2016年12月09日
東條英機首相が日系人に送った手紙について ~Remember Pearl Harbor.
12月8日 Remember Pearl Harbor.
多くの人の運命を変えた日、と言う事で歴史に残る日でしょう。
正義だったとか陰謀だったとか、外務省が悪いとか、そもそも海軍が悪いとか
後から色々言いよう、考えようはあるもので、その時代の人がそれぞれ「より良き」を目指して全力を尽くした結果なのだと思っています。
(全力を尽くすのが、良い事ばかりでないのも確かですが)
日本には日本の、アメリカにはアメリカの立場や思惑があったのは当然なのでしょうが、狭間になった日系アメリカ人の事を思うようにもなったのはここ10年くらいでしょうか。
恥ずかしながら、それまでは考えた事も無かったので。
間違いや奇跡や手違いや僥倖。
そして、大前提としての準備と訓練。
様々な要素が絡み合った結果として、真珠湾攻撃と言う歴史的な戦闘は行われ、終わりました。
本土やハワイの日系アメリカ人にとっては、これまでの財産地位を奪われた方も多く、まさに衝撃の事件だったのでしょうが、戦後の日系人社会を築きあげる第1歩となったと言う見方も存在します。
(良し悪し、ではなく)
安倍首相が真珠湾を慰霊の為に訪問するそうですね。※2016年12月
素晴らしい事と思います。
別に政治的な事を書く気はありません。
第100大隊のVeteransClubも歓迎しているそうです。
以前にも書きましたが、第100歩兵大隊のモットーは「Remember Pearl Harbor.」です。
ルーズベルト大統領が対日戦の為の国民の士気を高め、同時に相手国である大日本帝国を国際的に貶める為に用いた言葉と思います。
これを日系人部隊である第100歩兵大隊がモットーとするに、深い意味があったと考えます。
一部ネット上の書き込みでは「裏切り者」等と言うものも見られますが、日系アメリカ人から見れば裏切ったのは日本帝国であったでしょう。
様々な理由と原因があったにせよ、開戦したのは日本でありそれまでの生活が一変する事になったのは日系アメリカ人達でした。 ※開戦の善し悪しについては言及していません。
祖国たるアメリカ合衆国への忠誠の誓いとしての「Remember Pearl Harbor.」もあった事でしょう。
そしてまた、日本が攻撃したのが生まれ故郷であるハワイだった、と言う事もあるかと思います。
政治的行為としての戦争によって、敵国となった父母の祖国、日本。
第100歩兵大隊の兵士達は国民の義務として兵役に就き、命令のまま出征して行きます。
そこにどんな思いがあったか。それは当事者でなければわかりません。
ただ間違い無いのは、彼らはアメリカ人として義務を果たすべく「祖国」の為に戦ったと言う事です。
ネット上等でよく語られる有名なエピソードとして、東條英機首相が日系人に対して送った手紙、と言うのがあります。
これはロサンゼルス郊外に当時あった、コンプトン日本語学校の遠藤校長が日米開戦時に東条首相から来た手紙、として紹介したもので、朝礼で手紙を校長が読んだ事を日系アメリカ人3世Minoru Tonai(藤内稔)氏が語ったものです。
その内容を要約すると
〈『日系二世は、アメリカ人である。』だから、あくまでも自国に忠誠を尽くして当然である〉
というような物であったそうです。
この内容から東條首相を武士道の鑑、ひいては戦前日本人の魂の美しさとするエピソードです。
確かに美しいエピソードかもしれません。日本人として気持ちよく思える内容です。
しかし私個人的にはこの手紙のエピソードは以下の2点で不自然であり、そのコンプトン日本語学園の遠藤校長が創作したのではないか? と疑っています。その理由は下記2点です。
・一次資料として手紙そのものが一切残っておらず根拠が確認できない。
・他の学校や日系人社会に同じ手紙、または同様の内容について触れられた物が確認されていない。
これだけ大事な内容のもの、そう簡単には破棄されないものと思いますが、現に講話された遠藤氏がその後コンプトン学園が廃校となり(生徒、職員の多くは再配置センターへ収容されたのでしょう)、フィリピンへ渡った後に戦火に巻き込まれて亡くなったとされています。
よって、実際に手紙が存在したとしても遠藤氏が持っていた場合、それは戦火に消えてしまっても不思議ではないでしょう。
しかし、この手紙の内容からすれば、それは全ての日系人社会、関連学校に送られてしかるべき内容です。
コンプトン学園にのみ送られたと言うのはあまりに不自然です。
そして、2021年現在他の日系社会及び日本人学校等で、同様の首相からの手紙があったと言う話はまったくありません。
しかしMinoru Tonai氏の証言自体は創作とは言い切れません。
本人の証言のみではありますが、同じコンプトン学園出身者が同様の話を聞いており、収容所内でも話題になったと語られています。
そこから察するに、おそらくはコンプトン日本語学園の校長、遠藤氏が朝礼で語った、と言う事は事実の可能性があります。
しかし、その内容は実際に東條首相から来た手紙ではなく、遠藤氏の創作であった可能性が高いと考えます。
日米開戦の機運が高まる中で揺れ動く、在米日系人に一つの指針を示したものではないかと思うのです。
既に西海岸に生活の礎を築いていた当時の日系アメリカ人社会にとって、アメリカでの生活すべてを捨てて日本へ帰る、と言うのはかなり難しい選択でした。
もちろん日本へ戻った方々も居ます。
家族全員で戻った方も居れば、兄弟で日米に別れた家族も。
日本に子供だけ帰り、父母はアメリカへ残った方も。様々な別れがありました。
そして、アメリカで執拗な日系人差別を受け、日本に帰った方々の多くを待っていたのは「アメリカ人」と言う差別だったという話も多くあります。
そんな時代のエピソードとして、この東條首相の手紙の話が、真偽もわからないままに当時の「日本の美談」として語られる事に、私は強い嫌悪を感じます。
もちろん事実だったとするなrば、それは一つの素晴らしいエピソードなのかもしれません。
しかし、上記の通り事実とするにはあまりに根拠が無さ過ぎ、また都合の良いエピソードです。
もし今後、手紙そのもの等の物的証拠や、他の学校や地域で同様のエピソードが多く出て来るような事があれば、私は認識を改めます。
おそらく、出て来る事は無いと思いますけれども。
また上記とは別に松岡洋右氏も同様の内容をハワイでの講演会において日系アメリカ人に伝えた、と言う話もありますがそれも口頭の事らしく真偽は不明です。
それより以前に帝国海軍の練習艦隊司令官としてハワイを訪れた鈴木貫太郎氏が、質問を受けて「日系移民は米国人」との発言をしたとのエピソードはありますが、それも口述の話のみですね。
なお、それだけ大きな内容にもかかわらず「ハワイ日系人移民史」にその記述はありません。
本来、移民がどのように行動すべきかを、祖先の出身国の責任ある立場の者が語った話であるならば、移民史としてかなり大きな部分になる筈です。
いくつかのWebサイトや、チャンネルなんとかとか言う番組で「戦前」と曖昧に表現されていますが、まったく根拠がありません。
上記のエピソードは2010年9月2日、カリフォルニア州ロサンゼルスで行われたインタビューが初めてではないかと思います。※それ以前にあれば済みません、私の調査不足です。
また同年11月に公開された映画「442日系部隊ーアメリカ史上最強の陸軍」の中でTounai氏のインタビューが使用されており、同映画に合わせて雑誌「歴史通」でも紹介された事から国内でも注目されるようになったものと考えます。
これらの事があったにせよ無かったにせよ、ハワイの日系兵士達は国の為に義務として兵役に就き、出征していったと言う事は間違いが無いのですけども。
上記により、私は東條英機首相が日系アメリカ人の為に送ったとされる手紙について、その存在を否定いたします。
もし、それが存在した証拠を示せる方が居られましたら、それを教えていただけると嬉しく思います。
無い、と言う証明はいわゆる「悪魔の証明」で、行う事ができませんが、自分の少ない知見から可能な限りで理由を記述いたしました。
反証を求められるならば、これらについてよく読まれた上で根拠を示してお願いいたします。
あ、映画442やちゃんねるなんたらのYoutube貼るだけとか止めて下さいね。
あれ、なんの根拠にもならないので。
もう一度書きますが、Minoru Tounai氏の記憶や証言を否定していません。おそらくそれは正しいと思います。
私が存在を否定しているのは、手紙そのものです。
Minoru Tonai氏は1929年2月6日産まれ。(日本名 藤内 稔)
当時約3千人の日本人移民の漁師たちがコミュニティーを形成していたカリフォルニア州ロサンゼルスのターミナル島出身、1934年には8ヶ月間家族と共に日本に滞在、その後ロスアンゼルスのサンペドロに移住。
1942年5月には家族と共にサンタ・アニータ競馬場へと収容、その後コロラド州のアマチ収容所にて第二次世界大戦を過ごしました。
1950年に徴兵され陸軍に入隊。衛生兵となり日本に駐屯。1952年に朝鮮半島へ派遣後、除隊。
UCLAでの募金活動の他、様々な日系コミュニティで活躍。
米国における日系人社会の地位向上と、日米間の相互理解の促進、友好親善に寄与。
その功績により平成27年度の春の叙勲において旭日小綬章を授章されています。
1941年12月8日(現地7日) ハワイ海戦
日本海軍戦死者 64名
アメリカ軍及び軍属の戦死者 2345名
ハワイ民間人の戦死者 57名
これらの犠牲者を偲びつつ。



日米、両国国民に真珠湾の記憶は残さねばならないと私は思います。
その意味でのRemember Pearl Harbor.は現代に通じる、と私は考えます。
多くの人の運命を変えた日、と言う事で歴史に残る日でしょう。
正義だったとか陰謀だったとか、外務省が悪いとか、そもそも海軍が悪いとか
後から色々言いよう、考えようはあるもので、その時代の人がそれぞれ「より良き」を目指して全力を尽くした結果なのだと思っています。
(全力を尽くすのが、良い事ばかりでないのも確かですが)
日本には日本の、アメリカにはアメリカの立場や思惑があったのは当然なのでしょうが、狭間になった日系アメリカ人の事を思うようにもなったのはここ10年くらいでしょうか。
恥ずかしながら、それまでは考えた事も無かったので。
間違いや奇跡や手違いや僥倖。
そして、大前提としての準備と訓練。
様々な要素が絡み合った結果として、真珠湾攻撃と言う歴史的な戦闘は行われ、終わりました。
本土やハワイの日系アメリカ人にとっては、これまでの財産地位を奪われた方も多く、まさに衝撃の事件だったのでしょうが、戦後の日系人社会を築きあげる第1歩となったと言う見方も存在します。
(良し悪し、ではなく)
安倍首相が真珠湾を慰霊の為に訪問するそうですね。※2016年12月
素晴らしい事と思います。
別に政治的な事を書く気はありません。
第100大隊のVeteransClubも歓迎しているそうです。
以前にも書きましたが、第100歩兵大隊のモットーは「Remember Pearl Harbor.」です。
ルーズベルト大統領が対日戦の為の国民の士気を高め、同時に相手国である大日本帝国を国際的に貶める為に用いた言葉と思います。
これを日系人部隊である第100歩兵大隊がモットーとするに、深い意味があったと考えます。
一部ネット上の書き込みでは「裏切り者」等と言うものも見られますが、日系アメリカ人から見れば裏切ったのは日本帝国であったでしょう。
様々な理由と原因があったにせよ、開戦したのは日本でありそれまでの生活が一変する事になったのは日系アメリカ人達でした。 ※開戦の善し悪しについては言及していません。
祖国たるアメリカ合衆国への忠誠の誓いとしての「Remember Pearl Harbor.」もあった事でしょう。
そしてまた、日本が攻撃したのが生まれ故郷であるハワイだった、と言う事もあるかと思います。
政治的行為としての戦争によって、敵国となった父母の祖国、日本。
第100歩兵大隊の兵士達は国民の義務として兵役に就き、命令のまま出征して行きます。
そこにどんな思いがあったか。それは当事者でなければわかりません。
ただ間違い無いのは、彼らはアメリカ人として義務を果たすべく「祖国」の為に戦ったと言う事です。
ネット上等でよく語られる有名なエピソードとして、東條英機首相が日系人に対して送った手紙、と言うのがあります。
これはロサンゼルス郊外に当時あった、コンプトン日本語学校の遠藤校長が日米開戦時に東条首相から来た手紙、として紹介したもので、朝礼で手紙を校長が読んだ事を日系アメリカ人3世Minoru Tonai(藤内稔)氏が語ったものです。
その内容を要約すると
〈『日系二世は、アメリカ人である。』だから、あくまでも自国に忠誠を尽くして当然である〉
というような物であったそうです。
この内容から東條首相を武士道の鑑、ひいては戦前日本人の魂の美しさとするエピソードです。
確かに美しいエピソードかもしれません。日本人として気持ちよく思える内容です。
しかし私個人的にはこの手紙のエピソードは以下の2点で不自然であり、そのコンプトン日本語学園の遠藤校長が創作したのではないか? と疑っています。その理由は下記2点です。
・一次資料として手紙そのものが一切残っておらず根拠が確認できない。
・他の学校や日系人社会に同じ手紙、または同様の内容について触れられた物が確認されていない。
これだけ大事な内容のもの、そう簡単には破棄されないものと思いますが、現に講話された遠藤氏がその後コンプトン学園が廃校となり(生徒、職員の多くは再配置センターへ収容されたのでしょう)、フィリピンへ渡った後に戦火に巻き込まれて亡くなったとされています。
よって、実際に手紙が存在したとしても遠藤氏が持っていた場合、それは戦火に消えてしまっても不思議ではないでしょう。
しかし、この手紙の内容からすれば、それは全ての日系人社会、関連学校に送られてしかるべき内容です。
コンプトン学園にのみ送られたと言うのはあまりに不自然です。
そして、2021年現在他の日系社会及び日本人学校等で、同様の首相からの手紙があったと言う話はまったくありません。
しかしMinoru Tonai氏の証言自体は創作とは言い切れません。
本人の証言のみではありますが、同じコンプトン学園出身者が同様の話を聞いており、収容所内でも話題になったと語られています。
そこから察するに、おそらくはコンプトン日本語学園の校長、遠藤氏が朝礼で語った、と言う事は事実の可能性があります。
しかし、その内容は実際に東條首相から来た手紙ではなく、遠藤氏の創作であった可能性が高いと考えます。
日米開戦の機運が高まる中で揺れ動く、在米日系人に一つの指針を示したものではないかと思うのです。
既に西海岸に生活の礎を築いていた当時の日系アメリカ人社会にとって、アメリカでの生活すべてを捨てて日本へ帰る、と言うのはかなり難しい選択でした。
もちろん日本へ戻った方々も居ます。
家族全員で戻った方も居れば、兄弟で日米に別れた家族も。
日本に子供だけ帰り、父母はアメリカへ残った方も。様々な別れがありました。
そして、アメリカで執拗な日系人差別を受け、日本に帰った方々の多くを待っていたのは「アメリカ人」と言う差別だったという話も多くあります。
そんな時代のエピソードとして、この東條首相の手紙の話が、真偽もわからないままに当時の「日本の美談」として語られる事に、私は強い嫌悪を感じます。
もちろん事実だったとするなrば、それは一つの素晴らしいエピソードなのかもしれません。
しかし、上記の通り事実とするにはあまりに根拠が無さ過ぎ、また都合の良いエピソードです。
もし今後、手紙そのもの等の物的証拠や、他の学校や地域で同様のエピソードが多く出て来るような事があれば、私は認識を改めます。
おそらく、出て来る事は無いと思いますけれども。
また上記とは別に松岡洋右氏も同様の内容をハワイでの講演会において日系アメリカ人に伝えた、と言う話もありますがそれも口頭の事らしく真偽は不明です。
それより以前に帝国海軍の練習艦隊司令官としてハワイを訪れた鈴木貫太郎氏が、質問を受けて「日系移民は米国人」との発言をしたとのエピソードはありますが、それも口述の話のみですね。
なお、それだけ大きな内容にもかかわらず「ハワイ日系人移民史」にその記述はありません。
本来、移民がどのように行動すべきかを、祖先の出身国の責任ある立場の者が語った話であるならば、移民史としてかなり大きな部分になる筈です。
いくつかのWebサイトや、チャンネルなんとかとか言う番組で「戦前」と曖昧に表現されていますが、まったく根拠がありません。
上記のエピソードは2010年9月2日、カリフォルニア州ロサンゼルスで行われたインタビューが初めてではないかと思います。※それ以前にあれば済みません、私の調査不足です。
また同年11月に公開された映画「442日系部隊ーアメリカ史上最強の陸軍」の中でTounai氏のインタビューが使用されており、同映画に合わせて雑誌「歴史通」でも紹介された事から国内でも注目されるようになったものと考えます。
これらの事があったにせよ無かったにせよ、ハワイの日系兵士達は国の為に義務として兵役に就き、出征していったと言う事は間違いが無いのですけども。
上記により、私は東條英機首相が日系アメリカ人の為に送ったとされる手紙について、その存在を否定いたします。
もし、それが存在した証拠を示せる方が居られましたら、それを教えていただけると嬉しく思います。
無い、と言う証明はいわゆる「悪魔の証明」で、行う事ができませんが、自分の少ない知見から可能な限りで理由を記述いたしました。
反証を求められるならば、これらについてよく読まれた上で根拠を示してお願いいたします。
あ、映画442やちゃんねるなんたらのYoutube貼るだけとか止めて下さいね。
あれ、なんの根拠にもならないので。
もう一度書きますが、Minoru Tounai氏の記憶や証言を否定していません。おそらくそれは正しいと思います。
私が存在を否定しているのは、手紙そのものです。
Minoru Tonai氏は1929年2月6日産まれ。(日本名 藤内 稔)
当時約3千人の日本人移民の漁師たちがコミュニティーを形成していたカリフォルニア州ロサンゼルスのターミナル島出身、1934年には8ヶ月間家族と共に日本に滞在、その後ロスアンゼルスのサンペドロに移住。
1942年5月には家族と共にサンタ・アニータ競馬場へと収容、その後コロラド州のアマチ収容所にて第二次世界大戦を過ごしました。
1950年に徴兵され陸軍に入隊。衛生兵となり日本に駐屯。1952年に朝鮮半島へ派遣後、除隊。
UCLAでの募金活動の他、様々な日系コミュニティで活躍。
米国における日系人社会の地位向上と、日米間の相互理解の促進、友好親善に寄与。
その功績により平成27年度の春の叙勲において旭日小綬章を授章されています。
1941年12月8日(現地7日) ハワイ海戦
日本海軍戦死者 64名
アメリカ軍及び軍属の戦死者 2345名
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