2020年11月26日
Vosgesの戦闘 第442連隊戦闘団 Vol.2「ビフォンテーヌ解放」
アメリカ陸軍 第442連隊戦闘団 Vosgesの戦闘 Vol.2 「ビフォンテーヌ解放」をお送りいたします。
前回のVol.1では1944年9月29日 マルセイユ上陸から10月18日のBruyères解放までを書きました。
今回はBruyères解放後1944年10月19日~26日までの連隊戦闘団の記録を掲載いたします。
参考資料については前回同様「ヴォージュ(Vosges)の戦闘及び「失われた大隊救出」における第442連隊戦闘団の戦死者数について」と同じですので、そちらをご参考下さい。
部隊記録等の所蔵元については「アメリカ国立公文書記録管理局 National Archives and Records Administration (NARA) Records」となっております。
なお、部隊の行動図は行動記録から可能な限りで起こしましたが、細部は正確ではない可能性があります。
また、現在のGoogleMapを引用し使用していますので、1944年当時とは地形が異なる可能性があります。
この一連のVosgesの戦闘は連合軍第7軍が発令した第6軍団隷下の第3師団、第45師団、そして第36師団によるドイツ侵攻作戦の一部、"Operation Dogface"によるものでした。
10月19日
Bruyeres解放から一夜明けた翌日。
第442連隊戦闘団第3大隊は早朝には街から移動を開始しており、住民達の多くに一夜にして消えたオリエンタルの兵士達、と言う印象を残しました。
Bruyeres市内で写真屋を営んでいたJean Marie Thomasが解放の時の写真を幾枚か撮影しています。
Jean Marie Thomas氏撮影の1944年10月18日解放時のもの。442連隊L中隊と思われる。
連隊の次の目標はBruyeresの東にあるD高地でした。
連隊はA高地を占領した第100歩兵大隊を予備として残し、第2、第3大隊をもってD高地を攻撃します。
D高地は昨日の第3大隊L中隊による斥候から強力な敵の防御線を確認していました。
1000時:2個大隊並列による攻撃開始。
第2大隊は左翼にG中隊、右翼にF中隊、支援にH中隊、予備をE中隊として高地に突入。
第3大隊は中央L中隊、左翼I中隊、右翼K中隊とした3個中隊並列で高地の南側を制圧し、鉄道の確保に向かいます。
D高地のドイツ軍は、そのほとんどが夜間に後退しており抵抗は微弱でした。
1145時:第2大隊はD高地を占領。その際、D高地の山頂に居たのはたった2名のドイツ兵でした。
第2大隊はD高地にてE、G中隊が掃討を実施、第3大隊はI中隊とK中隊を並列させて高地南側を前進します。
1600時:第3大隊は線路までたどり着きますが、線路の反対側から強力な射撃を受けて停止。
1800時:夕闇が迫る中、I、K中隊は地雷原に踏み入ってしまい危険度が高ったが、は前進を止めて、個人壕を掘り敵と対峙します。
この時、側面をカバーする予定だった第143連隊の行動が遅れており第2、第3大隊は敵方に約2km突出し、孤立の危険がありました。
夜間になり、D高地に中隊規模のドイツ軍が侵入。
第2、第3大隊や進撃路の構築に当たっていた第232工兵中隊が散発的に攻撃を受けます。
第2大隊はE,G中隊が防御線を構築し予備としていたF中隊をこのドイツ軍への対応に当てます。
F中隊の前進に合わせ。H中隊及び第3大隊L中隊の一部がそれを支援しました。
1500時:第442連隊本部はBruyeres市内に移動します。
1700時;第100歩兵大隊は占領したA高地に警戒部隊としてA中隊を残すと他のB,C,D中隊はBruyeresの街の北端へと入ります。
小学校に大隊本部が入り、その周辺に各中隊の兵士達がそれぞれ地区を割り当てられて一夜を過ごす事ができました。
そのまま数日は過ごせるかと思われた街での夜でしたが、2100時には大隊長シングルス中佐(Ltc.Gordon Singles)と大隊作戦幕僚キム大尉(Cpt.Kim Young-Oak)は第442連隊本部へ呼び出され「20日1200時までにC高地を占領せよ」との新たな命令を受領します。
Mag.John Ernest Dahlquist
Col.Charles W.Pence
Ltc.Gordon Singles
Cpt.Young-Oak Kim
Bruyeresの街の北東に位置するC高地は有力なドイツ軍の1隊が防御しており、他の味方から孤立しているにも関わらず、抵抗は頑強でした。
第100歩兵大隊はこの日のうちに斥候をC高地へと送っていますが、敵に発見され射撃を受けて後退しています。
第100歩兵大隊に課せられた命令はあくまで連隊からの命令ですが、それを命じたのは師団長ダールキスト少将(Mag.John Ernest Dahlquist)であったと「ブリエアの解放者たち」には記されています。
なお同書によれば2300時に大隊本部へと戻ったキム大尉は午前0400時頃までかかって作戦計画を立て、夜明けと共に部隊の前進を開始したとされています。
また、同じく同書ではB中隊長Cpt.Sakae Takahashiを始め幾人もが、解放された市街でのドイツ協力者に対する暴行や非難を目撃したと記述されてもいます。
10月19日の第442連隊戦闘団の戦死者は6名でした。
100/A/Pfc.Nishimura Wilfred Katsuyuki
100/C/2Lt.Fujitani Ross Kameo
442/G/Pvt.Kanetomi Jero
442/E/Pfc.Kondo Henry M
442/E/Pfc.Horiuchi Paul F
442/I/SSgt.Inakazu Ben Masaki
10月20日 深夜、日付けが変わってもD高地の戦闘は継続しています。
0130時:D高地のドイツ軍は2両の戦車を立ててG中隊の防御正面に対し強力な逆襲を開始します。
G中隊のSgt.Yoshimi R Fujiwaraは前進する敵戦車を確認すると高台へと登り、ライフルグレネードを射撃するも不発。一旦引き返して本部からロケットランチャー(バズーカ砲)を持って再度高台へ。
5発のロケットを発射し、戦車1両を撃破します。
これを持って敵は後退。ドイツ軍の逆襲を失敗に終わらせました。
1000時:僅か一夜で街から出て、C高地攻撃を命じられた第100歩兵大隊は戦車の支援が断られたため、化学戦部隊の迫撃砲にる煙覆を得てA,B,C3個中隊並列のままで高地の背後まで前進、B中隊が右翼、C中隊が左翼として攻撃をかけ、更にA中隊がその南側側面から包囲するように回り込みます。
10月20日 煙幕弾が撃ち込まれるC高地を撮影したものと思われる。
支援砲撃に続いて、各中隊は攻撃を開始後一気に高地を駆け上がり、敵を突破。
師団長からの命令通り1200時までにC高地占領を完了しました。
しかし、師団長命令により時間までの占領を企図して迅速に行動した結果、頂上への突破を優先したために後方に多数の残敵を残す事となり、長時間に渡る掃討戦が必要となりました。
1415時:掃討戦の実施中、連隊本部を通じて師団長よりD高地へ全兵力を向けよとの命令が下ります。
1445時:第100歩兵大隊は敵の逆襲の兆候と、掃討戦が継続している事を返答。
1520時:第442連隊長ペンス大佐(Col.Charles W. Pence)はそれを師団長へ報告するも、師団長からは「1個中隊を残し、速やかに引き上げよ」が再度命令されます。
第100歩兵大隊ではC高地の麓に敵戦車も確認しており、占領したばかりのC高地を離れればすぐさま敵に再占領されるのが予測できた為、せめて1個中隊(A中隊)を残しての移動を進言しますが、師団長からの命令は「全兵力をC高地から移動させよ」であり第100歩兵大隊はC高地から下り、D高地を目指す事になりました。
これはC高地の位置が所属する第36師団ではなく第45師団の受持区域内に入っていたためではないか、と「ブリエアの解放者たち」でドウス昌代氏は指摘しています。
第100歩兵大隊は高地からの撤退を開始しますが、ドイツ軍の逆襲を警戒しつつ、更に残敵とも戦いながらの撤退は簡単な事ではなく、更に時間を要する事になります。
一方、D高地では頑強なドイツ軍の抵抗に第2大隊が手を焼いていました。
早朝に第2大隊の輸送隊がD高地のドイツ軍より攻撃を受けます。
レーションを輸送していた指揮官の1Lt.Charles Farnumが狙撃され戦死。
H中隊のSSgt. Kuroda, Robert Tは分隊を率いてこのドイツ軍の一隊を攻撃、手榴弾で敵機関銃班を撃破します。
SSgt.KurodaはFarnum中尉の所持していたM1カーバインを拾い、更に機関銃座を撃破するも、敵の銃弾に倒れます。
更に昼前にF中隊第2小隊のT/Sgt.Ohama Abrahamが倒れた兵を救出するために敵の銃火に身をさらし、自身も狙撃されて倒れます。
そのTSgt.Ohamaを載せた担架が更に銃撃されPfc.Kameoka Bob、Pfc.Okamoto Ralphら4名が射殺された瞬間、それを目撃したF中隊のほぼ全員が誰の命令も合図も無く敵に突貫、付近にいたドイツ軍ほぼ全員を撃ち倒し一気にD高地を占領します。
約50名の敵の戦死を確認、夕刻まで隠れていた7名を捕虜としました。
D丘は1200時には制圧されていました。
その報告は師団にも挙がっている筈であり、1415時に第100歩兵大隊へ向けたD高地への移動命令は不自然であると考えられます。
10月20日 第2大隊衛生派遣隊による負傷者の回収。
1300時:D高地を占領した第442連隊は午後になって、ドイツ軍の装甲部隊がBelmontからBruyeresへ移動中であるのを第2大隊の斥候が確認し、次の行動に移ります。
第753戦車大隊長Lt. Col. Felberを指揮官とし第442連隊第100歩兵大隊A中隊(の1個小隊)、同対戦車中隊を加えた"Felber Task Force"を編成し、更に第36偵察部隊も動員してBelmontを攻略し、左翼の防御を行う作戦でしたが、実際に戦闘に入る前にアメリカ陸軍航空隊のP-47サンダーボルト戦闘機がドイツ軍の車列を空襲し、これに大きな被害を与えて後退させました。
10月20日 戦闘を終え、Bruyères市内へ入る第3大隊L中隊。
1710時:第2、第3大隊は第522野砲大隊の他、指揮下に入っていた第141野砲大隊、第93自走砲大隊による20分間の支援砲撃を受けて、攻撃を再開。
線路を超えて敵を追撃するも、更なる地雷原と敵の陣地からの攻撃に阻まれBelmont手前の森まで接近することができませんでした。
その戦闘の最中、K中隊のBAR(ブローニング自動小銃)の射撃により、ドイツ軍の地区司令官の副官を射殺し、彼が携行していた重要な地図を入手します。
これらはすぐに師団G2(情報部)にもたらされ、第36師団長ダールキスト少将と第442連隊長ペンス大佐はその夜のうちに敵の防御線の裏を斯く計画を立案します。
第3大隊副大隊長Major.Emmet L O'Connorを指揮官とし、第2大隊F中隊と第3大隊L中隊、有線、無線各通信班及び地雷処理班と第522野砲大隊の観測員1Lt.Binotti E Albertを加えた"O'Connor Task Force"を編成。
"O'Connor Task Force"の任務は第2、第3大隊の主力がBruyeres東の505高地を攻撃するのに呼応して敵の防御線の隙間を掻い潜り、同高地の南側から敵の側背を襲うものでした。
※なお"Task Force"について「機動部隊」と訳される事が多いですが、ちょっと意味合いが変わってしまうので「任務部隊」と訳するのが適当と考えます。
アメリカ陸軍では1943年のイタリア戦線からこの種の"Task Force"が任務に応じて多く編成されていました。
1745時:師団長から442連隊長へ第100大隊を"O'Connor Task Force"の支援に付けるよう、行き先の変更が命ぜられます。
2300時:になって、ようやくC高地から引き上げが完了し、再びBruyeres市北東へと戻った第100大隊の本部へ、副師団長が表れ新たな命令が下ります。直ちにBruyeres北東の更に奥、Biffontaine村へ向かえ、とされた命令は副師団長によって即時発行を促され第100歩兵大隊は闇夜に再び出撃しました。
休養、武器の手入れはもちろん携行レーションすら食べる時間が無かったと後に述懐があります。
闇夜の進撃により、第100歩兵大隊は敵の抵抗に会うことなく突破に成功します。
10月20日の第442連隊戦闘団の戦死者は17名でした。
100/A/Pvt.Furukawa Tatsumi
100/A/Pfc.Shimabuku Roy Kokichi
442/2HQ/1Lt.Farnum Charles Oliver Jr
442/2HQ/Pfc.Hadano Hatsuji
100/C/Pfc/Hattori Kunio
442/2HQ/Pvt/Shimabukuro Tomoaki
442/F/TSgt.Ohama Abraham J
442/F/Pfc.Kameoka Bob T
442/F/Pfc.Okamoto Ralph Sueo
442/G/1Lt.White Floyd E Jr
442/G/Sgt.Nakamoto Seichi
442/G/Pfc.Nagato Fumitake
442/G/Pfc.Okada John T
442/H/Pfc.Shigemura Frank Masao
442/H/SSgt.Kuroda Robert T
442/H/Pfc.Miyaguchi Masayuki John
442/M/Pfc.Kato Yoshio
上記2枚の写真はいずれも10月20日の撮影で、442や100大隊の「失われた大隊救出」のものとして度々引用されるものですが、実は「ヤラセ」写真で、この3名は同じ人物です。
この3名とカメラマンが様々な場所を歩き、角度を変えながら繰り返し撮影を行っている様子が当時の記録フィルムに残っております。
しかしながら、彼らは紛れもなく442連隊の兵士であり、撮影された場所も砲弾の後が生々しく残る戦場です。
したがって、この写真が「間違いである」と言う主張ではありません。
10月21日は明け方前から"O'Connor Task Force"の行動が開始されました。
0500時:IPを通過した"O'Connor Task Force"は0740時には前方集結地へと到達。
0900時:行動開始後、わずか25分で505高地に陣取るドイツ軍の背後に回り込み、敵を観測した1Lt.Binotti E Albertの報告から第522野砲大隊が全力射撃を行い、敵の主要な防御を粉砕します。
0945時:連隊長ペンス大佐はオコーナーに左翼へ展開し、更に敵を圧迫するよう命令。
1030時:正面左翼からの第2大隊、右翼からの第3大隊の攻撃と背後からの"O'Connor Task Force"からの攻撃に挟まれたドイツ軍は505高地から後退し始めます。
1130時:敵戦車によって前進を阻まれていた第2大隊は、第522野砲大隊の支援を受けて戦車を撃破し、前進。
1200時:第3大隊のI、K両中隊が505高地を占領し"O'Connor Task Force"と連絡を付けます。
1430時:"O'Connor Task Force"はBruyeres-Belmont街道の途中にある小集落La Broquaineにて潜んでいた敵戦車を狩り出し、残敵を掃討。残りをBelmont方面へ駆逐します。
その後主力と合流、編成を解いてF,L両中隊は原隊へと復帰します。
1944年10月8日撮影のBiffontaine周辺の航空偵察写真。 現在とほぼ地形に変化はない。
"O'Connor Task Force"の予備隊として投入された第100歩兵大隊は、戦況の変化によって目標をBiffontaineへと変え、Bruyeres東方の山地を東へと前進します。
Biffontaine周辺を制圧できた場合、Belmontのドイツ軍は退路を断たれる事になる計画でした。
しかしBiffontaineは連隊主力からは距離が離れており、友軍の前線から1マイルも奥に位置しています。
通信は有線電話に限られ、そのワイヤーも延長を重ねてようやく到達する状態であり、更には途中でドイツ軍によって幾度も切断されました。
第100歩兵大隊はB中隊を後衛としC,A小隊の順で縦列で森を前進します。
途中ドイツ軍のパトロールと遭遇し、戦闘になったのは後衛のB中隊でした。
この戦闘でB中隊のPfc.Komatsu James Kameoが戦死、B中隊長Cpt.Takahashi Sakaeが機関銃弾を浴びて負傷します。
一方前進方向の抵抗は微弱であったようです。
1500時:第100歩兵大隊各中隊は予定地点に到着し、退避壕を構築して夜に備えました。
夜間になり、連隊の予備に指定された第2大隊はBruyeres市街に再度戻り、休息に入ります。
第3大隊は第100歩兵大隊とBelmont間の残敵を掃討するため、北東への前進を準備し、待機しました。
この頃、連隊本部には第6軍司令官のトラスコット中将が視察に訪れていますが、タイミングを合わせたかのような街への砲撃に会う事になりました。
10月21日の第442連隊戦闘団の戦死者は2名でした。
100/B/Pfc/Komatsu James Kameo
442/E/Pvt/Shoji Toshiaki
※一部書籍、Webサイト等で第100歩兵大隊C中隊のPfc.Hasegawa, Kiyoshiがここで戦死と記載されているものがありますが、彼の戦死日は1943年10月21日であり、イタリア戦線での出来事です。
10月22日 連続した戦闘で部隊の疲弊は頂点に。
10月22日 第2大隊従軍牧師Cpt.Higuchi Hiroが聖書を読み上げています。
この後、すぐに第2大隊には再び出撃が命ぜられる事になります。
0830時:第3大隊は3個小銃中隊並列で攻撃を開始。険しい山岳地形を残敵掃討しながら東へと前進します。
第100歩兵大隊は連隊を介した師団長からの「Biffontaine攻略の命令」によりBiffontaineを半包囲するように3個中隊を配置し、防御線を構築しましたが、敵の砲兵火力による支援を受けた敵の歩兵部隊による攻撃を受けます。
激しい戦闘が行われ、ドイツ軍の撃退に成功したものの水、及び弾薬に深刻な不足を生じ、更には突出しているために負傷者の後送にも難をきたしていました。
Belmont付近で待機していた"Felber Task Force"から5両のM5軽戦車とA中隊の一部がその補給にあたる為に出撃しましたが、山間に差し掛かった所で敵の射撃を受けます。
瞬く間に3名(SSgt.Suyama George W、Pvt.Sugiyama Itsuo、SSgt Togo Shiro)が戦死、その他多くの負傷兵が発生します。
※この戦死した3名は"Felber Task Force"からの原隊復帰後に戦死が確認、記録されたため日付が10月23日、と記載されていますが、この戦闘での戦死者です。
最後尾のM5軽戦車に跨乗していたA中隊のSSgt.Sasaoka Itsumuは銃弾を受けましたが、傷をものともせず車載機関銃で反撃し味方が通過するまで射撃を続けて援護しますが、力尽きて戦車から落下します。(MIA=行方不明として記録)
その後SSgt.Sasaokaはドイツ軍戦時捕虜となり、ドイツ国内のブランデンブルクの捕虜収容所へ収監。
1945年1月31日にソビエト軍が侵攻し、ドイツ軍収容所警備員が収容所から解放。ソビエト軍の装甲部隊へと向かった彼らは誤認したソビエト軍によって発砲を受け15名の捕虜が死亡しました。その中にSSgt Sasaoka Itsumuが含まれていました。
なお、この時襲撃したドイツ軍は翌日に同じ道路を整備中の第232工兵中隊を攻撃しますが、第3大隊M中隊の81mm迫撃砲の射撃を受けて後、何もしていないにも関わらず、突然降伏する事になり工兵を驚かせた、と記録されています。
結局"Felber Task Force"は突破には成功したものの第100歩兵大隊へは辿りつくことができず、補給の問題は継続します。
ドイツ軍はBiffontaineへと突出した第100歩兵大隊を包囲すべく戦力を運用した模様です。
第100歩兵大隊では作戦将校のCpt.Kim Young-Oakが連隊に問い合わせをしていました。
「大隊はBiffontaine村へと下りた場合、現在居る尾根はたちまち敵に占領されて包囲される。現有戦力での村の奪取は危険である」
しかし師団長に厳命されている連隊長ペンス大佐は重ねて攻撃を命令します。
「100大隊が村へ下りたら、夕方までには他の部隊で現在地を確保されたし」
Cpt.Kimは連隊長へ要請を出しますが、他の大隊もそれぞれの任務があり守られなかったようです。
第100歩兵大隊の右後方、南側で発生した戦闘は予備として一旦後退した第2大隊が再び復帰することで埋められE、Fの2個中隊が703高地に入って側面を防御します。
そこへドイツ軍が攻撃、激しい戦闘の末撃退に成功。
この戦闘でE中隊のPfc.Yasui Hideo、Pfc.Kitagawa Roy J及びF中隊のPfc.Fukuba Shigeo Frank、Pfc.Mukai Hachiroが戦死。
10月22日撮影 街はずれで出撃準備中の第2大隊。
第3大隊の1Lt.Milton BrennerはL中隊の一個小隊を率いて山地へと侵入。
地図は戦前の不正確なもので、ドイツ軍が道を増やしており役に立たなかったと言う。
それでも迷いながら捜索を続け、昼頃には第100大隊へ通じる道を発見します。
1530時:連隊長ペンス大佐は速やかに輸送隊を編成し、第2大隊の予備だったG中隊を護衛に着けて第100歩兵大隊へと送り出しました。
1730時:輸送隊が第100歩兵大隊へと到着し、弾薬不足の危機からは脱します。
師団長は翌23日までにBiffontaineの攻略を命令。
各部隊はパトロールをと斥候を繰り返しながら一夜を明かしました。
10月22日の第442連隊戦闘団の戦死者は8名でした。
100/A/SSgt.Togo Shiro
100/A/Sgt.Suyama George W
100/A/Pvt.Sugiyama Itsuo
100/D/Pfc.Tsukano Ichiro
442/E/Pfc.Yasui Hideo
442/E/Pfc.Kitagawa Roy J
442/F/Pfc.Fukuba Shigeo Frank
442/F/Pfc.Mukai Hachiro
10月23日 Biffontaine攻撃
1000時:第100歩兵大隊はBiffontaineへの攻撃を開始。
C中隊はA中隊の射撃の援護の下にBiffontaine村へと下ります。
迅速な攻撃によって敵の不意を衝いた為か、敵が陣容を立て直す前にC中隊は多くの家屋を占拠。
C中隊に続き、B中隊が村の反対側から攻撃を開始すると敵の応戦に合います。
それらを駆逐し、村を両側から攻撃していくと、敵は後退を開始。
D中隊は後退するドイツ軍に更に火力を浴びせて停止させ、23名の捕虜と多数の火器を鹵獲しますが、第100歩兵大隊ではこの時既に手持ちの武器の弾薬が底をついており、速やかにドイツ軍の火器、弾薬が配布されました。
また捕虜の1人はドイツ信号班の少佐で、当初彼はしきりに第100歩兵大隊の兵士達に降伏を勧めていたようです。
彼は後に師団情報部のために極めて役にたったそうです。
また第3大隊K中隊は山の麓から村を攻撃し、第100歩兵大隊を支援しますが「ブリエアの解放者たち」によると誤射、誤爆による民間人への犠牲があったようです。
名前は伏せますが、この件は私もVeteranから直接聞いています。
1300時:第100歩兵大隊は約3時間の戦闘の末、Biffontaineを占領します。
この戦闘では負傷者の介護やドイツ軍の動静の監視等で、多くの村民が第100歩兵大隊を助けました。
ドイツ軍は村の外で陣容を立て直し、逆襲を実施します。
戦車を先頭にたてて50ヤードまで接近し、激しい射撃を繰り返しました。
多くの建物は崩壊し、兵士達は地下室に潜って戦闘を継続します。
これらの戦闘でD中隊のPvt.Fuyumuro Edward Shigetoが戦死、またA中隊長1Lt.Sakamoto Samuel Mや作戦将校Cpt.Kim Young-Oakも銃弾を受けて負傷します。
逆襲を撃退した後、第100歩兵大隊は負傷者を後送するための隊を編成します。
442連隊衛生小隊の2Lt.Kanaya Jimmie(※公式記録にはKanabe Jamesと記載されていますが、誤りです)を指揮官としA中隊長1Lt.Sakamoto Samuel Mや作戦将校Cpt.Kim Young-Oakを含めた11名の負傷者と担架を担ぐ28名のドイツ軍捕虜、そして6名の護衛で大隊本部まで運搬する予定でしたが、この一隊が山中で敵に包囲されます。
混乱の中でCpt.Kim Young-Oakと第100歩兵大隊派遣衛生隊の衛生兵Pfc.Chinen Richard Kは脱出に成功しますが、他の20名の兵士達は捕虜となり、その多くが終戦までドイツ軍の収容所で過ごす事となります。
その際のメンバーは下記の通りです。
100/A/1Lt.Sakamoto Samuel M
100/C/2Lt.Miyashiro Takeichi T
442/H/2Lt.Gleicher Sol Harold
442/Med/2Lt.Kanaya Jimmie
442/HQ/Pfc.Kajimoto John T
100/A/Sgt.Kamikawa Harry H
100/C/SSgt.Tokunaga Michael M
100/A/Pfc.Kashiwamura Tetsuo
100/A/Pfc.Sagara Horace
100/A/Pfc.Takamura Naoki
100/C/Pfc.Hirokane Katsumi
100/C/Pfc.Akita Stanley
100/C/Pfc.Yonezawa Kaoru
100/C/Pvt.Miyashiro George J
100/C/Pvt.Nakagawa Sunao
442/Med/Pfc.Fujii Sueo
442/Med/Pfc.Murai Marushi
442/Med/Pfc.Nakamine Kotaro
442/Med/Pfc.Nakata Milton K
442/Med/Pfc.Uchimura Masayoshi
第100歩兵大隊は村のはずれに防御陣地を構築しましたが、夜通し敵の攻撃を受ける事になります。
その際はドイツ軍火器が多く使用されたとの記録が残っています。
正規の補給も山伝いに行われていましたが、個人が手で持って搬送する量は戦闘にはまったく足りて居ませんでした。
深夜にドイツ軍は大規模な突撃を実施し、それは第100歩兵大隊の防御第一線まで食い込むものでありましたが、なんとか撃退に成功し、敵は後退しました。
第2大隊は再び予備に指定され、Belmontへ後退し休養に移ります。
10月23日の戦死者は1名でした。
100/D/Pvt.Fuyumuro Edward Shigeto
また同じ戦闘でA中隊のPvt Akimoto Victorも負傷してドイツ軍に捉えられますが、その傷が癒えず12月14日にドイツ軍の捕虜収容所内で死亡しています。
10月24日 Biffontaineからの後退
夕刻までに第141連隊と第143連隊がBiffontaineに入り、第442連隊戦闘団はようやく交代して後方へと下がります。
1400時:第3大隊は1個小隊を残してBelmontへと後退。
L中隊の第2小隊が翌朝までBiffontaineにとどまりました。
10月24日撮影 Belmontへ後退中の第3大隊の兵士。
1730時:第100歩兵大隊がBelmontへと後退。
"Felber Task Force"は解散し、戦車隊は師団に戻ります。
またその間に7名のドイツ兵を捕虜にしました。
この日は戦死者はありませんでした。
10月25日及び26日は10日間の連続した戦闘からの休養でした。
この休養は完全な3日間が与えらる予定でした。
泥と汗と硝煙、汚物等様々な物で汚れ切り、湿ったままの軍服を乾燥させ(着替えは届いていなかった)シャワーを浴びて温食を食べました。
イタリア戦線ではカッシーノ戦の他は連続した戦闘状況も数日で、多くは1日か2日でドイツ軍は抵抗を諦めて降伏するか敗退していました。
また夜間通しての戦闘も少なく、夜は警戒しながらも交代で多少の仮眠を取ることができました。
しかしここ、Vosgesではそれはままなりませんでした。
ドイツ軍は頑強に抵抗し、一旦後退しても幾度となく逆襲に来ては日系兵達を疲弊させました。
また敵の陣地は実によく練られ、構築されており暗い森の中では目前まで気付かない事も多く、大きな被害に繋がりました。
そして多数の砲撃。
昼夜問わず降り注ぐ砲弾は日に数千発にも上り、高い木に当たって炸裂し破片と木片を散らして身体を切り裂く"ツリーバースト"が容赦なく襲い掛かりました。
降り続く冷たい雨は兵士達を心底から凍らせ、凍傷と下痢を発生させました。
戦闘の初期には無敵の軍隊に思えた連隊の兵士達は、戦闘の疲労やシェルショック(戦闘神経症)を発症し、後送されました。
これは彼らの勇気の不足を示すものではありません。
シェルショックは激しいイタリア戦線でも第442連隊からはほとんど発生せず、他の部隊と明らかな違いを見せていました。
それが連続した戦闘と回復する時期を持たない日々の為に破壊されていったのです。
Belmontの休養地でも砲弾の洗礼は続いており、幾人もの兵士が負傷しています。
しかしこれらはまだ”最悪の状況”ではありませんでした。
24日に第442連隊と交代した第141連隊がBiffontaine北方から東へ攻撃、第1大隊が突出してしまい包囲される事となりました。
第141連隊の第2、第3大隊が第1大隊の包囲線に攻撃をかけるも失敗。
10月25日0230時:第442連隊戦闘団に師団長から救出の為の待機命令が下り、一日早く休養に入っていた第2大隊に待機が命ぜられたのです。
以下次回。
前回のVol.1では1944年9月29日 マルセイユ上陸から10月18日のBruyères解放までを書きました。
今回はBruyères解放後1944年10月19日~26日までの連隊戦闘団の記録を掲載いたします。
参考資料については前回同様「ヴォージュ(Vosges)の戦闘及び「失われた大隊救出」における第442連隊戦闘団の戦死者数について」と同じですので、そちらをご参考下さい。
部隊記録等の所蔵元については「アメリカ国立公文書記録管理局 National Archives and Records Administration (NARA) Records」となっております。
なお、部隊の行動図は行動記録から可能な限りで起こしましたが、細部は正確ではない可能性があります。
また、現在のGoogleMapを引用し使用していますので、1944年当時とは地形が異なる可能性があります。
この一連のVosgesの戦闘は連合軍第7軍が発令した第6軍団隷下の第3師団、第45師団、そして第36師団によるドイツ侵攻作戦の一部、"Operation Dogface"によるものでした。
10月19日
Bruyeres解放から一夜明けた翌日。
第442連隊戦闘団第3大隊は早朝には街から移動を開始しており、住民達の多くに一夜にして消えたオリエンタルの兵士達、と言う印象を残しました。
Bruyeres市内で写真屋を営んでいたJean Marie Thomasが解放の時の写真を幾枚か撮影しています。
Jean Marie Thomas氏撮影の1944年10月18日解放時のもの。442連隊L中隊と思われる。
連隊の次の目標はBruyeresの東にあるD高地でした。
連隊はA高地を占領した第100歩兵大隊を予備として残し、第2、第3大隊をもってD高地を攻撃します。
D高地は昨日の第3大隊L中隊による斥候から強力な敵の防御線を確認していました。
1000時:2個大隊並列による攻撃開始。
第2大隊は左翼にG中隊、右翼にF中隊、支援にH中隊、予備をE中隊として高地に突入。
第3大隊は中央L中隊、左翼I中隊、右翼K中隊とした3個中隊並列で高地の南側を制圧し、鉄道の確保に向かいます。
D高地のドイツ軍は、そのほとんどが夜間に後退しており抵抗は微弱でした。
1145時:第2大隊はD高地を占領。その際、D高地の山頂に居たのはたった2名のドイツ兵でした。
第2大隊はD高地にてE、G中隊が掃討を実施、第3大隊はI中隊とK中隊を並列させて高地南側を前進します。
1600時:第3大隊は線路までたどり着きますが、線路の反対側から強力な射撃を受けて停止。
1800時:夕闇が迫る中、I、K中隊は地雷原に踏み入ってしまい危険度が高ったが、は前進を止めて、個人壕を掘り敵と対峙します。
この時、側面をカバーする予定だった第143連隊の行動が遅れており第2、第3大隊は敵方に約2km突出し、孤立の危険がありました。
夜間になり、D高地に中隊規模のドイツ軍が侵入。
第2、第3大隊や進撃路の構築に当たっていた第232工兵中隊が散発的に攻撃を受けます。
第2大隊はE,G中隊が防御線を構築し予備としていたF中隊をこのドイツ軍への対応に当てます。
F中隊の前進に合わせ。H中隊及び第3大隊L中隊の一部がそれを支援しました。
1500時:第442連隊本部はBruyeres市内に移動します。
1700時;第100歩兵大隊は占領したA高地に警戒部隊としてA中隊を残すと他のB,C,D中隊はBruyeresの街の北端へと入ります。
小学校に大隊本部が入り、その周辺に各中隊の兵士達がそれぞれ地区を割り当てられて一夜を過ごす事ができました。
そのまま数日は過ごせるかと思われた街での夜でしたが、2100時には大隊長シングルス中佐(Ltc.Gordon Singles)と大隊作戦幕僚キム大尉(Cpt.Kim Young-Oak)は第442連隊本部へ呼び出され「20日1200時までにC高地を占領せよ」との新たな命令を受領します。
Mag.John Ernest Dahlquist
Col.Charles W.Pence
Ltc.Gordon Singles
Cpt.Young-Oak Kim
Bruyeresの街の北東に位置するC高地は有力なドイツ軍の1隊が防御しており、他の味方から孤立しているにも関わらず、抵抗は頑強でした。
第100歩兵大隊はこの日のうちに斥候をC高地へと送っていますが、敵に発見され射撃を受けて後退しています。
第100歩兵大隊に課せられた命令はあくまで連隊からの命令ですが、それを命じたのは師団長ダールキスト少将(Mag.John Ernest Dahlquist)であったと「ブリエアの解放者たち」には記されています。
なお同書によれば2300時に大隊本部へと戻ったキム大尉は午前0400時頃までかかって作戦計画を立て、夜明けと共に部隊の前進を開始したとされています。
また、同じく同書ではB中隊長Cpt.Sakae Takahashiを始め幾人もが、解放された市街でのドイツ協力者に対する暴行や非難を目撃したと記述されてもいます。
10月19日の第442連隊戦闘団の戦死者は6名でした。
100/A/Pfc.Nishimura Wilfred Katsuyuki
100/C/2Lt.Fujitani Ross Kameo
442/G/Pvt.Kanetomi Jero
442/E/Pfc.Kondo Henry M
442/E/Pfc.Horiuchi Paul F
442/I/SSgt.Inakazu Ben Masaki
10月20日 深夜、日付けが変わってもD高地の戦闘は継続しています。
0130時:D高地のドイツ軍は2両の戦車を立ててG中隊の防御正面に対し強力な逆襲を開始します。
G中隊のSgt.Yoshimi R Fujiwaraは前進する敵戦車を確認すると高台へと登り、ライフルグレネードを射撃するも不発。一旦引き返して本部からロケットランチャー(バズーカ砲)を持って再度高台へ。
5発のロケットを発射し、戦車1両を撃破します。
これを持って敵は後退。ドイツ軍の逆襲を失敗に終わらせました。
1000時:僅か一夜で街から出て、C高地攻撃を命じられた第100歩兵大隊は戦車の支援が断られたため、化学戦部隊の迫撃砲にる煙覆を得てA,B,C3個中隊並列のままで高地の背後まで前進、B中隊が右翼、C中隊が左翼として攻撃をかけ、更にA中隊がその南側側面から包囲するように回り込みます。
10月20日 煙幕弾が撃ち込まれるC高地を撮影したものと思われる。
支援砲撃に続いて、各中隊は攻撃を開始後一気に高地を駆け上がり、敵を突破。
師団長からの命令通り1200時までにC高地占領を完了しました。
しかし、師団長命令により時間までの占領を企図して迅速に行動した結果、頂上への突破を優先したために後方に多数の残敵を残す事となり、長時間に渡る掃討戦が必要となりました。
1415時:掃討戦の実施中、連隊本部を通じて師団長よりD高地へ全兵力を向けよとの命令が下ります。
1445時:第100歩兵大隊は敵の逆襲の兆候と、掃討戦が継続している事を返答。
1520時:第442連隊長ペンス大佐(Col.Charles W. Pence)はそれを師団長へ報告するも、師団長からは「1個中隊を残し、速やかに引き上げよ」が再度命令されます。
第100歩兵大隊ではC高地の麓に敵戦車も確認しており、占領したばかりのC高地を離れればすぐさま敵に再占領されるのが予測できた為、せめて1個中隊(A中隊)を残しての移動を進言しますが、師団長からの命令は「全兵力をC高地から移動させよ」であり第100歩兵大隊はC高地から下り、D高地を目指す事になりました。
これはC高地の位置が所属する第36師団ではなく第45師団の受持区域内に入っていたためではないか、と「ブリエアの解放者たち」でドウス昌代氏は指摘しています。
第100歩兵大隊は高地からの撤退を開始しますが、ドイツ軍の逆襲を警戒しつつ、更に残敵とも戦いながらの撤退は簡単な事ではなく、更に時間を要する事になります。
一方、D高地では頑強なドイツ軍の抵抗に第2大隊が手を焼いていました。
早朝に第2大隊の輸送隊がD高地のドイツ軍より攻撃を受けます。
レーションを輸送していた指揮官の1Lt.Charles Farnumが狙撃され戦死。
H中隊のSSgt. Kuroda, Robert Tは分隊を率いてこのドイツ軍の一隊を攻撃、手榴弾で敵機関銃班を撃破します。
SSgt.KurodaはFarnum中尉の所持していたM1カーバインを拾い、更に機関銃座を撃破するも、敵の銃弾に倒れます。
更に昼前にF中隊第2小隊のT/Sgt.Ohama Abrahamが倒れた兵を救出するために敵の銃火に身をさらし、自身も狙撃されて倒れます。
そのTSgt.Ohamaを載せた担架が更に銃撃されPfc.Kameoka Bob、Pfc.Okamoto Ralphら4名が射殺された瞬間、それを目撃したF中隊のほぼ全員が誰の命令も合図も無く敵に突貫、付近にいたドイツ軍ほぼ全員を撃ち倒し一気にD高地を占領します。
約50名の敵の戦死を確認、夕刻まで隠れていた7名を捕虜としました。
D丘は1200時には制圧されていました。
その報告は師団にも挙がっている筈であり、1415時に第100歩兵大隊へ向けたD高地への移動命令は不自然であると考えられます。
10月20日 第2大隊衛生派遣隊による負傷者の回収。
1300時:D高地を占領した第442連隊は午後になって、ドイツ軍の装甲部隊がBelmontからBruyeresへ移動中であるのを第2大隊の斥候が確認し、次の行動に移ります。
第753戦車大隊長Lt. Col. Felberを指揮官とし第442連隊第100歩兵大隊A中隊(の1個小隊)、同対戦車中隊を加えた"Felber Task Force"を編成し、更に第36偵察部隊も動員してBelmontを攻略し、左翼の防御を行う作戦でしたが、実際に戦闘に入る前にアメリカ陸軍航空隊のP-47サンダーボルト戦闘機がドイツ軍の車列を空襲し、これに大きな被害を与えて後退させました。
10月20日 戦闘を終え、Bruyères市内へ入る第3大隊L中隊。
1710時:第2、第3大隊は第522野砲大隊の他、指揮下に入っていた第141野砲大隊、第93自走砲大隊による20分間の支援砲撃を受けて、攻撃を再開。
線路を超えて敵を追撃するも、更なる地雷原と敵の陣地からの攻撃に阻まれBelmont手前の森まで接近することができませんでした。
その戦闘の最中、K中隊のBAR(ブローニング自動小銃)の射撃により、ドイツ軍の地区司令官の副官を射殺し、彼が携行していた重要な地図を入手します。
これらはすぐに師団G2(情報部)にもたらされ、第36師団長ダールキスト少将と第442連隊長ペンス大佐はその夜のうちに敵の防御線の裏を斯く計画を立案します。
第3大隊副大隊長Major.Emmet L O'Connorを指揮官とし、第2大隊F中隊と第3大隊L中隊、有線、無線各通信班及び地雷処理班と第522野砲大隊の観測員1Lt.Binotti E Albertを加えた"O'Connor Task Force"を編成。
"O'Connor Task Force"の任務は第2、第3大隊の主力がBruyeres東の505高地を攻撃するのに呼応して敵の防御線の隙間を掻い潜り、同高地の南側から敵の側背を襲うものでした。
※なお"Task Force"について「機動部隊」と訳される事が多いですが、ちょっと意味合いが変わってしまうので「任務部隊」と訳するのが適当と考えます。
アメリカ陸軍では1943年のイタリア戦線からこの種の"Task Force"が任務に応じて多く編成されていました。
1745時:師団長から442連隊長へ第100大隊を"O'Connor Task Force"の支援に付けるよう、行き先の変更が命ぜられます。
2300時:になって、ようやくC高地から引き上げが完了し、再びBruyeres市北東へと戻った第100大隊の本部へ、副師団長が表れ新たな命令が下ります。直ちにBruyeres北東の更に奥、Biffontaine村へ向かえ、とされた命令は副師団長によって即時発行を促され第100歩兵大隊は闇夜に再び出撃しました。
休養、武器の手入れはもちろん携行レーションすら食べる時間が無かったと後に述懐があります。
闇夜の進撃により、第100歩兵大隊は敵の抵抗に会うことなく突破に成功します。
10月20日の第442連隊戦闘団の戦死者は17名でした。
100/A/Pvt.Furukawa Tatsumi
100/A/Pfc.Shimabuku Roy Kokichi
442/2HQ/1Lt.Farnum Charles Oliver Jr
442/2HQ/Pfc.Hadano Hatsuji
100/C/Pfc/Hattori Kunio
442/2HQ/Pvt/Shimabukuro Tomoaki
442/F/TSgt.Ohama Abraham J
442/F/Pfc.Kameoka Bob T
442/F/Pfc.Okamoto Ralph Sueo
442/G/1Lt.White Floyd E Jr
442/G/Sgt.Nakamoto Seichi
442/G/Pfc.Nagato Fumitake
442/G/Pfc.Okada John T
442/H/Pfc.Shigemura Frank Masao
442/H/SSgt.Kuroda Robert T
442/H/Pfc.Miyaguchi Masayuki John
442/M/Pfc.Kato Yoshio
上記2枚の写真はいずれも10月20日の撮影で、442や100大隊の「失われた大隊救出」のものとして度々引用されるものですが、実は「ヤラセ」写真で、この3名は同じ人物です。
この3名とカメラマンが様々な場所を歩き、角度を変えながら繰り返し撮影を行っている様子が当時の記録フィルムに残っております。
しかしながら、彼らは紛れもなく442連隊の兵士であり、撮影された場所も砲弾の後が生々しく残る戦場です。
したがって、この写真が「間違いである」と言う主張ではありません。
10月21日は明け方前から"O'Connor Task Force"の行動が開始されました。
0500時:IPを通過した"O'Connor Task Force"は0740時には前方集結地へと到達。
0900時:行動開始後、わずか25分で505高地に陣取るドイツ軍の背後に回り込み、敵を観測した1Lt.Binotti E Albertの報告から第522野砲大隊が全力射撃を行い、敵の主要な防御を粉砕します。
0945時:連隊長ペンス大佐はオコーナーに左翼へ展開し、更に敵を圧迫するよう命令。
1030時:正面左翼からの第2大隊、右翼からの第3大隊の攻撃と背後からの"O'Connor Task Force"からの攻撃に挟まれたドイツ軍は505高地から後退し始めます。
1130時:敵戦車によって前進を阻まれていた第2大隊は、第522野砲大隊の支援を受けて戦車を撃破し、前進。
1200時:第3大隊のI、K両中隊が505高地を占領し"O'Connor Task Force"と連絡を付けます。
1430時:"O'Connor Task Force"はBruyeres-Belmont街道の途中にある小集落La Broquaineにて潜んでいた敵戦車を狩り出し、残敵を掃討。残りをBelmont方面へ駆逐します。
その後主力と合流、編成を解いてF,L両中隊は原隊へと復帰します。
1944年10月8日撮影のBiffontaine周辺の航空偵察写真。 現在とほぼ地形に変化はない。
"O'Connor Task Force"の予備隊として投入された第100歩兵大隊は、戦況の変化によって目標をBiffontaineへと変え、Bruyeres東方の山地を東へと前進します。
Biffontaine周辺を制圧できた場合、Belmontのドイツ軍は退路を断たれる事になる計画でした。
しかしBiffontaineは連隊主力からは距離が離れており、友軍の前線から1マイルも奥に位置しています。
通信は有線電話に限られ、そのワイヤーも延長を重ねてようやく到達する状態であり、更には途中でドイツ軍によって幾度も切断されました。
第100歩兵大隊はB中隊を後衛としC,A小隊の順で縦列で森を前進します。
途中ドイツ軍のパトロールと遭遇し、戦闘になったのは後衛のB中隊でした。
この戦闘でB中隊のPfc.Komatsu James Kameoが戦死、B中隊長Cpt.Takahashi Sakaeが機関銃弾を浴びて負傷します。
一方前進方向の抵抗は微弱であったようです。
1500時:第100歩兵大隊各中隊は予定地点に到着し、退避壕を構築して夜に備えました。
夜間になり、連隊の予備に指定された第2大隊はBruyeres市街に再度戻り、休息に入ります。
第3大隊は第100歩兵大隊とBelmont間の残敵を掃討するため、北東への前進を準備し、待機しました。
この頃、連隊本部には第6軍司令官のトラスコット中将が視察に訪れていますが、タイミングを合わせたかのような街への砲撃に会う事になりました。
10月21日の第442連隊戦闘団の戦死者は2名でした。
100/B/Pfc/Komatsu James Kameo
442/E/Pvt/Shoji Toshiaki
※一部書籍、Webサイト等で第100歩兵大隊C中隊のPfc.Hasegawa, Kiyoshiがここで戦死と記載されているものがありますが、彼の戦死日は1943年10月21日であり、イタリア戦線での出来事です。
10月22日 連続した戦闘で部隊の疲弊は頂点に。
10月22日 第2大隊従軍牧師Cpt.Higuchi Hiroが聖書を読み上げています。
この後、すぐに第2大隊には再び出撃が命ぜられる事になります。
0830時:第3大隊は3個小銃中隊並列で攻撃を開始。険しい山岳地形を残敵掃討しながら東へと前進します。
第100歩兵大隊は連隊を介した師団長からの「Biffontaine攻略の命令」によりBiffontaineを半包囲するように3個中隊を配置し、防御線を構築しましたが、敵の砲兵火力による支援を受けた敵の歩兵部隊による攻撃を受けます。
激しい戦闘が行われ、ドイツ軍の撃退に成功したものの水、及び弾薬に深刻な不足を生じ、更には突出しているために負傷者の後送にも難をきたしていました。
Belmont付近で待機していた"Felber Task Force"から5両のM5軽戦車とA中隊の一部がその補給にあたる為に出撃しましたが、山間に差し掛かった所で敵の射撃を受けます。
瞬く間に3名(SSgt.Suyama George W、Pvt.Sugiyama Itsuo、SSgt Togo Shiro)が戦死、その他多くの負傷兵が発生します。
※この戦死した3名は"Felber Task Force"からの原隊復帰後に戦死が確認、記録されたため日付が10月23日、と記載されていますが、この戦闘での戦死者です。
最後尾のM5軽戦車に跨乗していたA中隊のSSgt.Sasaoka Itsumuは銃弾を受けましたが、傷をものともせず車載機関銃で反撃し味方が通過するまで射撃を続けて援護しますが、力尽きて戦車から落下します。(MIA=行方不明として記録)
その後SSgt.Sasaokaはドイツ軍戦時捕虜となり、ドイツ国内のブランデンブルクの捕虜収容所へ収監。
1945年1月31日にソビエト軍が侵攻し、ドイツ軍収容所警備員が収容所から解放。ソビエト軍の装甲部隊へと向かった彼らは誤認したソビエト軍によって発砲を受け15名の捕虜が死亡しました。その中にSSgt Sasaoka Itsumuが含まれていました。
なお、この時襲撃したドイツ軍は翌日に同じ道路を整備中の第232工兵中隊を攻撃しますが、第3大隊M中隊の81mm迫撃砲の射撃を受けて後、何もしていないにも関わらず、突然降伏する事になり工兵を驚かせた、と記録されています。
結局"Felber Task Force"は突破には成功したものの第100歩兵大隊へは辿りつくことができず、補給の問題は継続します。
ドイツ軍はBiffontaineへと突出した第100歩兵大隊を包囲すべく戦力を運用した模様です。
第100歩兵大隊では作戦将校のCpt.Kim Young-Oakが連隊に問い合わせをしていました。
「大隊はBiffontaine村へと下りた場合、現在居る尾根はたちまち敵に占領されて包囲される。現有戦力での村の奪取は危険である」
しかし師団長に厳命されている連隊長ペンス大佐は重ねて攻撃を命令します。
「100大隊が村へ下りたら、夕方までには他の部隊で現在地を確保されたし」
Cpt.Kimは連隊長へ要請を出しますが、他の大隊もそれぞれの任務があり守られなかったようです。
第100歩兵大隊の右後方、南側で発生した戦闘は予備として一旦後退した第2大隊が再び復帰することで埋められE、Fの2個中隊が703高地に入って側面を防御します。
そこへドイツ軍が攻撃、激しい戦闘の末撃退に成功。
この戦闘でE中隊のPfc.Yasui Hideo、Pfc.Kitagawa Roy J及びF中隊のPfc.Fukuba Shigeo Frank、Pfc.Mukai Hachiroが戦死。
10月22日撮影 街はずれで出撃準備中の第2大隊。
第3大隊の1Lt.Milton BrennerはL中隊の一個小隊を率いて山地へと侵入。
地図は戦前の不正確なもので、ドイツ軍が道を増やしており役に立たなかったと言う。
それでも迷いながら捜索を続け、昼頃には第100大隊へ通じる道を発見します。
1530時:連隊長ペンス大佐は速やかに輸送隊を編成し、第2大隊の予備だったG中隊を護衛に着けて第100歩兵大隊へと送り出しました。
1730時:輸送隊が第100歩兵大隊へと到着し、弾薬不足の危機からは脱します。
師団長は翌23日までにBiffontaineの攻略を命令。
各部隊はパトロールをと斥候を繰り返しながら一夜を明かしました。
10月22日の第442連隊戦闘団の戦死者は8名でした。
100/A/SSgt.Togo Shiro
100/A/Sgt.Suyama George W
100/A/Pvt.Sugiyama Itsuo
100/D/Pfc.Tsukano Ichiro
442/E/Pfc.Yasui Hideo
442/E/Pfc.Kitagawa Roy J
442/F/Pfc.Fukuba Shigeo Frank
442/F/Pfc.Mukai Hachiro
10月23日 Biffontaine攻撃
1000時:第100歩兵大隊はBiffontaineへの攻撃を開始。
C中隊はA中隊の射撃の援護の下にBiffontaine村へと下ります。
迅速な攻撃によって敵の不意を衝いた為か、敵が陣容を立て直す前にC中隊は多くの家屋を占拠。
C中隊に続き、B中隊が村の反対側から攻撃を開始すると敵の応戦に合います。
それらを駆逐し、村を両側から攻撃していくと、敵は後退を開始。
D中隊は後退するドイツ軍に更に火力を浴びせて停止させ、23名の捕虜と多数の火器を鹵獲しますが、第100歩兵大隊ではこの時既に手持ちの武器の弾薬が底をついており、速やかにドイツ軍の火器、弾薬が配布されました。
また捕虜の1人はドイツ信号班の少佐で、当初彼はしきりに第100歩兵大隊の兵士達に降伏を勧めていたようです。
彼は後に師団情報部のために極めて役にたったそうです。
また第3大隊K中隊は山の麓から村を攻撃し、第100歩兵大隊を支援しますが「ブリエアの解放者たち」によると誤射、誤爆による民間人への犠牲があったようです。
名前は伏せますが、この件は私もVeteranから直接聞いています。
1300時:第100歩兵大隊は約3時間の戦闘の末、Biffontaineを占領します。
この戦闘では負傷者の介護やドイツ軍の動静の監視等で、多くの村民が第100歩兵大隊を助けました。
ドイツ軍は村の外で陣容を立て直し、逆襲を実施します。
戦車を先頭にたてて50ヤードまで接近し、激しい射撃を繰り返しました。
多くの建物は崩壊し、兵士達は地下室に潜って戦闘を継続します。
これらの戦闘でD中隊のPvt.Fuyumuro Edward Shigetoが戦死、またA中隊長1Lt.Sakamoto Samuel Mや作戦将校Cpt.Kim Young-Oakも銃弾を受けて負傷します。
逆襲を撃退した後、第100歩兵大隊は負傷者を後送するための隊を編成します。
442連隊衛生小隊の2Lt.Kanaya Jimmie(※公式記録にはKanabe Jamesと記載されていますが、誤りです)を指揮官としA中隊長1Lt.Sakamoto Samuel Mや作戦将校Cpt.Kim Young-Oakを含めた11名の負傷者と担架を担ぐ28名のドイツ軍捕虜、そして6名の護衛で大隊本部まで運搬する予定でしたが、この一隊が山中で敵に包囲されます。
混乱の中でCpt.Kim Young-Oakと第100歩兵大隊派遣衛生隊の衛生兵Pfc.Chinen Richard Kは脱出に成功しますが、他の20名の兵士達は捕虜となり、その多くが終戦までドイツ軍の収容所で過ごす事となります。
その際のメンバーは下記の通りです。
100/A/1Lt.Sakamoto Samuel M
100/C/2Lt.Miyashiro Takeichi T
442/H/2Lt.Gleicher Sol Harold
442/Med/2Lt.Kanaya Jimmie
442/HQ/Pfc.Kajimoto John T
100/A/Sgt.Kamikawa Harry H
100/C/SSgt.Tokunaga Michael M
100/A/Pfc.Kashiwamura Tetsuo
100/A/Pfc.Sagara Horace
100/A/Pfc.Takamura Naoki
100/C/Pfc.Hirokane Katsumi
100/C/Pfc.Akita Stanley
100/C/Pfc.Yonezawa Kaoru
100/C/Pvt.Miyashiro George J
100/C/Pvt.Nakagawa Sunao
442/Med/Pfc.Fujii Sueo
442/Med/Pfc.Murai Marushi
442/Med/Pfc.Nakamine Kotaro
442/Med/Pfc.Nakata Milton K
442/Med/Pfc.Uchimura Masayoshi
第100歩兵大隊は村のはずれに防御陣地を構築しましたが、夜通し敵の攻撃を受ける事になります。
その際はドイツ軍火器が多く使用されたとの記録が残っています。
正規の補給も山伝いに行われていましたが、個人が手で持って搬送する量は戦闘にはまったく足りて居ませんでした。
深夜にドイツ軍は大規模な突撃を実施し、それは第100歩兵大隊の防御第一線まで食い込むものでありましたが、なんとか撃退に成功し、敵は後退しました。
第2大隊は再び予備に指定され、Belmontへ後退し休養に移ります。
10月23日の戦死者は1名でした。
100/D/Pvt.Fuyumuro Edward Shigeto
また同じ戦闘でA中隊のPvt Akimoto Victorも負傷してドイツ軍に捉えられますが、その傷が癒えず12月14日にドイツ軍の捕虜収容所内で死亡しています。
10月24日 Biffontaineからの後退
夕刻までに第141連隊と第143連隊がBiffontaineに入り、第442連隊戦闘団はようやく交代して後方へと下がります。
1400時:第3大隊は1個小隊を残してBelmontへと後退。
L中隊の第2小隊が翌朝までBiffontaineにとどまりました。
10月24日撮影 Belmontへ後退中の第3大隊の兵士。
1730時:第100歩兵大隊がBelmontへと後退。
"Felber Task Force"は解散し、戦車隊は師団に戻ります。
またその間に7名のドイツ兵を捕虜にしました。
この日は戦死者はありませんでした。
10月25日及び26日は10日間の連続した戦闘からの休養でした。
この休養は完全な3日間が与えらる予定でした。
泥と汗と硝煙、汚物等様々な物で汚れ切り、湿ったままの軍服を乾燥させ(着替えは届いていなかった)シャワーを浴びて温食を食べました。
イタリア戦線ではカッシーノ戦の他は連続した戦闘状況も数日で、多くは1日か2日でドイツ軍は抵抗を諦めて降伏するか敗退していました。
また夜間通しての戦闘も少なく、夜は警戒しながらも交代で多少の仮眠を取ることができました。
しかしここ、Vosgesではそれはままなりませんでした。
ドイツ軍は頑強に抵抗し、一旦後退しても幾度となく逆襲に来ては日系兵達を疲弊させました。
また敵の陣地は実によく練られ、構築されており暗い森の中では目前まで気付かない事も多く、大きな被害に繋がりました。
そして多数の砲撃。
昼夜問わず降り注ぐ砲弾は日に数千発にも上り、高い木に当たって炸裂し破片と木片を散らして身体を切り裂く"ツリーバースト"が容赦なく襲い掛かりました。
降り続く冷たい雨は兵士達を心底から凍らせ、凍傷と下痢を発生させました。
戦闘の初期には無敵の軍隊に思えた連隊の兵士達は、戦闘の疲労やシェルショック(戦闘神経症)を発症し、後送されました。
これは彼らの勇気の不足を示すものではありません。
シェルショックは激しいイタリア戦線でも第442連隊からはほとんど発生せず、他の部隊と明らかな違いを見せていました。
それが連続した戦闘と回復する時期を持たない日々の為に破壊されていったのです。
Belmontの休養地でも砲弾の洗礼は続いており、幾人もの兵士が負傷しています。
しかしこれらはまだ”最悪の状況”ではありませんでした。
24日に第442連隊と交代した第141連隊がBiffontaine北方から東へ攻撃、第1大隊が突出してしまい包囲される事となりました。
第141連隊の第2、第3大隊が第1大隊の包囲線に攻撃をかけるも失敗。
10月25日0230時:第442連隊戦闘団に師団長から救出の為の待機命令が下り、一日早く休養に入っていた第2大隊に待機が命ぜられたのです。
以下次回。
Vosgesの戦闘 第442連隊戦闘団 Vol.4「失われた大隊救出 初日」
Vosgesの戦闘 第442連隊戦闘団 Vol.3「失われた大隊」
Vosgesの戦闘 第442連隊戦闘団 Vol.1 「ブリエア解放」
Vosgesの戦闘 第442連隊戦闘団 Vol.1 「ブリエア解放」
KIA at Vosges at 442 RCT. Vosgesでの戦死者数について。
中隊先任下士官
Vosgesの戦闘 第442連隊戦闘団 Vol.3「失われた大隊」
Vosgesの戦闘 第442連隊戦闘団 Vol.1 「ブリエア解放」
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KIA at Vosges at 442 RCT. Vosgesでの戦死者数について。
中隊先任下士官