2012年11月17日

第100歩兵大隊と第442連隊戦闘団

第100歩兵大隊と第442連隊戦闘団

第100歩兵大隊と第442連隊戦闘団は別のものです。
以下に編制を示します。

・第442連隊戦闘団
 ・戦闘団司令部
  ・第442歩兵連隊
   ・連隊本部中隊
   ・第100歩兵大隊(HQ、A,B,C,D中隊)
   ・第2大隊(HQ、E,F,G,H中隊)
   ・第3大隊(HQ、I,K,L,M中隊)
   ・カノン砲中隊
   ・対戦車中隊
   ・補給中隊
 ・第522野砲大隊(HQ、補給、A,B,C中隊)
 ・第232工兵中隊
 ・衛生分遣隊
 ・第206軍楽隊

現在でも、式典で442のベテランのほとんどが使用されている442RCTのベテランズキャップを100のベテランは使用していませんし、ハワイにはそれぞれの部隊のVeteransClub(退役軍人会)が別の場所に存在しています。

部隊が編成された時期、と言うだけでなく後に合流し、第100大隊が442連隊の第1大隊の位置に配置されてからも「同じ」とは言えないと私は思っています。
この辺りは、米国の歴史を扱っている方でも、今一つ認識されていない事が多いと感じています。
100と442は別ですよ、と言うと「後に合流して第1大隊になっている」と教えていただく事が多くあるのです。
しかし、1944年6月にイタリアのチビタベッキアにて一旦合流した後も、何度かセパレートとして第100歩兵大隊だけが派出されています。
また、他の第2,第3大隊と違い、100は「第100歩兵大隊=100th Infantry Battalion」と公式な文書でも表記されている点、明らかに扱いは別だったと考えられます。
通常、連隊が所有する部隊旗=colorは大隊では独立した部隊のみが所有していました。
第100歩兵大隊も1943年7月20日に大隊旗を受領しています。
大隊旗(連隊旗)はおよそ式典の時等のみに使用されますので、滅多にみかける事はありません。
第100歩兵大隊では1944年7月27日に最初の大統領部隊感状を授章した際の式典で使用されているのが確認できますが、その後は式典等は442連隊で実施されており、旗についても442連隊旗のみが確認できます。

第100歩兵大隊と第442連隊戦闘団
1944年7月27日 イタリア・レグホーンにおいて第5軍司令官マーク・クラ-ク中将より大統領部隊感状を授章する際の第100歩兵大隊旗。

第100歩兵大隊と第442連隊戦闘団
1944年11月12日 フランス・エピナルにて第36師団長ジョン・ダールキスト少将による閲兵時における第442歩兵連隊旗。

第100歩兵大隊と第442連隊戦闘団
1945年8月 イタリア・ヴァダにて、戦勝式典での第442連隊連隊旗。

終戦後の1946年7月15日、アメリカ本土に帰国した第442連隊戦闘団はトルーマン大統領の閲兵を受け、大統領部隊感状を直接大統領から授章する栄誉(これはかなり異例でした)にあたります。
その際に、第442連隊の連隊旗と並んで第100大隊の大隊旗が確認できます。
通常、連隊旗があれば大隊旗は並列に並ぶ事は無いのですが、これも異例と言えるでしょう。
大統領と、その後のパレードにおける市民へ示した第100歩兵大隊の存在の大きさが伺えます。

第100歩兵大隊と第442連隊戦闘団

第100歩兵大隊と第442連隊戦闘団
1946年7月15日 ワシントンD.Cにて、パレード及びトルーマン大統領の閲兵に臨む第442歩兵連隊旗と第100歩兵大隊旗。


以下、違いについて簡単にまとめてみました。

・入隊の経緯について。
第100歩兵大隊のオリジナルメンバー(補充兵ではなく、最初のハワイ臨時大隊の編制時から所属していた兵士の事をそう呼び、大隊内で称えられています)は開戦前の選抜徴兵制度によって陸軍へ入隊し、訓練を受け、その多くはハワイ第298歩兵連隊(オアフ島出身者)及び第299歩兵連隊(他のハワイ諸島出身者)に所属して警備等に当たっていました。よって、従軍や戦争に対する意識も多くは違ったのでは、と思います。
(このあたりは、これまでの本や動画、実際に100と442のそれぞれのベテランとお話した事からも見えます)

・部隊所属兵士の出身地に関して。
第100大隊オリジナルはすべてハワイ出身ですが、442連隊は半数がハワイ出身、半数は本土出身です。
また、部隊編制時の下士官は本土出身者がほとんどで、当初は軋轢も産んだそうです。
彼らの間ではハワイ出身者を「ブッダヘッド=田舎者、日本的」、本土出身者を「コトンク=椰子の身の落下音、頭が空っぽ」等と呼びあう風潮も生まれました。
キャンプ・シェルビーでの訓練期間中、ハワイ出身者と本土出身者の摩擦は絶えず存在し、時には暴力事件にも発展していました。
一計を案じた連隊本部は、ハワイ出身者の中心人物を集め、本土の日系人収容所を訪問させます。
本土出身兵達がどのような境遇から志願し、入隊したのかを示す事で理解を深めさせようとしたのでしょう。
このアイデアは成功し、ハワイと本土兵の軋轢は沈静化したと言われています。

・欧州の戦場に着いた時期は9ヶ月程第100歩兵大隊が早く(1943年9月)、442連隊戦闘団(1944年6月)は充分な経験を持った第100歩兵大隊を陣容に加える事で、新編部隊からの早期戦力化が上層部によって図られたものと考えています。
日系人部隊をひとまとめにしておく、と言う意図も確かにあったとは思いますが、合流当時の第100歩兵大隊への評価と、442連隊戦闘団への期待を見るに、それはよく書かれる「捨て駒」的な扱いではなく、より優秀で強力な部隊への布石であったと私は考えます。
余談ですが、第100歩兵大隊及び第442連隊戦闘団には多くの日系人やハワイに見識が深くい白人将校が配置されており、その点からも合衆国陸軍が彼らの編制に腐心していた点が伺えます。

・部隊モットーの違い。
有名な「GoForBroke」は第442連隊並びに第442連隊戦闘団のモットーで、日本語では「当たって砕けろ」等と訳される事が多いですが、元々は当時流行っていた賭け事でよく用いられるスラングで、つまりは有り金を全部かけるような時に使用されるものです。
一方、第100歩兵大隊の部隊モットーは「Remember Pearl Harbor」で1943年7月20日の出征前に制定されています。
「真珠湾を忘れるな」のモットーは、日本人の視点から見ると複雑に感じるかもしれませんが、まずハワイは第100歩兵大隊の兵士達の故郷であり、その故郷が攻撃されて始まった戦争であると言う視点を持たなければ、日系部隊に対する考え方を見誤るのでは、と考えます。
しかし、同時に彼らにはその親族や場合によっては親兄弟が日本で暮らしていた者も含まれています。
従って単純に日本人かのように捉えるのは明らかな間違いですが、同時に日本憎しとして捉えるのも一概には書けない複雑さがそこにはあったのです。


1944年6月7日、アンツィオに上陸した第442連隊戦闘団(第1大隊欠=第1大隊は本土に残り訓練部隊となっていましたが、その人員の多くは補充兵として第100歩兵大隊へ送られていた)は早速ドイツ軍による砲撃の洗礼を受けていますが、幸いにも死傷者は出ませんでした。
6月9日にローマ北方のチビタベッキアへ移動した第442連隊戦闘団は6月11日付けの第34師団一般命令第44号を受け、制式に第34歩兵師団所属となり、同時に欠だった第1大隊の代わりに第100歩兵大隊が配属されます。
通常、親部隊が出来た事で「第1大隊」と名称が変わる所ですが、第34師団長チャールズ・ライダー少将の意向により、その戦歴を示す「第100歩兵大隊」の名称はそのままとされました。
これはかなり特例の措置ですが、第442連隊側からは必ずしも快く思われてはいなかったようです。

それから約10日間の訓練が行われ、その際に第100歩兵大隊は442連隊に戦闘に関するセミナーの開設を申し出ていますが、連隊はそれを断っており、更に非公式ながら「100大隊の指示は聞くな」と通達したと言うエピソードが「ブリエアの解放者たち」に記されています。
これは、既に1年に渡る本土での訓練の成果に自信のあった、442連隊側の気持ちのようなものがあったのかもしれません。
徴兵された100大隊よりも、志願兵で編制され厳しい訓練を乗り越えた自負が442の若い兵士達の間にはあったとも言われています。

6月24日に第34師団は再び前線へと配置されます。
第442連隊戦闘団は第100歩兵大隊を予備とし第2、第3大隊をサセッタ道とベルヴェデーレ道に配置して攻撃を開始しました。
しかし連絡不備から第2大隊は機能不全に陥り、砲撃によってF中隊を中心に大きな損害を受け停止。
26日には第3大隊でもK中隊本部が直撃弾を受けて中隊長が不能、中隊士官と先任下士官が戦死。
連隊戦闘団の攻撃はうまく行ってませんでした。
その頃、442連隊本部からすでに占領が報告されていた町に入った第34師団長チャールズ・ライダー少将は、残存していた敵に包囲され乗車していたJeepのドライバーが狙撃されて戦死。
停車したJeepから這いつくばって後退したライダー少将はヘルメットすら失っていました。
その怒り心頭の師団長が後退する際中に出会ったのが、予備として後方待機を続けている第100歩兵大隊でした。

「シングルス!(第100歩兵大隊長)、このヘマの片をつけろ!」と命じたとブリエアの解放者たちには記されています。

第100歩兵大隊は前進が頓挫している第2、第3大隊の隙間を縫うような形で前進を開始すると、東へ大きく迂回しベルヴェデーレの街の北方へ出て、敵の側背を突きました。
支援砲撃と連動したB中隊が街へと突入、同時にA中隊が北方から包囲し、更に予備だったC中隊も側面から圧迫する形でわずか3時間程度の戦闘でベルヴェデーレを攻略します。
後日、部隊最初の大統領部隊感状を授章する事となったこのベルヴェデーレの戦闘において、第100歩兵大隊は他の連合軍部隊やアメリカ本土(YANK誌、LIFE誌でも紹介された)へ勇名を馳せただけでなく、まず新たな親部隊となった第442連隊戦闘団にその実力を示す事になりました。
この戦闘の後、第442連隊戦闘団チャールズ・ペンス大佐はそれを最も認め、以後の作戦や行動に第100歩兵大隊を立てるようになったとされています。

第100歩兵大隊と第442連隊戦闘団
Charles W. Ryder

第100歩兵大隊と第442連隊戦闘団
Col.Charles W.Pence

第100歩兵大隊と第442連隊戦闘団
Ltc.Gordon Singles



私は第100歩兵大隊により興味を持ち、100大隊B中隊を中心としたリエナクトをしていますが、人に「442」と言われる事が多いです。

映画や本も、その多くが100大隊ではなく442連隊戦闘団を扱っており(と、言うか100大隊を描いてる映画は無い?)、強制収容→日系人の名誉回復に物語の中心が置かれている事が多いですね。

ハワイでは西海岸のような大規模な強制収容は行われていませんが、100大隊でも父親がFBIに逮捕されていたり、また戦後の日系人社会の礎を築いた意味はあると思います。

しかしながら日系人社会の為、と言う意識で戦争に臨んだといわれる442と違い、「御国の為」「義務」としての従軍であったのが100大隊所属の兵士達の大筋ではないかと思っています(個人の意識の違いはもちろんあるでしょう)

また、442の一番壮絶な戦闘として言われる「Vosgesの戦闘」ですが、確かにどの本を見ても壮絶な戦闘であったと思います。
それを経験している100のベテランも「Vosgesの戦闘は酷かった」と話されています。
しかし一番辛かった戦場は? と聞かれると、100のベテランは(全員を確認したわけではないですが)「やっぱり、カッシーノだね」 と言われるのです。

もちろんどちらも酷い戦場だった事は間違いないと思いますが、これらの事は100大隊メンバーの意識から来る事なのでは? と思っています。

つまり
・一番辛い戦場はカッシーノ戦だった。 しかし、442の栄誉と言われるVosgesの森の戦闘を讃えよう。
・442の「Boys」が「頑張った」と言われてる(言ってる)んだ、それに口は挟まない。

と言う意識では? と私は考えています。

もちろん、私は442連隊戦闘団の功績を否定していませんし(尊敬していますよ、もちろん)、442連隊戦闘団も興味があり、良い言葉がみつかりませんが大好きです。
しかし、それ以上に第100歩兵大隊が好きで、敬愛しています。



私達が「100」ではなく「442」と呼ばれた時の気持ち。
それは第100歩兵大隊のベテランが戦後に味わった気持ちの何100分の1かに近いのかもしれません。



第100歩兵大隊と第442連隊戦闘団

第100歩兵大隊と第442連隊戦闘団

第100歩兵大隊と第442連隊戦闘団

第100歩兵大隊と第442連隊戦闘団

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Posted by 先任  at 13:00 │Comments(0)リエナクトメントについて日系部隊史

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