2017年09月23日

Reenacting America’s Nisei Soldiers in Japan 訳文vo.3

2017年6月に京都で実施しましたBCo演習に報道員として参加してくれた現役アメリカ海軍の報道員、David Krigbaum1等兵曹が、その詳細なレポートを自身のブログにアップしました。
ブログはアメリカ人から見た、日本での旅やミリタリーを扱ったものです。
今回彼は、日本人がWW2アメリカ軍の再現をどう行っているかに興味を持ち、FBで取材の申し込みをしてきました。
何度かのメッセージのやり取りを経て、参加取材へと繋がったものです。
ブログはアメリカ人向けのもので、当然ながら英語で書かれていますが「日本語で読みたい」と言う多くの要望wがあったため、下手な訳ではありますが今回から数回に渡って日本語訳編、VOL.3をお送りいたします。
なお、文章の翻訳掲載、並びに写真使用についてもDavid氏の了承済みです。

この元記事はこちら「Reenacting America’s Nisei Soldiers in Japan 」にあります。

Reenacting America’s Nisei Soldiers in Japan

訳文1
訳文2


私はを登って米軍側に戻った所、呼びかけを受けました。

"バグ"

"ジッター"

私は答え、戻ることができました。

味方撃ちが発生してしまうのは残念です。
ストーンウォール・ジャクソンに聞けばよくわかるだろう(南軍の英雄、ジャクソン将軍は味方の確認不足による誤射で死亡)
スタートレックのスコティ※日本版ではチャーリー。 (スコット役のジェイムス・ドゥーハンはD-Dayで撃たれ指を1本失っている。)

野戦電話は簡易な塹壕に設置され、兵士が本部と通信を確認していました。
調子が悪かったため、彼らは受信機を分解しそれを戻してから再試行しました。
ようやく繋がったようです。







Tsurumi少尉は次の段階に移るため2名の兵士を連れてドイツ軍陣地の斥候に出ます。
彼らは装備を外し小銃だけを持ち、ヘルメットの代わりにジープキャップだけを身に着けて丘を下りました。
私は彼らと同じようにすべきでしたが、すべての装備とヘルメットを身に着けたままでした。

丘の上から滑り落ちるとすぐに低い姿勢を取って電話回線を避け、底の背の高い草むらを通って行きました。
突然、私たちのポイントマンは地面に伏せ、私や残りのメンバーも従いました。
幾人かのドイツ兵が歩行していたが、私たちの存在に気付きませんでした。
彼らが遠く離れてから、私たちは丘を下り続けました。



斥候は森の中を巧みに移動し、小枝や落ち葉すら避けます。
私のヘルメットが何か乗り越える度に大きな音を立てているように感じました。
また、彼らの動きに追従しようとして身の回りすべてが大きな音を立ててしまってました。
午後は気温も上がり、ウールシャツやバッグによって汗ばみ始めました。
私は本当に装備を置いてくれば良かったと後悔しました
ヘルメットが無情にも何度も音を立てていました。







私は斥候を終えてからTsrumi少尉に、どのような方法で静かに行動できたのかを尋ねました。
私は中華店で雄牛を捌くような騒音を出していたからです。
まず第一に装備の除去でした。最低限の弾薬しか持ちません。
それは斥候の使命が敵と銃火を交える事には無いからです。
彼らはつま先から静かに足を下ろして歩行する、静かな方法を意識して実施しました。
最後の部分は私が決して考えなかったものでした。

彼は、第二次世界大戦の歩兵マニュアルが、今日もまだ使用されているものと変わらないと述べた。
そしてその米軍メニュアルからの経験を他のメンバーにも教育しました。
反対に私が動いた時の音は、彼らが動いたときよりもはるかに大きかった。
彼は私が静かに行動しようとした事に感謝しました。
彼らが前進する時、私は低い姿勢で待機しました。

”カメラマン”は、皆が隠れている時に立ち上がったり、足で踏む物音に注意を払わなかったりで、位置を暴露したりします。
私は事前にそれを知っていたので”カメラマン”にならぬよう、注意しました。

我々は丘の麓の川沿いを周回しながら進み、ドイツ側に向かった。
Tsurumiは地面に伏せ、双眼鏡を取り出しました。
私は何も見つけられませんでした。
その後、私たちは帰路に付き、本部に戻りました。
彼は機械銃を見つけていました
距離はありましたが、緑と茶色の自然な光景の中に突き出た、鈍い金属の銃身を見つけていたのです。



Tsurumi(小隊長)は本部のテントに戻った時、Nakanishi(中隊幕僚)は彼の地図上でヴィンテージのメッセージブックを見直し、Hiro(本部伝令)は電話交換機で手を動かしていた。
この交換機には森の野戦電話の回線が接続されています。
2本の電話線が、このテントに入っており1本はアメリカ軍のもの、もう1本はドイツ軍のもので、ドイツの野戦電話に接続されていました。
これは実際の演習のように両軍の行動が本部に伝わり、本部は率先してそれを評価できるようになっていた。また訓練の流れは本部によって統制され、場合によっては想定の付与も行われました。





Tsurumi少尉は報告を行い、ドイツ軍陣地を地図上に示しました。これらの情報が報告され、翌日の攻撃を計画することができます。その後、彼は戦場の進捗状況を確認するために丘を登りました。

この時間になると(既に暗かった)撮影することはあまりありませんでした。空いた時間があったので、テント内の人たちにインタビューを行い、この活動の動機について学びました。

Nakanishiは「COMBAT」(TVドラマ)を見たと言いました。子供の頃から本当の兵士について知りたいと思い続けて育ち、JGSDFに入隊しました。
実際のそれはテレビや映画で描かれているのとは違っていました。メディアはアクションで観客に魅了せますが、1944年か2014年かにかかわらず、現場での軍事的な生活というものは、まさに今、私達がやっていることです。
それは一種の悲惨なことです。食べ物は粗末で、仕事単調と決して楽しいものではありません。
1度の爆発音すら聞こえないつまらない日常。
誰がそれを言ったのかを忘れましたが「戦争はまさに恐ろしい恐怖の瞬間まで続く、絶え間ない退屈である」

このテレビでは決して見る事のできない悲惨さを、民間人が学び体験するための手段として、リエナクトメントはあり、それがグループを始めた理由の1つです。

NakanishiとHiroは、日本の人々は、一般的に米国で見られるような軍隊に対する高い意識を持っていないと説明した。
日本の軍に対する一般的なイメージは第二次世界大戦によって否定的であるが、国防のために軍事組織は不可欠である。

日本帝国陸軍の再現グループではなく、日系アメリカ人部隊の再現グループを実施している理由として以下があります。
現代の”アメリカナイズされた”日本人にとって、日系アメリカ人は自分達の先祖よりも近しい部分を持っていると言えます(もちろん完全に、では有り得ません)。
Kodaはまた、多くの日系アメリカ人が終戦後に日本の国家再建、復興するのを助けたと指摘しました。
彼らはこのグループの活動によって、軍隊について民間人に伝え、また彼らの国の復興を助けた人々の事を知らせる事で日系アメリカ人達を敬いたいと言いました。
そうする為に彼らは戦争で戦ったベテラン、実際のニセイのために卓越して努力する必要があります。
彼ら(BCo)は彼ら(Veterans)につながっているのです。
彼ら(BCo)がしていることは彼ら(Veterans)が見ています
その為にも私たちが今やっているように訓練し、彼らを尊重するために最も現実的なリエナクトを行っているのです。

掘削はほぼ日没まで行われていました。彼らは昼食後から堀り続けていました。
今では空になった夕食の缶詰が集められ、テント半組のテントが彼らの掘った僅かな窪みの上に置かれていました。
定められた行動は継続中であり、掘った穴の中からドイツ軍の活動を監視し定期的に報告し、また徹夜で斥候が行われるだろう。








えー。。。3回程で、と書きましたが4回に続きますw 次で終わります。たぶん。  


Posted by 先任  at 21:25Comments(0)リエナクト

2017年09月22日

Reenacting America’s Nisei Soldiers in Japan 訳文vo.2

2017年6月に京都で実施しましたBCo演習に報道員として参加してくれた現役アメリカ海軍の報道員、David Krigbaum1等兵曹が、その詳細なレポートを自身のブログにアップしました。
ブログはアメリカ人から見た、日本での旅やミリタリーを扱ったものです。
今回彼は、日本人がWW2アメリカ軍の再現をどう行っているかに興味を持ち、FBで取材の申し込みをしてきました。
何度かのメッセージのやり取りを経て、参加取材へと繋がったものです。
ブログはアメリカ人向けのもので、当然ながら英語で書かれていますが「日本語で読みたい」と言う多くの要望wがあったため、下手な訳ではありますが今回から数回に渡って日本語訳編、VOL.2をお送りいたします。
なお、文章の翻訳掲載、並びに写真使用についてもDavid氏の了承済みです。

この元記事はこちら「Reenacting America’s Nisei Soldiers in Japan 」にあります。

Reenacting America’s Nisei Soldiers in Japan



訳文Vol,1

設営が完了し、本部テント内部にはタイプライター、電話交換台、机のある機能的な管理セクションがありました。
Nakanishiは歩いて机の上にマップケースを広げた。
マップケースの中身はオリジナルの米軍地図でした。
第二次世界大戦からのジョージア州ベニング。
しかし、今日再現するのはイタリアのカステリェーナ地方です。

我々の行動は、1944年7月のカステッリーナ近く140高地への攻撃で、激しい戦闘が行われた史実があります。
実際の戦闘は、アルノ川を渡河しドイツの防衛ラインを突破する、非常に困難な攻撃でした。
シナリオは、地形と季節的な類似点のために選択されました。

私たちがすべての準備を終えた後、”日系アメリカ人兵士”と”日系ドイツ人兵士”の両方を集合させ、Nakanishiは私たちのスケジュールを発表しました。



部隊は全ての装備を身に着け、お互いにその装備を確認しました。
"Staff Sergeant"は全員の装備をチェックした後、調整を行った。
その後Staff Sergeantはすべての準備が完了した事を報告するため、再度確認の儀式を行った。





ドイツ軍は丘の中に姿を消し、Kodaは昼食を用意しました。

彼は「K rations」と書かれた木製の箱を引き出し、その中からは「メニュー」と配給の半分が入ったダンボール箱が出てきた。
別の箱の中には光沢のある金色の缶がありました。
食事の内容は、適切な第二次世界大戦時のラベルによって包装された缶詰でした。









私がこの写真のものをKoda氏が準備した食事だと言う理由は、私が今説明したことすべてを彼自身が作ったからです。全員の分をです。
パッケージングの全て、さらにはいくつかの缶詰までも彼の作ったものでした。
彼は現代の食品を当時に該当する物に置き換えていると言いましたが、私は缶を開いて、ビスケット、キャンディーその他の品物を見ました。

私は今日の夕食、明日の朝食を受け取り、昼食を食べました。
メインコースはジョークで猫の餌のように見える塩味のコンビーフ缶=neko-canと呼ばれていました。
他にフィルターの無い「チェスターフィールド」タバコ、塩味のクラッカー、リグレーのガム、ハーシーのトロピカルチョコレートのパッケージがありました。
紙巻きタバコ、ガム、チョコレートにはカスタムラベルが貼られていました。
また、パックには一般的に「Waldorf」と呼ばれるティッシュペーパーと思われるものがありました。私はそれは置いておきました。

私は曾祖母と同じくらい古い、太ったスプーンでネコ缶を掘りました。
実物の70歳の服を台無しにしたくないので、私が着用したものの多くはリプロダクションでしたが、私の金属製のギアは私の頭のM1ヘルメットから私が飲んだ水筒までオリジナルのものでした。

私の食器セットは、これを行う前に1941-42年の米陸軍フィリピンスカウト制服を収集していた為、他の誰よりも少し古いものです。
第二次世界大戦の勃発時には、軍はまだWWIの装備が大量に使われており、私はほぼ100年前の古いM1918水筒とカップを持ち、1918年に生産されたM1918メスパンで食べました。
またスプーンやフォークは1世紀以上前のもので、M1911です。
私は支援要員として参加しており、実際の彼らも同様に古くなったアイテムを持ち歩いていて、1945年になってもまだまだアルミ製のM1918水筒を運んでいたカメラマンの写真を見てきました。





水筒について言えば、私は本当にその年齢を味わうことができました...
または、おそらくその味わいは水缶からのものでした。
いずれにしても、マルチビタミンがなくても、毎日一日分のアルミニウムを手に入れていました。イベントが進行したときに、水のメタリックな味わいが消えたのか、私が麻痺したのかどうかは分かりません。

私は食べ物を用意しなかったが、日中は味わい深い気晴らしのために、非常に古いAltoidsの缶入りキャンディを持ってきて、それを私のファーストエイドポーチに詰めました。
(空港のセキュリティが70歳の実物缶を開けて欲しくないので、私は実際のファーストエイド缶を持って来なかった。)







肉食副産物や包装されたクラッカーで腹を満たした我々は、作戦を開始、出発した。
この時点まではキャンプのような雰囲気がありましたが、そこには銃や戦闘装備がありました。
部隊は一列で森林に侵入しました。出発地の近くには以前の”戦闘”で作られたと見られる陣地や土嚢ありました。私たちが止まった時、全員が姿勢を低くしてそれぞれ別の側に注意を向け、後方に6人が残りました。
前衛は、丘の上にのぼり、その地域の安全を確認しました。この区域は既に戦闘地域であり安全が確保されていません。

我々は道を離れ、木の茂った森に入る事になります。その丘の斜面はきつく、また全員が全ての荷物を運んでいるので、小銃を持って山に入る兵士達の困難さを想像しました。





丘の頂部はやや平らにに落ち着いていて、植生が密集し低木が茂っています。
私たちはその地域を捜索しては確保するプロセスを繰り返しました。
男達は彼らの魅力的な道具を取り出し、掘り起こし始めた。彼らは戦いの穴を作って、今夜ここで寝るだろう。伝令が丘を下って戻り、野戦電話の為の電話線を構成し始めました。

Tsurumi(小隊長)は「ここの地面は非常に硬く、掘り起こすのが難しい」と私に教えてくれました。彼らがJGSDFで訓練する場所は、これほど困難ではないそうです。
彼は月曜日から一週間、陣地の構築を仕事でしていたが週末になって趣味でしていた。
それは今やっていたことと同様ですが、服や装備だけが異なりました。、

後で私は彼になぜこれをするのか尋ねました。
彼は自分でもわからない、と言ったがエドモンド・ヒラリー卿がエベレストを登った理由に挙げた「そこに山があるから」と同じだろうと言った。

カメラマンとして私はキャンプの間を自由に移動して写真を撮ることができました。
味方が穴を掘っている間に、丘の向こう側にあるドイツ軍を見学するように誘導されました。







米軍側が戦闘用の陣地を構築している頃、ドイツ軍は昼食のために休んでいた。
私達の食事がアメリカ大陸で作られ、出荷されたアメリカのプリパッケージスタイルだったのに対し、敵はもっと鮮やかなパンを楽しんでいました。
彼らは水筒といくつかの透明なガラス瓶から水を飲んでいました。
私が来たとき、彼らの一人が私を案内してくれました。彼はShokolade(第二次世界大戦時代のカフェインチョコレート)を試してみることを強く勧めました。

この陣地からの泥だらけの土は明るく鮮やかな茶色で、死んだ葉に覆われた丘のような米軍側とは対照的であった。彼らの一人が落葉を彼のヘルメットにかき集め、陣地を隠すためにその場所の周りに投げ込んでいました。
マシンガンの射界な当たる丘の下では、 "コンサーティーナワイヤー"が前進してくる敵を遅滞させるために吊り下げられていました。

Vol.3へ続きます。
  


Posted by 先任  at 18:00Comments(0)リエナクト