2020年10月21日

Vosgesの戦闘 第442連隊戦闘団 Vol.1 「ブリエア解放」

前回はVosgesにおける第442戦闘団の戦死数と言う事で調査結果を参考資料とともに紹介させていただきました。
今回からはその戦闘の経過を日ごとにまとめた物を連載いたします。
参考資料については前回同様ですので、そちらをご参考下さい
部隊記録等の所蔵元については「アメリカ国立公文書記録管理局 National Archives and Records Administration (NARA) Records」となっております。


それではそれらの記録を元に、再度「失われた大隊」救出の戦闘と、戦死者を追ってみます。
加えてドウス昌代氏の「ブリエアの解放者たち」からのエピソードを追記します。
なお、部隊の行動図は行動記録から可能な限りで起こしましたが、細部は正確ではない可能性があります。
また、現在のGoogleMapを引用し使用していますので、1944年当時とは地形が異なる可能性があります。


Vosgesの戦闘 第442連隊戦闘団 Vol.1 「ブリエア解放」
Bruyères北西の丘、Hill555に立つ第442連隊戦闘団を称える石碑。

1944年9月29日
第442連隊戦闘団はUSS THURSTON, USS DICKMAN, USS CHASE, USS HENRICOに分乗してイタリア・ナポリからフランスのマルセイユに上陸。その後10マイルを徒歩移動しました。
当時の南フランス戦線は補給線が伸び切っており、鉄道の機関車や貨車が不足していたため、港からトラックによる輸送が行われていましたが、それは非効率極まりなかったと442連隊の幕僚が証言しています。

Vosgesの戦闘 第442連隊戦闘団 Vol.1 「ブリエア解放」
マルセイユから前進する第442連隊戦闘団兵士。

なお、連隊戦闘団の対戦車中隊のみは1944年7月16日~10月27日の間抽出され、第1特殊部隊(ロバート・フレデリック大佐指揮)においてグライダー降下訓練を受けたのちに、第517空挺歩兵戦闘団と共にドラグーン作戦に従事しておりこの、Vosgesの戦闘の序盤には居ませんでした。

9月30日
0600:指定エリアに到着。以後約10日間に渡り補充兵の訓練等を実施。
この時点で連隊は機関銃、迫撃砲等を新たに受領し、各中隊へ配布したため部隊では試験や訓練が行われました。
セプテームの宿営地は風が強く、また雨が降った為に多くの被服や装具が濡れ、ある者はそれから3か月間も乾いた被服を着る事が無かったと話しています。
10月2日
第6軍団(VI Corps)に配属されますが、部隊の管理は第7軍(7th Army)直轄とされます。
10月4日
第36歩兵師団に配属。
10月9日~
0830:CP閉所。
第100歩兵大隊、第2大隊及び連隊所属の各支援部隊は師団輸送隊のトラックにより北上を開始。
リヨンを経由し450マイルを走破、ヴォージュ県エピナル近郊の宿営地へと向かいました。
この時、連隊に割り当てられたトラックの実に25%が故障して使用できなくなり、第3大隊の移動は翌日に持ち越されます。
10月10日
主力より遅れていた第3大隊は貨物列車にて移動を開始します。
それは弾薬や糧食を輸送する貨物列車に混じる形で行われ、なんとも奇妙な編成だったそうです。
10月13日
連隊主力ヴォージュ県エピナル近郊の宿営地着。
1230:CP開設。
2200:第3大隊宿営地着。

Vosgesの戦闘 第442連隊戦闘団 Vol.1 「ブリエア解放」

Vosgesの戦闘 第442連隊戦闘団 Vol.1 「ブリエア解放」
エピナル郊外の宿営地にて休息をとる第100歩兵大隊B中隊の兵士達。


10月14日
1400:連隊はトラックを使用し短距離(2マイル)移動を開始。
Bruyeresの西4kmの森の入口にて兵士を下ろしたトラックはUターンし、あらたな兵士を迎えに戻るピストン輸送でした。

Vosgesの戦闘 第442連隊戦闘団 Vol.1 「ブリエア解放」
エピナル郊外からVosgesの森へ向けてトラックで移動する第2大隊の兵士達。

Vosgesの戦闘 第442連隊戦闘団 Vol.1 「ブリエア解放」
Vosgesの森へ進入する第2大隊I中隊の兵士達。

一部の部隊は徒歩で前進を余儀なくされます。
第232工兵中隊が地雷を除去、道路を整備し、更に前進する連隊を第522野砲大隊が砲撃により支援を行いました。

Vosges山脈は険しくそそり立つ山々ではありませんが、深い針葉樹の森に覆われており日中もほとんど日が射さない上、木材を主要産業としていたBruyeresからの業者が占領により森へ入らなくなっており、下生えは伸び放題だったと言われています。
また何日間も続く雨と曇天により、霧が立ち込めで視界が更に遮られ、山の斜面や道は部分的に泥濘となって進撃を妨げました。

「ボージュ山脈の森は数多くの小道が存在し、それらは曲がりくねり地元民ですら迷うと言われる。また、下生えが多く針葉樹の間隔が密接している為、敵の掩蔽は容易であり、あらゆる場所に存在する可能性がある。」
1944年10月6日、第36師団S2発行による地形情報より。

この一連のVosgesの戦闘は連合軍第7軍が発令した第6軍団隷下の第3師団、第45師団、そして第36師団によるドイツ侵攻作戦の一部、"Operation Dogface"によるものでした。

Vosgesの戦闘 第442連隊戦闘団 Vol.1 「ブリエア解放」
1944年9月22日に撮影されたBruyères付近の航空偵察写真。

Bruyeresの街は西から北、東にかけて4つの丘に囲まれており、連合軍はそれらをA,B,C,D高地と(Hill"A","B","C","D")と名づけ。Bruyeres解放に必要な拠点としていました。
更にその手前にはHill486、Hill555が大きく横たわり、連合軍の接近を阻んでいました。
南側のHill486は"テキサス部隊"である第141連隊が担当し、更にその南側から第143連隊が攻撃します。
第442連隊戦闘団はHill555を超えてBruyeresに迫る事を命令されました。

Vosgesの戦闘 第442連隊戦闘団 Vol.1 「ブリエア解放」

10月15日
Bruyeresの北西にある山岳(Hill555)は深い森で、各所に敵の射撃陣地や地雷が埋設されていました。
攻撃に先立ち、連隊は師団から支援を得ます。
第752戦車大隊、第636駆逐戦車大隊、第83化学戦大隊(107mm迫撃砲装備)第36偵察騎兵群(M6装甲車装備)、第886管理中隊、第56衛生大隊。

0800:第2大隊は縦列でRP(分進点)を通過、F中隊を先頭としE中隊、G中隊が続きます。合言葉は「ポォとポウォー」でした。

Vosgesの戦闘 第442連隊戦闘団 Vol.1 「ブリエア解放」
連隊の前進を支援する第522砲兵大隊の105mm榴弾砲。

H中隊の機関銃小隊がそれを支援します。

0930:F中隊はBruyeresから3kmの地点で敵の抵抗に会い、射撃を開始。
戦闘は1230:まで続きました。
この間、ドイツ兵5名を倒し14名の捕虜を得ます。
戦死1名(SSgt.Yamada Hideo) 負傷4名。
更にE中隊も砲撃により戦死1名(Pvt.Sagami Yohei)負傷2名。
午後には敵の抵抗が更に増大したため、第2大隊は停止。

夜間になってG中隊がHill486に斥候を送り、右翼は米第141連隊と接触。
また左翼は第100歩兵大隊と接触を確認します。

0800:第2大隊と並行する形で第100大隊もB中隊を先頭に前進を開始、森へと侵入します。
0915第100歩兵大隊B中隊は森に300ヤード進入した所で機関銃による射撃を受け停止。

2個中隊規模の機関銃による射撃に加え砲撃、戦車まで投入した激しい抵抗に会いB中隊は1日中戦闘を継続するも後退を余儀なくされます。
B中隊は戦死1名(SSgt.Hirahara Tomosu)を出しますが捕虜5名を得ました。

C中隊はB中隊を支援するため、LDを横切る形で侵入しますが、木々の影や陣地からドイツ軍の小火器による抵抗を受けます。
更に1430:には砲弾の落下もあり多くの死傷者を出します。
戦死3名(Sgt.Mayeda George M//Cpl.Sakai Yoshinori//Pfc.Tengwan Yoshio)、負傷19名。
D中隊は各中隊の支援でしたが、地形上迫撃砲が機能せず、効果的な支援ができませんでした。
A中隊は予備として待機していましたが、砲撃による被害を受けました。

ボージュの戦闘において、必ず語られるのがツリーバーストです。これは敵の砲弾が、頭上の木々にあたって炸裂し、砲弾の破片に加えて木々の破片までが殺傷力を持って飛び散るもので、壕を掘っていても頭上から降り注ぐ鉄と木の破片による被害が大きく出た事を指しています。
この日、予備として待機していたA中隊では一発の敵砲弾がツリーバーストとして炸裂した事により3名が戦死(1名はWOD-病院での戦死、1名は負傷後長く入院生活を余儀なくされ、戦後に死亡)、17名が負傷しました。

Vosgesの戦闘 第442連隊戦闘団 Vol.1 「ブリエア解放」


ドイツ軍第223擲弾兵連隊、及びSS第19警察連隊から約20名の捕虜を得て、敵のCPの位置情報並びに地雷原の情報を入手。
彼らは比較的、部隊の持つ装備についてはよく話したが、総合的な兵力や陣地についてはほとんど知らされておらず「ただ、その場所で防御せよ」と言われていただけだったと記録されています。
この日の連隊の戦死者、11名。

100A/TSgt.Miyoko Mitsuru E
100A/Pvt.Matsunaga Kaname
100B/SSgt.Hirahara Tomosu
100C/Sgt.Mayeda George M
100C/Cpl.Sakai Yoshinori
100C/Pfc.Tengwan Yoshio
442E /Pvt.Sagami Yohei
442F/SSgt.Yamada Hideo
232Eng/Pvt.Yamamoto Takeo
232Eng/SSgt.Fuji Abe M
100A/Pfc.Moriguchi Rokuro (砲弾による負傷、入院後回復せず1947年5月29日に死亡)


10月16日
0600:第100大隊左翼、第2大隊右翼並列での攻撃を開始。
第100大隊はA高地、第2大隊はHill555を目指します。
232工兵中隊が地雷及びHill555前面の障害処理を実施しE中隊、F中隊が並列で前進しますが、丘に差し掛かる手前の開けた場所で激しい銃撃と砲撃を受けて停止。
第100大隊は第2大隊の左翼からHill555の北側を経由してA高地を目指しますが、Hill555を超えた地点で深い谷に当たり前進を阻まれます。

0730:夜明けから発生した霧が谷を覆い、視界が不良となる中で1個大隊規模のドイツ軍が反撃。
各種砲による砲撃に加え戦車の支援を受けたドイツ軍は第100及び第2大隊に襲い掛かりました。
すかさず第522野砲大隊及びD,H中隊の迫撃砲で敵の反撃に対し痛打を与え、この反撃を失敗に終わらせます。
なお師団右翼の第143連隊は442連隊の攻撃に呼応するように前進し、Bruyeresの南方Cample-Ducまで前進することに成功。

0800:再度攻撃開始。
F中隊はBruyeresの北西、Hill555の一部を占領、Bruyeresまで1kmに迫りますが激しい抵抗を受けます。
0930:ドイツ軍は戦車の援護を受けつつ反撃。第2大隊は6個の対戦車ロケット班を編成して、これに対抗し撃退します。
E中隊が主力となってHill555を攻撃し、連隊の火力支援を受けつつ1100に占領。
ついで連隊がBruyeres前面の平地を前進しますが、今度はB高地より砲撃を受け停止します。
B高地からは砲撃に続き3両の戦車と複数の自走砲、更に歩兵による攻撃を受けました。
1730:約一時間の攻防戦の後、連隊は一旦後退します。
第100大隊は左翼にB中隊、右翼にC中隊としてA高地(Hill578)のふもとまで前進し、A中隊が間隙をカバーしました。
第100歩兵大隊では、大隊作戦将校(S3)となっていたCpt.Young-Oak Kimの発案により、太いワイヤーを使用して本来は下りれない勾配の斜面で戦車を下ろす計画が実行されました。
あまりに多数の敵機関銃の配置から、歩兵単独での攻撃は被害が増大するのみと考えられました。
「ブリエアの解放者たち」によると、その戦車を下ろす作業の実施中に状況を把握していない師団長より、強い攻撃命令が第100大隊に幾度となく下り、Cap.Kimは師団と接続されていた有線電話線を引き抜き、あっけにとられる大隊長に「砲撃にやられました」と言ったと言うエピソードがあります。
一日中、敵の砲撃が行われ被害も増えましたが21名の捕虜を得て、Bruyeresの街の防衛に関する情報を得ています。
Bruyeresはドイツ軍第736擲弾兵連隊第1、第2の2個大隊が防御しているとの情報でした。

Vosgesの戦闘 第442連隊戦闘団 Vol.1 「ブリエア解放」
1944年9月29日に撮影されたBruyères付近の航空偵察写真。

Vosgesの戦闘 第442連隊戦闘団 Vol.1 「ブリエア解放」


接触した敵部隊は下記の通りです。

第198SS警察連隊。
第1316工兵大隊第Ⅲ中隊。
第49要塞機関銃大隊。

16日から17日にかけて冷たい雨が続き、兵士達は泥だらけの中で過ごす事になります。

この日の戦死者は10名でした。

100B/Pvt.Noritake Yoshito
100C/Sgt.Imai Tomio
442E/Pfc.Katayama Noritada
442E/Pfc.Kato Joseph Hisato
442E /TSgt.Matsumoto George H
442E /Pfc.Komoto Nobuo
442F/Pvt.Miyazono Tokio
442F/Pfc.Horinouchi James Joji (George)
442F/Pfc.Yamaoka Tsutomu
442H/Pfc.Saito George S



10月17日
0730:夜明けと共にHill555の第2大隊及び左翼の第100大隊に対し、ドイツ軍が2個中隊の歩兵を中心とした反撃に出ます。
1時間程の激しい戦闘が行われた後、H中隊の火力と第522野砲大隊の支援射撃を得て、ドイツ軍はA高地及びB高地へと後退、再編成を行いました。
0930:第2大隊は戦車による二度目の反撃を受けるが、地形の問題で対戦車砲が動かせず、第2大隊のE及びF中隊はバズーカ砲班を6個編成し、戦車に対応、これを頓挫させます。
同時に第100大隊に対しても歩兵を中心とした反撃が行われました。
第100大隊はちょうど前進を開始するタイミングにぶつかり、適切な防御を行う事ができなかったため、一部では戦線を突破されます。
手榴弾を投げ合い、時には銃剣すら使用する近接戦闘の末、第100大隊は防御線を立て直し、敵の撃退に成功。
この戦闘でA中隊のSgt.Tezuka Theodore TとPfc.Shigeta Hideoが戦死。

その後、敵の後退に呼応する形で連隊は前進を再開するもA高地、B高地から射撃を受けて停止。
ドイツ軍は丘のふもとの民家等を利用して機関銃を配置し、前進を阻みました。
推定15挺の機関銃と2門の対戦車砲があったと記録されています。

午後になり、第2大隊G中隊が連隊右翼からHill555を回り込んでふもとを攻撃し、数件の民家を攻略。
第100大隊はC中隊から1stLt.Masanao Otakeが率いる斥候を出し、A高地ふもとの民家を確認中、敵に発見されます。
Lt,Otakeは分隊の後退を援護し、サブマシンガンによって射殺されました。
この行動により、殊勲十字章を死後授章します。
なお、「ブリエアの解放者たち」によると、師団長自らが前線に来て、直接オオタケ中尉に対し「直ちに攻撃せよ」と指揮系統を無視して命令し、それが実行されるかを後ろから監視。
オオタケ中尉はC中隊から1個小隊を率いて予備として待機中であったが、師団長の直接の命令によりA丘へ前進、Pfc .Ajitomi Tokio、Pvt.Sakai Yoshinoriと共に戦死したとの記述があります。
Lt.Masanao Otakeは野球のアロハチームの一員で、戦前から軍に徴兵されていた第100歩兵大隊オリジナルメンバーの1人でもありました。
兵士として優秀なだけでなく、物事を冷静にかつ公平に判断できる人物で、アンツィオで将校に任官し、小隊長をしていました。また、第2大隊H中隊に弟のSgt.Masayuki Otakeがいました。


夜間になって各中隊は積極的に夜間斥候を出し、敵の位置の把握に努めます。
またこの時点で街のレジスタンス、ドロラン氏との接触に成功し街への近接経路についての情報を得ます。
降り続く雨の中、不眠不休の戦闘を継続しながら翌18日を迎えます。
Vosgesの戦闘 第442連隊戦闘団 Vol.1 「ブリエア解放」


この日の戦死者は11名でした。

100A/Sgt.Tezuka Theodore T
100A/Pfc.Shigeta Hideo
100C/2lt.Otake Masanao Russel
100C/Pfc.Ajitomi Tokio
100C/Pvt.Sakai Yoshinori
2BnHQ/Pvt.Kanaya Walter Etsutoshi
442F/Pfc.Tanji Mitsuo
442F/Pfc.Ikehara Dick Kikuichiro
442F/Pvt.Tagami Yoshio
442G/Cpl.Kokubu James Toshio
442G/Pfc.Chibana Henry Matsuzo


10月18日 Bruyeresへの進入。
合言葉は「スーベニア」と「リムジン」でした。

夜明けまでに第3大隊は市街への突入を企図し、第2大隊の右側(南側)へ配置。
I中隊とL中隊が未明のうちに攻撃開始線へ敵の射撃を受ける事なく移動することができました。

0800:準備砲撃が開始され、30分間、5個砲兵大隊(計60門)からの射撃が行われました。
第3大隊を中心に8個中隊(A,B,C,E,F,G,I,L)が並列となり前進を開始。
連隊を上げての攻撃となります。
充分な煙幕が砲兵によって展開され、その遮蔽の元にそれぞれの目標を目指し、全力で前進します。

100大隊はようやく戦車の支援を受けて、A丘ふもとを3個中隊のライフル中隊すべてを出して攻撃します。
B中隊が先頭となり、ふもとの民家を攻略。A中隊はB中隊の左側面をカバーした後、丘に沿って残敵を掃討しながら前進。C中隊は大隊の右翼からA丘を攻撃しました。
この戦闘でB中隊のSgt.Hosoda Max MとC中隊のPfc.Ogawa Edwardが戦死。
1100:戦車からの砲撃により、森からの反撃が弱まったと判断したB中隊長サカエ・タカハシ大尉と、大隊作戦幕僚のヨンオク・キム大尉は2人だけで銃を構えず、森へ対峙。
身振りを交えながら「出てこい! カモン」と呼びかけ、結果ドイツ兵45名が投降。
前線の防御線は崩壊していると判断した第100大隊はA丘を駆け上って攻撃。
1420:A高地を占領。更に70名以上のドイツ兵が投降します。
第100歩兵大隊はA高地において逆襲対処の為、壕を掘りつつ警戒に移りました。
なお後日、このA高地攻略の功績により第100歩兵大隊は1944年6月のベルヴェデーレの戦闘以来、2度目の大統領部隊感状を受賞しました。

一方、第2、第3大隊はE,F,Gの3個中隊を先頭として、目標とされたB丘の攻略に挑みます。
午前中に開始した攻撃は敵の激しい抵抗にあり、正午になってもまだ高地ふもとに達した兵は居ませんでした。

山間部から撃ち下ろされる機関銃と砲弾に、平地から前進できない部隊は次々と被害を受けます。
E中隊Pvt.Fukumura Ichiji、F中隊Pfc.Morimoto Toshiaki、G中隊T/4.Yoshinaga Akiraが戦死。
第2大隊通信所には敵砲弾が直撃し、Sgt.Kijima Tadashiが戦死。
各中隊の火器小隊から60mm迫撃砲が抽出され、集中射撃を加えて敵の機関銃を沈黙させ、一気にB丘のふもとへと迫る作戦が成功。
F,G両中隊が敵を引き付けている間にI中隊が右側面から迂回し、丘の南側斜面から攻撃し、包囲の危険を感じたドイツ軍は後退します。
1500:攻撃開始から6時間半を経て、第2大隊はB丘を占領。

B丘の占領後、第3大隊L中隊は北側からBruyeres市街へと進入、通りを家ごとに確認していきました。
1830:L中隊の斥候が南側から街へと入った第143連隊C中隊と接触。
Bruyeresの街の雌雄は決しました。
しかし、残った一部のドイツ軍は広場や通りにバリケードを築いて抵抗を続け、街の各所で散発的な市街戦が真夜中まで継続されました。

砲撃が止み「どうやらアメリカ軍が来たらしい」と知った市民4000人は地下室から出て、その「小さなアメリカ人」に驚きました。
そして残っていた僅かなワインや食べ物が持ち出され、家々に招待がありましたが、多くは戦闘行動を継続中であり、通じない言葉と身振りでで断るしかなかったようです。

第3大隊L中隊はD丘に斥候を出し、敵の防御線を確認するも銃撃を受けて後退。
1700:K中隊は残存する狙撃兵に対処した後、Bruyeres市街へ進入。
連隊の前線指揮所もHill555沿いの陣地へと移動しました。

天候は寒く、16日間も連続で雨が続いています。
補給路は泥に埋もれ、多くの車両が足止めされたため、補給の問題が生じたため工兵が道路整備を行いました。

この日、第93自走砲大隊及び第141野砲大隊が第442連隊戦闘団の支援に派遣され、第522野砲大隊と共に火力を増大させます。

第2、第3両大隊は61名を捕虜を得て、この日の戦闘では合計134名の捕虜を得ると同時にほぼ同数の敵を倒した、と記録されています。

Vosgesの戦闘 第442連隊戦闘団 Vol.1 「ブリエア解放」


なおこの日遭遇したドイツ軍部隊は下記の通りです。

第192装甲擲弾兵連隊第Ⅱ中隊。
”アーレン”戦闘団 赤色中隊
第716工兵大隊第I中隊
第198擲弾兵大隊第Ⅱ、第Ⅲ中隊

なお連隊戦闘団の戦死者は6名でした。

100B/Sgt.Hosoda Max M
100C/Pfc.Ogawa Edward
442/2HQ/Sgt.Kijima Tadashi
442.E/Pvt.Fukumura Ichiji
442.F/Pfc.Morimoto Toshiaki
442.G/T/4.Yoshinaga Akira


Vol.2に続きます。


information

写真展 「アロハの桜」~二世軍人が残してくれたもの~
主催:Bco/100Bn

Vosgesの戦闘 第442連隊戦闘団 Vol.1 「ブリエア解放」

2020/10/28(水)~11/ 2(月)
12:00~20:00(初日は、13:00から、最終日は、18:00まで)

ギャラリー「イロリムラ
〒530-0016 大阪市北区中崎1丁目4番15号
TEL:06-6376-0593

戦後間もない舞鶴の地にハワイの日系二世たちから桜が送られました。
それから約70年経った2018年、ハワイ在住の日系二世の方々を招いて、
その意思を継ぐ新しいアロハ桜の植樹式が行われました。
かつて対立しあった二国を繋いだ桜。
生まれ変わったアロハの桜をどうぞご覧ください。
合わせて関西のリエナクター(歴史再現)集団BCo/100Bnの活動の様子も展示いたします。

協力
アロハ桜保存会
100th Infantry Battalion Veterans Education Center
MIS Veterans Club of Hawaii





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