2019年12月11日

中隊先任下士官

1SG. 1StSgt. First sergeant.

中隊先任下士官

よく1等軍曹と和訳される事が多いですが、正確ではありません。
Sfc.Sergeant.Firstclassは現代では1等軍曹にあたるかもしれませんが、WW2の頃はTSgt. TechnicalSergeant.でありちょっと意味合いが違います。

給与グレードは曹長Msg. Master Sergeantと同格であり、役職を示すもので中隊規模の部隊の最先任下士官です。
階級としては元の階級(多くはMsg.ですがまれに更に下の階級から宛てられる場合も)であり、その役職を代わる際には元の階級に戻ります。

さて今回の記事は別に階級章の話ではなく、1人のハワイ日系アメリカ人についてです。


アメリカ陸軍第100歩兵大隊B中隊の先任下士官だったTakashi Kitaoka氏の物語をまとめて見たのでご覧下さい。

Takashi Kitaoka

1912年2月1日 マウイ島ハナ産まれ。
熊本出身の両親、北岡寅木とサダの間に4人兄妹の末子として産まれました。

カエレクシュガーカンパニー(Kaeleku Sugar Company)のプランテーションで働いた後、虎木とサダはカエレクにコーヒーショップを開きます。
コーヒーショップの向かいは家があり、2つのベッドルーム、ストーブとアイスボックスを備えたキッチン、屋外トイレ、独立した風呂小屋がありましたが当初は電気が無く、灯油ランタンが部屋を照らしました。

コーヒーショップでは中国系の料理人が主に中華料理とアメリカ料理を作り、寅木はパンを焼きました。
Takashiも午前2時から起きてパンを捏ねたりをしていたそうです。
Takashiの主な仕事はストーブ、オーブンの為の薪を運んできて、くべ易い大きさに割る事でした。

日系人は基本的に家で食事を取り、昼食は弁当を持つので多くの客は独身のフィリピン系などでした。
北岡家の食事は母がコーヒーショップで作り、その多くは日本食でした。
他に料理人が作る中華料理やハワイの料理も食べました。


買い物は多くを近くのハナから購入しており、ワイルクまで出る必要は無かったが、月に数回ホノルルから来る船に注文もしていました。


カエレクプランテーションキャンプのコミュニティには多くの労働者のフィリピン人、日系人、および少数のハワイ人、牧場主のポルトガル人が合計して3~400人ほど居ました。
それらの人々は民族性を他に主張することなく、良好な関係を築いていたそうです。

移動手段は徒歩か馬です。
学校にも当初馬で通っていましたが、それは途中からスクールバスに代わりました。

コーヒーハウス、レストラン、プランテーション店、鍛冶屋、映画館等があり、映画や芝居の興行、また独立記念日や他の民族イベントが楽しみでした。

医師は3マイル離れたハナに住んでいます。
プランテーションが雇っている医師でしたが、彼はコミュニティ全体に奉仕してくれ、時には出産も助けてくれました。
歯科医は半年に一度しか立ち寄りませんでしたので、歯痛が発生しても医師が抜歯する以外の対処が無かったそうです。
ハナの反対側に3マイルほど離れた所に牧場があり、彼らはハナへの往復の途中でコーヒーショップで食事することがありました。
彼らは週末にはプランテーションへ来て、野球等のスポーツで親交もありました。


子供の頃からTakashiは馬に乗ってホノカラニ等へ行き海で釣りをしました。魚は家族の夕食となります。
またナヒク近くの自然のプールへ泳ぎに行き、プール流れ込む小川でエビを摂りました。更にマンゴー、山のリンゴ、グアバ、アボカド、タケノコとワラビなども。

Takashiは小学校1年~3年までカエレクの小さな学校に通い、飛び級をしてハナ学校の5年生になります。
それから8年生までハナに通いました。
昼食は多くがムスビ、時々サンドイッチでしたがアリに襲われる事が多かったそうです。
1926年にハナからワイルクまでの道路が建設されました。 14歳のタカシは初めて町を訪れ、その町の大きさに驚いたそうです。

北岡家は仏教徒でしたが、Takashiは他も含めて宗教に関心を持ちませんでした。
ただ、父親の寅木が日系コミュニティーのリーダーだったためもあり、日本語教育に熱心だったためハナ本願寺の日本語学校には8年通いました。
1924年、排日移民法が制定された影響もありハワイにも反日感情があったとTakashiは語っています。
直接差別された、という経験は無かったそうですが、日系人以外の人種が日本的な物を好まない風潮を肌で感じていたそうです。

なお寅木はコミュニティーのリーダーで日本語教育推進の委員長もつ務めていましたが、開戦の頃には引退していたため、FBIに逮捕されはしなかったそうです。
また母のサダも日系の婦人会に積極的に参加し活躍していました。

ハナには高校が無かったため、Takashiは奨学金を得てホノルルの中部太平洋予備校(Mid-Pacific Institute)に入学し初めてマウイを出ます。
奨学金だけでは足りない授業料を彼は食堂等で働きながら支払いますが、それでも足りなかった分はどこからか父親が工面したのだろうと回想しています。

また、ここでは本土からの教師に教えでかつで興味を持たなかったキリスト教の世界観に興味を持つようになります。
なお、高校1年生の時に母サダが脳卒中で亡くなりました。

予備校を出てハワイ大学へと進んだTakashiは大恐慌の中で政治学と社会学を学びます。
またPalama Settlementに拠点を置く結核協会の保健教育者として、彼は講演、映画の上映を行いそのパンフレットを発行しています。
更に1935年にはホノルル・スターブリテン誌に日本人コミュニティについて記事を書き、日本人のハワイ移民50周年を記念した特別版を作成しました。

また同年、東京での日米学生会議に出席する事となり日本へ渡っています。
会議の後、Takashiは両親の出身であるは熊本に1人で行きました。
日本語はあまり話せませんでしたが、良い経験をしたと語っています。

なお後に妻となるMarry Yuki Miwaとはハワイ大学2年の時ににYMCA主催のキャンプで知り合ったようで、大学中から付き合いをしていました。

Takashiは1937年に推薦を受けてアメリカ本土、テキサスのベイラー法律学校へ入学します。
テキサスに来た彼は初めて黒人に対する差別を目の当たりにします。
またネイティブアメリカンの友人を作り、アメリカのこれまでの歴史や、人種について考える機会が増えたようです。
彼は法律学校を3年で卒業しますが、司法試験の合格には至らずハワイへと帰ります。
※戦後、司法試験に合格し弁護士となります。

ハワイへと帰ったTakashiはその年の12月にマリー・ユキ・ミワ(Marry Yuki MIwa)と結婚します。
Yukiは福島県出身の両親から1913年に産まれ、父親の職業は医師で元々は武家だったそうです。おそらくは会津の方だったのではないかと思います。
兄の1人は日本へと帰り、陸軍将校だったようですが詳細は不明です。
大学卒業後はハワイ州の事務局で秘書として働いていました。
結婚後、彼女は赤十字の支援を得て夫の居る第100歩兵大隊を追いかける事となります。
支援があったのも最初のキャンプマッコイだけで、後にシェルビーのあるミシシッピ、さらには演習先のルイジアナまで彼女は大隊を追いかけます。
その行程には後に第100大隊長にまでなるMituyosi Fukudaの妻、Toshiko Fukudaも居ました。


中隊先任下士官
結婚式の写真、と書かれているキャプションもあるが部隊章からキャンプ・シェルビーに居た頃であり、1943年の夏、欧州出征前に記念で撮影したものと考えます。


Takashiは結婚直後に陸軍に徴兵され3~4ヶ月の基礎訓練の為にスコフィールドバラックスに召集されます。
召集された兵士は様々な人種が混ざっていましたが、下士官以上はすべて白人だったと語っています。
その後、ハワイ州兵第298歩兵連隊へと配属され(※マウイ島出身者は299歩兵連隊の筈ですが、ホノルルで徴兵されたからなのかもしれません)更に訓練を受けます。

中隊先任下士官
最初の徴兵によってスコフィールドに居た頃の写真と推察します。

1941年9月、28歳となっていたTakashiは年齢制限の為に除隊します。
除隊後ホノルルの行政職を得て働いていたTakashiは12月7日を迎えます。

12月7日朝、騒音に目覚めたTakashiは家を出た所で多くの航空機が飛んでいるのを目撃します。(※それが日本軍機であったかどうかは判りません)
直後にラジオで予備役の招集を聞き、彼は298連隊へと連絡し、再び召集されます。

召集されたTakashiはE中隊に配属され海岸警備に当たります。
武器は小銃と機関銃、そして迫撃砲がありましたが、陣地も含めてとても充分とは思えず不安にかられたそうです。

1942年6月に第298、299連隊から1432名の日系人(と少数のハワイ系、朝鮮系等を含む)がSSマウイ号に乗せられて本土に移動。本土に着いた時点で第100歩兵大隊と編成されてウィスコンシン州のキャンプ・マッコイへと移送されます。

中隊先任下士官
キャンプマッコイ。1942年夏頃の写真と思われます。階級はSgt.です。


中隊先任下士官
キャンプマッコイ。1942年~43年の冬頃と思われます。SSgt.に昇任しています。

Takashiは戦前の従軍経験があった事と高等教育を受けていた事から下士官となり当初はCpl.後にSgtとして訓練に励んでいましたが更にSSgt.へと昇任しB中隊の小銃分隊長に指名されます。

当時のB中隊長はクラレンス・R・ジョンソン大尉 (Cpt.Clarence.R.Johnson)で白人でしたが、ジョンソンは海外派遣前に転属しています。
次の中隊長は日系将校Cpl.Taro.Suzukiでした。
後にB中隊長として名を馳せるCpl.Sakae.TakahashiはF中隊に居ました。

マッコイでは訓練の傍ら、週末にはスパルタやラクロスと言った町に出て楽しむ事も出来ました。
あまりに多くの酒を飲むので大隊長ファーレント・ターナー中佐(Lcl.Farrant.Turner)が「ウィスコンシンを干上がらせてしまわないように」と注意した程だったそうです。

1943年2月にミシシッピー州のキャンプ・シェルビーへと移った第100歩兵大隊は更に実戦的な訓練や演習を行ないます。

1943年8月20日 大隊はキャンプ・キルモアを経てニューヨークのブルックリンからジェームス・パーカー号(USS James Parker (AP-46) )に乗船、欧州へ派遣されます。
1943年9月2日に北アフリカ・アルジェリアののオランに上陸した大隊は当初、鉄道警備の任務を与えられる予定でしたが大隊長以下の抗議により実戦部隊である第34師団隷下の第133歩兵連隊に第2大隊として配属されます。
9月22日にイタリア戦線、サレルノに上陸。
上陸戦闘こそなかったものの兵士、装備、車両が上陸時に水没し大変な目に合います。

そして9月29日。第100歩兵大隊はベネヴェントの近くで初めて敵の砲弾の洗礼を受け、朝日野球団のエースであったShigeo Joe Takataを初めとする犠牲を出します。
JoeはTakashiの友人でもありました。

この戦闘の後、Takashiはそれまでの実力を評価されB中隊の先任下士官=1StSgt.へと昇任します。
それまでと違い、中隊すべてを管理する役職にTakashiは当初困惑しますが、その役目を果たして行きます。

中隊先任下士官
1943年イタリアでの写真。階級ははっきりと見えませんが、1Sg.またはMsg.と思われます。


10月にはヴォルトルノ川の渡河作戦では、夜間戦闘の混乱で中隊をはぐれ、Pvt.1名と取り残される経験をしています。

11月の600高地の戦闘では、先に前進した部隊が進路にトイレットペーパーを置いてあるのを目撃します。
それは地雷の位置を示していました。
しかし風で飛ばされたりもあり、多くの兵士が地雷の犠牲になりました。

そして1944年1月、モンテカッシーノの戦闘が始まります。
高地を下りながらの戦闘、何本もの溝があり飛び降りる事ができません。
部隊は間に合わせの材料ではしごを急造して下りますが、その途中にも敵の射撃を受けました。
副大隊長だったジャック・ジョンソン少佐もそこで戦死しました。
ジョンソン少佐は最も日系兵に人気のあった白人将校で、戦前からハワイ大学でフットボールのキャプテン兼スター選手で、それを知る者も多く大隊に居ました。
少佐が撃たれた際、すぐに救出と手当てを命じましたが、夜間の混乱で少佐の後送が後回しになったしまうミスがあったとドウス昌代著の「ブリエアの解放者たち」には記述されています。
それによると、当初は息子が第100歩兵大隊に配属された事を喜び、自身で配合させたハイビスカスの新種に「ワンプカプカ」※100の意味 と名づける程だった少佐の父親は、救出の順序を間違えて戦死させた事を悲しみ、戦後は怨みにまで思っていたとの事でした。

そしてTakashiもまたカッシーノで負傷します。
カッシーノから撤退した翌朝、彼は先任下士官として中隊員を確認し、その無事な兵の少なさに愕然とします。
192人で編制される歩兵中隊、その中で無事な兵はたったの28名でした。
直後に砲弾が降り、Takashiは鎖骨を折って昏倒します。
気付いた時には野戦病院に居ました。

約1ヶ月の治療の後、彼は中隊へと復帰します。
部隊には多くの失われた兵士の代わりに本土の第442連隊から若い補充兵が送られてきます。
Takashiは先任下士官としてそれらを各小隊へ割り振る仕事がありましたが、それは胸を痛める仕事でした。
斥候やパトロールが遭遇する小規模な戦闘には犠牲者も出ます。
その多くは戦闘に慣れていない補充兵でした。
送ったばかりの新兵が数日後には戦死者として記述しなければならない名前になっている事をひどくく悲しみました。

Takashiもまたハワイ兵と本土兵の仲が順調でなかった事を語っています。
曰く、言葉も生活も人生観も違う。ということです。
しかし、戦闘を経て彼らの関係は改善されていったとも話しています。

1944年9月、第442連隊戦闘団の第1大隊となっていた第100歩兵大隊は連隊と共にフランス戦線へと転戦します。
Takashiはこの時休暇を得て、A中隊長だったMituyoshi Fukudaと共に一時帰国します。
帰国したTakashiはシカゴで妻と会うことができました。
なおB中隊の先任下士官は1Sg.Yutaka Suzukiに交代しています。


中隊先任下士官
休暇で帰国したシカゴでの写真と推察します。階級章は付けていませんが、34師団章を右に着用しています。


その後前線に戻ったTakashiはシャンパン・キャンペーンを経てゴシックラインの戦闘に赴きます。
終戦後は充分なポイントを得ていたため、最初の帰国グループの1人として妻の下へ戻りました。
当時イリノイ州シカゴで働いていた妻Yukiとシカゴで1年を過ごしながら法律の再講習を受け、司法試験をパスします。
その後ハワイへと戻り、2年間退役軍人局で働いた後にホノルルの検察庁に入庁しました。

中隊先任下士官
判事に任命され、宣誓するTakashi.宣誓する相手、最高判事は同じく第100歩兵大隊出身のJack Mizuha.

さらにハワイ労働省監督官を経て1962年には裁判所判事となります。
しかし共和党員だったTakashiは知事が民主党になってからは判事に任命されていません。

その後第100歩兵大隊Veteransクラブ会長なども歴任しますが、戦闘で受けた傷が原因の難聴のため、自ら役員を退くことになります。


2016年8月9日 永眠 104歳。

B中隊では「キット」と呼ばれ、戦後は判事だった事から「ジャッジ・キタオカ」と呼ばれていたそうです。





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Posted by 先任  at 14:58 │Comments(0)そのたミリタリ日系部隊史

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