「全員を整列させろと言った筈だ」
「ここに居るのがその全員です」 というやり取りで絶句したと言う物。

そう。 絶句しているのです。
犠牲をなんとも思ってなければ、そのような反応にはならないのではないでしょうか?

とはいえ、師団長に関しては44RCT連隊長のチャールズ・ペンス大佐や第100大隊長ゴードン・シングルス中佐、B中隊長だったサカエ・タカハシ大尉、100大隊S3(作戦将校)の英雄ヨンオク・キム大尉をはじめ、指揮官クラスは一応にその指揮のまずさ、判断力の無さを具体例も挙げて批判してますので、指揮官としてはダメだったんでしょうね。


長々と書きましたが。。。。

大統領指令。どうだったのでしょうね?
過去に文藝春愁の「ドキュメントアメリカ第442歩兵連隊:日系二世たちの第二次世界大戦」という大変よくできたドキュメンタリーがあるにも関わらず新たに制作するくらいですから、やはり新事実があったのでしょうか?
大統領からの指令ともなれば、根拠文書は残っていておかしくないはずです。
その事に触れるのであれば、当然それも示していただきたいものですね。

連隊に大統領から直接下ったという異例のこと。 もし根拠ある事実でしたら、師団長の人種差別論も撤回する必要があるでしょう。





もう一冊ありました。
柳田由紀子氏著 「日系兵士激戦の記録」 2012年発行。

この中にも大統領からの指令という記述がありました。
矢野氏の記述より更に踏み込んだ内容は以下の通りです。

「失われた大隊のニュースがアメリカ本国に報道されると。国民はラジオにかじりついて救出を切望した。なんといっても、アメリカ人が矜持とする部隊なのだ。とりわけ、地元テキサス州選出の上院議員は、ルーズベルト大統領に救命を直訴し、大統領もこれを承認するという特別の事態となった。反対に救出を命じられた二世兵士は満足な休息も与えられぬまま捨て石のごとく前線に送り込まれたのだった」

どうなのでしょうね?
  


Posted by 先任  at 16:45Comments(2)そのたミリタリ日系部隊史

2016年12月09日

東條英機首相が日系人に送った手紙について ~Remember Pearl Harbor.

12月8日 Remember Pearl Harbor.
多くの人の運命を変えた日、と言う事で歴史に残る日でしょう。

正義だったとか陰謀だったとか、外務省が悪いとか、そもそも海軍が悪いとか
後から色々言いよう、考えようはあるもので、その時代の人がそれぞれ「より良き」を目指して全力を尽くした結果なのだと思っています。
(全力を尽くすのが、良い事ばかりでないのも確かですが)

日本には日本の、アメリカにはアメリカの立場や思惑があったのは当然なのでしょうが、狭間になった日系アメリカ人の事を思うようにもなったのはここ10年くらいでしょうか。
恥ずかしながら、それまでは考えた事も無かったので。

間違いや奇跡や手違いや僥倖。
そして、大前提としての準備と訓練。
様々な要素が絡み合った結果として、真珠湾攻撃と言う歴史的な戦闘は行われ、終わりました。

本土やハワイの日系アメリカ人にとっては、これまでの財産地位を奪われた方も多く、まさに衝撃の事件だったのでしょうが、戦後の日系人社会を築きあげる第1歩となったと言う見方も存在します。
(良し悪し、ではなく)

安倍首相が真珠湾を慰霊の為に訪問するそうですね。※2016年12月
素晴らしい事と思います。
別に政治的な事を書く気はありません。
第100大隊のVeteransClubも歓迎しているそうです。

以前にも書きましたが、第100歩兵大隊のモットーは「Remember Pearl Harbor.」です。
ルーズベルト大統領が対日戦の為の国民の士気を高め、同時に相手国である大日本帝国を国際的に貶める為に用いた言葉と思います。
これを日系人部隊である第100歩兵大隊がモットーとするに、深い意味があったと考えます。

一部ネット上の書き込みでは「裏切り者」等と言うものも見られますが、日系アメリカ人から見れば裏切ったのは日本帝国であったでしょう。
様々な理由と原因があったにせよ、開戦したのは日本でありそれまでの生活が一変する事になったのは日系アメリカ人達でした。 ※開戦の善し悪しについては言及していません。

祖国たるアメリカ合衆国への忠誠の誓いとしての「Remember Pearl Harbor.」もあった事でしょう。
そしてまた、日本が攻撃したのが生まれ故郷であるハワイだった、と言う事もあるかと思います。
政治的行為としての戦争によって、敵国となった父母の祖国、日本。
第100歩兵大隊の兵士達は国民の義務として兵役に就き、命令のまま出征して行きます。
そこにどんな思いがあったか。それは当事者でなければわかりません。
ただ間違い無いのは、彼らはアメリカ人として義務を果たすべく「祖国」の為に戦ったと言う事です。


ネット上等でよく語られる有名なエピソードとして、東條英機首相が日系人に対して送った手紙、と言うのがあります。

これはロサンゼルス郊外に当時あった、コンプトン日本語学校の遠藤校長が日米開戦時に東条首相から来た手紙、として紹介したもので、朝礼で手紙を校長が読んだ事を日系アメリカ人3世Minoru Tonai(藤内稔)氏が語ったものです。
その内容を要約すると
〈『日系二世は、アメリカ人である。』だから、あくまでも自国に忠誠を尽くして当然である〉
というような物であったそうです。
この内容から東條首相を武士道の鑑、ひいては戦前日本人の魂の美しさとするエピソードです。
確かに美しいエピソードかもしれません。日本人として気持ちよく思える内容です。

しかし私個人的にはこの手紙のエピソードは以下の2点で不自然であり、そのコンプトン日本語学園の遠藤校長が創作したのではないか? と疑っています。その理由は下記2点です。

・一次資料として手紙そのものが一切残っておらず根拠が確認できない。
・他の学校や日系人社会に同じ手紙、または同様の内容について触れられた物が確認されていない。

これだけ大事な内容のもの、そう簡単には破棄されないものと思いますが、現に講話された遠藤氏がその後コンプトン学園が廃校となり(生徒、職員の多くは再配置センターへ収容されたのでしょう)、フィリピンへ渡った後に戦火に巻き込まれて亡くなったとされています。
よって、実際に手紙が存在したとしても遠藤氏が持っていた場合、それは戦火に消えてしまっても不思議ではないでしょう。
しかし、この手紙の内容からすれば、それは全ての日系人社会、関連学校に送られてしかるべき内容です。
コンプトン学園にのみ送られたと言うのはあまりに不自然です。
そして、2021年現在他の日系社会及び日本人学校等で、同様の首相からの手紙があったと言う話はまったくありません。

しかしMinoru Tonai氏の証言自体は創作とは言い切れません。
本人の証言のみではありますが、同じコンプトン学園出身者が同様の話を聞いており、収容所内でも話題になったと語られています。
そこから察するに、おそらくはコンプトン日本語学園の校長、遠藤氏が朝礼で語った、と言う事は事実の可能性があります。
しかし、その内容は実際に東條首相から来た手紙ではなく、遠藤氏の創作であった可能性が高いと考えます。
日米開戦の機運が高まる中で揺れ動く、在米日系人に一つの指針を示したものではないかと思うのです。
既に西海岸に生活の礎を築いていた当時の日系アメリカ人社会にとって、アメリカでの生活すべてを捨てて日本へ帰る、と言うのはかなり難しい選択でした。
もちろん日本へ戻った方々も居ます。
家族全員で戻った方も居れば、兄弟で日米に別れた家族も。
日本に子供だけ帰り、父母はアメリカへ残った方も。様々な別れがありました。

そして、アメリカで執拗な日系人差別を受け、日本に帰った方々の多くを待っていたのは「アメリカ人」と言う差別だったという話も多くあります。
そんな時代のエピソードとして、この東條首相の手紙の話が、真偽もわからないままに当時の「日本の美談」として語られる事に、私は強い嫌悪を感じます。
もちろん事実だったとするなrば、それは一つの素晴らしいエピソードなのかもしれません。
しかし、上記の通り事実とするにはあまりに根拠が無さ過ぎ、また都合の良いエピソードです。

もし今後、手紙そのもの等の物的証拠や、他の学校や地域で同様のエピソードが多く出て来るような事があれば、私は認識を改めます。
おそらく、出て来る事は無いと思いますけれども。


また上記とは別に松岡洋右氏も同様の内容をハワイでの講演会において日系アメリカ人に伝えた、と言う話もありますがそれも口頭の事らしく真偽は不明です。
それより以前に帝国海軍の練習艦隊司令官としてハワイを訪れた鈴木貫太郎氏が、質問を受けて「日系移民は米国人」との発言をしたとのエピソードはありますが、それも口述の話のみですね。
なお、それだけ大きな内容にもかかわらず「ハワイ日系人移民史」にその記述はありません。
本来、移民がどのように行動すべきかを、祖先の出身国の責任ある立場の者が語った話であるならば、移民史としてかなり大きな部分になる筈です。
いくつかのWebサイトや、チャンネルなんとかとか言う番組で「戦前」と曖昧に表現されていますが、まったく根拠がありません。

上記のエピソードは2010年9月2日、カリフォルニア州ロサンゼルスで行われたインタビューが初めてではないかと思います。※それ以前にあれば済みません、私の調査不足です。
また同年11月に公開された映画「442日系部隊ーアメリカ史上最強の陸軍」の中でTounai氏のインタビューが使用されており、同映画に合わせて雑誌「歴史通」でも紹介された事から国内でも注目されるようになったものと考えます。

これらの事があったにせよ無かったにせよ、ハワイの日系兵士達は国の為に義務として兵役に就き、出征していったと言う事は間違いが無いのですけども。

上記により、私は東條英機首相が日系アメリカ人の為に送ったとされる手紙について、その存在を否定いたします。
もし、それが存在した証拠を示せる方が居られましたら、それを教えていただけると嬉しく思います。
無い、と言う証明はいわゆる「悪魔の証明」で、行う事ができませんが、自分の少ない知見から可能な限りで理由を記述いたしました。
反証を求められるならば、これらについてよく読まれた上で根拠を示してお願いいたします。

あ、映画442やちゃんねるなんたらのYoutube貼るだけとか止めて下さいね。
あれ、なんの根拠にもならないので。
もう一度書きますが、Minoru Tounai氏の記憶や証言を否定していません。おそらくそれは正しいと思います。
私が存在を否定しているのは、手紙そのものです。


Minoru Tonai氏は1929年2月6日産まれ。(日本名 藤内 稔)
当時約3千人の日本人移民の漁師たちがコミュニティーを形成していたカリフォルニア州ロサンゼルスのターミナル島出身、1934年には8ヶ月間家族と共に日本に滞在、その後ロスアンゼルスのサンペドロに移住。
1942年5月には家族と共にサンタ・アニータ競馬場へと収容、その後コロラド州のアマチ収容所にて第二次世界大戦を過ごしました。
1950年に徴兵され陸軍に入隊。衛生兵となり日本に駐屯。1952年に朝鮮半島へ派遣後、除隊。
UCLAでの募金活動の他、様々な日系コミュニティで活躍。
米国における日系人社会の地位向上と、日米間の相互理解の促進、友好親善に寄与。
その功績により平成27年度の春の叙勲において旭日小綬章を授章されています。



1941年12月8日(現地7日) ハワイ海戦
日本海軍戦死者 64名
アメリカ軍及び軍属の戦死者 2345名
ハワイ民間人の戦死者 57名


これらの犠牲者を偲びつつ。










日米、両国国民に真珠湾の記憶は残さねばならないと私は思います。
その意味でのRemember Pearl Harbor.は現代に通じる、と私は考えます。
  


2016年06月16日

訃報 Isao"Roy"Takiyama LCo/442RCT Veteran

5月キャンプレポートの途中ですが、残念な訃報が入りました。
2012年に私がハワイを訪れた際にお会いし、様々なお話をして下さった442連隊戦闘団L中隊のベテラン、Isao"Roy"Takiyama氏が昨日亡くなられたそうです。93歳でした。



私の右隣の赤いシャツの方がIsaoさんです。
※本物のVeteranの前で米軍の制服を着るのは緊張しましたが、皆さんから「是非、Reenactのユニフォームを着て参加して下さい」と言われたので着用しました。

お会いして下さったVeteranも次々と鬼籍に入られます。 悲しい事ではありますが、ご高齢を考えるとしかたがない事なのでしょう。
長い間お疲れ様でした。

Isaoさんは、442のベテランですが、A中隊の故Goro Sumida氏との親交が深く、100大隊のクラブによく来られていたそうです。
私がクラブを訪れた際も来られていて、お話する機会をいただきました。



Isaoさんは、お会いした際、当初は戦場での体験をあまり語って下さりませんでした。
「今の君たちに言ってもわからない」と思われていたのかもしれません。

話を続け、我々のReenactingを見て頂いてる途中、一枚の写真に注目されたようでした。
泥だらけで穴を掘っている写真。





それを見たIsaoさんは、「こんな苦労をわざわざしているんだね。私は二度としたくない。 しかし、それが自分に与えられた任務だった」 との事を言われました。

またレーションの話もして下さり、缶詰のレーションをヘルメットで調理した事や、畑の野菜を拝借wして生でかじった事など。

私の英語の能力があまり、なので正確ではないかもしれませんが次の言葉が深く残っています。

「我々は死んでも戦うのが任務だった。君たちは兵隊ごっこで死ぬ事はないだろう? でも、同じ苦労をしようとしている。 だから君達は私達442ボーイの事を伝えて行くのが任務なんだよ」 と。

私はReenactingを続けるに当たって、これを生涯忘れないようにします。

ご冥福をお祈り致します。  


Posted by 先任  at 11:58Comments(0)日系部隊史

2016年04月15日

故ピエール・モーリン氏を悼みます。



フランス、Bruyeres出身でホノルル在住の日系部隊研究家、ピエール・モーリン氏が去る2016年4月11日の月曜日に亡くなられたそうです。
彼は産まれた街をナチスから解放した日系兵士達442連隊戦闘団と第100大隊の研究、紹介に生涯を捧げました。

1944年晩秋、攻撃開始前にアメリカ軍が得ていたボージュの森の状況は、主に現地の民間人からなる情報員達にもたらされていました。
その中心人物だった1人にマクス・アンリ・モーリンと言うフランス人が居ました。
「ジョーⅡ」との暗号名で呼ばれた彼はブリエア西端の出身で、森に精通しており、また強い愛国者でもあったため、アメリカ軍へ協力する道を当然のように選んだそうです。
第36師団へ森の情報を伝えた後「ジョーⅡ」は師団司令部で命ぜられ第442連隊戦闘団へ道案内として着くのが10月14日。攻撃開始の前日でした。
「ジョーⅡ」はその後、数週間に渡って第442連隊戦闘団へ協力し、無事に戦後を迎えます。
ピエールと名付けられたアンリの息子は、成長して間もなく父親アンリと死別。亡き父親の遺品の中から「ハワイから来た小さいアメリカ兵」に関する記録や当時のメモ、更に多くの軍事地図等を発見。
大変な興味を抱くと同時に祖国、そして故郷を解放した兵士達の事を記録しなければならないと決意し「U.S.samurai」を執筆します。
その後も調査を続けながら晩年はハワイ、ホノルルへと移住し生涯を日系部隊の歴史を綴る事に捧げました。

ちょうどその頃に私はピエールとFacebookで知り合いました。我々のリエナクトメントの写真を見て、の正確な再現性にとても驚いたとメッセージを送ってくれました。アメリカ国防省の記録にすら触れる事もできるピエールでしたが、日本人的な思考や軍隊、兵士の細かな部分を知ることはかなり難しかったようで、私との情報交換を大変喜んでいました。

また、ハワイとフランスの架け橋としてベテランや家族の訪仏を支援しておられました。
※この様子は442連隊公式戦史「Go For Broke」や、ジョン・ツカノ氏の「bridge of love」に掲載されています。




また後年は太平洋戦線に従軍したMIS等の日系通訳にも目を向け、さらにはダッハウ収容所の解放に携わった第522野砲大隊についての本も出版されました。

私自身はハワイ来訪時に陸軍博物館で会い大変フレンドリーに友好を深めた思い出があります。
私はフランス語がまったく出来ず、ピエールは日本語がダメでしたが、カタコトの英語でも趣味の話は盛り上がるのですよ(笑)



時間を忘れてしゃべり続け、博物館の係員に嫌みを言われて追い出された後も外で話してました。

そしてハワイ日系兵士の慰霊祭においては、参列者に過ぎなかった私を「俺の車椅子押してくれ」と誘い、花輪を捧げさせて貰う栄誉をくれたのです。




帰国後も主にフェイスブックやクリスマスカードでピエールとの親交は続き、MISに所属した兵士やアロハ桜の事、また第100大隊に従軍した朝鮮系兵士の事をやり取りしていました。

ピエールからは他にも多くの資料のコピーを貰い
「私はフランスで彼ら(日系部隊)の事を1人でも多くの人に知って貰いたくて本を書いた。あなたは、日本で同じ事をしようとしている。私達は同志で友人だ。私の資料と本はすべて、あなたが自由に使って構わない」
と、力強い言葉も貰いました。
ピエールとのやりとりの中で興味深かったのは、ピエールは442連隊や100大隊に対する軍内部での人種差別を強く感じており、例えば第100歩兵大隊がローマ入城を果たせなかった点を強く糾弾していたのですが、実は私はそこはあまり考えておらず、チビタベッキアへの移動は第442連隊戦闘団との合流を優先した為であり、他に理由は無いのではと言うと驚いていました。
私はそこに人種差別的意識があったならば、その後にレグホーンでの海軍長官フォレスタル大将や英国王ジョージⅥ世の閲兵式に第100歩兵大隊を並ばせて「マイベストユニット」と紹介したマーク・クラーク中将の行動と一貫性が見いだせないとも伝えました。
ピエールは目を丸くして、ノートに何やら書き留めると、大きく笑って言いました。
「多くの人は、怒る所なんだ。これは差別だ、と。でもあなたはそれを冷静に分析し、理論的に導いている。それがあなたの素晴らしい所で、ジャパニーズ(日本人か日系人かどちらを指したのか不明)の素晴らしい所だ!」と。

いつかまた、ハワイに行って会いたい、話したいと思っていた矢先の事でした。

ただ、彼の死を心から悼みます。

R.I.P. mahalo!
  

Posted by 先任  at 10:29Comments(0)日系部隊史

2014年11月12日

OnePukaPuka Marching Song



100th Infantry Batalion Marching Song

One Pukapuka Infantry, We are the boys From Hawaii nei
We're fighting for you And the red white and blue,
We're going to the front, And back to Honolulu-lu-lu
Fighting for dear ole Uncle Sam, What the Hell!! We don't give a damn
Let Them Come and Run At the point of Our Gun
When, One Hundred.Leads The Way.

IMUA E Fight! Fight! Fight!, IMUA E Fight! Fight! Fight!,
From PearlHarbor to Italy and France,
IMUA E Fight! Fight! Fight!, IMUA E Fight! Fight! Fight!,

All Hail! Our Fighting Team!!

※私勝手訳

「第100歩兵。我らこそはハワイ男児。
俺たちが戦うのは合衆国と君の為。
俺たちは前線まで行き、故郷へ戻る。
故国のため戦う。戦死がなんだ。俺たちは恐れない。
さぁ、俺たちの銃先にかかってこい。
100大隊はいつ、先陣を切るだろう。

前進! 戦え!戦え!戦え! 繰り返し
真珠湾から、イタリア、フランスまで。
前進! 戦え!戦え!戦え! 繰り返し

我らの戦闘大隊!」

今回は、第100歩兵大隊の歌について書きます。
上記の歌詞は、100大隊B中隊のveteran、ロバート・アラカキ氏に教えていただいたものです。
また、セレモニー等で歌唱隊が442連隊歌と併用して歌い、使用されているものです。

100大隊歌と442連隊歌の関係は諸説あり、どれが正しいものかは今ではわかりません。
そこで、私が知る限りのことを記し考えてみたいと思います。

私が最初に「歌」について知ったのは、ドロシー・マツオ氏著の「若者たちの戦場」に出てくる、マーティン・イイダ軍曹が連隊歌を作った、というエピソードと日本語訳された歌詞でした。
ハワイ、キラウェア出身のイイダ軍曹はL中隊に所属し、140高地の戦闘で戦死しました。
(140高地の戦闘は、キャッスルヒルの戦闘の前哨戦で、1944年7月4~8日にかけての戦闘です)
442連隊がチビタベッキアで第100大隊に合流したのが6月10日ですから、戦地に来て1ヶ月という所でした。
442連隊歌がいつごろ作られたのかは定かではありませんが、歌詞の内容からキャンプ・シェルビーではないかと言う気がします。
とすると、必然的に100大隊歌より442連隊歌の方が先、という事になるのですが。

その後、日系部隊の再現映像を撮られたForest氏、以前から日系部隊を研究しWebサイトで紹介しておられたhawkeye大尉を通じて、我々の再現活動動画に日系3,4世の方々が歌った「442nd Fighting Song」を使用する事となり、初めてメロディを知りました。

Four-Forty-Second Infantry! We're the boys of Hawai'i nei
We'll fight for you.And the Red, White and Blue,
And go to the front.And back to Honolulu-lulu.
Fighting for dear old Uncle Sam. Go for broke! We don't give a damn!
We'll round up the Huns. At the point of our guns,And vict'ry will be ours!



その時の動画がこれです。

その後、442連隊歌の他に第100大隊歌もある、と言う話をブログか何かで知ったのですが、それ以上の情報は無く数年が過ぎます。

2012年9月。
初めてハワイ、ホノルルの第100大隊クラブを訪問した際、冒頭の歌詞をいただきました。
印刷された紙にいくつか手書きが加わった歌詞の紙に「100th Infantry Batalion Marching Song」と書かれているのを見つけた時の興奮は今でも忘れられません。
アラカキ氏に「これはイタリアで歌った歌だよ」 と聞き、楽譜、メロディは無いのかと尋ねたところ「これしか無い」との答えでした。
その時は残念に思ったのですが、よくよく歌詞を眺めていると、ピンと気づくものがありました。

「これって、442ソングの歌詞替え版ちゃうん?」

試しに小さく歌ってみると、ピッタリ合います。
そして他のveteranやご家族の方にも促され、クラブ内で歌ってみると拍手喝采ww
どうやら合っていたようです。

その後、JointMemorialServiceのセレモニーでは、歌唱隊が1番を100、2番を442版の歌詞で歌った事もあって、「同じメロディ、違う歌詞(似ているが)」である事がはっきりしました。

おそらくはどちらかが先に作られ、替え歌的にもう片方が作られたのでしょう。

では、どちらが先だったのか? に戻ります。
私は以前は(希望的な面もありますが)100大隊歌が先だと考えていましたが、前述の通りなら442連隊歌が先だという事になります。

まず、442歌については前述の通りマーティン・イイダ氏が作ったという記述がありますが、曲については作曲と言うわけではなさそうです。



これはアメリカの沿岸警備隊「U.S.CoastGuard」の行進曲で「Semper Paratus」と言う曲です。
とても似ている、と言うよりほぼそのままなのが分かるかと思います。
このSemper Paratusは、戦前のハワイ国土防衛軍でも使用されていたそうで(現在の州軍の士官に確認しました)298,299連隊に所属していた100のオリジナルメンバーなら知っていて当然でしょうが、VVVや普通のハワイ市民であっても知っていて不思議ではありません。
曲調も良く、自分達ハワイアンのテーマのような印象を持っていたのかもしれません。

442歌も100歌も「ハワイ」に関する部分はほぼ共通で、まぁ「コトンク」の事は考えていない作りです。
このあたりは100が先、な気がした理由です。

100の歌詞にある「What the Hell!!」(地獄がなんだ!) と言う部分は442では「Go For Broke!」ですね。
ここも、442の方がしっくりくる点でもあります。

442連隊歌のコーラス部分のライライライ、の部分について、本土で監視していたドイツ軍捕虜に教えてもらった歌から取ったとの記述がどこかの本にあったはずなのだが、どの本だったか。。。

ちなみに第100大隊はキャンプマッコイで、442連隊はキャンプ・シェルビーでそれぞれドイツ軍捕虜監視の任についており、それぞれ良好な関係を築いたとあります。

一方100大隊歌は、コーラスの部分に”Imua e”と入りますが、これはハワイ語で「前へ!」とか前進を意味する言葉で、戦いのトキの声だったそうです。
100の歌詞にある「Pearl Harbor to Italy&France」と言うのは1944年以後でないと作れませんが、veteranからの聞き取りの中で当初は「Pearl Harbor to Italian Front」と歌ってたと言う話があり、余計に悩みます。
まぁどちらにしても「俺たちは”Pearl Harborから戦っている”」と言う、100オリジナルの心境をよく表していると思います。

その他100大隊のveteranから聞き取りした所「これは戦地で歌った」「戦後作られたんじゃないか?」「442の歌だね」「100の方が先に歌っていた」などなど、相手によってずいぶんバラバラでした。
442のベテランには聞いていません。。。聞く時間無かったのです。
果たして、実際はどうだったのでしょうかね?

簡単に整理してみますと。

100大隊歌 作者不明 1943年イタリア以降に作られた。 戦後の可能性も否定できない。ほぼ完全にハワイ仕様。
442連隊歌 イイダ軍曹作詞 1944年7月以前に作られた。 442と歌っているが、ハワイ重視。



ちなみに、英語版ウィキペディアの442RCTには次のように書かれていました。
The song may have originally been written for the 100th Battalion and entitled One-Puka-Puka in place of Four-Forty-Second, thus explaining the reference to Hawaii nei ("Beautiful Hawaii") and the vow to go back to Honolulu.
簡単に訳すと、この歌は元々100大隊の為に書かれ、”442”の所は”OnePukaPuka”でした。 と言う事ですが、ウィキペディアも完全に信用するわけにもいきませんね。
※なんせ第100大隊の項目は私自身が書いてますしw

なお、私は「どちらが先か」と争うつもりはまったくありません。
それ自体は実は重要ではないのです。
私が最も気にする点は「100Songはいつから歌われたのか?、また仮に442Songが先なら、100のメンバーはそれを歌ったのか?」

その2点なのです。
理由は。。。
ここまで読んでお付き合いいただいた方には説明不用かと思いますw




  


Posted by 先任  at 19:18Comments(0)日系部隊史

2014年09月28日

MemorialService Day.100th-Bn&442RCT&MIS JapaneseAmericans.



MemorialService Day.100th-Bn&442RCT&MIS JapaneseAmericans.
ですね。



1943年9月28日 Sgt.Shigeo Joe Takata. 戦死。

「自らの危険に顧みず小隊の戦闘を進む途中、Sgt.Takataは故意に敵MGに身をさらして位置を確認し、砲弾により致命傷を負った。その後数分の間にSgt.Takataは小隊長へ敵の位置を知らせた」
と、DSCの感状の一部(勝手に訳してます)にありますが、読んでの通り微妙な内容ですね。

ドウス昌代の「ブリエアの解放者たち」にも「軍事に詳しい者には、この状況ではDSCは授与されない」とも書かれています。

実際のところ、本当にはっきりとしたSgt.Takataの戦死の状況はわかっていませんが、部隊の前進途中、急な砲弾(100大隊の公式戦史では88mm砲)による戦死だったのではないでしょうか?

Sgt.Takataはハワイの野球スターであり、人柄もよく、あまつさえ欧州戦線での最初の日系人戦死者でした。
そのSgt.Takataを「ただの戦死」ではなく「英雄としての戦死」とすることでプロパガンダとしたのか、そのスターの死、初の戦死者を悼む気持ちからの叙勲だったのか。
それは当事者にしかわからないですね。
はっきりと記録に残らず、生存者の目にも止まらなかった(または証言が得られなかった)だけで、本当に英雄的行為の結果だったのかもしれません。

いずれにせよ、約1ヶ月後に戦死広報を受け取り、やがて香典をそっくり赤十字他に寄付したTakata夫人と共にSgt.Joe Takataの名は日系史、合衆国陸軍史に残り、ハワイのパンチボウルでは毎年9月末に慰霊祭が行われるようになりました。





この慰霊祭はSgt.TakataのみならずWW2に関連したすべてのハワイ日系人の慰霊祭となっています。



私も2年前に招待を受け、参列させていただきました。

さて、この式典に先立ち前日にすべての第100大隊兵士の墓を掃除し、花を飾るのですが。。。。行った事のある方はわかると思いますがパンチボウル。。。。とんでもなく広いんですよ。
そして墓は部隊ごとに並んでいるわけではないので、リストと地図を見ながら1つ1つ探して行かなくてはいけません。
暑いハワイですごい重労働になるんですが。。。。

今年は特に協力してくれるボランティアが少なく大変だったようです。
多くはベテラン本人だったり、その家族だったりで今の若い人はなかなか参加してくれないそうです。

毎年とは行かないけれど。。。。何年かに一度。なんとかお手伝いに行きたいと本気で考えてみます。
(格安でもハワイ往復10万か。 クラブハウスに泊めて貰えばホテル代は要らんなw)
  

Posted by 先任  at 22:03Comments(0)日系部隊史

2013年06月02日

アロハ桜物語 後編



アロハ桜保存会

1982年10月
ハワイに海上自衛隊の練習艦隊(かとり、あさぐも)が入港。
主席幕僚の平間1佐から3枚のアロハ桜の写真がPacificMotionPicture社の社長、小笠原氏(元自衛隊。所属等は不明。ハワイ在住で入港する海上自衛隊の艦隊の世話役をして下さっていたようです)に託され、アロハ桜の概要と共にハワイ報知新聞に掲載されました。
その記事掲載をきっかけにWatanabe氏ら「Club-Maizuru」(戦後舞鶴に駐留したMIS、第500情報部隊隷下の第354中隊及び第355中隊に所属したハワイ二世の会)のメンバーと小笠原氏らが集まり、舞鶴進駐とサクラについての座談会インタビューが行われました。



そのメンバーの中に桜の植樹に携わった方は居なかったのですが、当時の舞鶴の状況やMISなどについて知ることができたので抜粋し、私が直接聞いた話も合わせて掲載します。


入隊当時のWatanabe氏(ハワイ報知新聞より)

Watanabe氏はハワイ・オアフ島のワイパフ出身(両親は福島出身)で22歳で陸軍に入隊。
基礎訓練の後、ミネアポリスの情報学校(後にカリフォルニアのモントレーに移転)で約1年間の教育を受け、日本に進駐。 現地で少尉に任官したそうです。
当初の任地は長崎で、1947年の春に舞鶴に進駐、第500情報部隊の主な任務は引揚げ者からの共産軍に関する情報収集でした。
なお、全国で各県に2,30人ずつ配置されていたそうです。


舞鶴に進駐した第354,355中隊は舞鶴水交社の建物を接収し、使用します。
水交社の建物の裏には壁に穴があり、そこを抜けると「グリーン・ランタン」と呼ばれるビアガーデンがあって、皆さんは毎晩「通勤」したそうです。
まずビールを飲んでから、中舞鶴市街に出てで梅割り焼酎や、ぶどう割りを飲んだとありました。


当時の舞鶴水交会建物


現在は海上自衛隊の官舎となっており、門柱だけが残されています。

私が中舞鶴に住んでいた話をすると「今でもお店はあるのかな?」と聞かれました。
「当時からのお店はほとんど無いと思いますが、焼き鳥屋があって妻が働いてました」と答えると、とても懐かしそうに喜んでおられました。

一方で共楽公園や桜は覚えていないそうです。
桜は海軍の学校(現、舞鶴地方総監部)にはたくさんあったと思う、と言われました。


舞鶴の海軍機関学校。






現在の舞鶴地方総監部と海軍記念館

インタビューでは桜を植樹した方については
「やっぱし舞鶴でお世話になって、何かお返しをしたいと考えたんでしょうね。日本とアメリカの親善を考え、ポトマック川の桜を思い浮かべたのでは?」
と語っておられます。
Takaki氏の思いとは少し違うかもしれませんが、舞鶴-日本に進駐した二世としてそのような感情があったのだと思います。

桜の植樹に関しては
「それを考えるだけでなく実行に移したのが偉いと思うね」
と言う感想や
「1950年頃まで舞鶴に居たが植樹の話は聞かなかった」
と言う話がありました。

また桜を植樹したとされる23人については以下のような話がありました。

Takaki氏がCICならば23人も居ない。おそらく3,4人だろう。
情報部にいる23人が全員戦死すると言う事も、まず有り得ないと思う。
354,355中隊の50名のうち戦死したのは1名で、航空機の墜落が原因だった。

また、Takaki氏はコトンク(本土出身兵)では? と言っておられましたが、これは戦後のTakaki氏が仕事で家族共に本土を中心に生活しておられ、ハワイに戻ってなかったからではないかと思います。


座談会に記事で面白かったのは
「この桜はハワイの日系二世が植えたからいいんであってさサ。メインランドのコトン桜じゃ面白くもなんともないよ」
と言う言葉でした。
この言葉からも日系人といえどもハワイと本土の違いを感じる事ができます。
第100大隊と442連隊と同様に、とかく一緒に括られがちな日系社会ですが、やはりそれぞれの歴史や習慣、経緯を学んで接しないと、と思います。

脱線しました。
桜の話に戻ります。

1973年4月11日の毎日新聞に以下のような記事があるそうです。

「終戦直後軍港の町、舞鶴に進駐した米軍320人のうち23人のハワイ二世部隊の隊員が、当時すさんでいた市民と野球を通じて親善を深めようと試合を申し入れ、22年春(1947年)オール舞鶴との親善試合が実現した。その際”私達は不幸にも日本と戦ったが、日本は父母の国だ。繁栄と友好のしるしにサクラの苗木を贈りたい”と申し入れがあった。
布川氏によると、迫水氏が紹介したCICの高木二世から持ち込まれた話で、矢野市議に連絡した。また、その際、苗木を1本貰い布川氏宅の裏手の広場に枝を伸ばしている」


この記事についてWatanabe氏は長崎では野球をやったが、舞鶴ではしていない、と答えています。

この記事の信憑性は実際にはわからない所ですが、Takaki氏の証言とはほぼ一致しており、また桜に関わった日本人である矢野氏(元舞鶴市議会議長)や布川氏(中舞鶴の地主)らの関係もピタリ当てはまります。
また野球の試合は共楽公園に程近い中舞鶴グランド(元海軍機関学校のグランドで現在は舞鶴地方総監部内)で行われ、戦前から強豪として知られた中舞鶴チーム(明治神宮での御前試合もした事があるとか)を中心に経験者が集まりオール舞鶴チームとして二世チームと戦ったそうです。
私もたまに体育でソフトボールとかしているグランドかと思うと、なんだか感慨を感じるものがありますね。






現在の中舞鶴グランド(奥に見えるのは自衛隊の屋内訓練上)

その試合後の夕食会で桜の話が出て、植樹に至ったのでしょう。


では23人と記載されている日系兵がどの部隊の誰だったのでしょうか?

その答えの一部はハワイ報知新聞の記事の一番最後に掲載されていました。

座談会があった翌日、Watanabe氏から記者に「桜を植えた人が見つかった」と、連絡が入ったそうです。

その人はEdwin・Imamura氏で、通訳として1947年~1950年まで舞鶴に駐屯していました。
※ MISではなく、名簿では第442連隊戦闘団F中隊の出身となっている為、戦後に軍属(Civilian)の通訳として日本に来たのではないかと思われます。

Imamura氏の話を要約すると
1、桜の植樹が行われたのは1950年(昭和25年)の春。
2,野球を含め、23人と言う数字に心当たりはないが二世だけでなく白人や、市民も加えての人数かもしれない。
3、桜の植樹に携わった兵士のほとんどは戦死はしなかった(何故戦死したことになったのかはわからない)

と言う事になります。
そしてImamura氏による植樹者の名前は以下の通りです(敬称略)


・Harry.Murata(MIS Honolulu)
・Stanley.kizu(UNK Salt Lake)
・Seiyu.Inamine(Civilian Honolulu)
・Blackie.Yasutake(UNK Pearlcity)
・Tom.Oshiro(MIS Waipahu)
・James.Nishikawa(Civilian Japan)
・Charles.Tsurumaki(UNK Honolulu)
・Charles.Shimabukuro(Civilian Honolulu)
・Tommy.Ohishi(Civilian Los Angeles)
・Blackie.Tagawa(UNK Honolulu)
・Richard.Sato(MIS Ewa)
・Dick.Inoguchi(UNK Waipahu)
・Mickey.Wakita(Civilian Honolulu)
・***.Sasaki(UNK Waipahu)


※野球チームの写真から掘り起こしたと思われますので、これが本当に植樹した方の名簿なのかは確定できません。
しかし、Imamura氏の同僚であり野球チームである点、駐留した時期などから(そんなに多くの二世が舞鶴に居たわけではないので)この中に植樹した方が居るのは間違いないと考えます。
また名前は愛称と言う場合も考えられます(Blackieさんとか)

MISとして名簿に載っていたのは3名のみ。不明(UNK)の方も含めて多くは軍属であった事がわかります。
第100大隊や第442連隊出身者も、除隊後に軍属として日本に来た方も多くいたそうなので、これらに該当する方も居られたかもしれません。
また写真には白人将校の姿もあり、Imamura氏の証言からも白人の何人かも植樹を手伝った可能性が伺えます。


結論として、Imamura氏が植樹メンバーの1人である事は間違いないと思います。
また、Watanabe氏の話には1979年に亡くなったOkuno氏と言う方は生前に
「我々が植えた舞鶴の桜はもう大きくなっとろうのう、きれいに咲いとるかのう」
と言っておられたそうで、その方も植樹メンバーの可能性が高いと思います。

MISのリストにはShigema.Okuno氏とTetsuo.Okuno氏の2名のOkuno氏がおられますが、どちらが該当するのかはわかりませんでした。
しかし日系データベースによると、Tetsuo.Okuno氏はコトンク(カリフォルニア生まれ)なので、Shigema.Okuno氏ではないかと考えます。

元舞鶴市議会議長の矢野健之助氏も協力した1人なのでしょう。
そして苗木を贈ったTakaki氏と協力した迫水氏。

100本もの桜の苗木を植えるのは簡単ではありません。
おそらくもっと多くの方が協力されたのではないかと思います。

Takaki氏が舞鶴駅で植樹を託したとある日系兵士は誰なのかはわかりませんでした。




中舞鶴駅跡地。 現在はC58機関車が展示されています。 


またTakaki氏が苗木を確認した転属の前日については、正確には朝鮮半島ではなく京都市内への転勤であり、1949年11月の事でした。

もしかすると、キーパーソンであるその方こそが朝鮮戦争で戦死され、その後の話が途絶えてしまったのかもしれませんね。

これら多くの方の協力があって、現在の共楽公園は桜の名所として再び市民の憩いの場となりました。
私をはじめ、多くの自衛官も花見や運動で訪れます。

これらの話は声高に喧伝する事では無いと思いますし、それを植樹に携わった方が望んでいるとも思えません。
ですが、舞鶴市民の1人として、また日系史に興味を持つ人間として、更には海上自衛官としても「アロハ桜」の物語は今後も伝えて、残して行きたいと考え、今回稚拙ながら文章としてまとめさせていただきました。
私自身は調査と言うほどの事はしていませんし、書いた内容の多くはこれまでの先人が書かれた著作、新聞記事、TV番組、インターネットサイトやブログから学んだ物です。
ですが、これまで断片的な話で掲載されていても、それらを纏めた物は無いように思い、素人ながら書いてみました。

もし、これを読んだ皆様が春に桜を見かけた時に、戦後期の日本に後世に残る贈り物をして下さった方々の事を思い出して下されば大変嬉しく思います。












アロハ桜のある共楽公園は舞鶴東港や地方総監部を見下ろせる位置にあり、また反対側には海軍墓地も望めます。

最後に座談会での記事にあった皆さんの「桜」について連想する一言を紹介します。

「ビューティフル。きれい」
「大和なでしこ」
「日本の代表的な花。日本人の心を表す花」
「最近の日本人はそう思いませんが、あっさりしている。咲いて、パッと散るところね」



※個人のお名前等は新聞記事からの抜粋及び、本人の了承によりそのまま掲載させていただきました。
※間違い等ご指摘がありましたら、是非お願い致します。 

アロハ桜保存会
  


Posted by 先任  at 10:59Comments(4)日系部隊史

2013年05月21日

アロハ桜物語 中編

アロハ桜保存会

2012年10月1日。
私はハワイ・ホノルル郊外のパンチボウル国立墓地に居ました。







WW2に従軍したすべての日系人の慰霊祭に出席するのが目的で、出席された多くのベテランと交流する事ができました。
多くはやはり第100歩兵大隊や442連隊の方々だったのですが、献花を終えた時にふいに数名のベテランに声をかけられました。





「あなたは自衛隊の方? いまは艦(フネ)は来ていないよね。 どうしてここに居るの?」
とても流暢な、そして綺麗な発音の日本語でしたが、そのわけは白いシャツの胸にあるパッチですぐに解けました。
MIS(陸軍情報部)のベテランを示すパッチだったからです。

私は自己紹介をし、ハワイに来たわけを話すと同時に自分の所属が舞鶴HQである事を伝えました。
すると、なんと話かけて下さったWatanabe氏(退役中佐)は戦後にMISとして舞鶴に進駐していたと言われたのです。
さらにもう1人、Oshiro氏(退役中佐)と名乗られた方も舞鶴が任地だったと言われました。




Watanabe氏と。

私は色めきたってアロハ桜について尋ねました。
もしかしたら、Watanabe氏やOshiro氏が桜を植えた本人かもしれないと思ったからです。
残念ながら、彼らは植えてはいない、との事でした。
他にも何か知っている事があれば教えて貰いたいと思い質問をい続けました。
その時にもすぐにCICのTakaki隊長の名前は出たのですが、直接は知らないと言う事でした。
ずっと以前には「Club-Maizuru」と言う舞鶴に駐屯した日系人の会合があったが、最近は生き残りも少なく集まっていないとの事でした。
しかし、そこで私はWatanabe氏から貴重な情報を得る事ができました。
30年くらい前に舞鶴の桜についての取材があり「Club-Maizuru」のメンバーでインタビューに答えた、と言う話です。
取材したのはハワイ報知社(1912年から日本語新聞を発行。現在唯一のハワイ日本語新聞)で、インタビューの後に実際に桜を植えた人の事も新聞に載っていたのでは? との事でした。

もちろん、MISの皆さんがその30年も前の新聞を持っている筈も無かった(一応聞きましたが)のですが、まぁ新聞記事なら後々調べる事も不可能ではないだろう、と思い当時の舞鶴の様子と現在の舞鶴のお話やMISの仕事などについてを聞きました。

なお、その時の様子が一部、ハワイのニュースで流れました。

http://www.hawaiinewsnow.com/category/240193/new-video-landing-page?autoStart=true&topVideoCatNo=default&clipId=7785803#

※30秒くらいのCMの後で流れるニュース映像。0:38秒くらいにMISの方々とのショットが写っています。


そして、帰国後年末になってまた新たな話が舞い込みます。

フェイスブックのBCo-Reenactment-Groupのページにハワイの日系人からある書き込みがありました。
「2008年にアロハ桜に関するTV番組が日本で放映されている。 しかしハワイでは誰もそれを見ていない。 出演したTakaki夫人も。 日本からそのビデオをハワイに送ってくれないか?」

http://www.fujitv.co.jp/nonfix/library/2005/474.html
※前回も貼りましたが、こちらの番組です。

正直、私はその番組の放映自体を知らなかったので驚きました。
そして私自身も見たいと思いましたし、まずお世話になったハワイの日系の方の願いなら喜んで、とビデオを探してあちこちにコンタクトを取ることになりました。

フジテレビはもちろん(瞬殺で断られましたがww)、番組制作会社や舞鶴の観光協会、商工会議所、市役所の広報、某国国防組織の広報と。
結果として、市役所の広報から大変貴重な情報と資料を得る事になります。

市役所広報は大変丁寧に(まぁフジ以外はどこも丁寧でしたが)対応して下さり、「ビデオは無いが他の資料のコピーなら渡せる」、と言われましたのですぐに市役所へ。

そして、その時点では思っても見なかった1983年1月の「Hawaii-Hochi」 ハワイ報知新聞と出会う事になったのでした。




その新聞記事のコピーは、まさにWatanabe氏らが出席したインタビューを掲載しており、さらには一番の「謎」だった、植樹した方々の事まで紹介されていたのです。

なお、番組ビデオに関してもすでに入手しており、友人の手で近々100大隊クラブまで届けて、見てもらう予定をしています。
ビデオの入手先はとりあえず内緒ですが、善意の舞鶴市民の協力があったとしておきます。


それでは、アロハ桜の植樹と舞鶴進駐MISについて、新聞記事とWatanabe氏、Oshiro氏から直接聞いた話、市役所から貰った資料交えて書いてみたいと思います。


以下次回(w


アロハ桜保存会  


Posted by 先任  at 21:36Comments(0)日系部隊史

2013年05月19日

アロハ桜物語 前編

アロハ桜保存会

アロハ桜についての記述を続けます。



当初、アロハ桜について探した所、「高木藤雄氏」と言う名が比較的簡単にわかりました。

http://www.fujitv.co.jp/nonfix/library/2005/474.html

Takaki氏についてのドキュメンタリーも製作され放映されています。
Takaki夫人の貴重な証言などもありますが、内容は完全とは言いがたく随所に間違いが見られます。
まぁ日本のドキュメンタリーの限界なんでしょうかね。
(日本では高木”タカギ”さんと表記されている事が多いですが、ハワイの方は”Takaki=San”と発音されていたので、私はTakaki氏と記載します)

いくつかのブログや市の資料によると、Takaki氏はMIS(Military Intelligence Service. 陸軍情報部)所属で舞鶴に進駐し、日本の家族にお金を渡して「新しい家を建てて」と言ったそうです。
それに対し、Takaki氏の家族は「敵のお金は要らない。日本の為に使ってくれ」と言われ、そのお金で桜を購入し植えたとありました。

より詳しい事が判ったものの、まだ色々と不明な部分が多かったのですが、去年になって私の妻はTakaki氏と桜の事が掲載された本を見つけてくれました。




「Japanese Eyes American Heart」
ハワイの日系資料センターが編纂した本で、荒了寛氏も携わってる本です。




この本に掲載されていた「Fujio・Takaki」氏のインタビューと経歴、その他センターにあった資料や奥様へのインタビュービデオ、読売新聞が本人にインタビューし書いた記事から紹介したいと思います。

なお、これらの紹介についてはハワイの日系資料センターから了承を得ています。



Takaki氏は真珠湾近くで民間の浚渫船の整備士として働いていました。
1941年12月の真珠湾攻撃の日、彼は日本軍の航空機をその目で見たそうです。
彼は怒り、そして悲しみました。
Takaki氏はハワイで生まれ、自分はアメリカ人だと信じていたものの家族は日本に帰っていたためです。
大変複雑な胸中だったでしょうね。
日系アメリカ人史、また二世部隊を考えるにはまずこの点に注意を払わなければならないでしょう。更に本土と違い、ハワイ出身者にとっては自分達の「故郷」が爆撃されたと言う事実で始まった戦争だと言う点も忘れてはいけないと思います。

撃墜され、海面に墜落する日本機を見たTakaki氏は海軍の士官とともにボートに乗って救助に向いました。
しかし、その搭乗員は自決。
「まことに日本人らしく、表情も変えずに死んだ」とタカキ氏は語っています。

そして、海面に浮いた飛行帽、飛行服などを見、名前と思われる漢字を見つけましたが、当時の彼はそれを読めなかったそうです。一方、持ち主であるパイロットは発見できませんでした。

その後、職場から「Japである」事を理由に追い出されたそうです。

ホイラー航空基地で機械工として働いていたTakaki氏は1944年に陸軍に志願します。
日本語と英語の双方を使えると判断されたTakaki氏はミネソタのキャンプ・サベージにあるMIS語学学校に送られ、訓練を受けました。
サベージで習った日本語から、真珠湾で助けようとした日本軍パイロットの名前が「朝日」である事がわかり、また彼がMIA(行方不明)である事も知ったそうです。
※戦後にTakaki氏は石川にあった朝日三飛曹(第二派、降下爆撃隊。死後一飛曹)の実家を訪れ、祈ったとあります。

その後、同じミネソタにあったキャンプ・リッチの秘密学校にて防諜についての教育を受けます。
訓練を終えたTakaki氏は最初の任地としてグアムへ派遣され、終戦までを過ごします。
捕虜や民間人との通訳が主な任務でした。

終戦後、マッカーサーの司令部(GHQ)付きとなり、45年9月から岡山のCICで勤務。
更に佐世保に転地し、主にソビエト=シベリアから帰還した日本軍将兵への尋問と情報活動をします。

その合間、Takaki氏は山口県の岩国に住む母と家族を訪ねます。
そして機械工をしていた時から貯めていた分と軍の給料を合わせたお金を母親に渡そうと申し出たそうです。
※ 戦争によって被害を受けていた家の修理と書いてある物が多いですが、Takaki氏へのインタビューには昭和20年の枕崎台風によって損傷したとあります。

しかし母親の答えは丁寧な拒絶であり、更に「あなたがそう思うなら、すべての日本の人達のために何かをしなさい」を言われたとあります。

※Takaki氏インタビューによると「日本はみな、惨めにしちょる。うちだけ楽はできん。昔から戦争で勝った方は威張るが、日本をいじめたら承知せん」 と言われたそうです。  だいぶ違う。。。。


その後、京都府舞鶴市に転任し、情報士官としてCIC舞鶴派遣隊長の任に付き、シベリア抑留帰還者の尋問からシベリアの鉄道、都市、工業地、道路網などの地図を作成する仕事をします。
その仕事ぶりは「大変真面目だった」とタイピストの上野氏が証言されています。

その間、家族への訪問を含めた過程でTakaki氏は空襲やその他の影響によって荒廃した日本の各地を見ることになりました。

「日本人には笑顔が無く、心がすさんでいた。 青森駅のホームに小銭が落ちている。誰も拾いもしない。それほどすさんでいた。」

また、舞鶴での尋問においてはナホトカから戻った弟(15年会っていなかった)に会う事もありました。
ソビエトの局員が特別に帰還船から降ろしてくれた弟に兄は「親が待ってるんだぞ」と言って急ぎ山口へ帰るように言い、弟は「戦友と同じ日に帰る」と言って聞かなかったそうです。


一方、地図の作成で海運会社の迫水氏(CICのタイピスト、と言う話もあるが前後がどうも矛盾するので海運会社の役員が正解ではないか、と思います)と良い関係を築いたTakaki氏は、数年後には彼の娘、弥生さんと結婚します。
2人の出会いは共楽公園のすぐ近く、中舞鶴交差点だったと夫人はTV番組で答えていました。
私は数年前まで、そのすぐ近所に住んでいたのですが。


現在の中舞鶴交差点。
写真右手に共楽公園、左手に舞鶴鎮守府(現在の海上自衛隊舞鶴地方総監部)。
また、写真視点の後方には通称「東郷邸」と呼ばれる、海軍鎮守府長官公邸があります。

※Takaki夫人はまだハワイに存命で、近いうちにアロハ桜関連のビデオを100大隊クラブを通じて送る予定。

本土のキャンプでの訓練時に見た白黒写真から、Takaki氏は日本に魅力を感じなかったそうです。
その彼の印象は、実際に日本に来て「桜」を見た時に一変しました。
きめ細やかな花びら、そして淡い色合い。またその美しい花が溶け込む背景にその永続する希望のような物が見えたそうです。

Takaki氏は迫水氏に相談し桜の植樹について教えてもらい、池田市(兵庫と書いてあるが、伊丹の間違いか?)までジープで行って桜の苗木を手配します。

この間、時系列をはっきりさせる資料が無いのですが、桜の苗木を手配したのが1950年である事はわかります。
なぜなら、この時に朝鮮戦争が始まり、Takaki少尉はすぐに派遣命令を受けたからです。

苗木を手配したものの、植える作業をする間もありません。
Takaki少尉は駅(※当時はまだ中舞鶴に存在した舞鶴駅かと思われる)で会ったMIS情報部の日系二世に桜の植樹を託して、朝鮮半島へと向いました。

植樹を頼まれた二世達は迫水氏、市議だった矢野氏を始めとした舞鶴市民らと共に資金面でも協力し、やがて列車で届いた100本の桜を舞鶴駅にほど近い「共楽公園」へと植えたのでした。
※実際には70本が共楽公園、30本は近くの学校に植えられたそうです。


矢野氏の功績を記念し、アロハ桜のすぐ近くに「ヤノケン桜」の名前で桜が植樹されていました。

時に昭和25年。
碑文の昭和21年と言うのがどこから出た話なのかはわかりませんが、舞鶴にMIS及びCICが進駐したのは1947年から、との話もありました(それも間違ってると思う。45年には来ていたはず)



Takaki少尉はその後ハワイへ帰ってからもCICに残り1964年から1966年の間はCICのFBIとの連絡係りもしました。
ベトナム・ツアーで23年の軍務を終了して、1967年に除隊。
民間に戻ってからは、カハラ・モール(ワイキキ近くの大きなショッピングセンター)でメンテナンス・スーパーバイザとして働き、1987年に退職。
1994年、舞鶴市の招待により戦後以来初めて舞鶴を訪れ、ようやく成長した桜と対面しました。
なお、その招待すべきTakaki氏に辿り付くのに時の海上自衛隊の練習艦隊主席幕僚が1役買ったそうです。
※それまで、桜を手配したのが誰なのかも不明だったようです。
※当時の主席幕僚は最近TV等でもよく見る平間洋一氏で、実はこの件で質問を送ったのですが、無視されたようで返答無し(w

Kakaki氏は長らく日本に来る事もなく、花を咲かせたアロハ桜を見る事もなかったのですが、1994年に市の招待により夫人と共に舞鶴を訪れ、半世紀ぶりに桜と対面したそうです。

http://www.maipress.co.jp/kakotpx/0504.html

※一番下の方に、桜と対面したTakaki夫妻の写真と記事があります。

2004年1月 他界。(享年84歳)

「人生は色々あって楽しいよ。 簡単の終わらせるなんてできないね」
「どんな人間だって、1人対1人ならいい人間ばかり」
生前、本人のインタビューより。



さて。
これらの事から、桜を共楽公園へ植える事を企画し、苗木の手配をしたFujio・Takaki氏の事は大まかには判明しました。
また植樹の時期は、やはり昭和25年(1950年)であるようです。
迫水氏が海運会社の社長や役員だとすれば、その協力を得て計画した苗木の手配も充分可能であろうと思いますし、手配先は池田市である事がわかりました(伊丹、の可能性もあるが)。

ここでまだ判らないのが、実際に桜の植樹に携わった23人の二世兵士について、です。
これについては、他のブログ等でもほとんど触れられておらずわからないままだったのですが、ハワイでお会いした渡辺憲一氏(MIS退役中佐)からお聞きした話と、古いハワイ報知新聞の記事から答えに近づく事ができました。

とりあえず、長くなりましたので以下次回(w


アロハ桜保存会  


Posted by 先任  at 19:07Comments(0)日系部隊史

2013年05月18日

アロハ桜物語 序編

アロハ桜について。


アロハ桜保存会

私の住む京都府舞鶴市に共楽公園と言う公園があります。












この公園は舞鶴東港を見下ろせる位置にあり、戦前は一次立ち入りが制限された丘なのですが、当時の舞鶴鎮守府から「市民との憩いの場に」と言う意味を込めて「共楽公園」と名付けられたと言う話が残っています。
(このエピソードは市のホームページ等には載ってませんが)






頂上付近には、舞鶴海軍工廠にて空襲等で亡くなられた方の為の慰霊碑があります。






また、舞鶴鎮守府戦病死者の為の忠魂碑も。
この忠魂碑には、尼港事件で戦死した海軍陸戦隊の碑もあったはずだが。。。。碑文の掘られた石版が無くなっていました。。。。おいおい。

その中腹に「アロハ桜」と呼ばれる古い桜があるのに気付いたのは、10年程前。
ちょうど、WW2アメリカ軍第100大隊歩兵リエナクトメントに興味を持った頃でした。






その初めて見た時は、正直それほど興味を持ってなかったので、ほぼ素通りしたのですが、後々凄い物が近所にあったのだと気付く事になりました。


5年程前、ふと思ってその「アロハ桜」を見に公園に行きました。
その時は、さすがに日系二世の事も無知ではなかったため、感慨深く見たのを覚えています。







アロハ桜には次のような碑文の掘られた石版があります。



「第二次大戦後、海軍のまち舞鶴市は大きな転機に迫られ、市民は方途を失って廃墟化していました
崩れはてたまち並みと山野。この中で、若いサクラの樹木が次々植えられ、舞鶴市民に平和と復興の勇気をつけてくれました。

この「友好の使者」は、二十年後半から舞鶴市に駐留した米軍のハワイ出身二世兵士二十三人です。
「国籍はアメリカだが、祖国は日本、荒れた祖国に少しでもうるおいを」と、二十一年春どこからかサクラの苗木約百本を運んで、共楽公園と付近の厚枝周辺に植えました。その年、二世兵士らは朝鮮戦争の勃発で舞鶴市を去りました。

その後に伝えられたのは、二世兵士全員の戦死の報、百本のサクラはスクスク育ち、今では、舞鶴のサクラのリーダー格になっています。舞鶴市を荒廃化し、二世兵士らの命をも奪った戦争、世界平和のための犠牲ともいえます。

祖国日本の平和と復興の願いが込められたこのサクラをみんなで育て、二世兵士らの冥福を祈って碑を建設しました。

明石市中朝霧丘 壽建設 代表取締役 木村寿賀市」




えらい物が近くにあったもんだと思うと同時に、いくつかの疑問も生まれました。
1、「ハワイ出身の二世兵士、23人全員の戦死」
二世にも朝鮮戦争に出征した兵士が居た事は知っていましたが、その多くは語学兵であり果たして23人全員、しかも同じ部隊出身で。 こんな事が本当にあったのだろうか? と言う点。
2、桜の植樹が昭和21年(1946年)。朝鮮戦争は昭和25年(1950年)。 これほど長い期間、同じ兵士達が同じ場所に在日していたのだろうか?と言う点。
3、そもそも100本もの桜の苗木をどこから用意し、運んだのか? と言う点。

これらの疑問は、いつもの「そのうち調べよう」に埋もれて長く放置してきたのですが。。。。
昨年、ハワイへ行き多くの二世や3,4世の日系人のお世話になったと同時に、実際に当時舞鶴に進駐していたMIS(陸軍情報部)の方とお話する機会もあり、ようやく調べた事をまとめようと思うに至りました。

今回わかった事は、今までネットや本に載っていた内容と事実は違っていたと言う事です。
が、別に碑文やこれまで「アロハ桜」を紹介してきた方々を批判するような物では決してありません。
その方々の紹介が無ければ、私も調べられなかったかもしれませんし、碑文は今のように情報が溢れる時代のものでは無いからです。

ですが、判った限りに事実を記す必要もあると思い、掲載致します。




以下次回♪


アロハ桜保存会  


Posted by 先任  at 21:33Comments(2)日系部隊史

2012年11月19日

ハワイ私物研修 11 ニイハウ島事件



ハワイ私物研修の続きです。

今回はニイハウ島事件について。
パールハーバーの太平洋航空博物館では、ニイハウ島事件についても割合大きく展示されていました。



ニイハウ島事件については下記参照。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%A4%E3%83%8F%E3%82%A6%E5%B3%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6

現在でも諸説があり、断定できない複雑な事件ですが、まさにパールハーバー直後のハワイ日系人の複雑な心情を表すかのような事件やと感じます。

博物館の展示はアメリカらしく、感情を挟まず起こった事を実直に書いているように感じました。
ただ、ガイドによっては偏った案内がある場合もあるようです(w

私は日本人のガイドさんで、どちらかと言うと日本人的な解釈のガイドでしたが。

以下の写真は実際に零戦操縦士の西開地一飛曹とハワイ出身の日系二世ヨシオ・ハラダ氏が破壊した、零戦の残骸です。







ハワイ現住のカレオハノ氏や日系一世のシンタニ氏そして西開地一飛曹、ハラダ氏とその妻、梅乃夫人。
複雑なそれぞれの立場と、考え方、行動とその結果は、70年後の私がどうこう言えるような物でもありません。
ただ、事件とその結果による影響は日系人社会には大きなものであったのは事実でしょう。

祖国への忠誠と義務、軍人の責任。 アメリカ人としての立場と考え、そして日本にルーツを持つ日系人の心。
事件に関係した人々は、それぞれその最善を尽くそうとした結果なのだと思います。

これは失礼なのかもしれませんが、日系人部隊のリエナクトメントをするに当たって、彼らの思いもまた、考えたいとあらためて感じます。

ニイハウ島自体は個人所有のため簡単には行けないそうですが、いつか現地にも行ってみたいものです。
  


Posted by 先任  at 10:26Comments(0)ハワイ研修日系部隊史

2012年11月17日

第100歩兵大隊と第442連隊戦闘団



第100歩兵大隊と第442連隊戦闘団は別のものです。
以下に編制を示します。

・第442連隊戦闘団
 ・戦闘団司令部
  ・第442歩兵連隊
   ・連隊本部中隊
   ・第100歩兵大隊(HQ、A,B,C,D中隊)
   ・第2大隊(HQ、E,F,G,H中隊)
   ・第3大隊(HQ、I,K,L,M中隊)
   ・カノン砲中隊
   ・対戦車中隊
   ・補給中隊
 ・第522野砲大隊(HQ、補給、A,B,C中隊)
 ・第232工兵中隊
 ・衛生分遣隊
 ・第206軍楽隊

現在でも、式典で442のベテランのほとんどが使用されている442RCTのベテランズキャップを100のベテランは使用していませんし、ハワイにはそれぞれの部隊のVeteransClub(退役軍人会)が別の場所に存在しています。

部隊が編成された時期、と言うだけでなく後に合流し、第100大隊が442連隊の第1大隊の位置に配置されてからも「同じ」とは言えないと私は思っています。
この辺りは、米国の歴史を扱っている方でも、今一つ認識されていない事が多いと感じています。
100と442は別ですよ、と言うと「後に合流して第1大隊になっている」と教えていただく事が多くあるのです。
しかし、1944年6月にイタリアのチビタベッキアにて一旦合流した後も、何度かセパレートとして第100歩兵大隊だけが派出されています。
また、他の第2,第3大隊と違い、100は「第100歩兵大隊=100th Infantry Battalion」と公式な文書でも表記されている点、明らかに扱いは別だったと考えられます。
通常、連隊が所有する部隊旗=colorは大隊では独立した部隊のみが所有していました。
第100歩兵大隊も1943年7月20日に大隊旗を受領しています。
大隊旗(連隊旗)はおよそ式典の時等のみに使用されますので、滅多にみかける事はありません。
第100歩兵大隊では1944年7月27日に最初の大統領部隊感状を授章した際の式典で使用されているのが確認できますが、その後は式典等は442連隊で実施されており、旗についても442連隊旗のみが確認できます。


1944年7月27日 イタリア・レグホーンにおいて第5軍司令官マーク・クラ-ク中将より大統領部隊感状を授章する際の第100歩兵大隊旗。


1944年11月12日 フランス・エピナルにて第36師団長ジョン・ダールキスト少将による閲兵時における第442歩兵連隊旗。


1945年8月 イタリア・ヴァダにて、戦勝式典での第442連隊連隊旗。

終戦後の1946年7月15日、アメリカ本土に帰国した第442連隊戦闘団はトルーマン大統領の閲兵を受け、大統領部隊感状を直接大統領から授章する栄誉(これはかなり異例でした)にあたります。
その際に、第442連隊の連隊旗と並んで第100大隊の大隊旗が確認できます。
通常、連隊旗があれば大隊旗は並列に並ぶ事は無いのですが、これも異例と言えるでしょう。
大統領と、その後のパレードにおける市民へ示した第100歩兵大隊の存在の大きさが伺えます。




1946年7月15日 ワシントンD.Cにて、パレード及びトルーマン大統領の閲兵に臨む第442歩兵連隊旗と第100歩兵大隊旗。


以下、違いについて簡単にまとめてみました。

・入隊の経緯について。
第100歩兵大隊のオリジナルメンバー(補充兵ではなく、最初のハワイ臨時大隊の編制時から所属していた兵士の事をそう呼び、大隊内で称えられています)は開戦前の選抜徴兵制度によって陸軍へ入隊し、訓練を受け、その多くはハワイ第298歩兵連隊(オアフ島出身者)及び第299歩兵連隊(他のハワイ諸島出身者)に所属して警備等に当たっていました。よって、従軍や戦争に対する意識も多くは違ったのでは、と思います。
(このあたりは、これまでの本や動画、実際に100と442のそれぞれのベテランとお話した事からも見えます)

・部隊所属兵士の出身地に関して。
第100大隊オリジナルはすべてハワイ出身ですが、442連隊は半数がハワイ出身、半数は本土出身です。
また、部隊編制時の下士官は本土出身者がほとんどで、当初は軋轢も産んだそうです。
彼らの間ではハワイ出身者を「ブッダヘッド=田舎者、日本的」、本土出身者を「コトンク=椰子の身の落下音、頭が空っぽ」等と呼びあう風潮も生まれました。
キャンプ・シェルビーでの訓練期間中、ハワイ出身者と本土出身者の摩擦は絶えず存在し、時には暴力事件にも発展していました。
一計を案じた連隊本部は、ハワイ出身者の中心人物を集め、本土の日系人収容所を訪問させます。
本土出身兵達がどのような境遇から志願し、入隊したのかを示す事で理解を深めさせようとしたのでしょう。
このアイデアは成功し、ハワイと本土兵の軋轢は沈静化したと言われています。

・欧州の戦場に着いた時期は9ヶ月程第100歩兵大隊が早く(1943年9月)、442連隊戦闘団(1944年6月)は充分な経験を持った第100歩兵大隊を陣容に加える事で、新編部隊からの早期戦力化が上層部によって図られたものと考えています。
日系人部隊をひとまとめにしておく、と言う意図も確かにあったとは思いますが、合流当時の第100歩兵大隊への評価と、442連隊戦闘団への期待を見るに、それはよく書かれる「捨て駒」的な扱いではなく、より優秀で強力な部隊への布石であったと私は考えます。
余談ですが、第100歩兵大隊及び第442連隊戦闘団には多くの日系人やハワイに見識が深くい白人将校が配置されており、その点からも合衆国陸軍が彼らの編制に腐心していた点が伺えます。

・部隊モットーの違い。
有名な「GoForBroke」は第442連隊並びに第442連隊戦闘団のモットーで、日本語では「当たって砕けろ」等と訳される事が多いですが、元々は当時流行っていた賭け事でよく用いられるスラングで、つまりは有り金を全部かけるような時に使用されるものです。
一方、第100歩兵大隊の部隊モットーは「Remember Pearl Harbor」で1943年7月20日の出征前に制定されています。
「真珠湾を忘れるな」のモットーは、日本人の視点から見ると複雑に感じるかもしれませんが、まずハワイは第100歩兵大隊の兵士達の故郷であり、その故郷が攻撃されて始まった戦争であると言う視点を持たなければ、日系部隊に対する考え方を見誤るのでは、と考えます。
しかし、同時に彼らにはその親族や場合によっては親兄弟が日本で暮らしていた者も含まれています。
従って単純に日本人かのように捉えるのは明らかな間違いですが、同時に日本憎しとして捉えるのも一概には書けない複雑さがそこにはあったのです。


1944年6月7日、アンツィオに上陸した第442連隊戦闘団(第1大隊欠=第1大隊は本土に残り訓練部隊となっていましたが、その人員の多くは補充兵として第100歩兵大隊へ送られていた)は早速ドイツ軍による砲撃の洗礼を受けていますが、幸いにも死傷者は出ませんでした。
6月9日にローマ北方のチビタベッキアへ移動した第442連隊戦闘団は6月11日付けの第34師団一般命令第44号を受け、制式に第34歩兵師団所属となり、同時に欠だった第1大隊の代わりに第100歩兵大隊が配属されます。
通常、親部隊が出来た事で「第1大隊」と名称が変わる所ですが、第34師団長チャールズ・ライダー少将の意向により、その戦歴を示す「第100歩兵大隊」の名称はそのままとされました。
これはかなり特例の措置ですが、第442連隊側からは必ずしも快く思われてはいなかったようです。

それから約10日間の訓練が行われ、その際に第100歩兵大隊は442連隊に戦闘に関するセミナーの開設を申し出ていますが、連隊はそれを断っており、更に非公式ながら「100大隊の指示は聞くな」と通達したと言うエピソードが「ブリエアの解放者たち」に記されています。
これは、既に1年に渡る本土での訓練の成果に自信のあった、442連隊側の気持ちのようなものがあったのかもしれません。
徴兵された100大隊よりも、志願兵で編制され厳しい訓練を乗り越えた自負が442の若い兵士達の間にはあったとも言われています。

6月24日に第34師団は再び前線へと配置されます。
第442連隊戦闘団は第100歩兵大隊を予備とし第2、第3大隊をサセッタ道とベルヴェデーレ道に配置して攻撃を開始しました。
しかし連絡不備から第2大隊は機能不全に陥り、砲撃によってF中隊を中心に大きな損害を受け停止。
26日には第3大隊でもK中隊本部が直撃弾を受けて中隊長が不能、中隊士官と先任下士官が戦死。
連隊戦闘団の攻撃はうまく行ってませんでした。
その頃、442連隊本部からすでに占領が報告されていた町に入った第34師団長チャールズ・ライダー少将は、残存していた敵に包囲され乗車していたJeepのドライバーが狙撃されて戦死。
停車したJeepから這いつくばって後退したライダー少将はヘルメットすら失っていました。
その怒り心頭の師団長が後退する際中に出会ったのが、予備として後方待機を続けている第100歩兵大隊でした。

「シングルス!(第100歩兵大隊長)、このヘマの片をつけろ!」と命じたとブリエアの解放者たちには記されています。

第100歩兵大隊は前進が頓挫している第2、第3大隊の隙間を縫うような形で前進を開始すると、東へ大きく迂回しベルヴェデーレの街の北方へ出て、敵の側背を突きました。
支援砲撃と連動したB中隊が街へと突入、同時にA中隊が北方から包囲し、更に予備だったC中隊も側面から圧迫する形でわずか3時間程度の戦闘でベルヴェデーレを攻略します。
後日、部隊最初の大統領部隊感状を授章する事となったこのベルヴェデーレの戦闘において、第100歩兵大隊は他の連合軍部隊やアメリカ本土(YANK誌、LIFE誌でも紹介された)へ勇名を馳せただけでなく、まず新たな親部隊となった第442連隊戦闘団にその実力を示す事になりました。
この戦闘の後、第442連隊戦闘団チャールズ・ペンス大佐はそれを最も認め、以後の作戦や行動に第100歩兵大隊を立てるようになったとされています。


Charles W. Ryder


Col.Charles W.Pence


Ltc.Gordon Singles



私は第100歩兵大隊により興味を持ち、100大隊B中隊を中心としたリエナクトをしていますが、人に「442」と言われる事が多いです。

映画や本も、その多くが100大隊ではなく442連隊戦闘団を扱っており(と、言うか100大隊を描いてる映画は無い?)、強制収容→日系人の名誉回復に物語の中心が置かれている事が多いですね。

ハワイでは西海岸のような大規模な強制収容は行われていませんが、100大隊でも父親がFBIに逮捕されていたり、また戦後の日系人社会の礎を築いた意味はあると思います。

しかしながら日系人社会の為、と言う意識で戦争に臨んだといわれる442と違い、「御国の為」「義務」としての従軍であったのが100大隊所属の兵士達の大筋ではないかと思っています(個人の意識の違いはもちろんあるでしょう)

また、442の一番壮絶な戦闘として言われる「Vosgesの戦闘」ですが、確かにどの本を見ても壮絶な戦闘であったと思います。
それを経験している100のベテランも「Vosgesの戦闘は酷かった」と話されています。
しかし一番辛かった戦場は? と聞かれると、100のベテランは(全員を確認したわけではないですが)「やっぱり、カッシーノだね」 と言われるのです。

もちろんどちらも酷い戦場だった事は間違いないと思いますが、これらの事は100大隊メンバーの意識から来る事なのでは? と思っています。

つまり
・一番辛い戦場はカッシーノ戦だった。 しかし、442の栄誉と言われるVosgesの森の戦闘を讃えよう。
・442の「Boys」が「頑張った」と言われてる(言ってる)んだ、それに口は挟まない。

と言う意識では? と私は考えています。

もちろん、私は442連隊戦闘団の功績を否定していませんし(尊敬していますよ、もちろん)、442連隊戦闘団も興味があり、良い言葉がみつかりませんが大好きです。
しかし、それ以上に第100歩兵大隊が好きで、敬愛しています。



私達が「100」ではなく「442」と呼ばれた時の気持ち。
それは第100歩兵大隊のベテランが戦後に味わった気持ちの何100分の1かに近いのかもしれません。